第6話 隣国からの使者
朝の鈴は、風の高さをひとつ上げて鳴った。
昨日までの高さに比べれば、ほんの指の腹ほどの違いだが、耳の内側で触れるところが変わる。目を開く前に、石の部屋の空気が、遠い砂の匂いをわずかに含んだのがわかった。杯の水は冷たく、喉に落ちる音は角の取れた四角で、額の布の結び目は、昨夜のまま指が覚えている場所にあった。
橋は二本になった。
そのことを、庭の小さな芽に話しかけるように心の中で繰り返す。橋は二本になり、荷車は今日、列を長くして通る。井戸は、風府の者の指が桶の紐を撫で、板が一枚、替えられた。門は、昼の間だけ北が開き、紙片に濃い墨の字が増えた。昨日選んだ三つは、今日の自分の足裏に少しだけ柔らかさをくれる。柔らかさは、油断ではない。呼吸を整える程度の柔らかさだ。
戸を叩く音は、藍珠の合図より少し高かった。侍臣の指だ。
「王。高殿へ。――紅月国の使が参りました」
紅――と聞いただけで、部屋の白がわずかに色を帯びた気がした。紅月。黒梁とは別の隣国。名は聞いたことがある。風府の紐に、その名が触れて鈴が薄く鳴った日があった。黒梁の斥候が浅瀬を探っていると楓麟が言ったのと、別の方向。南東。絹の産地。赤い染め。月を紋に持つ。そんな断片が、算の講師の薄い声で頭の中に浮かぶ。
藍珠が現れ、白衣の裾を払った。彼女の顔にはいつもの冷たさがあった。冷たさは、今日の風の高さと合う。
「行く」
言葉はそれだけ。彼女の肩は広がらない。無駄な動きがない。動きがないのに、空気が彼女の前を自分から開ける。
高殿は、朝の光を縁取っていた。白い大理石の柱が並び、欄間から乾いた風が差し込む。床は薄く磨かれていて、歩くと音が薄く返る。遠く、砂の屋根が重なり、その向こうは白茶けてぼやける。見晴らしは良いのに、遠い。外が絵になる高さとは、こういう高さだ。
楓麟は柱の陰で立っていた。彼の耳の毛は寝ている。寝ているのに、油断の形ではない。風の向きを見ている毛だ。目は浅い灰で、今日の言葉の硬さを見積もっている。長風もいた。彼女は紐を一本、指で弾き、鳴りの高さを確かめる。巫は姿がない。祈りの場は戦の場ではないのだと、以前彼女は言っていた。
典礼の役が短く声を張った。
「――紅月国、大使、黄焔殿下の代使・紫苑をお迎えする」
音が、殿の奥から流れた。鼓は低く、笛は細い。石の床に薄い布が敷かれ、紅の影が滑る。現れたのは、ふたりの従者に先導された男だった。衣は豪奢だが、厚みよりも艶で示す種類の豪奢で、深い紅が薄く重ねられている。袖口、襟、裾に満ちる刺繍は月の弧を繰り返し、金糸は少なめで、代わりに黒の細い糸が緯のように走っている。腰に下がる印章の玉には赤い蝋が固まって垂れ、印面に刻まれた月の紋は欠けていない。指は長く、爪は磨かれている。髭は短い。目は細く、笑っている。笑っていない。笑っているふりをして、見ている。
使者は歩を止め、ほんの形だけ礼を取った。深くはない。深くない礼は、この場での挨拶ではなく、相手の高さを測っている仕草だ。
紫苑はすぐに顔を上げ、玉座の上の遥を見た。目は細いままで、唇の片端だけが上がる。
「これが新王か。随分と頼りない」
言葉は柔らかく張られた綱の上を歩くように落とされ、落ちた先で音を立てずに広がっていく。広間にいた官吏のひとりが、口元をかすかに動かした。笑いか、ため息か。楓麟は目を細めもしない。細めたのは彼ではなく、風だ。欄間の外の風がひとつ高さを下げ、鈴の鳴らない高さで殿の内部を一巡した。
