第4話 宰相の忠告
即位の翌日からの生活は、言葉にすれば「学び」だが、肌に触れる感触は「幽閉」に近かった。
朝は鈴の高い音で起こされる。薄い布越しの淡黄の光が石壁に滲み出す前に、侍臣が淡々と戸を叩く。顔を洗う水は冷たく、杯に注いだ一口が喉をまっすぐに落ち、胸の中で四角い音を立てる。衣の襟を直すあいだに、今日の「科目」が読み上げられる。礼、史、算、法、音。どれも、机に向かった自分の姿を想像すれば安堵できる分野だったはずなのに、机の代わりに白い石の卓が置かれ、窓の代わりに高い欄間があり、ベルの代わりに風鈴の気配が鳴るだけで、身体のどこかの関節が一つずつ錆びていくような抵抗が生まれた。
礼。
膝を落とす角度、頭を垂れる高さ、袖を払う指の形。相手の位によって五段階。膝は心の形ではない、と藍珠に教わったばかりなのに、ここでは膝が心の代わりをさせられる。
史。
王の系譜は風の道と重ねて覚えるのがこの国のやり方だという。壁一面の布に描かれた細い線――長風が紐で風の入出を読むのと同じ理で、王の代替わりがどの季節のどの風向きと重なっていたかを記憶に織り込む。名前は残る。風向きは残らない。残らないものを覚えることの虚しさが指先にたまる。
算。
収穫の見積もり、倉の適正在庫、街道の修繕費、兵の俸。数字は安心なはずだった。桁が揃い、計算は裏切らない。しかし、講師が指先で示す算盤の玉は、乾きすぎて音を持たない。玉がはじくべき音が、喉の渇きと同じ高さで胸に張り付く。
法。
盗賊を匿った村は罰せられる。けれど、匿わなければ村は今夜持たない。隣国へ逃げた者を追う権利(と彼らは呼ぶ)があるという。権利と呼ぶだけで、刃が鈍くなるわけではない。
音。
笛と鼓。祝詞の抑揚。祈りの基本形。祈りは現実から逃げるためではなく、現実に乱れを知らせるためのもの、と巫は言った。頭では頷ける。口は歌えない。歌うには、吐く息の温度が足りない。
どの時間にも、共通して一つだけ鮮やかな色が混じる。それは自分の心の中の「帰りたい」という言葉だった。言葉は毎分ごとに濃さを増し、授業の合間の薄い茶の渋味にまで忍び込む。茶器を持つ小姓の手が小刻みに震えているのに気づいても、言葉は弱まらない。
昼には庭を歩かされる。歩数は決まっていて、風府の鈴の並ぶ回廊を一周し、手水舎の前で足を止める。木陰の下に昨日見つけた小さな芽は、今日もまだ青い。葉の縁がわずかに丸まっている。ここ数日の風の高さでは、夜露が降りないのだと長風は言った。風の高さが露に影響する世界で、露の不足は幼木の命を削る。数学の問題にはない変数が、この国のあらゆる場所に散らばっている。
午後、算の講師が倉の出し入れ帳を持ってきた。紙は硬く、墨は薄い。黒の薄さが、倉の薄さだとわかる。
「ここ三月、東の倉の出は増え、入は途絶えがちです」
講師は数字を指で示す。遥は数字の並びを読み取る間にも、鼻の奥を刺す干草の匂いの背後に、薄い酸の匂いを感じる。穀が痛み始める匂い。湿りが足りないのに、痛む。痛みは湿りと関係しないと誰が言えるだろう。
算の講師は淡々と続ける。「都の南門からの税が半分に減りました。道が破れて荷車が通れないためです。修繕費は……」
講師の声は音楽のように一定で、遥の耳には薄い膜を通して届く。数字の意味は強く、意味の重さを受け取るべきだとわかっているのに、膜は今日も破れない。「帰りたい」という言葉は、膜の向こうで自分を引っ張る。
その日の夕刻、侍臣が深い礼をして告げた。
