第8話 小さな感謝
黎明は、鳥の声の前に訪れた。
夜の最後の薄皮が、王宮の白い石の角からそっとめくれ、光の筋が回廊の目地に一筋ずつ落ちる。鈴は鳴らない高さで風が通り、旗は音を持たない影をつくる。息を吸い込めば、水の匂いはしない。石と乾いた草の匂いが、胸の奥に四角い小さな箱を置く。
遥は額の布を結び直した。結び目は指の記憶に合わせて自然に収まり、布の下、天印はまだ温度を持たない。温度を持たないことが、逆に身構えを強くする。白い衣は脱ぎ、粗末な外套をまとった。裾は短く、色は薄い土色。藍珠も同じ色の外套を肩にかけ、腰の刀の佩き方だけが、彼女だと告げていた。近衛を少数。顔つきの若い者を選び、鎖を鳴らさない革の具足をつけさせる。
楓麟は、いつもの淡い灰の目でこちらを見た。耳の毛は寝ている。寝たままで、風をよく拾う。彼も外套をまとい、銀に近い髪を背に落とした。外套の裾が柱影の中で揺れ、その揺れだけが彼の体の線を描く。
「王の外出は秘す。名も印も置いていけ」
声は低い。低いが、命じる高さを失わない。楓麟の言葉は、どんなときでも余白を欠かない。余白は、聞く者の呼吸のためにある。
遥はうなずいた。玉座は遠い。遠くしているのは自分自身だと知りながら、今朝のこの外套の軽さに救われる。王であることと、旅人であることは、衣の重さで半分だけ入れ替わる。
城門の近くに、人影は少ない。衛士は夜明け前の交替の手順に入ったところで、誰もこちらを見ないふりをすることに熟練している。門の鍵は大きく、鉄の匂い。閂が上がる音は思いのほか軽く、石畳に朝の冷えが流れ込む。
外へ出た。王宮の白は背にある。前にあるのは、まだ色を持たぬ街。屋根の土は夜露をもらえず、薄い粉を吹いている。広場を横切る。昨日の戻しの紙片を手にした商が、まだ店を開く前に紙片を指で折り直していた。指の腹に墨の匂いが少し残り、そこへ息を吹きかける。吸う息が足りない。足りない息で、彼は今日を始める。
馬は細い。城の厩舎で乾草を分けられても、風の高さが変わらない限り、馬の肋は浮いたままだ。藍珠は手綱を持ち、馬の眼を見た。見られた眼が落ち着く。遥の馬は若い。足の運びは速いが、乾いた道に身を置いたことが少ないのか、最初の石で少し躓いた。躓いた足を静かに諫め、拍車を当てない。拍車は使える。使えるが、今日は使わない。
門を出て、道が土に変わる。石の反射を失った光が低くなり、風は土の匂いを連れて鼻を刺す。匂いの奥には乾きがいる。乾きは音を持たないが、耳の内側で軽い軋みになる。
枯れた水路が続く。石を並べた浅い溝は、途中で土に飲み込まれている。水が流れていた痕跡だけが残り、ところどころに苔の名残りが黒い線を描く。名残りの黒さは、いまの空の白の反対だ。棚田はひび割れ、小さな四角い大地が何枚も重なって空へ登る。ひびは乾いた血管のようで、遠くの段から段へと繋がる。「風の筋」と呼ぶものの模様にも似ているのに、整いはない。
麦束が立ててある。虫食いだらけだ。穂の先が軽く、風に動くたび、かすかな音を立てる。音は泣き声に似ていない。似ていないのに、胸の奥を重くする。遥は馬上で唇を噛んだ。噛んだところに血の味は出ない。出ないのに、鉄の匂いだけが想像で鼻に浮かぶ。
藍珠は言わない。言わないことが彼女の言葉だ。楓麟も言わない。彼はただ、道の片端に積まれた石の形を目で数える。石の数は、昨夜、誰かがここで何を諦め、何を諦めなかったかを教える。長風は同行していない。風府は井戸に残した。風の札はその場に残されなければ働かないからだ。
