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第5話 民の声

 朝の鈴は、昨夜より少しだけ早く鳴った。

 眠りの端を手でつままれたように意識が引き上げられ、瞼の裏に薄い黄がひと筋差し込む。石の部屋の空気は夜の冷えを少しだけ手放し、杯に移した水は舌の上で角を丸くした。額の布を結び直す指は、結び目の位置を覚え始めている。覚え始めること自体が、どこか悔しかった。覚えたくないことを身体が先に覚える。覚えたことを忘れられない。


 扉の外で、短く二度、木の鳴る音。藍珠の合図より軽い。侍臣の指だ。

「王。宰相さまよりお言葉。――城下に出よ。民を見よ」

 楓麟の文字を写した紙片が盆に載っている。細い線は癖がなく、読む者の骨に入る余地を与えない。

 民を見よ。

 命令は短いのに、長い。短さが長さを呼ぶ。見たことは背負う。見ないことは、楽だ。楽なことは、長風の言う「怠惰」の側に置かれる。

 藍珠はほどなく現れた。白衣の裾を一度払って、部屋の中の風の向きを読む。

「行く」

 彼女はそれだけを言う。付け足す言葉はない。

 遥はうなずき、額の布に指を当てた。布の下の紋は、今朝は静かだ。静かであることが、逆に落ち着かない。


 王宮の広い階段を下り、門前の広場へ出る。まだ日が斜めで、石畳は薄い光を返し、影は長い。衛士が三人、距離を置いてつく。多くはない。多くなければ不安だが、多ければ鎖になる。楓麟の配慮だろう。

 門を抜けると、風は石の匂いを薄め、土の匂いを運んできた。匂いの下には乾いた音がある。靴底が割れた道を擦る音、戸の軋む音、遠い井戸の桶の鎖の軋み。音は薄く、薄さのまま重なる。重なった音の合間を縫うように、人の声が途切れ途切れに伸びる。

 市場は、城門から少し離れたところに広がっていた。かつては布の庇と旗と声で色を持っていたのだろう広場が、いまは骨だけになっている。張られた布は色を失い、風に動くたびに透ける。並ぶものは少ない。干からびた根が細く並び、刃物の痕を残した白い木片が転がる。器と呼ぶには心許ない薄い椀。小さな車輪。粗末な櫛。

 米は見えない。布は見えない。肉は匂いすら残していない。


 遥の姿がひとつの影として市場に差し込んだ瞬間、ざわめきが風より先に広がった。

「あれが」

「新しい王だと」

「子どもじゃないか」

「子どもの顔だ」

「救えるものか」

 声は高くない。高くないのに、耳に刺さるのは、その高さがこの国の限界に融けているからだ。嘲りは笑いではない。笑いは乾きすぎて音を持たない。失望の声は湿りを持たない。湿りを持たないから、長く残る。


 藍珠は歩幅を変えない。白衣の裾は風を受け、彼女の肩は少しも縮まない。衛士のひとりが、群れの外側へ回り、小さな渦を故意に作り、渦に足を取られる者が出ないように流れを整える。流れが整うたび、嘲りの粒が行き場を失い、地面に落ちる。

 子どもがふたり、紐で繋いだ小さな車輪を引いて走り、遥の足の前で止まった。顔は痩せて、目は大きい。目は大きいが、光は浅い。

「王」

 言い方は練習したように整っているのに、声に体温がない。

 そのとき、群れの中からひとりの老婆が出てきた。背は折れ、杖は短い。杖の先は磨り減って黒く光り、手の皮膚は紙のように薄い。老婆は遥の前でよろめき、杖を落とし、震える手で彼の衣の裾に触れた。

「王よ」

 声は掠れているのに、言葉ははっきりしている。

「どうか、米をお恵みください。このままでは、孫が、孫が餓死してしまう」


 「餓死」という字面が、遥の胸の中心に冷たい穴を開けた。死には色々ある、と教科書の末尾は言うが、餓えの死の具体は、日本の生活では想像にしかならなかった。想像の薄膜は、目の前の老婆の指の震えひとつで簡単に破れる。破れて、直視が迫る。