「宰相さまが、王を高殿へお呼びです」
高殿。王宮の最も高い位置にある吹き抜けの間。白い大理石の柱が並び、床は薄く磨かれ、欄間から乾いた風が差し込む。見晴らしは良いはずなのに、この場所に立つと視界は遠くなる。窓はあるのに、外が遠い。遠い外は絵のようで、絵は触れられない。
楓麟は、柱の陰で風を背に立っていた。銀に近い髪は一筋だけ頬に触れ、その細さで彼の耳の毛のしなりを強調する。目は浅い灰。相手の背骨の数を数えるように静かに視線を移す。藍珠は少し離れて立ち、風の向きに合わせて身の置き場を調整している。彼女の衣は白く、どの角度でも影の濃さが一定だ。
「王よ」
楓麟の声は高殿の空気に馴染む余白を持たない。置かれた瞬間、天井の彷徨う風の筋がその言葉の周りを避け、細い渦が足もとに集まる。
「あなたが無為に日々を過ごすなら、この国は滅ぶ」
言葉が無骨であるほど、そこに飾りがないことがわかる。
「白風国は飢饉と盗賊、そして隣国の脅威に晒されている。王が立たねば、民は死ぬだけだ」
遥は、反射で言葉を探すより早く、胸の内の熱が口を押し開いた。
「どうして俺がやらなきゃいけない! 俺はこの国の人間じゃない!」
楓麟の目が細まる。細めることで、視界が狭くなるのではない。視界が深くなる。
「天が選んだからだ」
短い。短いが、逃げ場がない。
「理不尽に見えるだろう。だが天意は覆せぬ。あなたが拒むなら、国と共にあなたも滅びる」
理不尽。遥の世界では、その言葉のあとに「だから」と続けて人は折り合いをつける。ここでは折り合いの手順が違う。折り合いをつける前に、風が先に道筋を決める。
藍珠が、楓麟の言葉の硬さを補強するように口を開く。
「王を拒むなら剣を抜け」
視線は冷たい。冷たさは、遥の熱を否定するためではない。熱を直視させるためだ。
「王として死ぬか、異邦の子として死ぬか、選べ」
死ぬ、という言葉は、ここでは遠い脅しではない。昨日、北の畝に上がった旗の数が増えた。藍珠はその旗のいくつかを地に落とし、戻ってきた。戻る前に匂いを落とした。それでも、血の匂いは風のどこかに残っている。
遥は言葉を失い、拳を握る。拳の内側に爪を立てると、白い痛みが湧く。痛みは、現実の手触りをくれる。
楓麟は少しだけ顎を上げ、柱の間の細い机を指した。机には布が広げられていて、その上に小さな木片がいくつも置かれている。村、倉、井戸、橋。木片には印が刻まれ、楓麟の指が動くたび、風がその印の表面の灰を払い、線が露出する。
「見ろ」
命令は短い。遥は近づく。木片はそれぞれに重さがあり、持ち上げると、乾いた匂いが立つ。
「北の小村。芋の収穫の半分を盗賊が奪う。南の市場。税が半減。道が割れて荷車が通れない。東の倉。出が入を上回る。西の境。隣国・黒梁の斥候が川の浅瀬を探っている」
黒梁――この国の外。名前は短いのに、濁音の重さを含む。
「彼らは風の理を持たない。だから恐れない。恐れない者は、均衡を乱す」
楓麟は木片をひとつ、遥の掌に載せた。印は「井」。井戸の記号。
「井戸が枯れれば、畑は持たない。畑が持たなければ、盗賊が増える。盗賊が増えれば、道は途切れる。途切れた道では、兵は動けない。兵が動けねば、黒梁は境を越える」
連鎖。連鎖は数学よりも滑りやすい。どこから手をつける――と考える前に、楓麟は静かに続けた。
「王の徳とは、善行の数ではない。整えの数だ」
長風の言葉と同じだ。
