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第33話「鏡面の暗殺者」

 灰の渡しの川面は、春の光を受けてまだ硬い。昼の少し熱を含んだ陽が、流れの薄い皺を一本一本照らし出す。水の上に置かれた網の目のような光が、風に沿って伸びたり縮んだりする。すぐ傍らには縄印の太縄が二本、柱の間を渡されていた。縄の節々に焼き付けられた王と宰相の印は、冬とは違う色に見えた。黒ではなく、乾いた土の色。触れれば粗く、けれど温い。


 無色の旗がその脇で静かにたなびく。旗は布の重みの分だけだけ下へ落ち、風の分だけ上へ戻る。どちらにも染まらず、どちらの側にも同じ距離。春の市が終わり、凛耀の帰国を見送るために設けられた、ささやかな卓が縄印のこちら側に出ている。干した果実が少し、塩の皿が二枚、薄い酒が瓢に一本。器は土で、ひびを漆で埋めてある。冬の間に割れかけたものを春に繕い、また使う。そういう器だ。


 卓の向こう側に、凛耀がいた。銀の飾りの少ない、古式の礼に身を包んだ紅月の使者。彼の背筋はいつもと同じで、眼差しはいつものように濁りがない。けれど、瞼の動きが冬より一拍長いと遥は思った。その長さが、彼の国の内側で起きていることを語る。言葉より早く、体は真実に触れる。


「春の境界、尊びます」


 凛耀が縄印の前で深く礼をする。言葉は短い。無色の旗が一度だけ揺れ、風が彼の袖から塩の匂いを拾っていった。


「市を開けてよかった」


 遥が言うと、凛耀は薄く笑んだ。笑いの厚みは、自国の空気の厚みに比例するように見える。紅月の空は今、薄いに違いない。


「我が国は内の継承に火種を抱え、遠征の費を削る必要がある。白風と“春市”を開きたい――そう願って来た使者が、生きて帰れること。それだけでも、線は濃くなる」


「線は、剣だけで引けない」


 楓麟が無色の旗の陰に立って風を聞いている。耳が一度だけ小さく動き、彼は卓の塩を指先でつまんで戻した。


「帳と鍬と、そして鏡で守る」


「鏡……」


 凛耀は懐からあの青銅の鏡を取り出し、光にかざした。背に風と雲の文様。少年に贈ったのと同じ意匠。鏡面に春の空が薄く映る。ためしに指で触れると、指先の温度が鏡へ移り、すぐに奪われる。鏡は人の熱を抱えない。映すためだけに作られている。


 狼煙番の少年が、縄印のこちら側で緊張した顔で立っていた。制服の袖は新しい。胸には小さな鏡が紐で掛けられている。凛耀がこの前の市で渡したものと同じ型が、今日、少年の胸の上に二つ目として増えることになるのだろう。少年はまだ成長の途中で、鏡が胸に当たり、緊張の鼓動が鏡に伝わっている。その揺れで光がわずかに震え、小さな魚の体のようにきらりと跳ねた。


「夏の市でも、また会いましょう」


 凛耀が言い、杯を取り上げたそのときだった。


 川面の光が、音を持った。跳ねるというより、はじける。鋭い白の一筋が、藍珠の頬をかすめる。ほんの毛一本分の距離。藍珠の瞳孔がわずかに絞られるのと、矢が卓を撃って干し果実が弾けるのはほとんど同時だった。果実の果汁が春の光に飛び散った。二つ目の矢が塩の皿を割り、土器のひびがひと呼吸で開く。対岸の芦の陰――薄布で顔を覆った射手。紅月式の短弓。しかし袖の縫い目は粗い。矢羽根は紅に染められ、光は鏡から。狙いは凛耀だ。


 藍珠の体が既に動いている。彼は言葉より早く動く。凛耀の肩を横から押し倒し、自分の背を矢の軌道に重ねる。楓麟が風を切る。見えない線が空気に引かれ、矢の軌道が一度だけ鈍る。矢は藍珠の肩布を裂き、背の皮膚を薄く切って縄印の柱に刺さった。刺さる音は意外に軽かった。木に矢が立つときの乾いた音は、いつも遠い。音が遅れて耳に入るだけで、世界はすでに一歩動いている。市兵が無色の旗の周縁を締め、白風の兵は縄印を越えぬまま盾を上げる。境界の約定は破らない。破った瞬間、この場はたちまち「罠だった」と解釈される。紅月の内乱の火は白風に燃え移る。