 遥は言葉を探した。探す前に胸が詰まった。喉が狭くなり、言葉が通れる幅が消える。「……俺は」

 俺は、何だ。俺は王だと言われた。王であるなら――。

 財布は持っていない。持っていたとして、金がこの場で意味を持つかどうか。米は目の前にない。倉の鍵は王宮にある。鍵は名前で開くのではない。印と合図で開く。いま、ここには印も合図もない。

 藍珠が一歩、前に出た。老婆の手を乱暴でない力で外し、杖を拾って渡す。

「立っていろ」

 乾いた声。乾いているのに、濡れているものの扱いを知っている手。

 老婆は立てない。立てないまま、杖を抱く。

 衛士のひとりが、遥と老婆の間に体を入れた。押しのけたわけではない。押しのける前に、押しのけられたと見える距離を作る。距離は、声を弱くする。

 群れの中に再び声が立つ。

「ほら、見ろ。王は何もくれない」

「祈るだけでは腹は膨れない」

「祈りを教える巫は腹は膨れないと言ったぞ」

「ならどうする」

「王は、王は」

 指さす手が増えそうな気配を、衛士たちが目で押し止める。藍珠の視線が横から刺さる。刺さりは遥へではない。周りへ。周りの刺さりが彼女の周囲に小さな空白を作り、その空白が遥の立つ場所の輪郭を守る。


 遥は、老婆の手の震えを見たまま、何も言えなかった。言葉は裏切らないはずだった。教室では、言葉が言葉を支え、答えに届いた。いま言葉は、答えを遠ざける。

 「戻る」

 藍珠が低く言い、衛士に顎を動かす。彼らは即座に動き、渦を解き、細い流れを作る。細い流れに沿って、遥はただ歩いた。背中に「王」という音が何度も当たり、当たった音は、皮膚の表面で崩れずに骨の近くまで届く。届いて、そこから響く。響きは痛い。痛みは怒りに近い。怒りは、自分に向く。


 王宮の門に戻るまでの道の記憶は、ほとんど途切れている。石の光、風の高さ、子どもの車輪の音、老婆の杖の黒さ。断片が浮かび、繋がらないまま背骨に貼り付く。貼り付いたまま、広場に戻る。

 遥は、そのまま歩いて自室へ入った。扉を閉め、閂を下ろし、壁の前で手を握った。握った拳は、頼りない。頼りないと感じた次の瞬間、拳は壁に当たっていた。

 石は硬い。手は柔らかい。

 衝撃のあと、手の甲の皮が薄く裂け、浅い痛みがじわりと広がる。鈍い。鈍い痛みは、心の深いところの鋭い痛みを、ほんの少しだけ鈍らせる。

「帰りたい」

 言葉は、空気に落ちず、壁に吸われた。


 閂の外で気配が動いた。藍珠だ。合図もなく、扉は静かに開き、彼女は中に入ってきた。扉は閉じられる。彼女は遥の拳の赤さを見、顔に浮かんだものを見、首をほんのわずかだけ傾けた。

 叱る形ではない。憐れむ形でもない。状況を把握する形。

「民は、言葉ではなく行いでしか王を信じない」

 淡々と、彼女は言った。

「命じ、守り、与える。そうして初めて、王は王になる」

 命じ、守り、与える。三つの動詞は、どれも身体の動作を伴うことを要求する。遥は、反論を探した。探しながら、反論が見つかったとして、それが彼女に届く高さに載せられる言葉かどうか、自分でわかってしまう。

「……与えるって、どうやって。倉の鍵は、楓麟が持ってる」

「鍵はひとつだ。鍵の印は複数ある」

 藍珠は短く答える。

「王の印は、天印だけではない。命の印がある。――『今日、橋を直す』と命じた。橋は直った。今朝の粥の湯気は、昨日より薄くなかった。工の男は明日も力を出す。橋を渡る女は明日、井戸に一杯分多くの水を落とすだろう。落とした音は、目に届く。目に届いた音は、次の与えを呼ぶ」