「あなたがひとつ整えれば、風は二つ整う。あなたがひとつ乱せば、風は三つ乱れる。王の足の下には、風の筋がひとつ余計にある。これは天印が与える『余計』だ。余計を怠惰に使えば、怠惰が増幅される」
怠惰は、ここ数日の自分の寝台の匂いに住み着く。寝返りの回数と同じだけ、怠惰は毛羽立ち、手で撫でると逆立つ。
「……整える、って、具体的に何を」
遥の声は自分でも驚くほど低かった。
楓麟は、珍しく言葉を選ぶ間を置いた。彼の耳の毛が風の向きに合わせてわずかに寝て、また立つ。
「王は『小さくて確かな痛み』を一つ、今日、軽くせよ」
遥は眉を上げた。
「大きい痛みではなく?」
「大きい痛みは、王の徳が満ちぬうちは、王の名を食う。小さい痛みは、王の真名を育てる。小さい痛みを軽くすることを続ければ、風は王を覚える」
楓麟は木片を二つ、遥の前に並べた。ひとつは「橋」。ひとつは「井」。
「橋を修繕する材を道から回せば、明日の荷車が通る。井戸に風札を重ね、風府の者をひとり置けば、今夜の水が一杯増える」
どちらも、巨大な変化ではない。けれど、橋を渡る荷車の車輪の音、井戸に落ちる桶の音。その二つの音は、耳の奥で確かに重みを持って鳴る。
藍珠が、静かに口を挟む。
「王が指示を出すなら、剣はその線に沿って抜ける。線がなければ、剣は風に叩かれるだけだ」
楓麟は頷いた。
「今日、あなたは一つ決める。決めたことは、明日、二つに増える。決めないことは、今日、三つに滞る」
決める――。決めるという行為は、教室では紙の上だけで済んだ。ここでは、紙の上に書いた線が、明日の誰かの足音になる。足音は責任の形だ。
遥は喉が乾くのを感じた。乾きは恐れの形をしている。恐れは汗で少しだけ薄まる。額の布の下で、紋がかすかに熱を持つ。熱は、逃げる方向を向いた瞬間に強まる――昨日から何度か、そういうふうに感じた。
「……橋、を」
言い終わる前に、楓麟の目がわずかに細まった。
「理由を」
「道が割れているから、税が半分に減って……。橋を直せば、荷車が戻る。荷車が戻れば、市場が少しだけ軽くなる。……井戸は、風府と巫で、ひとまず風を通せるなら」
楓麟は頷いた。頷きは小さい。小さいが、柱の影の風が一段だけ静まる。
「良い」
藍珠が短く「行く」と言いかけ、楓麟が手で制した。
「王に一つ、覚えておいていただきたい」
楓麟は欄間の向こう、遠い砂の色の屋根を指した。
「橋を直すことを、橋に渡すべき者以外にも知らせよ。『見られている』ことは、整えの一部だ。見られない整えは、次の整えを呼ばない」
藍珠は淡く笑った。笑いは、唇の片方だけが動く。
「目は腹を満たさなければ正しく見ない。腹を満たせば、半分は正しく見る」
昨日、路地の壁に置いた銭のことだ。遥は短く息を飲んだ。
楓麟はさらに続ける。
「王。あなたを守るために、あなたは『見る』ことをやめるな。守られる者の目は、たやすく閉じられる。閉じれば、風はあなたを離れる」
守られる者の目――。瞬きを長くしただけで、窓の向こうの遠さは増す。遠さは安全に似ている。似ているけれど、違う。
楓麟は木片を一つ、藍珠に渡した。
「橋は藍珠が見る。風府には長風から手を回す。王は、今日、広場に立て。声を拾え。拾った声のうち、三つだけ、明日に持ち越せ。十持ち越せば、明日は潰れる」
拾う数が定められる安堵と、定められた数に届かぬ不安が同時に胸に広がる。
藍珠は一歩、遥の側へ寄った。
「立てるか」
「……立つ」
言葉は少しだけ喉で欠けたが、欠けたまま出した。
