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第31話「名の列の決断」

 雪は脇へ退いていた。瓦の縁に残った白は、朝の光の中でゆっくり溶け、雨垂れになって石畳に小さな丸い点を描いた。春はまだ浅いのに、王宮前の掲示板にはすでに「苗の列」の紙が増え、色鉛で塗られた粟や麦や豆の点が地図のように散っている。その脇に重ねられたのは、もっと古い色をした束――冬の名、戦の名、配給の名、狼煙番補の名。紙は紙の重さではなく、読み上げられてきた回数と、指でなぞられてきた回数で重くなるのだと、遥は最近わかってきた。


 その朝、新しい束がさらに差し込まれた。井戸の復旧者、畦の補修者、配給所の記録係、狼煙番補――春の仕事で増えた名だ。まだ土の匂いが乾ききっていない指で自分の名を探す人たちが、掲示板の前に小さな半円を作っている。紙の端々には薄く黒ずんだ指跡が重なり、薄墨の線は、読むたびに少しだけ艶を失っていく。


 一方で、冬の戦で行方不明のままの名は、そこにそのまま残っていた。霜の峠、灰の渡し、薄紅平原――場所の名と共に貼られた個々の名の群れが、掲示板の一角を静かに占めている。風が吹くと紙が微かに鳴り、冬の角笛の名残のように耳の奥に届く。呼ばれた名は返事を返さなかったけれど、名であることをやめてはいない。遥は手を伸ばして、その一つに触れた。指先の熱が、薄い紙をわずかに歪ませる。


「王」


 法務の新任代行が、背後で控えめに声を発した。彼は冬のさなかに玄檀の机を受け継いで以来、紙の上の「線」を守る役目を背負っている。こめかみには疲れを洗ったばかりのような白い筋が見えた。


「行方不明者について、一定期間で“推定死亡”に繰り入れる手続きを。遺族給付の確定に必要です。春の配分も動きます」


 言葉は行政の骨、声音は人の肉だった。遥はゆっくりと首を縦に振り、しかし言葉は返さない。紙の名に触れた指先が、微かに震えた。春はほどく季節だ。冬に縛ったものを解き、網をゆるめ、空いた手に鍬や筆を持たせる季節だ。けれど、ここでほどけば、誰かの希望もいっしょにほどいてしまうかもしれない。紙に書かなければ回らないものがあり、紙に書けば傷つくものがある。どちらも嘘にはしたくなかった。


 評議は朝一番で開かれた。大理石の床に春の光が薄く落ち、柱の影が長く伸びる。商務の若い官が最初に口火を切った。


「給付の遅延は市の信用を損ないます。春市の後、細い交易の糸が戻っています。遅れた紙は糸を切る紙になります」


 工営の責任者がそれに続いた。


「給付が確定すれば人手が回ります。春の工事の指名がしやすくなる。泥上げも畦の補修も、帳に人の名が戻ってこないと動かない」


 数が並ぶ。図が置かれる。机上の合理は、無視できない。けれど、机の上で真っ直ぐな線は、掲示板の前に立つ人の前で簡単に曲がる。遥が視線を横に動かすと、藍珠が掲示をじっと見つめていた。彼は戦の剣を収めてからも、春の間ずっと護衛に加わり、工事現場の端で剣の代わりに鍬を握っていた。その指が、掲示の名の一つにそっと触れる。


「戦場で呼んだ名は、返事がなくても“名”だ」


 低く短い声だった。


「だが、戻らぬ名を“死”に繰り入れるのは、剣より重い」


 楓麟が、窓際で風を読んでいた耳をわずかに動かし、静かに続けた。


「名は国の記憶。国の記憶は嘘で厚くしてはならぬ。ならば、決め方の“線”を作る」


 線。冬のあいだ、どれだけこの言葉に救われてきただろう。剣で断つ代わりに、線で保つ。断頭台を立てない代わりに、紙を立てる。遥は、心の中で一度だけ息を整えた。それから朱の筆を取り、紙の端に「線」と書いた。


「“推定死亡”は使わない」


 遥の声が、部屋に低く広がった。


「“帰還未確認の名”とする。線は三つ。ひとつ、戦場所在の裏取りが完了した名は“暗線”で囲み、給付は仮から本へ移す。ふたつ、所在不明だが目撃情報が残る名は“薄線”で囲み、家には労役免除と春借の特別枠を出す。みっつ、情報が全くない名は“点線”で囲み、掲示の上端に『消息求む』の札を付ける。線は飾りではなく、行政の扱いを変えるために引く」


