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第32話「赤い雪解け」

 北東の街道は、まだ春になりきれない色をしていた。溶けきらない雪が溝の影に長く残り、昼の光で薄く透けて、夕方にはまた硬くなる。ぬかるみの上を風が走ると、凍った砂粒が擦れ合う音がする。遠くから来たのは、そんな音に混じる別の音――麻の布が風に叩かれて鳴る、軽い、しかし切実な音だった。


 紅月の旗だったものを裂いて作った布が、ひらひらと翻っていた。赤はもう均一ではなく、潮の抜けた傷の色に近い。布の端はほどけ、細い糸が風に千切れるたび、空にほどいた線の名残がしばらく漂った。布を縛っているのは、脱走兵たちの腕だった。剣の柄を握っていたはずの指が、今は乾いた袋の口や、子どもの肩紐を握っている。先頭の男は鎧の紐を切って民装に近づけ、背の皮袋には乾いた血が黒く固まっていた。


 城門の前で彼らは地に膝をついた。膝の泥がじわりと広がって、靴底から染み出した水が石の目地に流れ込む。門衛たちは互いに目配せし、槍の石突を足で押さえて、しかし上げも下げもしなかった。商人たちは遠巻きに列を作り、荷車の影に半分身を隠して、恐怖と嫌悪の等分された目で外の群れを見た。どこから見ても、この城はまだ冬のすぐあとにいる。春は、ただ頬の皮膚の下で脈を少しだけ早めている。


「……食と、避難を」


 先頭の男が頭を垂れたまま言った。声は枯れているのに、よく通った。兵はその通りの言い方を覚えるのだろう、と遥は思った。必要最小限の言葉で、必要最大限のものを求める。


 門番が伝令を走らせるより早く、「評議」の鐘が鳴った。



 王宮の評議室は、窓が狭く、声が真っ直ぐに天井へ抜けていく。石の柱と大理石の床は冷たいが、春の光が細長く差し込み、埃の粒が光の中で静かに泳いでいる。冬の間に何度ここで紙と声を重ねたのだろう。柱に背を預けると、その回数分の冷たさが薄くなっているようにも思えた。


「境界布告を盾に、武装を解かぬ者の入域は禁止です」


 法務の新任代行が短く言う。言い方は率直だったが、目は硬くない。紙に触れてきた指のためらい方を知っている人の目だ。


「疫も懸念されます。医の館の隔離室は冬の咳で使い切りました。城内に入れる前に、洗いと、火の側で衣の煖めを」


 医の館の医師が続ける。外套の袖には薬草の匂いが染みついている。


「市の秩序のほうも……」


 商務は唇を鳴らし、帳面を押さえた。


「配給の釜の前の列が延びれば、昨日まで抑えられていた“囁き”が戻ります。塩の桶は足りているが、人の心は桶の印だけでは満たせない」


「労力の振替を」


 工営は前に出た。


「城外で仮の工事を起こしましょう。柵、火床、仮掘りの井戸。整えることが、迎えることになります」


 藍珠は椅子の背に片手をかけたまま、短く言った。


「剣を落とせば入れ。落とさねば、線の外で待て」


 楓麟が、窓際で風を聞いている耳を一度だけ震わせた。


「線の中でも外でも“生”を守る。だが、国の“形”は崩さない。王」


 視線が集まる。紙と剣と風の間に、決断の幅が見える。冬の間、何度も聞いた音が、また同じ位置から始まろうとしている。


 遥は机の上の地図に手を置いた。春の地図には、薄い青で用水の線が、薄い緑で苗床の点が、薄い灰で畦の畦が描き足されている。そこに新しい線を重ねる。


「二段で行く」


 まず、城外に「緩衝の野」を設ける。縄印の外、しかし城壁から目の届く距離――灰の渡しの下手の空き地がある。そこに仮設の柵を立て、火床を整え、井戸の仮掘りをする。柵の内側に塩の桶と粥の鍋、毛布の受け渡し台、簡易の検塩所と消毒桶を置く。「市の外側の市」として、秩序とやり取りの形を与える。紙はそこで配る。名はそこで書く。線はそこでも引く。


「もう一つ」


 武装解除の儀式を明示する。柵の入口に木台を置く。刃物はそこで封じる。封印札には「刀の名」を書く。刀にも名がある。名を紙に写す。封は春の境界が安定したのちに解く。返還するときは、同じ木台の上で、名前を呼び上げる。