紫苑の従者が前へ出、黒漆の箱を両手で捧げ、楓麟の側へ持ってくる。楓麟は受け取らない。受け取ったのは典礼官で、箱は机の上に置かれ、黒い紐がほどかれ、蓋が開く。中から文書が現れた。巻紙。紅の紐。蝋。楓麟は目で合図し、文書は開かれ、文は広間の空気に晒された。
「白風国を紅月国の庇護下に置く――」
読み上げる声が、誰のものであったか、遥にはわからない。乾いた声だった。漢字の連なりは、教室の黒板を思い出させるほど整っていて、整っていることが逆に意味の重さを増す。庇護。庇う。護る。庇と護。それは安心の言葉のふりをする。実際には、庇の下へ入れ、護りの形で動きを止める。
官吏たちは揺れた。目に見える揺れではない。袖がわずかに触れ合う音の高さで伝わる揺れだ。
「……受け入れるべきだ」
「戦を避けられる」
「食が尽きれば、剣は鈍る。庇護のもとで冬を越し」
「名目だけでも」
声はひそやかで、ひそやかさが危うい。囁きは、多くの耳に触れないつもりでいるときほど、よく届く。
楓麟は一歩、前へ出た。足音は作らない。作らないまま、彼は空気を押し出す。耳の毛は立たない。立たないままで、彼の言葉のための風の層が整う。
「拒む」
短い。
「庇護の名を借りた併呑に過ぎぬ。我らが従えば、白風国は地図から消える」
紫苑が笑った。今度は、笑っている。笑いは薄い。薄い笑いは、広間の高みに届かない。届かない笑いが、足もとで止まり、石の目地に染みる。
「宰相殿。地図に名を残すことが、腹を満たすのですかな」
彼は視線を滑らせ、遥に向ける。
「新王。あなたの名は、まだ軽い。軽い名は風に攫われやすい。攫われないよう、重りをつけるのが庇護というものだ。子は親の庇の下で育つ。国もまた」
言い回しはたやすく、たやすさが怖い。たやすい言葉は、耳に入るのが速い。速く入った言葉は、骨に届く前に反射する。その反射が、他人の声のように自分の口から出そうになる。
遥は、手のひらに汗がにじむのを感じた。玉座は硬い。背は高い。座面は身体の形を知らない。玉座に座らされるたび、身体のどこかが自分の重さを訴える。訴えは声にならない。代わりに、額の布の下の紋が、今日のような場では、薄く熱を持つ。逃げるな――と、知らない声が骨の隙間で囁く。
楓麟は、紫苑に目を向けず、文書に目を落とし、ひとつの行を指でなぞった。
「この文、紅月の言葉で書かれている。翻に任せればいくらでも書き換えられよう。白風国は紅月国の庇護のもと、税を十のうち三、紅月へ寄せる。兵は白風の地に駐し、風の門は紅月の印でのみ開く。――勝手に書く。勝手な文は、風の理に馴染まぬ」
風の理。紅月には風の理がない――楓麟は以前、そう言った。紅月は、水の道を好む。河を運び、布を染める。風を整えるのではなく、風を遮る。遮られた風は、出口を求めて別の場所で渦を巻く。
「王のお考えを」
誰が言ったのか、遥にはわからなかった。言葉は、多くの口のひとつから出て、広間の空気に浮かび、玉座の前で止まる。止まった言葉は、重い。重さは、持たなければならない重さだ。
藍珠が、玉座の横で僅かに体重を移す。彼女は助けない。助けることはできない。助けるという行為が、この場では王を弱く見せると知っているからだ。
長風は目を伏せ、風府の紐の鳴らぬ高さを確かめるように呼吸を整える。
楓麟は、視線を遥へ送る。浅い灰の目が、王の真名の側を見ている。王としての名ではなく、遥という名前のほうを。
「戦争なんて、嫌だ」
遥の胸の中で言葉が生まれた。日本の校庭で、戦争の写真を見たときに感じた言葉と同じ形だ。誰かが殴られ、誰かが血を流し、誰かが泣き、誰かが叫ぶ。嫌だ。嫌なものは、遠ざければいい。遠ざければ、ここに来ない。