 法務代行がうなずき、書記が立ち上がる。紙を切る音、押印の準備、線の幅を決める物差し。机の向こうと掲示板の前が、目に見えない糸でつながる瞬間だ。藍珠は一歩下がって腕を組み、楓麟は風から耳を外した。


「王」


 工営の責任者が控えめに挙手した。


「“暗線”の裏取りは、密偵線と医の館と埋葬記録の照合が必要です。時間がかかる」


「時間はかける」


 遥は即答した。


「嘘を薄くするには、必要な時間だ」


 話が決まれば、動くのは早い。午後には書記たちが筆の癖の違いを揃える練習をし、線の太さと間隔を定めた。「暗線」は墨を濃く、「薄線」は薄墨を二度重ね、「点線」は等間隔の短い線で囲む。囲われた名の家には、翌日には該当する札が届けられる――その札は給付や免除や募集の窓口に直結する。線は紙の上にだけ引かれるのではない。台帳の中へ、配給の桶へ、工事現場の人出の表へ、線は移されていく。


 王宮前の掲示板の前にはすでに人が集まり始めていた。書記は長机を掲示板の前に持ち出し、線を囲う手順を説明する。誰かが息を呑む音が、何度もした。泣く人がいた。唇を噛む人がいた。記事の端に小さく朱で「訂正」と書かれた紙が新しく貼られ、法務代行が訂正の理由を声に出して読み上げる。「誤字」「同名の別人」「目撃の時刻の錯誤」。誤りは次の嘘になると、王が言って以来、訂正の声は紙を薄くするのではなく、逆に厚くするようになった。


「王様」


 聞き慣れた小さな声が、列の後ろからした。狼煙番の少年が、袖を引いたまま掲示板を見上げている。彼は冬の間、城壁の上で風の中に立ち、狼煙の色や伸び方を読む仕事を任されていた。今は制服の袖に泥の跡があり、指の爪に土が入っている。


「点線の人、この名前……僕の台で狼煙を読んでくれた兵の人だ」


 少年の指先が、ある名を真っ直ぐに指した。遥は書記と目を合わせ、すぐに密偵頭を呼ぶ。照合はその場で始まり、少年の記憶は狼煙の色と時間と方角で正確に補強された。「灰の渡しの北の狼煙台、夜半、南から二、東にひと」と少年は言う。それは記録に残るある夜の合図と一致した。名は、壁の上から紙へ、紙から塔へ、塔から街へ――動く。紙は固定ではない。変わらない形にするのではなく、変わりながら誤らない形にするのだと、遥は思った。


 その日の夕刻、紅月側から薄い風が届いた。封は商人の荷袋の底に隠されていた。取り出すと、小さな紙片には短い字が並んでいる。凛耀の字だとわかる。


〈我が国内、王弟派が軍の糧残を独占。前線は縮小、内廷は分裂の兆し。流入に備えよ〉


 紙の角には、あの古い詩の断片が小さく写されていた。鏡は形を盗むにあらず、形に名を与える。遥は思わず、地図室の壁に掛けた鏡に視線を移した。鏡は薄く光を返し、窓の外の空と、机の端の紙の輪郭を静かに重ねて映した。


「難民と脱走兵が、春道を伝って来る」


 楓麟が言った。


「名の列をほどく決断の最中に、新しい名が境界から押し寄せる」


「押し寄せる前に、縄の門を整える」


 遥は答え、備えの紙を三枚書いた。境界の縄印の強化、越境者の「名の列」への登録手順、検分台での非武装確認。紙は夜のうちに写され、翌朝には灰の渡し下流の「縄の門」に掲げられることになった。


 その夜、王は掲示板の前に立った。風はやわらぎ、人の息は白くない。灯が足元を柔らかく照らし、紙の白がほんの少しだけ黄を帯びる。人々の目がここに集まっていると感じると、喉の奥が勝手に狭くなることを知っていても、遥は一歩前に出た。


「名を消さない」


 彼は短く言った。声は震えないように、でも大きくはならないように。


「消せば、次に嘘が生まれる。嘘で鍋は満たせない。今日から、名の線は三つになる」


 掲示板に貼られた説明の紙に沿って、彼は一つ一つ読み上げた。「暗線」は給付の確定と補償。「薄線」は労役免除と春借の特別枠。「点線」は「消息求む」の札が付けられ、狼煙台の探しの対象に加えられる。そしてもうひとつ、遥は朱の筆を横に滑らせた。


