第7話 帰郷の願い
糸のような陽が、紙の上を細く渡っていた。
王宮の一室。壁に寄せた棚の合間から運び込ませた書巻と、折り畳んだ地図と、聞き慣れない古い語の意味を引くための辞典が、白い石の卓の上で折り重なっている。紙は乾いて軽く、めくるたびに薄い音を立てた。インクの匂いがわずかに立ち、こすれた筆の跡が黒ではなく灰に近いところで途切れている。
遥は卓に肘をついた。額の布はいつもの結び目の位置にあり、布の下の天印は今朝は静かだった。静かであることが逆に落ち着かない。右手で巻の端を押さえ、左手で次の巻を引き寄せる。広げるたび、薄い糸がほどけるように文字が現れては消え、消えては現れた。
――風門。
門記。
裂。
天縫。
古い語は、どれも少しずつ違う形で同じものを指すように書かれていた。天の縁が薄くほつれて、風がそこから出入りする。王が立っているときは風の往還が整い、王が倒れたときは裂け目が乱れて魔が漏れる。記しは淡々としていて、淡々としていることが、かえって現実味を帯びさせる。
遥は指で行の途中をなぞった。紙の目がふるえ、指先に残る粉の細かさが、時間の深さを教える。
地図を広げる。白風国の図は古く、新しい傷が鉛で加えられていた。破られた道。枯れた井戸。橋は今日一本増えた。文字の隣の細い点に、内心で小さく印をつける。端には、異界へ連なる「風の道」を古い写しで描いたという半信半疑の線が、薄く淡く走っている。「風門」と記される印は、ある巻には三、別の巻には五。年によって違った。
辞典を引く。古語の辞は、現の言葉とまったく同じ形で頁に並ぶのに、意味が少しずつずれている。「戻る」という語は「戻す」と同じ頁に置かれていて、戻すことは奪われたものを元の場所に返すこと、とある。戻ることについては、頁の余白が狭い。狭い余白は、書き付ける人が少なかったということか。戻る者は少ないということか。
扉の前で控える侍従は、気まずそうに立っていた。視線は卓の上に置かれた巻と巻の谷間を見ないようにして、天井の白い板の隙間あたりを眺める。立ち続ける足の重心が左右に微かに揺れ、足音にならない疲れが足首の骨をやさしく叩く。
藍珠が持ち込んだ書付は、卓の端で沈んでいた。軍馬の蹄鉄の修繕報告。今日中に必要な規格と数。鍛冶の炉の炭の残り。飢饉対策の粟の備蓄台帳。倉の棚の歪み。細い数字は、指に取ると重さを持つのに、いまは視線がそこを滑っていく。滑らせたまま、滑らせたことが胸に薄い傷を残す。
やがて侍従は、短く息を整えて言った。
「宰相が参ります」
去る足音が細く遠ざかる。扉が軽く二度鳴り、楓麟が現れた。
風獣族特有の耳が、部屋へ入るときにわずかに動く。ぴくりと立って、すぐに寝る。立つのは挨拶で、寝るのは観察だ。彼は室内の紙の匂いとインクの匂いを嗅ぎ分けるように目を細め、卓の上を一瞥し、巻の一つの余白に目を止める。余白の書き込みは乱れていない。乱れていないことの不安は、書き込みの少なさという形で目に入る。
「王よ」
楓麟の声は、紙を押さえる文鎮の重さと同じくらいの重さを持っていた。
「政務は山積している。飢饉の村へ、急ぎ下知が要る。明日には国境の哨所から伝令が戻る。橋は今日一本増えたが、道の割れは別の場所で広がっている。井戸は東の二で息を吹き返したが、北の一は底を見せたままだ」
遥は巻の上から視線を上げる。目の奥の乾きは寝不足のせいではない。
「政務は君がやってくれ」
言葉が出た瞬間、自分でもわずかな恥の匂いを感じた。感じた匂いを嗅がないふりをして続ける。
「俺は帰る道を探す。『風門』はどこにいつ開く? この王宮に記録は残っていないのか。儀の間の上、あの薄い明かり取りの向こう、空の裂け目――俺はここへ落ちた。なら、戻る裂け目も、どこかに」
楓麟は淡々と首を横に振った。