「王」


 藍珠が横顔だけこちらへ向ける。


「誰が木台の前に立つ」


「俺が立つ」


 言葉にすると、胸の奥が少しだけ熱を持った。冬、剣の代わりに紙の刃を上げ下げしてきた。春、紙の刃を木台に置かせる。剣よりも柔らかく、しかし剣と同じだけ正しい位置に、言葉を置かなくてはならない。



 緩衝の野は、夕暮れまでに形になった。城壁の上から見下ろすと、縄印の外に薄い四角の影が増えている。仮の柵の角で、藁を束ねた火が穏やかに燃え、煙が柳の木の上で薄くほどける。仮掘りの井戸はまだ水を吐かないが、泥の匂いの奥に湿りの気配がある。塩の桶は、昼間に検塩所で使っているものから二つ移した。桶の側に比重表と浮き木が置かれ、沈み具合で濃い薄いを示せる。


 木台の前に立つと、藍珠がすでにそこにいた。剣を抜いてはいないが、柄に置く手は軽くはない。楓麟は少し離れたところで風を聞いている。風は乱れていた。城の外からは乾いた布の音と、幼い泣き声。内からは鍋の音と、書記の筆の音。その間に、火の音が小さく挟まっていた。


 最初の男は、昼に城門前で膝をついた男だった。肩には擦り切れた布袋。口の端に乾いたひび割れ。目は硬い。刃はまだ手にあった。


「刃を、ここに」


 遥は木台を指さした。男の喉が上下する。


「刃を離せば、俺は何になる」


 声は先ほどより低い。剣に慣れた者は、剣を持つことで自分の輪郭を得る。輪郭がなくなったとき、自分が溶けてしまうのではないかという恐怖に、冬よりも春はよく火が付く。春は溶かす季節だから。


「腹が鳴る者」


 遥は答えた。


「子の父。鍬を持つ手。線の中では、それで足りる」


 男は長い沈黙の後、刃を木台に置いた。木台の上で鉄が軽く鳴り、封印札が重なってその音を吸った。書記が札に「刀の名」を写す。「赤霞」「白狼」「無銘」――いろいろな名が書かれる。札の端に薄く朱が押され、木箱に収められていく。封は、ほどくために結ぶ。春に似ている。


 封印を終えた男の肩から、少しだけ力が抜けた。吐いた息の白さはもうほとんどないが、胸の奥から出てきた熱が彼の頬に色を返した。近くの鍋から粥をよそって渡すと、男は両手で器を受け取った。器の底が手の中に温かい重さを残した。


 緩衝の野は夜のあいだに膨らんだ。火床の火は統一の間隔で並び、灯の列が城壁から延びてそこへと至る。灯の油壺は二重にし、上の灯が消されても、下の灯がすぐ戻る。夜の警固は「市兵」が行う。楓麟の案だ。白でも紅でもない、無色の腕章をつけた若者たち――春任用で机に座った者の中から体を利かせられる者、工営の現場で手足を動かし慣れた者、狼煙台で夜を過ごした者たち――が、槍ではなく木の棒を持って柵の内側を巡る。藍珠は柵の外周を、剣を抜かずに歩く。


 城内の不安も同時に膨らんだ。配給所の前の列がいつもより四歩長く伸び、検塩所にはいつもより多くの塩袋が持ち込まれた。小さな声が、また石畳の目地の間を走る。「明日は、我らの粥が薄くなるのでは」「紅月の塩は安い」「王の札は遅い」。紙を信じる心は、鍋の湯気に弱い。湯気の向こうに手を伸ばせないと、紙は遠くなる。


 検塩所の脇で、狐火の本を抱えた書生が震えながら声を張っていた。


「ここで、学べ。塩は薄めでは鍋を傷める。狐火は、火ではない」


 彼の頬も耳も赤い。冬に迷信を撒いてしまった男が、春に「ことわり」の布を縫い直す。目の光はまだ安定しないけれど、声は紙をめくるように続いていた。検塩の桶の中で、軽い塩袋が表面に浮き、重い塩袋が沈む。群衆はその差を見、少しだけ笑い、少しだけ安堵の息を吐く。


 遥は列の端で、一行だけ朱で紙に書いた。


「薄くしない。嘘で厚くしない」


 春の境界は、線に沿って生まれた隙間の名でもある。隙間に火が入り込むのを防ぐには、灯を延ばし、紙を置き、鍋を増やす。どれも手が要る。手を空にしないために、春借の札の端に小さく「緩衝の野労役」を書き加えた。井戸の仮掘り、柵の補修、消毒桶の水替え――それは戦の中の戦ではないが、国の「形」を守る戦であることに違いはない。