「暗線の名には、春の畑の区画を一つ“名”で残す。帰ってきた時、鍬を入れる場所があるように」


 ざわめきが起きた。喜びとも、怒りとも、感謝ともつかない音が、掲示板の前を流れた。膝を折って泣く人がいた。掌を口元に当てて笑う人がいた。腕を組んで立ち去る人がいた。どれも否ではない。どれも、名が動いた音だった。


「王」


 列の端で、一人の老女が声を上げた。白い髪に薄い布を巻き、粗末な外套の裾を握りしめている。


「息子の名はまだか」


 遥は、言葉を失った。掲示の端を見ても、転記の紙を見ても、答えは今ここにはない。と、その時、書記が走ってきた。肩で息をしながら、耳元で囁く。


「負傷で医の館。命はある」


 老女の膝から力が抜けた。彼女はその場でゆっくり座り込み、涙をこぼした。遥は黙って肩に手を置いた。肩は細く、手は冷たかった。老女は言った。


「春に、あの子と畑を見に行けるように」


 遥は、言葉を短くした。


「行けますように。行きましょう」


 約束は網の目の一つだ。薄いかもしれないが、それでも結ばれた目は、次の力を受け取る。藍珠が少し離れてその様子を見ていた。目は鋭いのに、口元はわずかにやわらいでいる。楓麟は耳を風から離し、掲示の端を押さえた。


「王」


 夜の回廊で、藍珠が言った。足元の石が昼間の熱を少しだけ残している。


「名を線で囲う決め方は、斬るより難しい」


「剣は、藍珠の手のほうが真っ直ぐだ」


 遥が苦笑いを混ぜて返すと、藍珠は首を横に振った。


「剣が真っ直ぐであるには、王の線も真っ直ぐでなければならぬ」


 楓麟の声が重なった。


「線は手続きで立つ。手続きが薄いと、線はたわむ。今日の線は、たわまない」


 遥は頷いた。言葉にしてしまうと簡単に聞こえてしまうけれど、線を引くのは重い。剣は刃を研げば切れる。しかし、線は研ぐだけでは引けない。紙の上で、人の前で、台帳の中で、そして胸の中で、何度も同じ幅で引き直さなければならない。


 翌朝、掲示の前には小さな花が置かれていた。薄い黄の花弁が三枚。誰かの手が摘んだ野の草だろう。花は「点線」で囲われた名の下にじかに置かれ、風に揺れていた。名は紙で、紙は木に貼られているけれど、その下の土と同じように、季節のものに触れていた。遥はその花を見て、胸の内側にほんの少しだけ熱がこもるのを感じた。花は、名を励ますために置かれたのではないのかもしれない。置いた人が、自分のために置いたのかもしれない。それでも、名は花の上に影を落とし、影は風に揺れて、朝の光を和らげた。


 昼前、灰の渡しの「縄の門」に、最初の越境者が現れた。二人、若い男だった。衣の裾は泥だらけで、靴の紐は片方切れている。彼らは門の前で膝を折り、両手を開いて見せた。非武装の合図だ。境兵が近づき、検分台に促す。袖の裏、腰回り、靴の中。武器は見つからない。代わりに、腰袋の口から白い薄金粉がこぼれ落ちた。紅月の金粉。境兵が目を細める。藍珠が歩み出て、男たちの目を見た。


「誰に渡された」


 男の一人が、喉を上下させて答えた。


「王弟派の……兵糧を取りに来い、と。境を試せ、と」


 もう一人が、ほとんど泣くように言った。


「帰りたい。帰れない。名だけでも、ここに置きたい」


 名だけでも、ここに置きたい。言葉は重さを持って落ち、検分台の木に響いた。藍珠は刃に手をかけず、縄を緩く結ぶ合図をした。境兵が機械のような手つきで、薄金粉を封じ、男たちの名を紙に写す。名の列に新しい欄が加わった。越境者の名。そこには、帰る日の欄と、畑に入る日の欄と、誓いの欄が小さく並んでいる。


「誓いを書けるか」


 書記が問うと、男の手は震えた。字は拙いが、真っ直ぐだった。武器を持たない。鍬を持つ。彼らは医の館へ移され、足の傷に薬草が当てられた。


 その日の夕刻、凛耀からの密書が届いた。


〈王弟派が若い者らを境へ送る。失敗すれば処分も厭わず。こちらでできる限り止めるが、止めきれぬことがある〉


 短い字なのに、その字のひとつひとつに疲れが見えた。楓麟は紙を受け取り、風に当てた。紙はわずかに揺れ、音を立てない。風の匂いはうすく、遠くに鉄の匂いが混ざっている。