「風門は天の気まぐれ。人の意志で開閉できぬ。風府の記録にも、開く日と閉じる日を決められたことはない。王位の天印が宿る限り、あなたをこの国から遠ざけはしない。風は、王を真中に留めようとする」
「そんな理屈で」
遥は卓を、手のひらで一度だけ叩いた。音は薄く、紙の上で跳ねて、部屋の隅へ逃げた。
「俺の人生はどうなる! 家族も友達も、日本の学校も……全部捨てろっていうのか。父さんの鍵の音も、母さんの包丁の音も、田所のどうでもいい冗談も、部活の汗の匂いも、あの、体育館の床の冷たさも」
楓麟の目は浅い灰で、耳の毛は寝たままだ。冷たいが、言葉の選び方だけは慎重だった。
「その嘆きは理解する」
理解と言って、彼は同情の顔を作らない。顔を作らないことで、言葉だけを前に出す。
「しかし王が背を向ければ、この国の民は飢え、略奪が横行し、紅月国に併呑される。あなたが拒むことは、千の死を選ぶことに等しい」
千という数は、算の講師が並べた数字の列よりずっと重い。千を千として受け取るには、目に千人の顔が必要だ。目に千は入らない。入らないから、数は軽くなる。その軽さが卑怯だった。
沈黙。
遥は胸の奥で疼く罪悪感を振り払うように視線を落とし、別の古記録を開いた。紙は薄い。薄い紙に、王が死んだ年と、地が荒れた年が並んでいる。王が病めば土壌も枯れる理。王が死ねば獣が増える因果。王が幼すぎて徳が満ちないとき、井戸が浅くなり、風の道に塵が溜まる。――年代記は無慈悲で、無慈悲であることが、どこか科学の教科書に似ていた。
「そんな理屈、納得できるか」
呟く。呟きは、紙の上ではねて、部屋の白い石に吸われた。
扉が軽く鳴った。藍珠が入る。白衣の裾を軽く払って、静かに膝をつく。彼女の眼差しはいつも通り冷たいが、冷たさが刃になっていないのは、彼女の呼吸が一定だからだ。
「王。城下の憲兵が市門で盗賊を捕えました」
言葉は短く、報告だけが前に置かれる。
「元は民の若者。家族が飢え、井戸が干上がったと供述しています」
喉が鳴った。
市場で出会った老婆の眼と、小さな骨のような手が、裏から光を当てたように鮮やかに蘇る。橋のたもとで手を合わせた女の細い手首。門の紙片を受け取る商の硬い指。井戸の縁に貼り付いた白い欠片。目を逸らせば楽になれる――が、胸の痛みは消えない。痛みは、逃げる方向を向いたときだけ熱を増す。
遥は巻を閉じた。閉じて、手を置いた。指先が震える。震えは恥ではない。震えは、身体が重みを量り直しているだけだ。
楓麟は卓の端におかれた粟の備蓄台帳を指さした。
「戻しは一日だけでも効いた。市は薄いが、湯気の白は昨日より太い。だが倉は減る。橋は増えたが、釘は足りなくなる。井戸は深くなったが、桶の底板が足りない。門は開けたが、石畳の補修は追いつかない。――決めることが、明日の重みを変える。王」
王、と言われたときだけ、天印がわずかに熱を持つ。呼ばれた名に身体が反応するのは、悔しいほど素直だ。
遥は立ち上がろうとしたが、膝に乗っていた重さが遅れてついてきて、椅子がわずかに鳴いた。鳴いた音が小さな恥になり、恥がまた重さを足す。
「……俺は」
言葉は、くぐもった灯の光のように、机の角にひとつ置かれて止まった。
その夜、遥は回廊をひとり歩いた。
月光が白い床石に斑を落とし、風が廊下の旗を鳴らす。鈴は鳴らない高さで風が通り、影は角で折れてまた延びる。石の冷たさは足裏から上がってきて、骨の近くで薄く残る。
庭の小さな芽は、夜でもわかるくらい、昨日よりわずかに背を伸ばしていた。露は少ない。風府の紐がどこかで鳴って、誰かが少しだけ風の向きを変えたのだろう。
遥は胸の内で繰り返す。「帰りたい」。言葉は重い。重いのに、喉の上まで来ると軽くなる。軽くなった言葉は、自分を侮辱するように感じられる。
「だけど……俺が帰ったら、この国はどうなる?」