楓麟は「下がってよい」と短く告げた。風が背に回り、回廊の影が涼しい。高殿の階段を降りるあいだ、膝裏がわずかに笑う。笑う筋肉の震えは、恥ではない。体が重みを量り直しているだけだ。
広場――と呼ばれる王宮前の石の平地に立つと、風が別の高さで鳴っていた。市場で聞いた薄い声、井戸の傍で聞いたため息、門で聞いた靴の擦過音。音は混ざり合い、薄い膜の上を走る。膜の下に入っていくためには、耳ではなく、骨で聞くことを思い出さなければならない。
遥は、石段の二段目に立った。立つことは、座るより難しい。座れば、玉座の硬さに話を逸らせることができる。立つと、足の裏の感触だけで自分の重心を見つけなければならない。
「王」と声をかけてくる者がいる。細い布を頭に巻いた女が、手に浅い籠を持っている。籠の中には、小さな乾いた根がいくつか。「橋が落ちて、昨日、夫が戻れませんでした」
男がいる。背が高い。肩は落ち、手は太い。「北の畝の旗、明日は十でなく十五になるかもしれない」
子どもがいる。目が大きい。声はか細い。「井戸の底に白い骨が見える」
言葉の粒が次々に落ちる。拾えるのは三つだけ――と自分に言い聞かせる。三つ。
橋。
旗。
井戸。
今日、決めた橋は明日動く。旗は、藍珠が動く。井戸は、長風が動く。動かない声を拾うべきか。動く声を太らせるべきか。
遥は、女に向かってうなずき、短く言った。「橋を直します」。男に向かって、「旗の数は宰相に伝わっています。今夜は戸を閉め、風札を重ねてください」。子どもに向かって、膝を折る。「骨は、昔の井戸の枠かもしれない。明日、風の人が見ます。君は、井戸に近づきすぎないで」
言い終わると、胸の奥の熱が少しだけ形を変えた。熱の輪郭が丸くなり、腹の方へ落ちる。落ちたところで、額の布の下の紋が、わずかに冷えた。冷えは安堵ではない。冷えは、次の熱のために空けておく隙間だ。
夕方、藍珠が戻った。衣の裾に砂がついている。匂いは少ない。風で落としたのだ。
「橋の梁は折れていた。木は足りる。明日には通せる」
言いながら、藍珠は短く目を伏せた。伏せた目は礼ではなく、疲れの所在を隠す仕草だ。
「井戸は、風府に伝えた」
長風からも紙片が届く。「東の井戸、今夜は一杯、深くなる」。字は細いのに、確信の太さがある。
夜。寝所。水差しの水は昼より温く、杯が唇に触れるたび、今日の言葉が舌の裏に戻ってくる。
「王として死ぬか、異邦の子として死ぬか」――藍珠の言葉は、刃の裏で鳴る。
「小さくて確かな痛みを一つ、今日、軽くせよ」――楓麟の言葉は、算の問題の条件文に似ている。
「整える」――長風の言葉は、呼吸の速度を落とす。
寝台に横になる前、遥は一度だけ窓に近づいた。欄間の木の透かしの間から夜風が入る。風は香の残り香を薄め、石の冷えを運ぶ。窓の外、王宮の屋根の影が重なり合い、遠くに低い笛の音がする。北の畝ではない。巫の短い歌だ。祈りは、乱れに知らせるためのもの。
――帰りたい。
言葉は、今日も胸に座り続ける。座る位置が昨日と違う。昨日は喉の上だった。今日は、腹の少し上。位置が変わるだけで、体が動く通り道が増える。
布団に入る。額の布を外すべきか迷い、外さない。外してしまうと、紋が熱を持つ。熱は、逃げようとしたときに強くなる。
その証拠に――一度だけ、遥は扉の前に立った。
閂に触れる。木の感触。軽い。軽いのに、押しのけるには力がいる。閂を上げ、扉を少し引く。
風が、擬音のない音で鳴った。
