第三話 惨殺
体を翻し、階段横の寝室の扉を勢いよく開けた私は、子供たちの身体を思い切り揺らしながら必死に叫んだ。
「みんな起きてッ!! 逃げるよ、ほら!! ねえ、ねえってばッ!!」
だが、相手は子供だ。こんなことで起きるわけが無い。
どうすれば、いったい、どうすれば。
パニックに陥った私は、やってはいけないことをしてしまった。
パチン!
そんな乾いた音が部屋中に響き渡る。叩いてしまった。自分の家族を。たった八歳の子供の頬を。
その子は目を見開いてこちらを見た。叩かれた頬。痛みと混乱で瞳孔がぶれる。
そして、思い出した。過去の記憶を。ここに来る前、毎日のように虐待を受けていた日々を。
彼は、自分の右頬に手を当てて今起こったことを反芻する。そして、化け物を見たかのような、恐怖に震えるような表情を私に向けた。
「ぁ……ぁ……」
か細い声。震えた声。差し伸べた私の手から必死に逃げようと後退する。
私が無理やりその身体を抱きしめて寝室を後にしようとした、その時だった。
「……お姉ちゃん?」
一瞬立ち止まり、私は咄嗟に後ろを振り向く。目の前に立っていたのは、一人の女の子。片手でぬいぐるみを引きずりながら、あどけない表情でこちらを見上げていた。しかし——
「かかれッ!」
玄関の方から、白装束の男の怒声が聞こえた。こちらに、十数人の白装束が向かってくる。
ここで引き返せば死んでしまう。そう、心のどこかで私は確信していた。
私は、震える足で女の子に背を向ける。そして、勢いよく駆け出した。
「ねえ、お姉——」
私の背中を見つめていたであろう女の子の声がそこで途切れた。同時に、ヴィル爺を殺した時と同じ破裂音が響く。
一瞬、振り向いてしまった。
女の子は、血濡れた人形を握りしめながら地面に倒れていた。
もう、涙すら流れなかった。今すぐにでも、死んでしまいたかった。
でも、まだ生きる希望があった。ユキとこの子が、まだ生きている。
背後で、たくさんの音が聞こえた。泣き叫ぶ音。何かが千切れる音。みしみし、ばきばき。心を殺す必要はなかった。もうそんなもの、とうの昔に壊れていたのだから。
玄関にはまだ白装束がいた。外に逃げることはできない。背後はすでに地獄絵図と化していた。数刻前まで皆で囲んでいたはずの食卓には、赤く生温い液体と、人間の肉が大量に散乱していた。足元を掠めていくぬるい液体が誰のものなのか——そんなこと、考えたくもない。
その時、胸の中で暴れ続けていた男の子が、遂に逃げ出してしまった。そのまま二階へと逃げていく彼を私は追いかける。
階段の踊り場には、座り込み、顔面蒼白の状態のユキがいた。一部始終を目撃していたのだろうか、彼女の足元には吐瀉物と黄色い液体が広がっており、階下に滴り落ちていた。男の子は全身をブルブルと振るわせながら、その身体をユキに埋めていた。
「ユキ、逃げるよッ!」
「逃げるって、どこに……」
「私もっ、わかんないよ……ッ!」
私は半ばパニックになりながらそう答える。泣きじゃくりながらユキと男の子の手を掴み、無理やり立ち上がらせて二階へと駆け出した。
息を切らせながらも、私は廊下を無我夢中のまま走り抜けた。
焦げ臭いにおいと地面から漏れ出る煙が鼻をつんざき、息苦しさはさらに増していった。
ユキの手はひどく汗ばんでいた。後ろから必死の息遣いが聞こえてくる。
男の子の手はまるで死人のように冷たく、震えていた。私から逃げ出そうと必死になっているのが強く感じられる。
「あっ!」