自分に問い、自分で答えられない。答えられないから足が止まる。止まった足の裏に、石の目地が触れる。目地は細い。細い隙間は、指先のささくれに似ている。似ているのに、違う。目地は動かない。ささくれは、剥がれる。
回廊の角で、気配が動いた。楓麟だ。鈍い影と、見えない風の層の変化でわかる。彼は音を立てずに近づいてきて、背後で短く口を開いた。
「王。明朝、飢饉の村へ行脚を」
反射で口が動いた。「政務は君が――」
言いかけた言葉は、自分の耳に届くより先に、風に当たって砕けた。砕けた破片が額の布に当たり、天印がふっと熱を持つ。熱は痛みではない。逃げると強くなる熱だ。
ほんの僅か、ためらいの間に風が吹き抜ける。吹き抜けた風は、持っていくのではなく、置いていく。胸の中に、返事の形をした小さな重りを。
「……行く。俺が見る」
かすれ声は、石の壁に跳ねず、足もとに沈んだ。沈んだ声は、消えなかった。
楓麟はうなずいた。
「明け六つに門前。藍珠が伴う。長風は井戸の側で待つ。巫は小堂で短い歌を用意する。紅月の使の返書は三日のうちに整う。今日、返すものはない。――見たあとで、言えばよい」
見たあとで。
楓麟はいつも、見ることを前に置く。見ることは働きの一部だ。誰かから聞いたことではなく、自分の目で見たことを、一度だけ体に通してから言え。彼の言葉の骨はいつも同じ場所にある。
部屋に戻り、灯を落とす。暗闇に目を慣らしながら、拳を握る。握った拳は昨日より少しだけ赤い。壁は叩かなかった。叩かないことが、今日の自分の唯一の武装だった。
帰郷の願いは消えない。消えないのに、形が少し変わった。輪郭が固く、中心が柔らかくなった。
「見る」と言った以上、背を向ける理由はひとつ減った。
矛盾の中、彼の歩みがわずかに前へ動き出す。動き出すというより、足の裏が石の目地の上で居場所を見つける。居場所が少しだけ厚くなる。厚くなったところへ、眠りが薄く降りてくる。
◇
明け六つ前。
空はまだ白くもなく、黒くもなく、青い気配だけが石の角に残っていた。巫が短い歌を持って回廊を渡る。歌は言葉にならない。ならないままに、朝の空気の端を整える。藍珠は白衣の裾を収め、腰に刀ではなく細い縄を二巻き下げていた。行脚は戦ではない。必要なのは結び目の数だ。
門前で、楓麟が短く言葉を置く。
「北東、二里。丘を越えた先の谷。名は沙子の村。粟は五日前に尽きた。水は、昨日の夕刻で途切れた。風府の札が二枚、剥がれている。――見よ。命じよ。戻せ」
戻せ、という言い方に、遥は小さく反応した。辞典の頁の並びが頭に浮かぶ。「戻る」と「戻す」。戻すは、奪われたものを元へ返す。戻るは、自分が元の場所へ帰る。どちらも、同じ紙の上に並んでいるのに、手触りが違う。
楓麟はそれ以上言わず、一歩下がる。目は浅い灰で、耳の毛は寝たままだ。
門が開き、朝の冷えが、石ではなく土の匂いで鼻を刺す。土の匂いは空腹の匂いと似ていて違う。似ているのは湿りが少ないところで、違うのは、湿りの身の寄せ合い方だ。空腹の湿りは内側から、土の湿りは下から上へ。
藍珠の先導で、道を行く。護衛は二。多くはない。多ければ目が増え、目が増えればでたらめが増える。
丘をひとつ越える。道の割れ目が大きくなっていて、荷車の車輪では越えられない。越えられないということが、数字ではなく目でわかる。橋は遠い。ここに橋は要らない。要るのは土を固める手だ。
谷に入る。沙子の村は、ひしゃげた箱のようだった。屋根の藁は色を失い、壁の土は剥がれ、戸は軋んで、井戸の縁は乾いて白い粉がふいている。人の姿は少ない。少ないのに、視線は多い。視線は、戸の隙間、塀の影、窓の内側から伸びる。
藍珠は足を止めず、井戸へ向かう。長風の若い者がすでに立っていて、札を貼り替えようとしていた。灰の衣に細い手。彼は礼をし、状況を短く述べる。
