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第34話「往還する使者」

 灰の渡しに張られた太縄は、春光をはね返しながら水面の揺れに呼応して、ごくわずかに弛み、また張った。薄紅平原へ等間隔に置かれた白石の列は、溶けた雪を吸い、輪郭の一部をやわらかく曖昧にしていた。見た目だけなら、国境は穏やかだ。春の一枚皮が、すべてを覆っているようにも見える。


 けれど、皮は薄い。風がひとつ強まれば、その下にある血管の拍動は、いつでも浮き上がる。


 紅月の内情は、冬よりも複雑で、そして生々しい。王弟派は北の城塞に籠城し、石を積み足しながら兵糧の薄さをごまかしている。王太子派は南の州へ退き、地の豪族の縁にすがって陣形を保つ。現実派――凛耀たちの線――は州の糧秣庫と水利の要を押さえ、遠征の線を縮ませて「戦の縮小」を先に現実へ落とそうとしている。三つの思惑は、互いに糸を引き、結び目を作り、ほどけかけてはまた絡まった。


 白風に届く密書は増えた。印の匂いが違うだけで、書かれている紙はどれも薄く、よく滲む。使者の往還は、日を追うごとにひっきりなしになった。灰の渡しの太縄のこちら側で、無色の旗は一日に何度も角度を変え、薄紅平原の白石の列は、春の足音を受けて微かに土へ沈む。国境は、動くものになっていた。


     ◇


 朝の評議は、いつもの玉座の間ではなく、王宮の一室にしつらえられた“外交卓”の周りで行った。厚い木の板に、三色の紐がきれいに丸めて置かれている。赤(王弟)、金(王太子)、灰(現実派)。それぞれの色に結び付けた札には昨夜から今朝にかけて届いた条件が記され、結び目の固さや向きは、その線の呼吸の浅さや深さを教えてくれた。


 赤の札は、字も声も荒い。「春の境界の撤廃と軍馬の貸与」を求める。見返りに「交易の独占」をちらつかせるが、その札の裏に染みた油の匂いは、州の糧秣庫からこぼれたものではなく、城内の厨から漂い出たもののように生臭かった。


 金の札は、紙が良い。「境界の維持」を望むが、「白風の市に監察官を常駐させたい」と条件を添える。言葉は丁寧で、点の打ち方も綺麗だ。けれど、点の間隔が少しだけ近い。急いで書いたのだろう。「見張る者」の筆は、いつも点が近い。


 灰の札は淡々としていた。「境界の相互不可侵」を強く求め、代わりに「亡命の扱いを明文化」する協定案を持ち込む。札の紙は再生紙の匂いがして、背に小さく糧秣庫の印が押されている。使い回しの木箱から紙を取り出し、卓上で書いた字だ。行間がひろく、余白に痕跡がある。「書き足す余地を残す書き方」は、現実を相手にしている者の癖だと楓麟は言う。


 楓麟は風を聞き、結び目を指でなぞった。


「赤は喰う。金は見張る。灰はほどく」


 藍珠が短く評した。


「剣を置いているのは灰だけだ」


 遥は卓上の紐を見下ろし、ゆっくり息を吐いた。「線を守る外交」を選ぶ――そう決めてから、紙に書いておくべきことは増えた。剣で切るよりも遅く、鍬で掘るよりも細かく、そして帳で数えるよりも、たぶん重い。重さは手首に残る。名の列に朱の線を描くときに感じた重さと似ている。


「我々は“線を守る”。線を曖昧にする誘いは受けない」


 遥は言った。


「ただし、亡命の明文化は必要だ。緩衝の野が膨らめば、そこで嘘が生まれる。“名”を先に用意して、嘘の入り込む隙間を減らす」


 楓麟が頷き、書記に目配せをした。小さな鐘の音が一度鳴り、控えの部屋で眠っていた紙の束が持ち込まれる。紙の端はまだ冷たく、手に水を吸う。


 白風側の原則は三つ、と決めた。


 第一。縄印・白石・旗の三線は不可侵。どんな場合でも、三つの線を越える決定は王の直命が要る。


 第二。武装解除と名簿登録を条件に、難民・脱走兵の受け入れを“緩衝の野”で行う。名と刃は同時に扱い、刃は木台に封じ、名は紙に残す。


 第三。市と医の館・検塩所は相互中立領域として扱い、双方の監察は不可。ただし市兵の帳簿は公開し、検塩所・医の館の審査には双方の立会いを許す。見るのは“結果”であり、“命令”ではない。