 翌朝、灰の渡しの縄印の外から早馬が来た。無色の旗を二回振り、角笛を一度だけ短く鳴らす。「密」。楓麟が塔から降りてくるのとほとんど同時に、凛耀の字が評議室の長机の上に置かれた。


〈王弟派、都の兵糧庫を占拠。王太子派は南へ退き、州ごとに割れ始める。脱走の流れ、強まる〉


 紙は短い。余白が多い。余白に、まだ書かれていない苦しみがびっしり詰まっているように思える。楓麟は風を聞いた。


「風は乱れている。匂いは混じる。鉄と、焦げた藁と、湿った穀の匂い」


「押し寄せは止まらない」


 法務代行が言い、そして、ためらいながら続けた。


「緩衝の野の“名の列”を作るべきです。出身地、家族、傷、希望する労役……名があれば、嘘は減る」


 遥は頷いた。紙は、傷を浅くはしない。でも、傷口の縁を滑らかにする。命のための手当ては、傷の形を記録するところから始まる。


「名の列は、国の内外を問わない」


 朱で書いて、端にもう一つ欄を加える。「返還する刀の名」。封印された札の中身と、人の名とが喧嘩しないように、紙の上で間を持たせる。返すときに呼ぶ「名」を、今のうちから紙に置いておく。


 柵の内側で、書記が小さな長机を広げた。狼煙番の少年が手伝いに来て、列の前で水を配った。少年は、鏡を肩から下げていた。凛耀の鏡だ。背に雲と風の模様が彫ってある青銅の面は、朝の光をやさしく返す。少年は鏡で火床の火を反射させ、遠い塔に合図を送った。点は点へ。線は線へ。春はこうして結び直される。


 封印札を撫でていた一人の男が、火の側で小さく呟いた。


「……帰る場所が、なくなった」


 その声は誰にも聞こえないつもりで放たれたのだろうが、近くにいた少年の耳に届いた。少年は鏡を少し下ろし、男の横にしゃがんだ。


「うちの村、井戸が戻った」


 少年は、得意げでも恥じらいでもない、ただ真っ直ぐに言った。


「畑がふくらむ。……あなたも、鍬、使えますか」


 男はしばらく黙っていた。遠い暗闇を見ていた。春の前にある暗闇は、冬より黒い。何度も立ち止まり、何度も足元を確かめないと、その黒に足を取られる。やがて男は、目をゆっくりと少年に戻し、小さく頷いた。その頷きは誰にも届かない。しかし、頷きは確かにあった。赤い雪解けは、血の色だけではない。刃から鍬へと“形”を変える決断の溶けだった。



 緩衝の野が形になって三日目。城内の空気は、少しずつ落ち着きを取り戻していくように見えた。配給の釜は増やされ、列の前に「遅配の告示」が貼られた。遅れるときは、遅れると書く――王の朱書きは、もはや書記たちの癖になっている。検塩所の桶の前では、軽い塩袋が笑いを生み、重い塩袋が安心を落とす。市場の端で、古布を細く裂いた紐がたくさん売られていた。封印札を結ぶ紐に使うのだという。封印のために売れる紐――皮肉だけれど、悪くない皮肉だ、と遥は思う。


 しかし、火は小さいからといって消えるわけではない。黒衣の囁きは、柵の外ではなく、城内の影のほうで細く続いた。「明日の粥が薄くなる」「市兵は紅月の手の者だ」「刀の封は王の蔵を満たすためだ」。密偵頭は線を引き直し、噂の風の向きを地図に記した。楓麟は灯の列の間隔を詰め、油壺の下の隠し灯の位置を少し変える。藍珠は夜回りの道順をひとつ変える。噂は風と同じ。抑えれば裏へ回る。回った裏に、灯を置き、足を置く。


 その夜、評議室の窓が小さく音を立てた。雨が来た。春の雨は、冬の雨よりも迷いがない。落ちると決めたら、迷わず落ちる。楓麟は耳を風から外し、窓を開けた。湿った空気がひやりと額に触れる。