「でも、国を売るのも、嫌だ」
もうひとつの言葉が出る。売る。売られる。売られた後に、名が残らない。地図から消える。消えることは、ここにいる人たちの暮らしが、なかったことになるということだ。市場の老婆の杖の黒さ。橋を渡った荷車の軽い音。井戸の紐のささくれ。どれも、なかったことにはならない。
この二つの「嫌だ」が胸でぶつかり、渦を作り、渦は言葉を壊した。壊れて、口から出たのは、空っぽの音に近いものだった。
「……俺には、わからない。勝手に、決めてくれ」
広間の空気が、凍りついた。
凍りつく、という表現は便利だが、今日の凍りつきは、湿度を持たない。水が凍るときのような白さも、針のような細さもない。ただ、音がすべて、床の上で動かなくなった。動かない音は、耳の内側で重くのしかかる。官吏の目は一斉に沈み、兵の列に目に見えぬ波が走る。波は崩れない。崩れないが、底の砂が動く。
楓麟は目を閉じ、短く、低く言った。
「王よ、決断は他者に委ねられぬ。逃げ続ければ、国は崩れる」
紫苑は肩をすくめ、笑いの形で息を吐いた。
「この国に、未来はないな」
言い残して、彼は踵を返した。従者が黒漆の箱を閉じ、紅の影が薄く引いていく。鼓は鳴らない。笛も鳴らない。彼らが去ったあとの高殿には、風が一段高く鳴り、鈴は鳴らないままに、欄間の向こうの空の白さだけが広がった。
重い沈黙。
誰も、咎める言葉を口にしなかった。咎める言葉は、王を軽くする。軽くすると、風が余計に攫う。彼らは知っている。代わりに、静かな目だけが遥を通り抜け、背の向こう側で、石の壁に薄い跡を残した。跡は消えない。消えない跡は、夜になってから目に見えるように浮くものだ。
その予感を抱えたまま、遥は高殿を辞した。足の裏に石の硬さが戻る。玉座の段から下りたときの硬さではない。今日の硬さは、石がこちらの体重を測っているときの硬さだ。測られている。測られることに、意味はある。意味を持たせるのは、こちらの側の働きだ。
部屋に戻るまで、藍珠は何も言わなかった。回廊の角で、彼女は一度だけ歩みを止めた。止める前も止めた後も、呼吸は同じ速度だ。
「……立てるか」
言葉は短いのに、落ちない。落ちずに、胸の高さに居座る。
「立つ」
言った瞬間、額の布の下で、紋が薄く熱を持った。痛みはない。熱が、逃げる方向へ伸びた足首を一度だけ、見えない糸で締めた。
扉が閉まり、閂が降りた。石の部屋は静かだ。静かすぎて、外の風の高さが耳に触れない。
拳を握る。壁は近い。叩けば、手は痛む。痛みに頼るな――と、誰の声でもなく、自分の中のどこかが囁く。頼れば、痛みは薄くなる。薄くなった痛みは、怒りを連れてくる。怒りは、誰かに向かう。向けてはいけない。
遥は、壁を叩かなかった。代わりに、机の角に両手を置き、呼吸の数を数えた。
一。二。三。四。
楓麟の言葉が、呼吸の間に滑り込んでくる。「決断は他者に委ねられぬ」。
一。二。三。四。
紫苑の声が、呼吸の端で鼻をくすぐる。「頼りない」。
一。二。三。四。
市場の老婆の手の震えが、指先の内側で再現される。
一。二。三。四。
橋の木の匂い。井戸の紐のささくれ。門の紙片。
一。二。三。四。
「俺にはわからない。勝手に決めてくれ」――自分の声。
その言葉に、額の布の下の紋が熱を持った。熱は、逃げると強くなる。昨夜の扉の前で、閂に触れた指を止めたのと同じ種類の熱だ。
扉の外で、気配が動いた。藍珠ではない軽さ。侍臣の足。
「王。宰相さまより」
紙片が差し入れられる。薄い。楓麟の筆は、いつもと同じ癖で、余白の取り方に容赦がない。