その時、地面を何かが擦れるような音と共に、私の右腕がぐい、と引っ張られた。慌てて後ろを振り返ると、そこには受け身も取れないまま思い切り転び、頭から血を流している男の子の姿が。
「ああもう……! ほら、立って!!」
一刻を争う事態。苛立ちを隠せない私は、心配そうにこちらを見つめるユキの手を乱暴に離し、彼の両腕を掴んで引っぱり起こそうとした。
しかし、次の瞬間、鈍い轟音が辺りを包んだ。脳が揺さぶられ、一瞬、全ての音が消える。
そして——裂けた。木製の床が、真っ二つに。
砂煙が勢い良く舞い上がる。私はその衝撃波に飲まれ、身体を思い切り吹き飛ばされた。生まれてから今まで、一度も感じたことのないような激痛で全身が悲鳴を上げる。そんな中、私はなんとか体を起こして、地面に伏せたままの男の子の元へと向かった。
薄くなり始めた砂埃の先——穴の下がどうなっているかが、ありありと私の目に焼き付いた。
それは、巨大な怪物の口のように見えた。無秩序にに裂けた床板は、鋭い牙のように尖っており、血の涎を垂らしながら次の餌を待ち続けている。
口の中では、かつて家族だったものが無惨に咀嚼されていた。腕、足、胴体、首、臓物——人間のありとあらゆる場所が露わになった、かつて五体満足の形を成していたとすら思えないほど赤黒く染まった残骸が、乱雑に散りばめられていた。
「たす……け……」
足元からか細い声が聞こえる。私はその光景から出来るだけ目を逸らしつつ、再び男の子の両腕を掴んで引き上げようとした。
ずるり、と何かが滑り落ちる音。視界の中で赤いものが大量に噴き出ていく。軽い、あまりにも軽すぎる。
その瞬間、私は理解した——男の子の腰から下が、なくなっていると言うことを。
自分の手の中には、彼の上半身だけが残っていた。その顔は笑っていた。恐怖で引きつった笑みのまま。
私は咄嗟にその手を離してあとずさってしまう。べちゃ、と音を立てながら口の中へ無抵抗のまま落ちていく胴体。その最中、私の前に、一人の青年が姿を現した。
「よっと……あれ? 外しちゃったかあ、一発で全員仕留めたかったのになぁ。あれ、もしかして攻撃、効かなかった感じ? ひょっとして、君が“器”なのかい?」
口の中から這い上がり、そう言いながら無邪気な笑顔を見せる彼の左手には、私の身長ほどあるような大剣が握られていた。彼もまた、ヴィル爺とミラを殺した白装束と同じ格好をしていたが、その服は血で赤く染まっており、白い箇所はほとんど見当たらない。
——逃げろ。
そう、心の中で私の本能が叫んでいた。
横で呆然としていたユキの腕を無理やり掴み、引きずるようにしてその場を離れようとする。
彼女もまた、男の子と同じように深い傷を負っていた。それは腹から胸にかけて斜めに痛々しく入っており、今もなお、血が流れ続けていた。
それでも、私は走り続けた。今は、そうすることしかできなかったから。
「はは……ははははっ!」
轟音と共に、その笑い声の主が私の後ろから迫ってくる。
顔のマスクを取り外し、投げ捨て、大剣を自由自在に振り回しながらこちらを見据える彼は、美しいほどの金髪と、血走った深い青色の目をしていた。
「おいおい、逃げるなよ」
そう言って、大剣を両手持ちに切り替えた彼は、それを地面めがけて勢いよく振り下ろした。背中にびりびりと衝撃波が伝わる。
「あっ!」
その時、床を真っ二つにするかのように出来た巨大な亀裂に足を取られてしまい、身体が大きく前に傾いてしまう。ユキを守らなければ。私はその一心で腰を思い切り捻った。
思い切り背中を打つと同時に、鈍痛が身体中に広がる。間一髪で、ユキが地面に激突するのを防いだものの、衝撃で彼女の身体は投げ出され、床に転がってしまった。