 遥は、対岸を見た。芦の揺れ方が不自然だ。二人分の影が重なる。矢は一つではない。風の向きは斜め上。水盆は……。視界の端に、市の中央に置かれた水盆が映る。浅い、しかしよく磨かれた盆。太陽はまだ高く、反射角は届く。彼は言った。


「鏡で、返す」


 近衛が水盆を持ち上げ、斜めに向ける。少年が胸の鏡を外して掲げる。光は束ねられ、芦の影へ走る。点の光が射手の目の膜に当たり、ほんの一拍、瞼が遅く閉じる。その瞬間、藍珠が投げ縄を放った。縄は柔らかく、しかし芯がある。芦の列の端を絡め、引く。足を取られた射手が姿を晒した。紅月の徽章はどこにもない。衣は城下の古布屋の印。もう一本、別の芦陰から矢が走る。楓麟の指先が風をはじく。矢は縄印の向こうへ外れ、無色の旗の下を空しく越えた。


 縄印はこちら側に残った。誰も越えない。越えられない。越えない、と決めたから越えない。境界が線に過ぎないのは、紙の上だけだ。実際の境界は、ここにいる全員の筋肉の約束で出来ている。


 捕らえられた射手は、紅月の人間ではなかった。顔の布を剥ぐと、骨ばった頬に薄い髭があり、目は荒んでいるが濁っていない。服の袖に縫い付けられた印は、城下の古布屋のもの。短弓は紅月式だが、弦の継ぎは白風の市で売っている麻紐の結び方。矢羽根は紅に染められているが、染料は安物で、指先にすぐ移る。矢柄の根元に、小さな痕――かつて玄檀の配下が使っていた符丁と似た焼印。男の口は固かった。固いとは、言葉が出ないという意味ではなく、言葉がどうでもいいという意味でもなく、言葉の意味を知らないように言うという意味だった。金と怨嗟。紅月内乱の混乱に乗じ、「白風が凛耀を殺した」と見せかけて境界を壊す算段。彼は大きな流れを知らない。知っているのは、自分の手の延長にあるものだけだ。


 評議室で男は立たされた。縄は細く、手首に食い込むほどではない。手首に食い込む縄は、誰かの怒りの形だ。怒りは、ここでは使わない。


「即刻、処刑を」


 法務の新任代行は短く言った。声は強い。あの冬の夜、玄檀の審理のときの震えと比べれば、ずいぶん硬くなった。それでも、彼の目は紙の字のまっすぐさで、刃の冷たさではない。


「約定の場で血を流さない」


 遥は首を振った。


「市兵の権限で拘束し、城外の“断頭台のない裁き”へ」


 “断頭台のない裁き”。玄檀の審理のあと、王が選んだ線だ。罪は罪として裁く。だが、切る場所を選ぶ。切らないものを選ぶ。切り方を一つにしない。恨みの刃は、刃からではなく、手順から鈍らせる。鈍らせることは、無かったことにすることではない。鈍い刃は深く入らない。だから、傷跡は薄くなる。


 男は連れ出され、縄印の外に送られた。人々の視線は冷たく、そして短い。怒りは声を持たない。代わりに紙が声を持つ。市兵の帳簿に男の名が記され、出身地、連絡先、受け取った金の額、その金を渡した日付が書き込まれていく。書記の筆が震えないのは、ここが冬ではなく春だからだ。


 凛耀は傷もなく立ち上がり、静かに一礼した。


「鏡で救われた」


 彼は続ける。


「この矢は、我が国内の分裂を加速させるだろう。だが、白風の矢ではないと知れ渡れば、我らの“戦をやめたい側”の理が生きる」


「戦をやめたい側」


 藍珠が口の中で繰り返し、剣の柄から指を離した。鞘が春の光を受けて鈍く光る。剣は鞘にあるとき、鏡のように他のものを映す。抜けば、映すものは減る。入れれば、映るものは増える。


 その夜、王宮の塔で密議が開かれた。風は軽く、しかし蛇行していた。塔の上は春が一番遅く来る場所で、冬の塩がまだ柱に残っている。楓麟は柱に手を当て、耳を傾けた。


「紅月は三つに割れる」


 彼は言った。


「王太子派、王弟派、そして戦をやめたい現実派。凛耀は三番目だ。彼を生かせば、内乱の終わりが近づく」


「生かすために」


 藍珠が剣を膝の上に置き、布で丁寧に刃を拭った。


「こちらの刃を鞘に納める時間が増える」


 遥は縄印の太縄の焼印を思い出した。あの印は刃ではなく、熱で押した。押した跡は消えない。けれど、痛みは早く引く。あの印のように、今日の決め方も跡を残すが、痛みは早く引いてほしい――そんな願いが胸のどこかにあった。