都から半日。陽はまだ高くなく、影は長い。丘をひとつ越えるたび、棚田のひびが別の角度で見え、風の擦過音が耳の中で高さを変える。
村が見えた。地図では名の消えかかった小さな印。近づくと、入口に枠だけの祠がある。鳥居に似た二本の柱と横木。板はとうに剥がれ、屋根の藁は色を失っている。祠の下の土は人の足で磨かれて黒く、しかし最近の足跡は少ない。
祠の影に、幼い少年がひとりいた。火は弱い。鍋は古い。底が焦げついて黒く、その上で薄い粥が煮えている。湯気はほんの少し。湯気が白いというより、白さの匂いが立たない。少年の指は細く、木の柄を握る親指の爪が欠けている。
馬の足音に少年は顔を上げ、見知らぬ旅人を見て身構えた。目は大きく、光は浅く、口は固い。祠の周りに野犬が二、三匹。痩せて、骨が浮いている。低い唸り。
藍珠が腰の刀に静かに手を添えた。抜かない。添えただけで、犬は一歩退いた。退きながら、もう一度唸り、それでも目を逸らす。犬の目は腹を半分も満たしていない。半分空いている目は、まだ正しく見られる。
藍珠の手に従って犬が退くと、戸の影から大人が顔を出した。頬の骨が張り、目の周りに薄い灰色の影。
「旅人か。飯は出せんぞ」
名乗れば、場は固くなる。名乗らねば、場は漂う。漂う場を、一言で落とすのが楓麟の役だ。彼は馬上でわずかに上体を曲げ、柔らかい声で言った。
「水売りの使いだ。干上がった井戸の石組みを見せよ」
嘘は滑らかに伸び、風の目地を抜ける。顔を出した大人――村長に見えた――が訝しげに眉を寄せ、しかし祠の向こうを指さした。疑いはある。疑いがあるからこそ、案内をする。案内をすれば、疑いは少しだけ減る。減った疑いは、明日の疑いの床になる。
井戸は村の真ん中にあった。縁の石は白い粉を吹き、底は割れ、泥は干上がってひびだらけ。桶は乾き、紐はささくれで毛羽立っている。井戸の周りの地面もひび。ひびは祠の方向へ続き、上の段の斜面へ消えた。
遥は屈み込んだ。外套の裾が土に触れる。石組みの間の隙間を指でなぞる。石は冷たくない。冷たくない石は、長い間、水に触れていない石だ。隙間に指を入れると、風が抜けるだけ。水の匂いはない。
周囲の地面のひび割れの広がり。斜面。祠の方向。上の段に積まれた石。土の色が少し違う筋。
――理科で習った毛細管現象。
水は細いところへ細いほど、皮膚の下まで染みてくる。
――地層。
砂と粘土。流れ込む道と、止まる層。
理科室の静けさ。黒板のチョークの音。試験管を洗う水の匂い。教室の窓から見えたグラウンド。遠くの並木。
ここはグラウンドではない。けれど、石と土と水の理は、世界が違っても大きくはずれないはずだ。遥はひとつ息を吐き、指で斜面の石の並びを示した。
「ここ、斜面からの水が流れ込む道が、塞がってる」
声は驚くほど自然に出た。自分の声なのに、耳の近くで少し遅れて聞こえる。
「上の段の石をどかせば……。石の下、土が硬くなってる。泥がひび割れてる。ここを掻いて、息を通したら、少しは……」
村長は眉を上げた。楓麟は口を挟まない。藍珠はすでに動き始めている。
「男手を集めろ。丸太が要る。梃子を使う」
命じる声音は短い。短いのに、動く。村の大人たちが戸の影から出てくる。顔の色は薄いが、筋肉は残っている。藍珠は丸太の位置を決め、太い石の縁に楔を入れる。縄がひとつ、ふたつ、石にかかる。
「王」
楓麟が小さく呼んだ。彼は村に聞こえない高さで言う。