こつ、かつ、と近づいてくる足音。ぼやける視界の中、ユキの元に辿り着こうとするが、私の身体は痛みでぴくりとも動かなかった。
「うっ……うぅ……」
目の前で苦しそうに呻きながら、自分の腹部を押さえているユキの指の隙間からは、赤い液体が絶えず滴り落ち続けていた。動け。動け。心はそう叫んでいても、身体が言うことを聞かない。無様に這いずり回ることしかできない。痛みに耐え、手を伸ばす。こつり、かつり、さらに足音が増していく。
「ははっ……いいなぁ……その表情……あはははっ!!」
愉快な笑い声が、壊れ掛けの廊下中に響き渡る。
「ま、とりあえず君からにしようか」
彼は軽い足取りでこちらに近づき、大剣を私の顔の前に思い切り突き刺してからそう言った。
そして、その場で屈み、動けない私の顔にそっと手をやる。
「ああ……いいねえ……薄桃色の長髪。澄んだ赤色の眼。殺すのにはとても勿体無い……もし、君が“器”だったなら、永遠に僕の奴隷として飼ってやる手もあったんだけどね」
彼はゆっくりと立ち上がり、突き刺さった大剣を片手で引き抜き、その鋒を私に向けながら言った。
「じゃあね、またいつか、地獄で会おう」
血で黒く濁った刃が持ち上げられる。それが私の頭目掛けて振り下ろされようとしたその時——
「やめ……て……」
そんな、か細いユキの声が聞こえた。彼女は、おぼつかない足取りで私の前に立ち塞がる。
「ああ、なんだ? お前はもう傷物なんだから要らないんだよ! 用済みなんだよ!!」
そんな彼女を見て、目の前の男は苛立ちを隠すことなく、大剣を床にどん、どん、と打ち付けながらそう言った。
大の大人でも怯んでしまう程の威圧。しかし、ユキは怖気付くことなく口を開けた。
「もう……やめて……フィオ姉を、きず——」
次の瞬間、目の前に血飛沫が舞い上がった。
ばたり、そんな音と共に、ユキの身体が二方向に倒れ込んだ。
縦に割れたユキの身体。散らばる内臓。広がる血溜まり。
私は、彼女と出会った日のことを思い出していた。にこにこと笑うヴィル爺の胸の中で眠る小さな幼子。私は、雪のように白く美しかった彼女に、ユキと名付けた。
——そんな彼女の姿は、もうない。既に、ユキだったものは赤く染まっていた。彼女から飛び出したまま血に浮かぶ、たった一つの眼球だけが、その白さを未だ保っていた。
「あぁ……あ……っ……!」
起き上がれないほどの痛みすら忘れて、私はその血溜まりに飛び込んだ。まだ、まだ治せるはずだ。目は、脳は、胃は、腸は、心臓は、骨は——
「何やってんだ? 穢らわしい」
ユキの血をすくい、身体をくっつけて、内臓をかき集めようと暗い地面を這いずり回る私を見下ろしていた彼は、そう言いながら私に、ユキの一部を蹴りつけた。
甘くてしょっぱい鉄の匂い。口の中に入った肉は、どこか酸っぱいような感じがした。
私は、そのままユキの身体に吐瀉物を撒いてしまう。彼女の周りが、だんだんと赤色から橙色に変わっていく。
「もういい、死ね」
私の視界が、次の瞬間、前に落ちた。ごとん、という音と共に、自分の頭と身体が切り放されたのだと気づく。
そして、自分の胃液とユキの血液が顔面を覆った。もう、痛みすら感じない。
意識が遠のく中、私は強く願っていた。“復讐できる力が欲しい”と。ああ、お伽話の英雄も,死の間際、こんな気持ちだったんだろうか。
ごとり、と自分の首が上を向く。四つん這いの姿勢で硬直していた自分自身の身体が、目の前で崩れ落ちて行く。それから数秒後、私の視界も呆気なく暗転を迎えた。