鳴ったのは、耳の外ではない。耳の内側、骨と骨の間。額の布の下で、紋がふっと熱を持つ。熱は痛くない。痛くないのに、手を止めさせる。止められた手が、扉の縁の木目をなでる。木目の流れは、風の筋と似ている。似ているのに、違う。木目は動かない。風の筋は、動く。
扉を閉めた。閉める音は、小さく、寝所の空気に沈んだ。
「逃げることを許さぬ」――誰かの声ではない。言葉の形をした風の手触りだ。
床に戻ろうとして、遥は机の端に置かれた紙片に気づいた。細い字。楓麟の筆だ。
『王へ。明日、橋の修繕に立ち会うとよい。目は、工の手に教えられる。
また、あなたの寝所の扉の外に目をひとつ置いた。目は腹を半分だけ満たしてある。
あなたが出ようとすれば、目は鈴を鳴らす。鈴は、あなたのために鳴る』
目。路地の壁の隙間に置かれた銭。藍珠の言葉。楓麟の言葉。
「目は、あなたのために鳴る」――監視ではない、と彼は言うのだ。安全のため。責務のため。言葉は都合の良い言い換えなのに、不思議と、骨の近くで反発は生まれない。
紙片を折り、枕の下に滑らせる。硬さが頭の裏に触れ、夢の入口の角度が少し変わる。
夢の中で、橋を渡った。
橋は木の匂いがした。釘は少なく、縄が多い。水は少なく、音は浅い。荷車の車輪の音は、石畳より軽い。軽い音が遠くへ流れ、戻ってくる。戻ってきた音が、玉座の背板の透かし彫りの隙間で止まる。止まった音を押すのは、掌の小さな力で足りる。足りる――と夢の中の自分は知っている。
目が覚める直前、橋の向こうに引き戸の指掛けが見えた。指を伸ばす。触れない。触れないのに、指の腹が木の温かさを覚える。温かさは、現実の朝の水に似ている。
翌朝は、昨日より少しだけ色が濃かった。
巫の短い歌のあと、侍臣が盆に粥を載せて入る。粥は薄い塩味で、舌に触れる白さが柔らかい。
「王、橋の修繕へ」
藍珠の声はいつもと同じ高さだが、昨日より速い。
「行く」
言いながら、遥は額の布の結び目を指で確かめる。布は、昨夜より軽い。軽いのに、重さがある。重さは、手の中に覚えとして残った。
石段を降りる途中、風府の回廊から長風が顔を出した。薄い笑い。笑っていない目。
「王。井戸は、一杯、深くなりました」
「ありがとう」
短い言葉が、石の目地で弾み、藍珠の白衣の裾に吸われる。
広場に出る。朝の市場はまだ薄い。橋へ向かう一行は小さい。藍珠のほかに、工の男たちが五人。肩は太く、手の甲は硬い。腰に巻いた縄が揺れる。彼らは王を見ると、深くはない礼をした。深い礼ではないのが救いだった。深い礼は重すぎる。
道は割れている。割れ目に小さな草が立ち、踏まれればすぐに折れる。折れた草の匂いが短く立ち、すぐに風に運ばれる。
橋のたもとに着く。梁は折れており、片側が沈んでいる。水は浅い。浅いのに、湿りの匂いはする。工の男たちが木を運び、縄を引き、楔を打つ。打つ音。縄の軋み。木の呼吸。
藍珠は剣の代わりに槌を持ち、楔を受けている。受ける手は正確だ。正確さは彼女の呼吸の均一さから来る。打つたび、楔が木と木の間に新しい言葉を刻むように入る。刻まれた言葉は音でしか読めない。
遥は、邪魔にならない位置に立ち、見た。見続けた。見ることは仕事だと楓麟は言った。仕事の内訳を、自分の内側で繰り返す。
橋の中ほどで、楔が一度、上手く入らない。工の男が眉を寄せ、木を少し削る。削り屑が白く舞い、風がそれを拾い、川面に落とす。屑は水に触れて沈む。沈みながら、音を持たない泡のように消える。
藍珠がふと振り向き、遥の目を見た。言葉はない。視線は短い。「見ていろ」だけを伝える視線。
