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第9話 軍議の影

 都へ戻る道は、朝に出たときより短く感じられた。短く感じられたのは、背中に土の匂いと井戸の湿りを少しだけ連れ帰っていたからかもしれない。馬の背に揺られながら、遥は掌の皮の薄い裂け目に目を落とした。砂は洗ったはずなのに、爪の隙間にはまだ黒い筋が残り、皮膚の下に白い痛みが住みついている。白い痛みは、今日の重さを忘れるなと指の骨に囁く。


 城門が近づく。見張り台の影が長く落ち、門扉の鉄が午後の光を鈍く返す。門前の空気は固かった。剣の鞘の口金がぶつかる音がいつもより多く、声は低く、足の運びは速い。遠目にも、緊張は色を持つ。灰色が濃い。

 門の内側で、伝令がひとり、駆け寄って膝をついた。息は上がっているが、脈は乱れていない。訓練を受けた肺の動きだ。

「王。紅月国こうげつこくの前衛が国境の丘を越えたとの報。斥候が三たび、国境標を蹴りました」

 「三たび」という数が、耳の内側の膜に冷たい点を三つ重ねる。礼を失するだけの挑発ではない。境を既成事実で塗り替えるための、あからさまな足。

 楓麟ふうりんはわずかに耳の毛を立て、それからすぐに寝かせた。目の灰は薄く、声は低い。

「軍議だ。王宮へ。――鈴は鳴らすな」

 鈴は鳴らさない高さで、風が一度だけ門を抜けた。


     ◇


 軍議の間は、石の床の上に広げられた大きな地図で半分が埋まっている。白風国はくふうこくの地は薄い墨で描かれ、川筋は濃く、峠は黒い点の連なり、渡しは小さな楕円で示される。

 地図の上に、石駒がいくつも並ぶ。磨かれた黒は守り、白は空き、赤は脅威。国境の要地――「霜の峠」「灰の渡し」「薄紅平原」――その三つに、赤い札が立っていた。札の赤は、紅月の旗の色より少し沈んだ色で、それがかえって広間の空気を冷たくする。


 将や文官が集結している。軍務卿ぐんむきょうは肩をすくめ、指先で机の端を叩いて緊張を散らし、商務司しょうむしの筆頭は帳面を小刻みにめくる。風府の長風ちょうふうは、紐を一本、指で軽く弾いて鳴りの高さを確かめ、巫は短い歌を持って辺の柱影に控える。藍珠らんじゅは壁の前に立ち、白い外套の下で腰の刀の位置をほんの少し上げた。彼女の目は地図の上ではなく、人の動きを見ている。


 軍務卿が口火を切った。

「紅月は兵を置き、斥候に石を蹴らせ、狼煙のろしを上げる。意図は明白。――従属の条件をもって進軍停止の旨、再度の談判を提案する。義理と面目を保つ文を用意し、冬を越すまでに兵糧を整えるべきかと」

 商務司がすぐに続く。

「戦になれば交易路は断たれ、飢饉が加速します。庇護を受けるのが現実的です。紅月の布は豊かだ。布があれば冬の風は半分になる。税は重くなろうとも、いまは水と穀と布が要る」


 視線が一斉に、若い王に突き刺さる。石の椅子に座る遥の肩は、自覚できるほどに硬くはなかった。硬くはないのに、背へ触れた石の角は、いつもより骨に近い。

 楓麟は静かに札を指で弾いた。立つ赤い札の根元が、かすかに鳴る。

「従属は不可」

 断言は短い。短さが室内の空気をぴりつかせる。

「従属は、国境を失うだけでなく、法と租税と徴兵権を失う。印は他国のものとなり、風の門は紅月の印でのみ開く。白風は白風でなくなる」

 「理想論だ。兵糧は尽きる」

 誰かが吐き捨てた。吐き捨てる声は、腹に半分だけ溜まった空気の音をしている。半分しか溜まっていない腹の声は、長く伸びない。


 遥は席につきながら、両掌の皮の痛みを思い出す。井戸の泥が爪の隙間に黒く残り、たった一本の水の音が胸の裏で「ぽた」と鳴った。喉が渇く。渇きは恐れに似ている。似ているだけで、同じではない。