 説明は、遠回りだが、円の描き方を教えている。

「今日、米を配れないなら、明日の米の入口を広げろ。道だ。橋だ。戸だ。――『与える』は『戻す』だ。奪われたものを、その場所に戻す」


 遥は唇を噛み、噛んだあとを舌でなぞった。血の味はしない。血の味はしないのに、口の中に鉄の薄い匂いが広がる気がする。

「俺は、ここにいるべきじゃない」

 声は小さかった。小さいのに、藍珠は聞こえないふりをしなかった。

「いまは、ここにいる。いる間に、三つ整えろ」

「三つ」

「橋。井戸。門。今日拾った声は三つだったな」

 彼女の記憶は、わずかも欠けない。

「命じろ。『橋は一本では足りない。明日、もう一本。井戸は東から風を通せ。門は北の側を昼の間だけ開けろ。荷車を通せ。代わりに、今日だけ税は一割、戻す』」

「戻す?」

「奪う側にも整えは必要だ。『戻す』と言えば、徴の手は少しだけ緩む。緩んだ手は、明日、握り直したときに、指の間の砂が落ちる。砂が落ちれば、底が見える」

 藍珠の比喩は、いつも物理だ。物理で、政治を語る。王のすることが空論ではなく作業であることを、骨で理解させるために。


 反論は出なかった。出せなかった。反論の形をした言葉は、今日の市場の空気には置けない。置けば滑る。滑れば、人が転ぶ。転べば、頭を打つ。

 遥は深く息を吸い、吐いた。呼吸は整いかけで、整い切らない。

「……わかった」

 言うと、藍珠はうなずいた。うなずきは小さい。小さくて、重い。

「宰相に言え。『命じる』と」


 楓麟は、高殿ではなく、風府の脇の小さな間で待っていた。白い石の机に紐が渡され、紙片がいくつか並んでいる。長風が同席し、彼は紐を軽く弾いては、鳴りを確かめている。

 遥が入ると、楓麟は目を上げた。耳の毛がわずかに立ち、彼の目の底の風がゆるく渦を作る。

「見たか」

「見た」

「聞いたか」

「聞いた」

「何を」

 楓麟の問いは、答えを持つことを要求する。

「橋。井戸。門。……米」

 最後の言葉は、言った瞬間、石の床に落ちる音がした。拾えない。拾おうとすれば、指の腹がすり減る。

 楓麟はうなずいた。

「命じよ」

 遥は口を開いた。

「橋を、もう一本。明日。工の男たちに……」

「任せるだけでは足りぬ。材はどこから。釘は。縄は」

「材は……西の森から。先月、伐り出しが止まっていると算の講師が言っていた。止まっている理由は――」

 口が詰まる。楓麟はため息をつかない。ため息の代わりに、指で紐を弾いた。

「護りが足りぬからだ。盗賊が道を塞ぐ。……藍珠」

「行く」

 藍珠は短く答える。

「井戸は」

 長風が静かに言う。

「東の井戸は昨夜、一杯分深くなりました。今夜は二杯分まで持っていけます。ただし、風府の者をひとり、井戸の側に置く必要がある。祈るためではなく、風札の張り替えと、桶の紐の確認のために」

「門は」

 楓麟は紙片の一つを指で押さえた。

「北の側を昼の間だけ開ける。荷車の列を二列にして通し、税を一割、今日だけ戻す。戻した分は、東の倉から出す。――王の印がいる」

 楓麟の視線が遥の額の布に落ちた。布の下で、紋がわずかに熱を持つ。

 命じるというのは、言葉を出すだけではない。言葉を、手続きの中に流し込む。流し込む言葉には重さが要る。重さを持たせるのは、紋の熱だ。遥はうなずき、布の結び目を指で少しだけ緩めた。額に冷たい風が触れる。