日が上がるにつれ、木の匂いが強くなる。汗の匂いも混じる。匂いは目より先に刺す――藍珠の言葉。刺す匂いに、額の布の下の紋は反応しない。反応しないことが、今日の安堵だ。
昼過ぎ、橋が一本、渡れる形になった。荷車の試しが行われる。車輪が、木に載り、音を立てる。音は軽く、軽いまま向こうへ渡る。渡った音が戻ってくる。戻った音は昨日の夢と同じ高さで、胸に触れる。
橋の向こうで女が小さく手を合わせ、男が手を振る。子どもが石を蹴る。石は水に落ちない。落ちない石は、地面で跳ねる。
遥は、橋のたもとで静かに息を吐いた。吐いた息が、少しだけ甘い匂いを持っていた。甘さは、焼いた穀の香ばしさに似ている。昨日、藍珠が買ってくれた薄い菓子の味。
「王」
工の男が短く礼をした。
「明日、もう一本、直します」
楓麟に言われた「見られている整え」が、指の腹に残る。
その帰途、広場で、昨日の女に会った。籠は空で、手は軽い。彼女は深くではない礼をし、泣かなかった。泣かないのは、この国の人のやり方なのだと、昨日より少しだけ知っている自分に気づく。
夕刻、楓麟に報告した。楓麟は頷き、耳の毛がわずかに寝た。
「良い」
言葉は短いのに、褒められた子どものような軽さは生まれない。褒め言葉は、この場では次の課題の肩代わりはしないのだ。
「明日、井戸を見よ。長風が待つ。……王」
楓麟はわずかに間を置いた。
「あなたが今日選んだことで、明日の選択は少しだけ狭くなった。狭くすることを恐れるな。広い選択は、怠惰の隠れ場所だ」
怠惰。寝台の匂い。指先のささくれ。額の布。
夜、寝所に戻る。扉は軽い。閂は昨日と同じ位置にある。手は、昨日と同じ動きを覚えている。覚えている手を、額の布の下の熱が止める。止める熱は痛くない。痛くないことに、悔しさがわく。痛ければ、敵にできたのに。
机に座り、灯の火を少しだけ上げる。灯の炎は風に揺れ、壁に影が踊る。影の形が人の姿に似て見える瞬間がある。父の背中。母の指。田所の笑い。
「俺が王になる意味なんてあるのか。帰る道を探すべきじゃないのか」
声に出す。声は灯に近すぎて、煤の匂いを連れて戻ってくる。
額の布の下で、紋が淡く輝く。光は、灯の橙ではない。白に近い青。青は、痛みを連れてこないのに、逃げようとする足首に細い糸を巻く。糸は見えない。見えないのに、存在だけが確かだ。
布越しの熱は、不思議な規則で強弱を繰り返す。
「逃げることを許さぬ」――と誰かが囁いているわけではない。
ただ、風が、扉の隙間で鳴る。鳴るたび、石の床の上で、目に見えない砂が薄く移動する。
砂は移動し続け、やがて、見えない線を描く。線は、明日の橋へ向かう道に重なり、その先で、まだ見ぬ井戸へ落ちる。
灯を落とし、寝台に横になる。目を閉じる前に、今日の三つを指でなぞる。
橋。
旗。
井戸。
どれも、小さくて確かな痛みの周りにあるものだ。痛みは、王の名ではなく、真名の側に近い。真名で抱える。抱えたまま眠る。眠りは浅い。浅い眠りは、明日を薄く予告する。
耳の内側で、風の高さが一段下がる。
その高さで、楓麟の低い声が遠くの柱に反射し、藍珠の短い足音が回廊の角で折れ、長風の紐が鳴り、巫の歌の最後の音節がほどける。
音のほどけるさまが、眠りの端を柔らかく整える。
――帰りたい。
そう繰り返しながら眠ることを、今日は、誰も責めない。
責めない代わりに、風は額の上で淡く光り、逃げ道の方角にだけ、すこし冷たさを置いた。
冷たさは、罰ではない。
明日の足場の、仮の印だ。