「見ていろ。いまはまだ、名を置くな」
遥はうなずき、石の縁に手を添えた。楓珠が梃子の支点に小石を差し、男たちが掛け声を合わせる。石が鳴る。鳴りは低い。低い音は胸に落ち、落ちたところでひとつ、重さを作る。
土砂を掻き出す。土は乾いている。乾いているのに、掻うほどに、色が少しだけ濃くなる。濃くなるのは、掻いだことで土の目が開くからだ。
じんわりと、泥の色が変わる。井戸の底の暗さの奥で、わずかに違う音がした。
ぽた。
ぽた。
耳の内側の膜に触れる小さな音。人が息を呑む音が重なり、村の空気が一瞬だけ膨らむ。
ぽた、ぽた、と、水が落ちる。
完全な復旧ではない。石の隙間から水が湧き出すわけでもない。それでも、底に薄く濡れ色が広がる。腕ほどの深さの暗さが、輪郭を少しだけ柔らかくする。
少年が目を丸くした。祠の影からそろそろと近づき、恐る恐る手を伸ばす。泥の匂いの中に、確かに冷たい湿り気が混ざる。指先が濡れる。彼は小さく息を吸って、声にならない声で言った。
「……水、だ」
その声が合図だった。女たちが慌てて桶を持ち、男たちが紐の結び目を確かめ、子どもが石の欠片を拾ってどける。僅かな水でも、桶の底を濡らすことができる。濡れた底の匂いは、喉をほんの少し湿らせる。
楓麟が横目で遥を見た。外套の影の下で、目の灰が深くなる。
「王は、見た。次は命じよ」
声は村に聞こえない高さだ。高さを選ぶこともまた、整えのひとつ。
遥は、喉の奥で渇きと唾がぶつかるのを感じつつ、言葉を紡いだ。
「井戸を三つに増やす」
村人の顔がわずかに動く。
「いまの井戸は、底の板が割れてる。石を組み直す班。上の段の水の道を掘り返す班。祠の木材を再利用して、井戸の上に日除けをつくる班。……人は分けて。子どもと年寄りは、日陰で縄を綯う。紐を仕立てる。
――食料は、戻ったら倉から粟を運ぶ手配をする。戻しの紙片をここでも使う。配る順番は、幼い子と病人から」
村長は唖然とした顔のまま、やがて深く頭を下げた。
「旅の方、いや……御方。命じてくだされ」
命令は、命じた瞬間には重くない。重くなるのは、その言葉が手に移るときだ。手に移った重さが、今日という日の時間の向きを決める。
藍珠が号をかける。
「石の班は六人。梃子をもう一本。紐は新しく。――日除けの班はこの梁を外せ。釘は少ない、縄で縛れ。影は井戸の南へ落とす」
楓麟は、村の男たちの顔を目で数えた。目は腹を半分だけ満たしている。半分は空いている。空いている目は、まだ正しく見られる。
「門の紙片は、今日から二日、村の入り口で渡す。紙は薄い、だが重い。持て」
彼の言葉の重さは、紙の薄さに乗る。薄いものに重さを持たせる技は、宰相の仕事だ。
正午過ぎ。
陽は高みから落ち始めたが、熱はまだ石を離さない。遥は外套を腰に縛り、汗と泥にまみれながら、村人と同じ作業を続けた。井戸の縁石は思ったより重い。丸太を支点にし、梃子を掛ける角度が少しでもずれると、石は動かない。動かない石に合わせて、身体の角度を変える。変えた角度をまた変える。
手の皮は薄く擦りむけ、掌に小さな裂け目が生まれる。裂け目に砂が入って痛む。痛みは白い。白い痛みは今朝の空と同じで、思考の端を薄く削る。藍珠が珍しく止めようと手を伸ばした。
「王、手を――」
遥は首を振った。
「俺が言ったんだ。手も貸す」
藍珠はそれ以上言わず、楔を持って別の角度で石を叩いた。顔の汗は髪に入らず、唇は乾いている。乾いているのに、声は乾かない。声の湿りは、人の動きをつなぐ。