 深く息を吸い、吐く。吸う息は薄く、吐く息は重い。

「……俺は、戦いたくない」

 広間がざわめいた。先日と同じ言葉だ。

「けど、従属も嫌だ」

 ざわめきは増え、誰かが椅子の脚を鳴らした。鳴りは短い。

 遥はそこで、言葉を継いだ。自分の声が石に吸われず、地図の上の赤札の足もとに落ちる高さで。

「だから――いま取れる現実的な準備を、全部やる」

 石駒がひとつ、誰の手にも触れないのに微かに揺れた。


「まず、霜の峠の柵を二重にして、間に落とし穴を――浅すぎず、深すぎず。落ちた兵が自力で這い上がれない深さ。柵と柵の間の幅は、長槍一振り半。槍の先が届くぎりぎりに。杭の先は切らず、割いておく。乾いた草はそこへ詰める。雨はない。火は走るが、風が逆なら走らない。走らせない夜を選べ」

 軍務卿が目を細めた。

「灰の渡しは、浅瀬を虚報にする。上流に堰を組んで、わずかに流れを移す。石は丸ではなく、角を残したものを使え。草を絡めて泥を詰める。昼に人を動かすな。夜にやる。水音の高さが変われば、敵は耳を使う。耳を使う夜に、別の音を重ねる」

 商務司の中から小さく笑う者が出た。笑いは短く、すぐに石の床へ吸われた。

「薄紅平原には、夜間だけ火計のおとりを焚く。乾いた藁を束ね、偽の兵列を作る。灯で照らす。風が強い夜だけだ。実兵は動かない。煙と影と声で、敵の警戒を散らす。足を動かさずに、相手の心だけを疲れさせる」

 軍務卿は腕を組み、視線を地図から遥の顔に移した。

「火計の囮?」

「風が荒れた夜だけ。――灰の渡しの堰をいじった日はやらない。風向きを二度読む。囮と実兵の距離は、最低でも、百歩。火の粉が届かない、けれど敵に見える位置。声を出すのは三箇所。囮の背後に、人を置かない」


 文官の一人が鼻で笑い、別の者は筆を止めた。笑いは軽い。軽い笑いは、重い沈黙を呼ぶ。

 藍珠が短く斬り込む。

「可能だ」

 その一言で、嘲りの笑みは半分、口内へ戻った。

「ただし、囮と実兵の距離、風向の読み違いは即ち自滅。現場指揮の統一は宰相の下で行うべきだ。各地のかしらが自分の判断で火を焚けば、互いの煙で相手を見失う」

 楓麟は頷き、地図の端に新たな札を置く。白い札だ。そこに小さく「囮灯おりとう」と記して、薄紅平原の北端に刺した。

「王、命を」


 遥は喉の渇きとともに躊躇が上がるのを感じた。額の布の下で天印が熱を持ち、逃げる方向へ伸びかけた足を糸で引き戻す。井戸の底で聞いた小さな音が、胸の中で二度ほど鳴る。ぽた、ぽた。

 覚悟は、声の前に来ない。声に乗って出る。

「……柵の増設、堰の構築、囮の設置、全部やる」

 言葉は短いが、室内の四隅へ行き渡る。

「労役は、都市の失業者と、罪軽き囚人から募る。その代わり、労役一日につきあわ一合を支給。怪我人には王宮の薬草庫を開く。橋の釘は数が足りない。縄を多く作る。縄は女と子にも綯わせる。綯うだけなら手を切らない。――今日、門の紙片を一枚増やす。労役の呼び出しに使え」