「井戸の底の板が割れ、枠の石がひとつ、傾いています。札は風の向きを少し変える。桶の紐は今夜までは持つ。――水は、もう一杯分も上がらないでしょう」
藍珠は頷き、縄を解いた。
「王。人手は借ります。井戸の枠に手を入れるには、四方で支える者がいる」
遥は頷き、村の入口に立つ若者へ声をかける。声の出し方は、昨日の市場で学んだ。高くしない。短く切らない。命令を恐れない。
「手を貸してくれ」
若者の目は、薄い。薄いが、恐れだけではない。疑いと期待が同じ薄さで重なっている。彼は頷き、三人を呼んだ。
井戸の縁に、手が伸びる。縄が走る。石が鳴る。鳴りは低い。低い音は、胸に落ちる。胸に落ちた音が、足の裏に降り、力の入れ方を変える。
藍珠の指示は短い。「左」「押す」「止める」「いま」。短い言葉が、動く身体を直接動かす。身体は言葉の意味を待たない。意味を待たずに動くことは、いつかの体育館の号令に似ている。似ているから、体が思い出す。
石がわずかに戻る。板が仮に当てられる。長風の札が一枚、風の筋に合わせて貼られる。貼られた瞬間、空気がかすかに変わった。鈴の鳴らない高さで、風が通る。通った風の先で、井戸の暗さが一段だけ柔らかくなった。
桶が降りる。紐が鳴る。底に触れた感触のあと、引き上げる。音は軽い。軽い音は、水が少ないということだ。少ない水は、音を持たない。持たない音を、人は想像で補う。想像は、渇きを悪化させる。
村の女が、皿を持って立っていた。皿は薄い。薄い皿は、割れやすい。女の唇は乾いて、言葉は小さい。
「王」
昨日までこの呼び名に、胸の内側が逆立っていた。今日は、逆立ちが丸くなった。丸くなっただけだ。軽くはなっていない。
「米は、いつ」
遥は答えを持っていなかった。持っていないことがわかったとき、藍珠の視線が短く刺さる。刺さりは責めではない。「見よ」の合図だ。
井戸の脇で、楓麟の言った三つが頭に並ぶ。「時間を買う」「条件を返す」「小さく命じる」。
「今日の戻しを、ここにも入れる」
遥は言った。
「門の紙片は、村の入り口で受け取れるようにする。二日分。――明日、粟がひとつ届く。今日だけ、倉から出す。戻しは、倉に返す」
言いながら、心の中で算の講師の声が重なる。倉の在庫。道の破れ。橋の修繕。戻しの分はどこから。井戸はもう一杯。門は昼まで。――足りない。足りないのに、言う。言った言葉は、石をひとつ穴に入れることだ。穴は消えないが、足は取られにくくなる。
村の端で、憲兵に見張られていた若者がいた。縄は太くない。太くないのは、逃げないと見ているからだ。若者は顔を上げ、遥を見た。
「俺は盗った。家に、幼い弟がいる。泣いても、水がない。井戸は白い粉を吹いていて――」
遥の喉がひとつ鳴った。昨日、藍珠が伝えた報告が目の前の口から出てくる。報告は、数字と同じくらい正確だった。正確なのに、現れているのは数字ではなく頬のやせた線だ。
「……戻す」
遥は言った。
「盗ったものは戻す。――戻せないなら、戻すための働きに手を出せ。橋に、縄を張れ。井戸に、板を当てろ。門で、紙片を書け」
言いながら、自分の声が石に吸われず、土に沈んでいくのを感じた。沈むことは、消えることではない。沈んだ言葉は、乾いた土の下で少しだけ湿る。湿れば、根が伸びるかもしれない。
藍珠が短く顎を引いた。楓麟はいない。いないけれど、耳の毛が寝ている顔が浮かぶ。「見よ」。見たあとで言え。――その順番は守られた。
長風の若い者が、札をもう一枚貼った。
「王。今夜は、もう一杯、深くできます」
言葉は小さい。小さいが、胸に入ったときだけ音がする。音は、うっすら甘い。焼いた穀の香りに似ている。
戻る道は、来たときより短かった。短く感じたのは、話すべき言葉がすでに胸の内に並んでいたからだ。
門に着くと、楓麟がいた。聞かずに、見た目だけで状況を読む顔。
「見たか」
「見た」