「命じる」

 楓麟は頷き、紙片に筆を走らせる。筆の音は乾いている。乾いているのに、濡れた土に線を引く音に似ている。線は消えない。

「……民へも告げよ。『橋を直す。井戸に風を通す。門を開ける。そして今日だけ、税を戻す。戻した分は、明日の倉に返す』」

 楓麟は言葉を整え、遥に渡した。

「王の口で」

 市場へ戻るのか。さっきのざわめきに、もう一度足を入れるのか。胃の底がきゅっと縮む。藍珠が横に立つ。立つだけで、胃の縮みは形を変える。

「行ける」

「行く」

 答えは短いほうがいい。短いほうが、足が前へ出る。


 市場は、先ほどより僅かに人が多かった。噂は風より速い。王が見に来た、老人が泣いた、衛士が押した、藍珠がいた。誰かが言い、誰かが飾り、誰かが削る。

 遥は、石段の低いところに立った。高みに立つと、音は落ちる。低いところに立てば、音は届く。

「王だ」

 誰かが言った。言葉に重さはない。重さは、これから載せる。

 遥は、楓麟から渡された言葉を、ひとつずつ、噛んで出した。

「橋を直す。――今日、一本。明日、もう一本」

 音が空気に広がる。広がる前に、藍珠の視線が端を押さえる。押さえられた音は、逃げない。

「井戸に風を通す。――東の井戸から。風の者を置く。祈るためではなく、紐を見るために」

 長風の言い回しをそのまま使う。難しい言葉は使わない。

「門を開ける。――北の側。昼の間だけ。荷車を通せるように。今日だけ、税を戻す。戻した分は、明日の倉に返す」


 ざわめきが、さっきと高さを変えた。嘲りは消えない。消えないけれど、嘲りの裏に、わずかな息継ぎが現れた。息継ぎは、声の寿命を延ばす。延びた声は、別の声と重なることができる。

「戻すって、何を」

 誰かが問うた。

「戻された税を、市が持つ」

 楓麟が教えた答えを、そのまま出す。

「今日、買った者は、明日、少しだけ多く買える。売る者は、今日、少しだけ多く仕入れられる」

 女がひとり、手を挙げた。籠は空だ。

「橋が落ちたら、どうする」

「また、直す」

 答えは短い。短さは、嘘をつかない。

 子どもが石を蹴った。石は斜めに跳ね、遥の足元まで来た。遥は腰を折り、石を拾い、子どもに返した。子どもの手は薄い。薄い手は、石を受け取っても力を入れない。指の腹で石の温かさだけを確かめ、すぐに下に落とす。

 老婆はいない。杖の黒さだけが、群れの端に見えた気がした。


 命じることは、言い切ることだ。言い切った瞬間、背中が軽くなるわけではない。重くなる。重さは嫌いではない。嫌いではないのに、膝が笑う。笑う膝は、恥ではない。

 遥は、藍珠に目をやった。藍珠は頷かなかった。頷かなかったが、その目は「見ていろ」と言っている。見続けることが、今日の自分の仕事だ。

 市場を離れ、井戸へ向かう。東の井戸は、すでに風府の者がひとり立っていた。白衣ではない。灰の衣。髪は短く、指は長い。彼は礼をし、風札を一枚剥がし、新しい札を重ねた。

 「王」

 彼は言う。

「紐は弱っていません。桶の底の板をひとつ、明日、替えれば、深さはもっと持ちます」

「頼む」

 言葉が軽くならないように、腹に力を入れる。

 井戸の縁に、薄い白いものが貼り付いていた。骨のように見えたものは、昔の枠の欠片だと長風は言っていた。欠片は、風に乾き、音を持たない。


 門では、楓麟が言った通り、列が二列に組み替えられていた。兵の動きは速く、列の端に立つ者が声を短く出し、荷車の車輪は石に音を刻む。税を戻すための紙片を、書き付ける者がいる。紙は薄く、墨は濃い。その紙片は、明日の市場で、硬く折りたたまれて籠の底に入れられるだろう。

 「王の印を」

 兵が言い、紙片を差し出す。遥は布を少しずらし、額に指を当て、薄く息を置いた。紋の熱が紙に落ちる――わけではないのに、紙は重みを持つ。

 藍珠は一歩下がり、誰の目が見ているかを見ていた。目は腹を半分だけ満たされ、半分は空いている。その空きが、この場の空気に余白を作る。余白は、言葉が逃げる穴にもなるが、逃がしたくない言葉を置く場所にもなる。