 ざわめきが増す。商務司の筆頭が立ちかけ、口を開いた。

「そんな浪費を――」

 楓麟が先に釘を刺す。

「費は倉から。王命だ」

 倉の番の文官がわずかに肩をすくめた。すくめた肩は、了承の印だ。口では反対しないが、数で反対するのが彼の仕事だ。しかし今日は口も数も動かない。

 長風が紐を一度弾き、鳴らない高さで応じた。

「風府は井戸へ。札は足りる。巫は暦を見て、火の夜の順番を紙に置く」


 軍議が一段落し、人々が息を吸い直したところで、密偵頭みっていがしらがひそやかに近づいた。影の濃い声は、耳のすぐ外で落ちる。

「王。宰相。――紅月国の将の一人が、城内に内通者を持つ様子」

 室内の空気が急冷し、薄い霜が床の上に一瞬だけ張ったように感じられた。誰も目を合わせないまま、互いの素性を互いに確かめる目が増える。

 遥の背に、冷汗が細く伝う。誰を信じ、誰を疑うか。疑いは水と同じで、低いところへ集まる。集まって、澱の匂いを出す。藍珠が目だけで合図した。「動揺を顔に出すな」。視線の刃は、彼女から王へ、そして広間の四隅へ向けられ、気配を切る。


 楓麟は即断した。

「内通者は泳がせる。偽の軍議録を流し、敵の反応で篩にかける。――文言を三つに変えろ。霜の峠、灰の渡し、薄紅平原。それぞれに微かな違いを置く。紅の者は、どの文を噛んだかで舌の色を見せる」

 密偵頭は一度だけ深く頷いた。目の黒は深く、声はさらに薄くなる。

「すでに用意あり。紙の端に小さな切り欠きを入れ、渡した者ごとに違う印を。風府の札の裏にも、別の歌を記す」

「歌?」

「歌は、人に移る。紙は捨てられるが、歌は捨てられぬ。違うしらべを耳に入れた者は、同じ違いを無意識に口ずさむ。紅月の耳に、どの旋が入るかを見る」

 長風が小さく笑った。笑いは珍しい。巫の笑いは、祈りではなく技だ。

 遥は唾を飲み込んだ。喉が動くのが、自分でわかる。

「……やってくれ」

 短い命に、密偵頭はもう一度だけ深く頭を垂れ、影に沈んだ。


 軍議は解かれ、人々はそれぞれの役へ散っていく。足音は低く、声は短く、紙の擦れる音だけが長く残った。

 回廊に出ると、空気が一段軽くなった。軽くなったのに、鈴は鳴らない。鳴らさない高さを、楓麟は好む。

 藍珠が横に並んだ。外套はすでに脱ぎ、白衣が風を捕まえる。

「今日の命は、先日の『わからないから決めてくれ』とは違う」

 彼女の言葉は斜め下から届き、足の裏に落ちた。

「王の言だ」

 遥は自嘲ぎみに笑う。笑いは声にならず、口の端だけが動いた。

「まだ、怖いけどな」

 藍珠は珍しく柔らかな声で返した。

「怖さを捨てるのは蛮勇。怖さを抱いたまま前へ出るのが、王の勇だ」

 彼女の視線は、遥の額の布の結び目に一瞬だけ触れ、それから前へ戻る。天印は、今は痛くない。温かいだけだ。温かさは罰ではない。明日の印だ。


     ◇


 その夜、楓麟はひとり、夜の塔で風を読んだ。塔の上は、石の匂いが薄く、夜の匂いが濃い。夜の匂いは、土と乾いた草と、遠い水の消えかけた香りでできている。

 雲は薄く、星は少ない。東から乾いた風。鈴は鳴らない高さで、塔の縁を撫で、耳の毛を軽く上げる。上がった毛はすぐに寝る。風は彼の耳に入って、内側で言葉の形をとる。

「王は、まだ揺れている」

 低く呟く。呟きは、自分の胸の内側に落ち、そこで薄い輪を描いて消える。

「だが、足は地を踏み始めた」

 今日の軍議の言葉は、短かった。短いからこそ届いた。届いた言葉は、明日の動きに形を与える。形があれば、風はそこを通る。通る風の筋が一本増えれば、紅月の煙も、少しだけ流れが変わる。

 遠く、国境の暗がりで狼煙が一つ、かすかに上がった。

 赤ではない。灰だ。灰の狼煙は、誰かが試している合図。紅月の影が、いよいよ濃くなる。影は人の心の隅で増え、そこから光を奪う。奪われた光の分だけ、声の高さを間違える者が出る。