日除けをつくる班では、祠の木材が外され、梁が縄で結わえられる。梁の端は割れているが、割れは方向を選べば強みにもなる。陰が井戸の南へ落ちる。影は薄いが、ないよりはましだ。
上の段の掘り返しは、思ったより時間がかかった。石の下の土は固く、刃の鈍い鍬では歯が立たない。鍬の角度を変え、土に小さなひびを増やし、そこから指の力で崩す。崩した土は風で運ばれ、またどこかの溝を塞ぐ。塞いだところをまた掘る。根比べだ。
やがて、最初に開けた箇所とは少し離れたところで、土の色が一段濃くなった。棒を差し入れて引き上げると、棒の先にわずかに水の匂い。匂いは、水がいるという証で、量の証ではない。それでも、人は匂いで動く。匂いに敏感であることは、たましいの健康の一つだ。
作業の合間、祠の影からあの少年が近づいてきた。手は震えている。震えは空腹のせいか、緊張のせいか。彼は掌を開き、乾いた果実の欠片を差し出した。小さな欠片。指の腹に少しだけ粘りが残る。
「これ」
彼は、一度言って、呼吸をし直した。
「この前、市で、僕を助けてくれたの……兵隊さんに、命じて。あのとき、ありがとう」
遥は目を瞬いた。市場。広場の石の上。戻しの紙片。衛士。押しのける前に距離を作る彼らの足の運び。籠を持つ女の細い手首。
「僕、王様って怖いと思ってた。けど、今、井戸を一緒に掘ってくれた人が王様なら……たぶん、ちょっとだけ、信じられる」
少年は言い終わると、手の中の欠片を押しつけるようにこちらへ差し出した。押しつける力は弱い。弱いのに、指先には確かな重みがある。
遥の胸の奥が熱くなった。市場で感じた嘲りと無力感が、微かに別の色へ変わる。色は濃くない。薄い。薄いのに、消えない。消えないから、次の色が混ざる余地がある。
欠片を受け取る。口には入れない。口に入れれば、彼の一日が軽くなるわけではない。受け取ること自体が、今は礼だ。
「ありがとう」
声が出た。声は藍珠の耳に届き、楓麟は目を伏せた。伏せる目は、言葉を軽くしないための姿勢だ。
午後の終わり。
井戸は三つのうち、一つが命を取り戻し、もう一つが息をし始め、三つ目はまだ暗い。暗さは恐れではない。深さだ。深さに板を当て、石を寄せ、縄で結う。
女たちは水の分け方を話し合い、男たちは縄の結び目を増やし、子どもは石の欠片を拾い続ける。楓麟は村長と低い声で話し、門の紙片の置き方、倉からの粟の運搬の段取り、戻しの順序を確認した。彼の言葉は数字になり、数字は現実の動きになる。
藍珠は、野犬が近づく方角に目を配る。犬は腹が空いている。空いている腹は、香りに敏感だ。彼女は刀に触るだけで犬の進路を変え、子どもが持つ木の柄の角度を直し、楔を打つ工の手首の高さを指で示す。彼女の目は、整う前の乱れを見つける目だ。
遥は、何度か手を洗った。水は少ない。洗えば、誰かの口へ入る水が減る。減るのに、洗う。掌の裂け目に入った砂を出さなくては、明日の手が動かない。井戸の縁で掌を濡らすたび、泥の匂いが鼻に上がり、その匂いに胸の内の「帰りたい」という言葉が一度だけ触れて、角を丸くする。角の丸い言葉は、喉の上で留まり、下へ落ちない。
陽が傾き始めた。影は長く、祠の枠は黒い格子を地面に落とす。村長が礼を言い、女たちが頭を下げ、子どもが石を蹴る。蹴られた石は水に落ちない。落ちない石は土の上で跳ね、跳ねた音が薄い笑いに変わる。笑いは泣き声に似ていない。似ていないのに、人の体を温める。