 王宮に戻るころ、陽は高みから少し降りていた。石の回廊は昼の分だけ温まり、影は濃く、鈴は鳴らず、風は低い。

 部屋に入る前に、遥は庭の青を一度見た。芽は昨日よりわずかに背を伸ばし、葉の端の丸みは薄くなっている。夜露は降りなかったのに、土の深いところから水が上がったのかもしれない。風府の者がどこかで風の向きを少しだけ変えたのかもしれない。〈整える〉という言葉は、目に見えないところで働く。


 夜。

 灯を低くし、寝台の縁に腰を掛ける。今日は、壁を叩かなかった。代わりに、拳を開いた。開いた手のひらには薄い赤みが残り、皮膚の下に鈍い痛みがいる。

 「俺が王であることで、民は救われるどころか、絶望している」

 声に出す。出した声は、部屋の石に吸われる。吸われた声の形が、天井の白い板の裏で薄く残る。

 藍珠の言葉が、そこに重なる。

『民は言葉ではなく行いでしか王を信じない。命じ、守り、与える。そうして初めて、王は王になる』

 命じた。守ることは、剣の話だ。藍珠が担う。与えることは、今日の自分の言葉が少しだけ触れた。触れただけだ。

 悔しさは熱で、無力感は冷えだ。二つは胸の中で混ざり、渦の形をつくる。渦は、額の布の下の紋に触れやすい。触れれば、紋は淡く光る。光は、灯の橙ではない。白に近い青。青は、逃げる方向へ伸ばした足首に、見えない糸を絡める。糸は、進む方向へは絡まない。

 「俺は、ここにいるべきじゃない」――それでも。

 「助けを求める声を、見捨てられるのか」


 答えは出ない。出ないが、問いが胸の奥で居座る。居座る問いは、眠りを浅くする。浅い眠りは、明日を薄く予告する。

 枕の下には、楓麟の紙片が折られている。硬さが頭の裏に触れ、夢の角度を変える。

 夢の中で、再び市場に立った。老婆は、群れの中にいて、杖を抱いていた。抱いているだけで、彼女は泣かなかった。泣かないことが、ここでの強さだ。強さは、薄い。薄いからこそ、折れない。折れない薄さを、指先でなぞる。

 橋は、夢の中でも木の匂いがした。井戸は、夢の中でも音を持った。門は、夢の中でも開いた。開いた門の向こうに、引き戸の指掛けが見える。見えるのに、近づけない。近づくための歩幅は、明日の命令の数に重なる。

 夜の終わり、風は低く、鈴は鳴らず、額の布の下で紋は淡く光り続けた。光は、罰ではない。罰に似せた、明日の印だ。


 翌朝の鈴は、昨日と同じ高さで鳴った。

 侍臣が戸を叩き、粥が運ばれ、藍珠が現れる。

「王。橋の二本目。井戸の板。門の列。――楓麟より」

 紙片の字は変わらない。

 遥はうなずき、水をひと口だけ口に含み、喉へ落とした。四角い音は昨日より丸い。

 歩きながら、耳の奥で、昨日の声をもう一度聞く。「王よ」。祈りではない。命令でもない。頼みでもない。呼び名だ。呼び名は、返事を待つ。返事がなければ、呼び名は重くなる。重くなった呼び名は、言い出した者の肩に落ちる。それを見たくない。

 王であることを受け入れていない。受け入れていない形は、今日の自分の輪郭を作る。輪郭があるから、押されても、倒れない。

 倒れない限り、足を出せる。

 足を出すたび、風の筋は一本、増える。

 増えた風の筋のどこかに、帰り道に続く薄い門がまた、わずかに形を変える。

 その変化を、信じたい。――信じること自体が、いまの自分にできるいちばん小さくて確かな〈与え〉である、と、誰にも聞こえない声で、自分に言い聞かせた。

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