『王へ。紅月の使は明日も城に泊まる。返書を求めるはずだ。
今日、言えなかった三つを、明日、言え。
――時間を買う言葉
――条件を返す言葉
――沈黙の代わりに小さく命じる言葉』
紙片の下部には、それぞれの言葉の形が、例のように短く添えられていた。
『時間を買う――「文の語は翻に誤りがないか。巫の暦と照らす必要がある。三日待て」
条件を返す――「庇護を言うなら、税は一年、白風の倉に預けよ。兵は十を越えるまじ。風の門は白風印で開くべし」
小さく命じる――「橋と門の整えを見よ。紅月の商へ、今日の戻しを示す紙片を渡せ」』
読むだけで、喉の奥の乾きが落ち着いた。
時間を買う――時間は、命の延長ではない。整えの余白だ。
条件を返す――返せば、相手は一段、こちらに寄る。寄れなければ、笑いは高くなる。高くなった笑いは、長く持たない。
小さく命じる――沈黙は、穴だ。穴に小さな石を入れておけ。穴は消えないが、足を取られにくくなる。
紙片を折り、枕の下に入れた。硬さが頭の裏に触れ、夢の角度を変える。
それでも、夜は長かった。
眠りの端で、紫苑の薄い笑いが繰り返し現れ、消える。市場のざわめきが、別の高さで重なる。「王」「救えるものか」。誰も、あの場で泣かなかった。泣かないことが、この国の強さだ。強さは薄い。薄い強さは、折れない。折れない薄さの上で、王であることの重さが滑る。滑らせないために、どこに指を置くか。
額の布の下の紋は、眠りの間じゅう、淡く光り続けた。光は、罰ではない。罰に似せた、印だ。印は、朝になれば、別の言葉の上に置かれる。
朝の鈴は、昨日と同じ高さで鳴った。
粥は薄い。薄いのに、湯気の白はいつもより太い。市場の戻しが一日だけでも働いたのかもしれない。楓麟が来て、藍珠が並び、長風が少し遅れて入った。巫は小さな堂から短い歌を持って来る。歌は言葉にならない。ならないままに、今日の空気の端を淡く整える。
楓麟は紙を広げ、筆を置いた。
「王。返す言葉を、王の口で」
高殿。
紅の影がふたたび滑る。紫苑は笑っている。笑っていない。笑っているふりをして、見ている。
今日は、遥は玉座に座ったが、背を預けない。背を預けると、椅子がこちらの形を覚えようとしない。覚えようのない硬さが、こちらの骨を痛める。ならば、背を預けない。脚の裏で床を掴む。
典礼官が言い、鼓が低く鳴る。
紫苑は礼を浅く取り、顔を上げる。
「新王。昨夜はお疲れであったか」
言い方はたやすい。たやすさは侮りの刃を包む紙だ。
遥は、楓麟の紙片の三つの行を胸の裏に置き直す。
「紅月の文――翻に誤りがないか、巫の暦と照らす必要がある。三日、待て」
言葉は、昨日の「わからない」と違って、空気の真ん中に留まった。留まると、風はその周りを避ける。避けた風が、別の高さで鳴る。
紫苑の目が、わずかに細くなった。
「暦。風。……白風は詩を好むな」
軽口。その軽さに、楓麟は反応しない。長風の指が紐の上をひと撫でした。鳴らない高さを確認する撫でだ。
遥は続ける。
「庇護を言うなら、税は一年、白風の倉に預けよ。兵は十を越えるまじ。風の門は白風の印でのみ開く」
広間の空気のどこかで、軽く舌打ちの音がした。誰のでもない。石の目地が音をたてたのかもしれない。
紫苑は唇を少しだけ尖らせ、笑った。笑いは短い。短い笑いは、音を持たず、空気の下に沈む。
遥は最後に、穴に小さな石を入れた。
「紅月の商に、昨日の戻しを示す紙片を渡す。今日の市で使え」
紫苑の目の底に、薄い色が過った。軽蔑ではない。計算の色だ。彼は肩をすくめ、両手を広げる。