 書き並べると、線は太くなる。太くなるほど、偽の線は浮いてくる。浮いたものは風に飛ばされる。飛ばしてから拾えばいい。拾えるように、紙は場所を変えずに置く。


     ◇


 昼前に、灰の使者が来た。凛耀の配下の男は、春市のときの無色の旗への礼を忘れない。縄印の前で深く礼し、短い言葉で挨拶を済ませると、すぐに本題の草案を差し出した。紙は良くはないが、章立ては整っている。受け入れ地点。医療。武装解除。身柄引き渡しの可否。家族帯同。どの項目にも、細かな手順が書き込まれていて、無駄な修飾はない。紙の端に、墨の小さな指紋が三つ。書いた者が一人ではない証拠だ。現場の手が紙に触れている。


 ただ、一箇所だけ、白風側が眉をひそめる条文があった。


「亡命者の“名”は、相手国の“名の列”から抹消」


 紅月の“面子”のための一文。掲示板から名が消えれば、彼らは民に「裏切り者など初めからいなかった」と言える。紙の前で言葉を勝たせるための文言は、刀より鋭いことがある。


 名を消さない、と誓ったばかりだ。名は国の記憶、名を消せば次の嘘が生まれる。掲示の名から“生きているかもしれない”光が消える瞬間を、この春に自分の手で作っていいのか。外交は、理屈のために誰かの心を切る。その切れ目は、冬より遅く痛む。


 楓麟が静かに言う。


「表の板から消すことと、国の記録から消すことは違う。“相手の板からは消すが、こちらの記憶には残す”。二重の帳の技がいる」


「二重帳」


 遥は紙を裏返し、朱筆を取った。折衷案を作る。条文に加筆する。


――相手国の掲示からは削除。ただし受け入れ国は“亡命名簿”に登録し、名の列の“外縁”に記す。


 これならば、外交の面子は立てられる。内政では「名を消さない」を貫ける。外に見える板から名が剥がれても、国の記憶の棚には名が残る。「外縁」という言葉は、春の畦を思わせる。畦の外は泥で、畦の上は石。外縁はどちらでもない。けれど、確かに線だ。


 灰の使者は、朱の文字をじっと見てから頷いた。


「我らの板から名が消えれば、怒りは一度だけ静まる。あなた方の棚に名が残るなら、怒りはそこで吸われる。そういうことだ」


 怒りを吸う棚。紙は、怒りの燃え方を遅くする。


     ◇


 夕刻、赤の使者が来た。赤の紐は艶やかで、衣は絹の光を帯びている。言葉は粗く、声は大きい。


「白風は紅月の兄弟国。今こそ剣を取って王弟の大義に連なるべき」


 藍珠が一歩出かけた肩を、楓麟が手の形で制した。境界を越えない、という約束は、使者の言葉に対しても同じだ。剣は刃だけで越えるのではない。言葉でも越える。


「我らは“線を守る”。剣は境界内のために抜く。境界を越える剣は抜かない」


 遥は静かに答えた。


「春の境界は、夏に溶けるぞ」


 赤の使者は吐き捨て、袂を翻して去った。言葉は脅しだが、半分は事実だ。春の線は、夏に向けて形を変える。畦も縄も白石も、夏の太陽に晒されれば、違う色を持つ。


 赤の紐を置いた後の机は、ほんの少し温かかった。怒りの手は熱い。熱い手で掴まれた机は、木目の中にその熱を吸い込んで、あとで静かに返す。返す熱は、怒りとは違う温さになっている。紙は、その温さで乾く。


     ◇


 夜、金の使者が来た。金の紐は細く、結び目は均等。男の微笑は壊れない。


「監察官の常駐を――」


 彼は再度、求めた。遥は首を横に振る。代わりに提案を返す。


「市兵の帳簿公開。検塩所・医の館の審査には立会いを許す。ただし、命じる権限は渡さない。見て、問う権利だけを互いに持つ」


 金の使者は即答しなかった。手の中の紙を軽く撫で、少しの間だけ沈黙を置いた。沈黙は、相手に自分の呼吸を聞かせるための間だ。


 帰り際、彼はぽつりと漏らした。


「我が国の板にも名が貼られている。だが、名は都合が悪いと剥がれる」


 紙は、誰かの都合に耐えるものではない。名は、誰かの都合で生まれ、誰かの都合で消されるべきではない。遥は小さく頷いた。頷きは同意ではない。約束でもない。ただ、受け止める動きだ。受け止めなければ、相手の言葉は自分の体をすり抜けて、どこかへ消えてしまう。消える言葉は、あとで影になって戻ってくる。