発つ時刻。
藍珠が低く囁いた。
「今の一歩は、小さい。だが、王の足跡だ」
言葉は風の中でほどけず、額の布に淡く吸い寄せられて、そのまま残る。
遥は小さく頷いた。頷きは自分のためで、彼女に見せるためではない。帰郷の願いは消えていない。消えないまま、今日、彼はこの世界のどこかに、自分の手が届く範囲の現実を掴んだ。小さな感謝は軽い。軽いのに、王を王へ押し出す方向に、確かな重みで彼を傾ける。
村を出る前、楓麟は村長の耳元で短く告げた。
「明朝、門で紙片を受けよ。明後日、粟が一。井戸は夜のうちにもう一杯。――見たことを、隣の村へ話せ。話は、水の道になる」
村長は深く頭を垂れた。頭を垂れる角度が深くても、腰は折れない。折れない腰は、明日の朝に人を起こす。
祠の影で、少年がこちらを見ていた。目は大きい。光は朝より深い。彼は手を振らない。振らない代わりに、背筋を伸ばした。伸ばす背筋は、礼の形ではない。覚えようとする身体の形。
遥は、馬に乗る前に、額の布の結び目を指で確かめた。天印は、うっすら温かい。温かさは罰ではない。罰に似せた印の、別の側だ。
村を背にし、丘を戻る。道のひびは同じだったが、光の角度が変わり、影が別の場所に落ちる。棚田の割れ目の向こうで、麦束が風に揺れる。揺れは、朝よりわずかに柔らかい。柔らかさは、目の錯覚ではない。風府の札がどこかで一枚、貼り直されたのかもしれない。
都へ戻る道の途中、遥はふと馬を止めた。
枯れた水路の途中、石の並びが不自然に途切れている。土が少し盛り上がり、そこに小さな穴がいくつもある。雨が降れば、そこへ水が集まる。雨は来ない。来ないのに、穴は水の形を覚えている。
遥は馬を降り、片膝をついた。手で土を払う。指先に乾いた粉がつき、それを吹き払うと、石の下から細い根が顔を出す。根は水を探して土を掘る。掘った道が、いつか水の道になる。
楓麟が背後で立った。
「王」
声は呼びかけだけで、命じない。遥は短く息を吐き、立ち上がった。
「……戻ろう」
戻るという言葉は、今日、この道では、都へ戻ることを示す。辞典の頁では、別の意味が並んでいる。どちらも、同じ紙の上にあった。
日が傾き、都が近づく。門の前には、昼間よりも人がいた。戻しの紙片を受け取った商が、薄い紙を大事に胸にしまう。衛士は列を作り、声を短く出し、車輪は石に音を刻む。
城門をくぐる前に、藍珠が外套を整えた。楓麟は耳の毛をわずかに立て、すぐに寝かせた。
王宮の白は、夕刻の色で薄く赤味を帯びる。回廊の影は長く、鈴は鳴らない。
広場へ入ると、ひとりの女が待っていた。両腕に幼子。顔は疲れているが、目は光を持つ。彼女は深くではない礼をし、言葉を選ぶ時間を短くした。
「門で紙片を、いただきました。……明日、粥が、濃くなります」
遥はうなずき、言葉を置いた。
「明日も渡す。明後日は、倉から粟が出る」
女はまた礼をし、幼子の頬に額を寄せる。幼子は声を出さない。出さないことは、弱さではない。体が、声を温存しているのだ。
部屋に戻ると、机の上に紙片が一枚置かれていた。朝、侍従が告げた「風門断簡」が届いたのだ。巻は薄く、端は欠け、文字はにじみ、ところどころ読み取れない。
遥は灯を低くし、巻の端に指を置いて開いた。
『……天の縫へ、裂け、風おこり、地の目ひらく……。印ある者、門に立てば、風は留まり、地は和す……』
古語は、いまの言葉に似ていない。似ていないのに、意味は骨でわかる。門は、勝手に開く。勝手に閉じる。印ある者が立てば、風は留まる。留まれば、地は和らぐ。