「風は、乱れている」


 楓麟が言った。


「だが、火はまだ小さい」


「小火のうちに手を差し入れる」


 藍珠が剣の柄に手を置いた。


「刃ではなく、手で」


 手で。紙で。灯で。鍋で。線で。春の戦は効果音が少ない。角笛も鬨の声も、滅多に鳴らない。代わりに、紙が擦れる音、火が小さく割れる音、塩が桶の底で当たる音、粥が鍋の縁に当たって返る音――そういう音が、日を繋いでいく。


 城壁から緩衝の野を見下ろすと、名の列が灯に照らされて白く浮かんでいた。紙に書かれた「名」は、国の内外を問わずそこにあり、火床の火はそれぞれの名前に違う影を落としている。封印の木箱の中では、刃の名の札が静かに重なっていた。返すために今ここで眠っている札。戻らない刃もあるだろう。戻らない人もあるだろう。戻るための紙を、今書く。春はそういう季節だ。


 遥は城壁の縁に手を置いた。石は日中の熱を少しだけ残している。掌に移った温もりは、赤でも白でもない、無色だった。無色の旗が、縄印のそばで風に揺れている。あの旗は、誰にも属さない、しかし誰にも必要な場所の印だ。そこに旗を立てるのは、勇気というより、習慣に近い。日々の積み重ねが国の背骨になる。背骨があれば、風に押されても、形は崩れない。


 底の泥に、春の水が入り始めている。泥はすぐには澄まない。濁りはしばらく残る。けれど、その濁りは、冬に凍ったものが溶ける色だ。赤い雪解けは、血だけではない。刃だけではない。人の頬の内側で溶ける、固かった決めつけや、古い怒りの色でもある。


 名の列の端に、小さな影が動いた。狼煙番の少年だ。彼は鏡を掲げ、火床の火を反射させて、遠い塔に合図を送る。点は点へ。線は線へ。その光は弱いが、――春の夜にはそれで足りる。



 翌朝、緩衝の野の入口の木台の前に、ひとりの女が立った。腕に赤子を抱き、腰に刃を差している。刃の柄には布が巻いてあり、布は汚れているけれど、洗われたことがある手の跡が残っている。女は木台の前で立ち尽くし、腕の中の子の頬を一度だけ撫でた。


「刃を、ここに」


 遥が言うと、女は唇を噛んだ。


「刃を置けば、守るものがなくなる」


「守るものは、腕の中にある」


 女はほんの少しだけ笑った。笑いは、怒りとよく似た筋肉を使う。土色の靴が木台に近づき、刃が置かれた。封印札に「刀の名」が書かれる。女は自分の名も書いた。字ははっきりしている。目は真っ直ぐだ。


「返す時、呼ぶ」


 遥が言うと、女は短く頷いた。


「返しに来ると思うか」


「返しに来ないかもしれない」


 遥は答えた。


「どちらでも、呼ぶ」


 女は腕の中の子を抱え直し、背中をまっすぐにして柵の内へ入っていった。市兵が消毒桶の水を替え、医の館から回された薬師が手洗いの順番を指導する。塩の桶の前で書生が笑い、鏡の光が塔へ跳ねる。


 名の列はまた一つ伸びた。紙の端に、朱で小さく書かれた文字がある。「名を消さない」。線は、今日も引き直される。引き直す手は、昨日より少しだけ新しい手だ。冬の終わりに約束した通り、春はほどき、結び直す。


 楓麟が塔の上で風を聞いた。耳が一度だけ大きく動き、彼は低く呟いた。


「風は乱れている。だが、火はまだ小さい」


 藍珠が剣の柄に手を置いた。少しだけ湿った風が、包帯の下の傷に集まるのを彼は知っている。痛みは生の証だと彼は何度も言った。その痛みが、今日は少しだけ軽い。


「小火のうちに手を差し入れる。刃ではなく、手で」


 遥は城壁に両手を置いて、緩衝の野を見下ろした。灯の列が朝の空気で薄く揺れ、名の紙がそれに合わせて揺れた。揺れるのは、折れないためだ。春の境界は、今日も細く、しかし確かに立っている。


 遠く、北東の街道に、裂いた赤布が風に翻った。色は薄くなっている。けれど、その赤は、もう恐怖の色ではなかった。決めつけの色でもなかった。春の光に混ざって、別の色が差し始めている。赤い雪解けは、血の色を地に返し、刃の色を紙に返し、紙の色を灯に返し、灯の色を人の頬に返す。返された色は、少しずつ均されて、土へ戻る。そこから芽が出る。芽は、色の名前を知らない。けれど、色の混じり方を知っている。


 春は、そういう季節だ。

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