「三日だ。三日のうちに、空は変わるか」
「変わる」
楓麟が答えた。答えは短い。短いのに、広間の四隅に落ちる。
紫苑はうなずき、身を引いた。紅の影は、昨日ほど薄くない。薄くないのに、軽い。軽さは、重りをどこかに置いていったからだ。重りは、言葉の中にある。言葉は、昼の間、門の紙片の文字に混ざり、市場の棚に置かれ、井戸の縁に小さく刻まれる。
使者が退いたあと、楓麟は遥のほうを見た。目は浅い灰で、耳の毛は寝ている。
「昨日の穴に、石を入れた。石は小さい。小さいが、足は取られにくくなった」
藍珠は頷かない。頷かないかわりに、視線で「立て」と言った。立て。立ったまま、見ていろ。見ることは、王の仕事だ。
長風は紐を撫で、言った。
「風府の記録が、東から少し、軽くなりました。紅月の文に触れた風は、石の上を滑り、まだ地気に深くは入っていない」
巫が後ろから入り、短い歌をひと節だけ置いていく。歌は、祈りではない。乱れに知らせるための音だ。
遥は、自室に戻ってから、壁を叩かずに、机の角に手を置いた。
昨日の自分は、ここで壁を叩いた。今日の自分は、叩かない。叩かないことで、何かが変わるわけではないのに、変えたいという気持ちの方向だけが、わずかに定まる。
額の布の下の紋は、今日は、痛みを持たない。持たないまま、薄く温かい。温かさは、罰ではない。罰に似せた印の、別の側だ。
窓の外から、石畳を車輪が渡る音が聞こえた。軽い。軽い音は、昨日の昼の夢の中で聞いた高さに近い。市場のざわめきは薄いが、薄いまま、別の高さで重なる。
老婆は、杖を抱いているだろうか。孫は、今日、ほんの少しだけ強い粥を口にできただろうか。橋を渡った男は、明日も戻れるだろうか。井戸の板は、もう一枚、替えられるだろうか。門の紙片は、今日一日で何枚、籠の底にたたまれるだろうか。紅月の商は、戻しを使うだろうか。使えば、何を仕入れるだろうか。
ひとつひとつの問いが、昨日よりゆっくりと胸の中の風を整える。整った風の筋は増えない。増やすのは行いだ。けれど、筋を乱さないこともまた、行いの一部だ。
夜、灯を落とす前、遥は紙を広げ、筆を取った。字は下手だ。下手な字は、紙の上で恥を晒す。晒す恥は、薄い。薄い恥は、折れない。
『三日、待て。紅月の月は欠けも満ちもする。白風の風は、整えれば通る。――白風国王 水城遥』
真名を添える。王の名と並べる。二つの名が、紙の上で隣り合う。並べられた名は、重い。重いが、持てる。持つ。
蝋は使わない。蝋の代わりに、紙の端に風府の小さな札を重ね、長風に託す。札は鈴の鳴らない高さで、紙の角を押さえる。
灯を落とし、寝台に横たわる。
昨日、紫苑が言った「頼りない」が、石の目地から剥がれ、天井の白い板の裏に移動した気がした。移動する言葉は、いずれ薄くなって消える。消える前に、こちらが別の言葉で上書きすればいい。
「わからない。勝手に決めてくれ」――あの言葉だけは、もう二度と口にしない。
決められないときに言うべき言葉は、今日、楓麟の紙片で知った。時間を買う。条件を返す。小さく命じる。
それでも、帰りたい。
帰りたいという言葉は、今日も胸にある。あるが、位置が変わった。喉の上ではない。腹の少し上。位置が変われば、呼吸が変わる。呼吸が変われば、声の高さが変わる。声の高さが変われば、風の通り道が変わる。
風が通る。通った風の先で、薄い門が、また形をわずかに変える。
引き戸の指掛けは、まだ遠い。遠いのに、指の腹は、その木の温かさを、薄く覚えている。覚えは、罰ではない。
明日の印だ。