――戻る、ではない。
――戻す、のほうだ。
紙面の上で、二つの言葉が並んだまま動かない。
扉の外で、足音が軽く止まった。藍珠だ。合図もなく、扉は静かに開く。彼女は入ってきて、灯の火の高さを指で少し下げた。
「手は」
遥は掌を見せた。皮の裂け目は浅い。浅いのに、痛みはある。
「少し」
藍珠は頷き、机の端に短い包みを置いた。
「乾いた薬草。今夜、結び目の内側に忍ばせて寝ろ。明日の痛みが薄くなる」
礼の言葉を探す前に、彼女は視線だけで部屋の隅を一巡させた。風の通り、影の落ち方、紙の匂い。
「……今日の井戸」
彼女の言葉は半分だけ上がり、半分だけ落ちた。
「よかった」
短く、それだけ。
彼女が去ったあと、遥は薬草の包みを解き、香りを嗅いだ。香りは甘くない。甘くない匂いは、眠りの端を薄く柔らかくする。額の布の結び目に指を入れ、少し緩め、薬草をそこへ忍ばせた。天印は温かい。温かさは罰ではない。明日の印だ。
楓麟はその夜、短い紙片をもう一枚送ってきた。灰の目のもとで整えた字。余白は少ない。
『王へ。
沙子の井戸、風府より報あり。今夜、一杯。明日、二杯。
橋、明朝に一本。門、紙片の戻しは本日分、紅月の商にも渡る。
紅月の使の返書は明日。時間を買う言葉、条件を返す言葉、小さく命じる言葉――三つを持て。
今日受けた果実の欠片は、王の名に付く香だ。香は薄い。だが、長く残る』
最後の一行の言い回しが、彼にしては珍しく柔らかかった。
遥は紙片を折り、枕の下へ滑らせた。硬さが頭の裏に触れ、夢の角度をわずかに変える。
灯を落とす。暗闇は怖くない。怖くないのに、目は開いたままになる。開いたままの目で、天井の目地の模様をしばらく数え、やがて数を忘れる。
胸の中で「帰りたい」が、今日だけは別の言葉と並んで座った。
「戻す」。
どちらも同じ紙の上にある。順番は、今日決めなくていい。明日、また決めればいい。
眠りは浅く下り、風は鈴の鳴らない高さで額の上を通り、布の結び目に忍ばせた薬草の匂いが、夢の入口の角度をさらに少しだけ丸くした。
◇
翌朝。
鈴は昨日と同じ高さで鳴り、巫の短い歌が回廊を渡る。粥は薄いが、湯気の白は昨日より太い。藍珠の足音は変わらない。楓麟は紙を二、三枚重ねて持ち、長風の使いが風府の札を二枚、袖に忍ばせてくる。
高殿に上がる前、遥は広場に短く立った。
昨日の女がいた。幼子の頬は、わずかに色を持った。女は礼をし、言葉は短い。
「水を、もらいました」
遥はうなずき、今度は自分から言葉を添えた。
「今日、門の紙片は一枚増える。――沙子へ、もう一杯」
女は目を見開き、また礼をした。
高殿の欄間の向こうの空は薄い白で、風は昨日より低い。低い風は、鈴を鳴らさない。鳴らない高さが、今日の言葉の高さだ。
紅月の使はまだ宿にいる。返書は今日出る。時間を買う言葉。条件を返す言葉。小さく命じる言葉。三つのうちどれを置くか。置く順番を、楓麟の灰の目と相談する。
そして、遥は知っている。
どの言葉の前にも、「見た」が置かれることを。
昨日、井戸の底で聞いたぽた、という小さな音が、今朝の言葉の背後でわずかに鳴る。鳴りは小さい。小さいが、消えない。
小さな感謝は、軽い。軽いが、王を王へ押し出す方向に、確かな重みで傾ける。
傾いた身体の角度を、今日もまた、両足で受け止める。
額の布の下で天印が、わずかに温かい。
温かさは、罰ではない。
明日の印だ。