 問題は、城下に残る玄檀の残火だ。古布屋、古書肆、裏寺。冬から潜んで来た小さな穴が、春の光で逆に見えにくくなる。昼の光の中にある影は、夜の影より淡く、そして広い。密偵頭は地図に三色の線を引いた。黒い点をつないだ「噂線」。銀の点をつないだ「金線」。赤褐色の点をつないだ「怒り線」。


「噂線は書生と検塩所と“狐火の本”の流通で相殺します」


 密偵頭が言った。冬の迷信を縫い直した本は、春の市でよく売れた。子に読める絵と短い言葉で「火の形」と「湿りの形」を説明する。狐火の光は火ではない。光が消えるから、火ではない。――その一行を、書生は恥ずかしそうに、しかし誇らしげに読み上げていたのを遥は思い出した。


「金線は、市兵の帳簿検査」


 市兵には帳面が渡され、受け取りと引き渡しの金の線が見えるようにされた。冬の帳はよく凍る。春の帳はよく滲む。滲む数字の上に薄紙を重ね、上からまた書き直す習慣が生まれている。滲みは消えないが、線は太くなる。太くなれば、偽の線はその太さに耐えられず、紙から浮いてくる。


「怒り線は、名の列の“薄線”相談窓口で吸う」


 名の列には、この春から薄線と点線と暗線がある。薄線――所在不明だが目撃情報のある名。その家には労役免除と春借の特別枠が与えられる。その窓口を、緩衝の野にも置くことにした。「ここでも、名は名だ」と紙に書き、灯の下に貼った。怒りは紙に触れると、すぐには消えないが、すぐには燃え広がらない。紙は、怒りの燃え方を遅くする。


 凛耀の出立の朝、無色の旗は風を受けて一度だけ大きく揺れた。灰の渡しの縄印の前で、遥は短く語った。


「境界は、剣だけで守れない。鍬と帳と、鏡で守る」


 凛耀は頷き、胸の前で鏡を一つ持ち上げた。少年にもう一つ渡すための、少し小ぶりの鏡。背の文様は同じ。少年の手の中で鏡はほとんど音を立てない。光だけがそこにある。


「次は夏の市で」


 凛耀が言った言葉は、約束であると同時に賭けでもあった。夏の市まで彼が生きているかどうか。彼の国が夏の市を開ける場所に立っているかどうか。夏の空が、今より厚いか薄いか。鏡には未来は映らない。映るのは、そのときどきの光だけだ。


 対岸の芦が風で揺れる。芦の葉の先には、昨日の矢の微かな擦り跡が残っている。無色の旗は静かに、しかし確かにたなびいていた。



 城に戻ると、掲示板の前に人垣が出来ていた。「名の列」は春の仕事とともに増え続け、端には小さな花がいくつも供えられている。薄線で囲まれた名の前には、相談窓口の札がぶら下がり、点線の名の上には「消息求む」の紙が揺れている。紙は風でめくれるたび、誰かの指で端を押さえられ、また落ち着く。その指には泥がついている。畑から戻って来たばかりの手だろう。


 遥は掲示の前に立ち、朱筆で一つだけ書き足した。


「境界で血を流さない。境界の外で裁く。名は消さない」


 書き足すたびに、自分の手で自分の足元に線を引いているような感覚になる。線は畦の上の白石と同じで、目に見える位置に置けば、誰かがそれを見つけ、踏む。踏んだときに音が出る。音が出ると、誰かが振り向く。そうして線は線になっていく。


 藍珠が回廊の角に立ち、肩の包帯を結び直した。包帯は春の湿気で少し重い。痛みは鈍い。鈍い痛みは、焦りを遅らせる。彼は剣の刃を布で拭き、一度だけ鞘に押し込んだ。音はしなかった。鞘は鏡だ。剣が鞘に入っているとき、剣は自分の輪郭だけでなく、周囲の形も映す。


「生かすために、こちらの刃を鞘に納める時間が増える」


 さっきの言葉を、藍珠はもう一度、剣に聞こえる声で言った。剣は答えない。剣が答えないのは、剣が正しいからではない。剣が道具だからだ。正しさは、刃の外で決まる。刃の外で決まったことを、刃はただ実行する。そのために、刃の外の紙と口と手がある。