 夜、王宮の地図室で、遥は鏡に視線を落とした。面には無色の旗と、縄の門の影が薄く映っている。狼煙番の少年がその隣に立ち、鏡の端に指を置いた。


「王様、鏡、預けたままでいいよ」


 少年は、少しだけ口を尖らせた。


「代わりに、狼煙を増やす」


 遥は笑った。笑いは疲れを少しだけほどく。


「頼む」


 少年はうれしそうに頷き、夜の巡回表に自分の名を小さく書き足した。名は、こうして紙の上に増えていく。狼煙台、検分台、配給所、畦の上、井戸の口――紙はどこにでも運ばれていく。


 翌日、掲示板の前で藍珠が立ち止まった。新しく囲われた「薄線」の名の横に、小さな印が付いている。狼煙番の少年の証言に基づく目撃の印だ。藍珠はその印を指で軽く叩き、音を確かめるようにした。


「王」


 彼は言った。


「ここで抜け出せば楽だが、抜かないほうが勝つ」


 遥は頷いた。冬の戦で藍珠が畦の陰で呟いた言葉と、同じだった。抜かない。追わない。崩さない。長いようで短い距離を、半歩ずつ動かす。名の列の決断は、戦場のそれと同じだけの骨がいる。


 昼、商務の若い官が、少し汗をにじませて報告に来た。


「春市の細い糸が太くなりつつあります。塩度桶は相変わらず人を集め、紅月の鉄輪は鍬に嵌まりました。札の遅配告示には今日も“原因と補填”の欄が埋まりました」


 遥は朱で短く書き添えた。


「嘘は書かない。足りないときは“足りない”と書く」


 彼が何度も書いてきた言葉が、もう王宮の壁のどこにでも貼られているような気がした。それでも毎回、書く。紙が薄くなりすぎないように。


 夕方の風が、少しだけ湿りを帯びて吹いた。楓麟が塔の上で耳を動かし、「北東」と言った。遠くの塵の匂いが混じっている。紅月の中の割れ目が音を立てないまま広がっていく匂いだ。無色の旗はその風を受け、縄印の木札が小さく揺れた。


 夜更け、地図室の灯を落とす前に、遥は鏡の面に指を近づけた。映るのは輪郭だけだ。輪郭の向こうのものには触れられない。少年が「鏡は映るけど、触れないから好きじゃない」と言った言葉を思い出す。だから、紙に写す。鍬で触る。名を呼ぶ。線で囲う。触れるための回路を増やしていく。


 扉の向こうで、藍珠の足音が止まり、低い声がした。


「王。眠れ」


「眠る」


 本当のところ、眠れるかどうかはわからない。でも、眠ると言っておかなければ、明日、誰かの前で声が震えるかもしれない。遥は灯を落とし、暗闇に目を慣らす。壁の鏡の面が、わずかに光を吸っている。春はほどく季節だ。ほどくたびに結び直す手が、紙の上にも、人の間にも、必要になる。明日の朝、また誰かが掲示の前に花を置くだろう。花は、名の下で揺れる。揺れながら、立っている。


 そうして迎えた朝、王宮前の掲示板の前で、ひとつの小さな変化が起きていた。点線で囲われた名の下に、昨日の花の横に、誰かが小さな木片を置いていった。細い木の札には、稚い字で「帰っておいで」と書かれている。字は幼いけれど、線は真っ直ぐだった。誰が置いたのかはわからない。けれど、その札の上に落ちる影は、紙の影と同じ形をしていた。


 名は国の記憶。国の記憶は嘘で厚くしてはならない。楓麟の言葉が、遥の背中の骨のように固く残った。藍珠の指先が、掲示の紙の端をもう一度だけ撫でた。風が吹く。紙が鳴る。人が息をする。春はまだ遠いのに、季節の向きは確かに変わっている。名の列は、今日も動く。線は、今日も引き直される。


 その動きのひとつひとつを、ここから見届けるのが、王の仕事だ。


 そして、帰還未確認の名の端に、遥はもう一つだけ朱で書き足した。


「名を消さない。線で待つ」


 朱の線は、朝の光の中で、細く、しかし確かに、浮かんで見えた。

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