第三十話 鏡の使者
春の網は、結び直す手順に入っていた。掲示板の「苗の列」は増え、井戸の側孔は村ごとに一つずつ増え、灯の列は一重に戻っても消えにくい芯を持った。狐火の噂は紙と図で縫い止められ、検塩所には相変わらず水面の輪が揺れている。薄い南風に、冬の匂いはもう混ざらない。藍珠は鍬の柄を壁に立てかけ、楓麟は塔で風を読む時間を半刻短くした。都は、やっと呼吸で進む歩幅を思い出しつつある。
その朝、灰の渡しの縄印の前に、紅月の使節が立った。銀の飾りは控えめで、衣の色は雲を薄くしたような灰。古式の礼に沿って深く頭を垂れ、顔を上げると、眼差しは鋭いのに濁りがない。年の頃は四十の手前か。名を告げる声が、風の層を割って届いた。
「凛耀――紅月王廷・交隣司筆頭、使節」
縄印の前で彼は、もう一度、深く一礼した。風に揺れる木札の焼き印、王と宰相の印の前で、「春の境界を尊ぶ」と短く言う。そして、礼の背骨を曲げないまま、真ん中を差し出すように続けた。
「我が国は、内の継承に火種を抱えた。遠征の費を削らねばならぬ。白風と“春市”を開きたい」
都の評議室。商務は目を輝かせた。法務は眉をひそめた。市は交易の名を借りて人を近づける。近づけば、耳も近づく。耳が近づけば、言葉は刃にもなる。
「市の周辺に武具持ち込みを禁ずる。市の内側は双方の衛兵ではなく、第三の『市兵』で守る」
藍珠は慎重に規矩を置く。楓麟がさらに、薄く微笑んだ。
「紅月の塩は塩度検査に従う。白風の札は遅配のとき、即時告示――透明に」
凛耀はその「透明」を受け取るように肩の力をふっと抜いた。
「透明な市場は、我らにも都合がいい」
言葉の角を立てずに核心を置く喋り口だった。正面から跳ね返すためではなく、こちらの形を見たい、という態度がはっきりあった。王は、そこで初めて正面から彼を見た。人は、構えると目が濁る。凛耀の目が濁っていないのは、構えの角度が目的に向いていて、虚飾に向いていないからだ。
春市の場所は、灰の渡しの下流の広い河原に決まった。縄印の外、対岸の中立地帯。木杭を円弧に打ち、白風と紅月の屋台がそれぞれ半円を描く。中央には「無色の旗」と「市兵の小屋」。旗は楓麟の案だ。どちらの色にも染まらない、市の標。旗の布は城下の女たちが織り、少年らが縁をかがった。小屋には王宮の印刷所で刷った「市の掟」。武器を持ち込まず、争いのつきは市兵の裁決に従う。塩は検塩所を通す。札は掲示に従って用い、遅延は即日告示――嘘を置かない場。
市の日。曇りがちな光が河原全体を均等に照らし、屋台の布の色が浮かび上がった。塩、干し魚、麻糸、鍋、薬草、古布。白風の屋台には、新しい木桶と井戸の木蓋、簡易の塩度桶が並ぶ。塩度桶を覗く顔が次々と現れ、水面の輪が笑いを連れてきた。紅月の屋台には軽い鉄輪が積まれ、農具を直す男たちが群がる。子どもが走り、老人が歩き、商人がしゃがんだ。風は一定で、旗は音を立てない。
凛耀は王に拝礼した。儀礼が終わるやいなや、驚くほど率直に言う。
「我らは遠征より建て直しを選ぶかもしれぬ。だが、我が王の目は高い。白風の“王の線”を、測りに来た」
王は隠さなかった。
「我々は剣で守れないとき、鍬で守る。嘘で回さない。名を消さない。線は、それだ」
凛耀は頷いた。懐から薄い箱を出す。蓋を開けると、青銅の鏡が現れた。背に雲と風の文様。磨かれた面には空の薄い色が揺れる。
「この鏡に映るのは顔だけではない。映したい“形”だ。白風の“形”を、見せてくれ」
そのときだった。市場の一角で狼煙番の少年が、井戸の木蓋の説明をしていた。藁縄の通し方、木槌の打ち方、蓋の下に空気が逃げる穴。凛耀は足を止め、膝を折って目線を合わせた。
「教えてくれ。小さな師よ」
少年は少し背筋を伸ばし、毛細管と土の筋の話をした。鏡の背で日光を反射させて水面の揺れを示してみせると、周りから笑いが起き、拍手がつらなった。凛耀も静かに拍手し、鏡を少年に渡した。
「これは白風のものだ。市の礼として」
少年は戸惑って王を見た。王が頷くと、少年は鏡を胸に抱いて頭を下げた。鏡の面に、薄く、王の手の影と、無色の旗の布が映った。
市の中央では、別のやりとりが進んでいた。紅月の商人が塩袋を検塩桶に沈め、白風の書記が比重表を読み、塩度の薄い袋には端に細い印がつく。印のついた袋も売られた。値は下がるが、嘘は混ざらない。白風の配給札は掲示板に公開された遅延と照らし合わせられ、遅配の欄は、王の朱で「原因」と「補填」が短く書かれた。「橋材の遅れ」「粥で補う」。紙は人の前に出るときに一番強い。凛耀はそれを見て、言葉ではなく息をひとつ長く吐いた。