 楓麟は塔に上がり、風を聞いた。春の風は、冬の風より匂いがある。湿った土の匂い、発酵しかけの藁の匂い、遠い場所で炊かれる粥の匂い。そこに混じって、今朝の川べりの芦の匂い。昨日の矢が擦った葉の匂いは、もう無い。


「影は薄くなり、形は濃くなる」


 彼は呟いた。影は確かに薄くなっている。影が薄くなるのは、光が強いからではない。光が散っているからだ。散った光は、鏡で集めないと形を持たない。だから、鏡が要る。鏡は刃ではなく、ただ映す。映すものが本物かどうかは、映される側の覚悟にかかっている。


 その夜、城下の夜は早く訪れた。春の夜は長すぎず、短すぎない。灯の列は二重から一重へ戻り、しかし油壺の下には相変わらず小さな隠し灯が置かれている。誰かが消せば、誰かが戻す。戻す手がある限り、灯は消えない。噂は風と同じで、灯があれば遅くなる。遅くなれば、紙が追いつく。


 城門の外、緩衝の野の火床の火は小さく揺れている。封印札の木箱は布で覆われ、夜露から守られている。市兵が交代で見張り、医の館の薬師が消毒瓶の口を湿らせる。狼煙番の少年は鏡を胸に寝た。鏡は人の体温を映さない。けれど、その上に置かれた手の重さは映る。少年の手はまだ小さく、鏡が大きい。いつか手が鏡より大きくなり、鏡はその手の中で音を失っていく。そうなればいい、と遥は思った。


 遠く、北東の街道に、裂いた赤布がまた一つ、風に翻った。色は薄いが、薄い色は春の空に馴染む。冬の赤は凍っている。春の赤は溶けていく。溶けて、土に戻る。土の色に混ざる。混ざった色から、芽が出る。芽は、色の名前を知らない。けれど、混ざり方を知っている。混ざり方は教えなくても、手が覚える。鍬の重さを知る手が、混ざり方も知る。


 名の列の前に立った遥は、紙の端に指を置いた。紙の向こう側に人がいる。その人は、生きているかもしれない。死んでいるかもしれない。紙には、どちらも同じ重さが載っている。薄線と点線と暗線。線は踏むためにある。踏まれて、色が変わって、それでも紙は破れない。破れない紙は、国の背骨になる。背骨があれば、風に押されても、形は崩れない。


 春は、そういう季節だ。鏡が要る。鍬が要る。帳が要る。剣は、あるべき場所にある。名は、消さない。灯は、消えない。境界は、越えない。越えない、と決めたから越えない。決めたことを守り続ける手が、今日の夜も確かにここにある。


 そして明日、また同じように、紙に線が引かれ、鍬が土に入れられ、灯に油が注がれる。鏡は光を返し、剣は鞘にある。凛耀は川を渡り、彼の国で鏡を掲げ、誰かに光を見せるだろう。その光が彼の国の「戦をやめたい側」に届くなら、夏の市は開かれる。届かないなら、別の光を用意する。光は、用意できる。火ではない。火は燃料が要る。光は、鏡があれば拾える。拾って束ねて、向けるだけだ。


 春の川面が、夜明け前の灰色で一度だけ波立った。風が縄印に沿って吹き、無色の旗がわずかに張った。張った布は、戻る。戻る場所があるから、戻る。――王都の塔の上で楓麟が風を聞き、薄く笑った。藍珠は剣を鞘に納め、胸で一度だけ息を深く吐いた。遥は名の列の前に立ち、朱の筆先を紙に置く。その先にあるのは、今日の線。明日の線は、明日書く。今日の線が、明日を呼ぶ。紙は薄い。だが、紙は積み重なる。積み重なった紙は、石より重い。重さは形をつくり、形は影を薄くする。


 鏡面の暗殺者は、鏡に照らされて姿を現した。鏡は刃を持たない。ただ、照らす。照らされたものが何であるかを、見せる。見た上で決める。切るのか、ほどくのか、待つのか、渡すのか――決めるのは、ここだ。ここにいる、名のある手だ。春の光が紙に透け、線と文字が柔らかく浮かぶ。その柔らかさは、弱さではない。春の柔らかさは、冬の固さを溶かすためにある。溶けて流れ、流れて土に入る。土に入ったものは、いつか芽になる。芽は、いずれ刈られる。刈る手が、そのときまたここにいること。それを信じるだけで、今夜は十分だった。

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