 楓麟は目を閉じた。長風の歌が、鈴の鳴らない高さで塔の足元をかすめる。巫の歌は祈りではなく、風の目印だ。目印があれば、風は迷わない。

 彼はゆっくりと目を開け、東の暗さをもう一度見た。

 霜の峠――柵を二重にして落とし穴。

 灰の渡し――堰を上流に、流れを変える。

 薄紅平原――夜の火の囮。

 いずれも、力ではなく整えだ。整えは、王が言ってから、人が手でやる。人の手がやることは、必ず誤差を含む。誤差を許す余白を、今夜、風は運べるか。

 彼は塔の縁に手を置き、石の冷たさを掌の皮で確かめた。冷たさは、昼間の熱を薄める。薄められた熱は、明日の朝にまた形を変える。

 ――泳がせる内通者。

 偽の軍議録。違う旋を耳に入れられた者が、どちらの火へ走るか。

 楓麟の目は、塔の下の暗さに向けられているのに、遠い彼方の目の動きを見ていた。目は腹を半分だけ満たしている。半分空いている目は、まだ正しく見られる。

 風が塔の上を渡る。渡った風の先で、薄い門がいまだ見えないところに、彼は小さな指掛けの形を思い描いた。


     ◇


 翌日から、都は静かに騒がしくなった。

 霜の峠へ運ぶ杭は、一本一本が異なる重さを持ち、担ぐ肩の骨に別々の言葉を残した。杭を割る音は山に吸われ、割れ目に指が入り、割いた先に乾いた草が詰められる。落とし穴の深さを測る縄の結び目は、藍珠の手で二つ増え、結び目の位置が少しだけ低くなった。

 灰の渡しでは、夜ごと、上流に石が入る。角を残した石は、水を噛み、泥は草で留められ、堰は声を出さない。水音の高さはわずかに変わり、渡しの浅瀬は昨日の場所から半歩、右へずれた。

 薄紅平原では、夜にだけ、藁が束ねられる。束ねられた藁は兵の形を取り、灯に照らされて影を伸ばし、風が強い夜にだけ燃える。囮灯の背後に人はいない。煙は風の筋に沿って流れ、敵の目はその筋を追って疲れる。

 労役の列は門から出て、門へ戻る。門の紙片は薄く、墨は濃い。紙を受け取る手は震えていない。震えるのは、紙を渡す者のほうだ。渡す手の震えは、今日の責任の重さに反応する。

 薬草庫は開き、結び目の内側には薬草の匂いが忍ばされる。香りは甘くない。甘くない匂いは痛みの角を丸くし、眠りの端を柔らかくする。

 密偵頭のところへは、それぞれ違う切り欠きの紙が戻り、三つの旋が耳に入れられた。夜半、紅月の方向から返る風の中に、微妙に異なる歌が混ざる。

 「霜」

 「灰」

 「薄紅」

 どの言葉に誰の足が動いたか。足の音が鈍い者、軽い者、音を消す者。音を消そうとして増やす者。

 篩にかけるという言葉は残酷だが、風は残酷を嫌わない。風はただ、通る。


 遥は、軍議の間の隅で、地図の端を見ていた。赤い札の根元に、白い札が三つ増えた。囮灯。堰。柵。白い札は目立たない。目立たないところで風を変える。

 掌の裂け目は、まだ痛い。痛いまま、筆を持ち、紙に短い命を書きつける。字は下手だ。下手な字は、紙の上で恥を晒す。晒す恥は薄い。薄いから、折れない。

『霜の峠――柵二重。落とし穴。草詰め。火の夜は使うな。

 灰の渡し――堰、上流。角石。草で留める。声を出すな。

 薄紅平原――囮灯。実兵動かすな。風二度読む。

 労役――粟一合。薬草庫、開け。

 ――白風国王 水城遥』

 紙を折る。折った角に、長風の小さな札がそっと重ねられた。札は鈴の鳴らない高さで、紙を押さえる。

 藍珠が横に立った。何も言わない。言わないことが、今日のうなずきだ。

 楓麟が緩く目を細める。耳の毛は、寝たまま。

 遥は、額の布を指で整えた。結び目は昨日より少しだけきつい。天印は、温かい。温かさは罰ではない。

 明日の印だ。

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