「透明は、風に似ている。匂いがあれば、違える」
王は頷く。市兵が二度、笛を短く鳴らした。屋台の端で小さな揉め事があり、刃物の柄に手が伸びたのを、笛が止めた。市兵は双方の袖口を確認し、計量台の前へ二人を連れて行って、見物の前で重さを比べさせた。重さは人を黙らせる。黙らせた上で、薄い謝罪を引き出す。謝罪の薄さは、次を薄くする。薄さを薄さのまま外へ出すやり方は、冬の斬るやり方と同じだけの骨がいる。
午後、雲が切れ、光に温度が加わった。麻糸を指で撚る女の指が、冬より柔らかい線を描く。古布を手にした老人が、幼い子の腰に巻いてサイズを確かめる。紅月の鉄輪を買った男がその場で鍬に嵌め、藍珠が少し距離を置いて様子を見ている。敵の鍬も、畑には必要だ。必要なものに境は薄い。境が薄いところに、縄印を濃くする。
凛耀は、うしろ手に組んで市全体を見渡しながら、ふと王へ目を戻した。
「白風は“王の線”を紙にし、掲げる。名も、失敗も。――王よ、その線は、あなた自身の首をも縛る」
「ええ」
王は迷わずに答えた。
「王の首を縛らない線は、民の首を縛るから」
凛耀の目が、ほんの僅か柔らかくなった。彼の背に、薄い疲れが見える。楓麟はその疲れの匂いをつかみ、夜、塔の上で王に言った。
「凛耀の背に、紅月の“内乱”の匂いがある。彼は戦をやめたい側だ。春市を渡りに、紅月の内側が割れる」
「割れるなら、民の血が流れぬよう、境界の縄を固く」
藍珠は剣の柄に手を置く。王は頷き、紙に新しい欄を作らせた。「境界事案 昼」「境界事案 夜」。笛の回数、旗の色、応答の時間。市の一日が終わっても、縄印の向こうで何が起きるかは、こちらの呼吸の速さに関わる。
薄暗くなってから、凛耀が一人で王の前に来た。市兵が遠巻きの輪をつくり、楓麟が風を聴き、藍珠が視線だけで四方を見る。凛耀は鏡の替わりに、一枚の薄い紙を手渡した。古い詩の断片だった。紅月の古語で、「鏡は形を盗むにあらず、形に名を与える」と書いてある。紙の端に、薄く、朱で小さな点がある。楓麟はその朱に目を留め、王の袖を軽く引いた。紅月の交隣の符丁。内乱が表に出る前の合図。王は紙を折り、鏡の背に挟んだ。鏡の背に重さが増す。重さは、約束の数だ。
市の終わりに、無色の旗が風に揺れ、鏡が月を薄く映した。狼煙番の少年は鏡を掲げ、遠い狼煙台に反射の光を送る。点は点へ。線は線へ。鏡のひかりは刹那で、けれど、その刹那が二つの国の胸に静かに写った。言葉よりも静かで、剣よりも強く、噂よりも長い。
王は、市兵の小屋の壁に貼られた「掟」を一枚ずつなぞった。掟の字は、冬の「断頭台を立てない」と同じ形をしている。斬る代わりに、書く。命じる代わりに、掲げる。罪を記号にせず、名にする。名は紙の上で目を持ち、人の前に立つとき、斬るより深く刺さる。深く刺さった名が、次の噂を遠ざける。
帰り道、藍珠が短く言った。
「王。市場は終わった。次は“夏を待つ網”だ」
「ほどくのと、結ぶのと、両方いる」
楓麟は耳を動かした。風が南から少しだけ湿りを運ぶ。畦の白石の影が、細く伸びる。春市の一日は、境界の機微を想像より深く白風の手に渡していた。透明に見えるものの裏側で、人の誇りと疲れが細かく動く。鏡はそれも映す。映すことしかできないけれど、映されたものは、もう嘘ではなくなる。
夜、王は地図室に戻り、鏡を机の端に置いた。面の中に、薄い灯が浮かぶ。灯はゆらぎ、揺れながら形を守っている。昼に交わされた言葉は、紙の上に記録され、塩の袋は倉で重さを測られた。少年は鏡を抱いたまま眠り、狼煙台は夜の巡回を続ける。凛耀は河原で短く空を見上げ、南へ消えた。彼の背が遠ざかると同時に、紅月の陣の角笛は、冬より低い音になった。
王は鏡の面に手をかざしてみた。指先が薄く温かい。面の中で、指の形は輪郭だけになり、輪郭だけが互いに接して、別の形を作る。鏡は嘘を映さない。けれど、真実も映さない。ただ、目の前にある形を映す。だから、こちらの形を整えるしかない。紙で、鍬で、笛で、灯で。王の首を縛る線で。
塔の上で、楓麟が風に耳を傾け、「春の境界、立つ」と低く呟いた。藍珠は剣を鞘に納め、「ほどくべきはほどいた。残るは“芽”を守る戦」と言った。王は鏡の面の中の無色の旗を見て、胸の奥で、静かに一度だけ頷いた。鏡に映ったものの形は、今のところ、守るべき線の形をしている。
無色の旗が、夜風にほんの少しだけ、左右へ揺れた。