     ◇


 外交卓の場面から、紙は城の外へ延びる。


 緩衝の野では、亡命の扱いを明文化する前から、すでに名簿の列が動いていた。市兵の仮小屋の前に、板が立てられ、「名」「刃」「家族」「傷」「希望する労役」と刻まれた欄が横一列に並ぶ。狼煙番の少年が鏡を胸で揺らしながら、紙を配る。字の書けない者には、書生が代筆する。書生はかつて「狐火」を口にした寺の院生だ。今は「狐火の本」を配る側に回っている。彼は緊張の指で筆を持ち、ゆっくりと楷書で名を書いていく。字はまだたどたどしいが、誠実だ。紙は、その誠実をよく吸う。


「刀の名は?」


 市兵が問う。刃を封じる木台の前で、男はためらった。「刃に名はない」と言いかけて、口をつぐむ。刃に名を与えたことがない手は、名前のない重さに甘えてきたのだ。遥が一歩前へ出て、木台に手を置いた。


「刃を離せば、あなたは何になる?」


「……腹が鳴る者。子の父。鍬を持つ手」


「線の中では、それで足りる」


 男は長い沈黙の後、刃を置いた。封印札に刻まれた初めての「刀の名」は、故郷の村の名だった。刃に与えられた名は、元の土へ戻ろうとする。


 市内では、検塩所が昼も夜も働いていた。紅月の塩は塩度が薄い。塩袋を水に落とし、沈み方で差を見せる。群衆の前で、軽い袋は浮き、重い袋は沈む。数字より視覚が先に届く。紙が追う。狐火の本は、市の角で売られ、子が絵を覗き込む。大人たちは、子の目の動きで納得する。理は、子どもの目の速さで伝わる。


 藍珠は緩衝の野の外周を歩いた。剣は抜かない。鞘の中で刃は黙り、鞘は周囲を映す。映るものの中に、怒りの影が一本走るのを見つける。影は長いが、濃くない。濃くない影は、灯を一本足せば消える。楓麟が灯の列を延ばすよう指示し、市兵が油壺を二重に置く。


 夜、焚火にあたる女が、封印札の箱を撫でた。


「帰る場所が、なくなった」


 彼女の声は、火の粉に紛れてすぐに空へ溶けた。少年が鏡で小さな光を遠い塔へ送る。


「うちの村、井戸が戻った。畑がふくらむ。……鍬、使えますか」


 女は遠い暗闇を見てから、小さく頷いた。頷きは約束ではない。ただ、体を前へ向ける動きだ。動きがあれば、紙はそこに棚を増やせる。


     ◇


 翌朝、灰の使者が再び現れた。昨夜の折衷案に朱の線が加筆されていることを受け、彼はすぐに白風側の「亡命名簿」の様式に目を通した。名を「外縁」に記すという言葉に、彼は首を傾げる。


「“外縁”とは、板の外ですか」


「板の外、だけれど、棚の内だ」


 遥が答える。


「畦の上に置かれた白石と同じ。外に見えるか見えないかは季節で変わるが、畦そのものは動かない」


 使者は目を細めると、ゆっくり頷いた。


「名前は、板に貼るためにあるのではない。呼ぶためにある。呼ぶ人のいる場所に、残せばいい」


 紙に書かれた名を読み上げるとき、読み手の息が、字に薄くしみ込む。誰の息も残っていない名は、紙の上でも乾いたままだ。乾いた名は、剥がれやすい。息のある名は、剥がれにくい。息のある名は、板の外に置いても、紙の内に残る。


 灰の使者は退き際、無色の旗に礼をし、無言で指を一本立てた。一本は一度、という意味にも、ひとつだけ、という意味にも取れた。意味は、戻りの風が決める。


     ◇


 午後、王宮のバルコニーで、書生が「狐火の本」を抱えて立っていた。彼の手はまだわずかに震える。けれど、その震えを気にせず、目の前の子どもに本を渡す。


「ここに、湿りの草から生まれる病の話が書いてある。井戸の蓋は、ここのところ」


 子どもはページを一つ折り曲げ、鉛で丸をつけた。藍珠がその頭を軽く撫でる。「よく育つ」と言う言葉は、剣よりも甘い。甘い言葉は、剣の届かないところで効く。楓麟が風を聞き、ページの端を指で押さえた。風が吹いても、ページはめくれない。