「言うべきことがあるか」
「ある」
遥は短く報告した。井戸の板。札。戻しの紙片。若者の縄。橋に張る縄。門の列。――言葉は石だ。数と位置を確かめる。
楓麟は頷いた。
「返書は、明日。紅月の使の宿に、今日の戻しの紙片が入る。見る目を増やせ。目は腹が半分だけ満たされている。半分空いている目は、まだ正しく見られる」
藍珠は何も言わない。言わないかわりに、目だけが「立て」と言う。今日何度目の「立て」だろう。立てと言われるたび、膝の上に乗る重さの形が少しずつ変わる。変わっても、重さは減らない。減らないけれど、持ち方はうまくなる。
◇
部屋へ戻ると、書巻の山は朝のままの角度で卓の上にいた。紙の匂いは弱くなり、インクの線の灰は昼の間にさらに薄れたように見える。
遥は巻の端に指を置き、朝の頁を開く。風門。門記。裂。天縫。――意味は増えない。増えないが、読む目は朝とは違う場所に立っていた。
「風門は、天の気まぐれ」
楓麟の言葉が、辞典の余白のように狭いところに書き込まれる。
「戻す」「戻る」――並びは変わらない。
紙片を取り、筆を取る。字は下手だ。下手な字は紙の上で恥を晒す。晒す恥は薄い。薄いから、折れない。
『沙子の井戸、今夜一杯。明朝また一。戻し二日分、門で渡す。橋の縄を張る者、三人。――白風国王 水城遥』
名を添える。今日の名は、紙の上で、朝より少しまっすぐだ。
扉が軽く鳴き、侍従が盆に茶を載せて入る。薄い湯気。湯気の白は昨日より太い。侍従は盆を置くと、少し躊躇して言った。
「……王。王朝記録庫の典籍官より。風門の記述を集めた巻が、南の棚の奥から新たに見つかったとのこと。『風門断簡』。欠けているところが多いそうですが」
遥は息を飲み、立ち上がりかけて、座り直した。
「持ってこさせて」
言いながら、胸の中が二つの方向へ引かれるのを感じる。ひとつは、紙の向こう。ひとつは、土の向こう。
侍従が下がり、静けさが戻る。遥は湯気に顔を寄せ、熱を鼻で受け、目を細めた。鼻の内側に甘い匂いが薄く残る。甘さは、倉から出る粟の香りに似ている。
夕刻、高殿へ呼ばれた。紅月の使の宿の灯は、まだ赤い。明日までは、この城に紅の影が残る。
楓麟は返書の骨を整え、藍珠は目線で端を押さえ、長風は紐の鳴らない高さを撫で、巫は短い歌を一節だけ置いていく。
「王」
楓麟は言った。
「今日、見たものの匂いが、明日の言葉の高さを決める。高くするな。低くするな。――戻せ」
戻せ、という言葉が今日二度目の印を押す。
遥はうなずき、額の布を押さえた。天印は痛くない。痛くないが、温かい。温かさは罰ではない。罰に似せた印の、別の側だ。
「帰りたい」
胸の奥で繰り返す。繰り返しながら、目の裏に今日の井戸の暗さが残る。暗さは、恐怖ではない。深さだ。深さに板を当てることを覚えた。板を当てることを覚えれば、暗さは、少しだけ水の集まる場所になる。
夜更け。
部屋に戻り、灯を落とす。暗闇に目を慣らし、拳を握る。拳の中指の節に小さなささくれがあり、そこが痛む。痛みは、現実を引き戻すための釘に似ている。
帰郷の願いは、消えない。
消えないまま、明日の井戸の板、橋の縄、門の紙片、紅月の返書、風門の断簡が、胸の中で同じ重さでは並ばない。並ばないことに、ようやく、わずかな安堵が混じる。重さを同じにしなくていい。順番をつけていい。
「見る」と言った以上、背を向ける理由はひとつ減った。
減った分だけ、足を出す場所がひとつ増えた。
増えた場所へ、足を置く。置いた足の裏が、石の目地の上で、今日より少しだけ確かになる。
その確かさの上で、眠りは浅く降り、風は鈴の鳴らない高さで、額の上を通っていった。
薄い門の向こうに、引き戸の指掛けが、またわずかに形を変えて見える。触れない。触れないのに、指の腹は木の温かさを覚える。覚えは罰ではない。
明日の印だ。