 掲示板の前では、法務の新任代行が「薄線相談窓口」の札の横に椅子を置いて座っていた。冬の審理のとき震えていた彼の指は、今、朱の訂正印を静かに押す。誤記があれば、すぐに紙の上で直し、直した痕跡を残す。痕は恥ではない。次の嘘を減らす目印だ。


     ◇


 夜になり、金の使者が戻ってきた。彼は笑みを崩さず、しかし目の奥に疲れがあった。


「監察官の件、王太子殿下はこだわっている。『見張りがなければ民が不安がる』と」


「見張られる不安は、見張られない不安の裏返しだ」


 遥が穏やかに言う。


「市兵の帳簿公開、検塩所・医の館の立会い――“見る権利”は渡す。ただし“命じる権利”は渡さない」


 金の使者は、机の端の紙に指を置いた。紙は熱を持っていた。


「我が国の板の名は、時々剥がれる。剥がした名は、どこへ行くのか」


「紙の棚へ」


 遥は迷いなく答えた。


「紙の棚の中では、名は剥がれない。剥がすとすれば、本人の手だ」


 金の使者はわずかに目を伏せた。伏せた目は、紙の余白を見ている。余白に何を書くかは、国が決める。余白を残すかどうかは、王が決める。王が余白を残す国は、強い。余白のない国は、いつか紙が破れる。


     ◇


 使者の往還に合わせるように、王は城門の外にも足を運んだ。緩衝の野は昼も夜も息をしている。封印札の箱の前に、今日も新しい札が置かれ、名の列の外縁には、さらに三つの名が増えていた。名の横には、小さな印が押されている。「鍬」。希望する労役の欄に、彼らはその字を書いたのだ。


 狼煙番の少年が走り寄り、制服の袖を引いた。


「王様、見て!」


 少年が指差す先に、小さな苗床があった。緩衝の野の端。土はまだ粗いが、芽が三本、小さな葉をひろげている。狐火の本を胸に抱えた書生が、恥ずかしそうに、しかし誇らしげに立っていた。


「彼らが撒きました」


 苗は国境を知らない。畦の外でも芽は出る。芽が出れば、畦が寄っていく。寄っていく畦は、線の内と外を曖昧にする。曖昧に“見える”が、内と外は消えない。畦は畦だ。線は線だ。芽は芽だ。


     ◇


 最後に、楓麟が三色の紐を指でまとめ、机の端に“無色”の細紐を添えた。無色の紐は、春の光をそのまま拾って、色を持たない光に変える。


「我らの紐は色を持たぬ。風の向きで染まらぬように」


 楓麟の声は低く、けれど遠くまで届く響きを持っていた。藍珠が頷き、無言で剣の柄に手を置く。剣はそこにある。剣があるという事実が、剣を抜かない選択を強くする。


 遥は無色の紐の結び目に、朱で一字だけ刻んだ。


「名」


 外交は往還し、線は揺らぐ。けれど、板の上の“名”が針のように原則を刺し留める。紙は薄いが、針は鋭い。針が刺さっている限り、紙は飛ばない。飛ばない紙は、国の背骨になる。


 窓の外で、無色の旗が春の風に一度だけ大きく鳴った。灰の渡しの縄印が、軽くきしむ音を立てる。薄紅平原の白石は、夕焼けの中でまぶたのように薄く光る。その光の向こうに、三色の旗が遠く揺れている。赤は喰い、金は見張り、灰はほどく。白風は、名を結び、線を守る。往還する使者たちの靴底に付いた泥が、王宮の敷石に乾いて残る。残った泥は、やがて誰かの靴に移り、次の道を汚し、また別の道を生む。道は、線になる。線は、名を載せる板へとつながる。


 春は、まだ薄い。けれど、薄い皮の下で、血は確かに巡っている。巡る血は、往還する使者の脈に連なり、縄印を軽く震わせ、白石の列をほんの少し沈ませる。沈んだ分だけ、畦は固くなり、線は太くなる。太くなった線の上に、今日の朱が一つ、また一つ、刻まれていく。明日の朱は、明日刻む。今日の朱が、明日を呼ぶ。そんなふうにして、国は呼吸を続けていく。灯は消えない。名は消さない。境界は、越えない。越えないと決めたから、越えない。


 そして明日もまた、使者は往還する。三色の紐は机の上で音もなく重なり、無色の細紐がその上に、静かに、確かに結ばれる。結び目の小さな朱の字は、春光に滲みながら、紙の中へゆっくり沈んでいった。

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