第3話 即位の儀
夜の終わりは、王宮の石に最初の鳥が触れる音で知れる。
人が立てたどの灯りよりも薄い、石の肌の奥から滲むような青さが、回廊の縁にそっと指を置く。真上から降りる光ではない。底から上がってくる気配だ。眠りをほどくのに十分で、眠りを破るには弱い。遥はその弱さの中で、目を開いた。
水差しの水は夜のあいだに冷え、杯に移した一口が喉に落ちる音が、自分の身体の外で響いたように感じられた。手の甲の皮膚は乾き、額に巻いた灰青の布は、夢の残りを吸ってしっとりしている。夢は、薄膜の向こうに体育館の床が見える夢。マイクのハウリング。紙の匂い。引き戸の指掛け。指をそこに掛ける前に、目が醒めた。
扉が、二度、軽く鳴った。藍珠だ。合図は昨夜と同じなのに、音の輪郭が今日は硬い。遥はうなずいて、身体を起こし、扉の閂を引いた。
「行く」
藍珠はそれだけ言い、余計な言葉を与えなかった。今日の言葉を節約するように、ひとつひとつの音を必要分だけ置いていく。白衣の裾は朝の風を抱え込み、足音は石の目地で小さく切り分けられる。遥はそのあとを歩いた。眠りの浅い身体が、寝台の形をまだ背中に貼り付けている。剥がれないまま、歩幅だけが前へ出ていく。
回廊の影は濃く、柱の間を抜けるたび温度が変わる。庭の小さな青は夜露をもらえなかったのか、葉先が少し丸くなっていた。風府の鈴は鳴らない。代わりに、壁の向こうで水を運ぶ桶の木がこすれる音が一度だけした。王宮は起きている。起きていないふりをしながら。
楓麟がいた。
天印の間――と藍珠が呼んだ扉の前に、彼は立っていた。銀に近い髪は夜の湿りを拾わず、耳の縁の毛がわずかに逆立っている。目は浅い灰。藍珠に向けるうなずきは小さく、遥に向ける視線は、目を合わせまいとする意思をやすやすと越える。越えることが礼を欠いているのではない。越えるのが礼だというふうに、空気のほうを整えてしまう。
「天はすでにあなたを選んだ。あとは儀を行い、王として認められるのみだ」
口上は石のように冷たく、言葉の脇に余白がない。
遥は息を吸い、喉に爪を立てるように言葉を押し出した。
「いやだ。俺は、王なんかじゃない。……帰してくれ。日本に帰りたい」
楓麟は首を振る。否定は短い。短いが、天井の見えない高さから落ちてくる。
「天意は覆せぬ。逃げようとすれば、あなたも国も滅ぶだけだ」
藍珠の声が続く。温度は低いままなのに、刃の縁の光だけが強い。
「王であることを拒んでも、天印は消えぬ。ならば受け入れろ」
受け入れろ。命令ではなく、選択肢の削除。残る道はひとつ、と淡々と示された地図。
扉が開いた。
天印の間は、王宮の他のどの部屋とも似ていなかった。白は削がれ、金は剥がれ、色は残されていない。広くはない。高い。真上に、空があるのかないのかわからない薄さの明かり取りがひとつ。壁は黒い石で積まれ、床は同じ石が磨きを失って鈍く光る。中央に、黒い石盤。畳四枚ほどの大きさで、縁がわずかに高く盛り上がり、石の面には風を図案化したような線刻が幾重にも回っている。
長風がいた。深くはない礼をして、遥を見て、石盤を見た。巫もいた。緑の衣の襟は絞られ、喉の動きが外からでもわかる。彼女は香をひとつ、石の器に落とし、両手を合わせ、目を閉じた。香は甘くない。乾いた草が焦げる匂い。焦げは熱ではなく、静かな時間の色だ。
「王。石の上に」
長風の声は柔らかく、柔らかさの下に石の硬さを隠している。遥は足を一歩出した。藍珠の手は、背に触れない。触れない距離で、背に真っ直ぐな線を引く。引かれた線に身体が乗る。石盤の縁を跨ぐ。足裏が石に触れた瞬間、皮膚が薄くなった気がした。石が冷たいからではない。石が、足裏の存在を「記録する」からだ。踏んだという事実が、石の中のどこかに沈んでいく。
「天は見ている」
楓麟が言う。言葉は上を向かず、床に落ちない。空間の中央で止まる。
巫が歌い始めた。昨日と似て、昨日より低い。音は言葉を連れていない。連れていないからこそ、言葉が天へ届く。長風が壁の紐のどれかを爪で弾いたのだろうか、鈴の鳴りの残像が耳の奥に広がる。
光は、最初、影の反転のように現れた。
天井の明かり取りが少しだけ濃くなり、次に、濃いまま広がった。広がりは円ではなく、風の渦の形をなぞる。渦の中心が遥の額に降りる。額の布の下で、紋が反応して熱を持つ。熱は痛い。痛みは針ではなく、焼き印の輪郭をなぞる鉄の棒のようだ。棒はゆっくり動き、同じところを何度も過ぎる。逃げられない。逃げると、棒は追う。追って、皮膚の内側へ深く入る。目が勝手に閉じ、喉が閉まらないように意識しないと、息が止まる。
「――ッ!」
声が出た。悲鳴というより、空気をつかみにいった指が滑って出た音。足がすくみ、膝が揺れる。石は揺れない。揺れない石の上で、身体だけが浮く。浮くのに落ちない。落ちないのに浮かない。矛盾のなかで、意識が薄くなる。
光はさらに強くなり、痛みは輪郭を失って白くなった。白くなった痛みは、逆に細部の記憶を生む。教室の時計の針。消しゴムの角。プールの塩素の匂い。父の帰宅の鍵の音。母の包丁のまな板に当たる速度。田所の、どうでもいい冗談。文化祭のポスターの貼り方の揉め事。パネルのコマ割り。引き戸の隙間。風でめくれたページ。ページの端を指で揃える癖。
それらに指を伸ばす直前、光が頂点に達し、痛みは一度だけ、音になって砕けた。
――闇は、痛みの後で優しかった。
目が開いたとき、遥は座っていた。
玉座。白風国の王が腰掛ける座。白い石に薄金の縁取り。背板は高く、左右に風の翼を模した透かし彫り。座面は冷たい。背は硬い。座る者の身体の形に合わせる気はない。ここは身体を楽にするための椅子ではないのだと、座ってみればすぐわかる。楽でない形に自分の形を合わせること。それ自体が儀礼なのだ。
大広間は昨夜よりも人が多い。左右に高官、前に兵、奥に民。民は遠い。遠いのに声は近い。鼓が鳴る。笛が細く応える。巫の祝詞が低く流れ、神官が白い紙の束を振る。紙は風の形に切られ、振られるたび、見えないものの向こう側で音がする。膝が落ちる音。膝が落ちるとき、人は目を閉じる。閉じられた目の数が、音になる。
遥は、膝の上に置いた拳を見た。握る。解く。指の関節の白さ。額の布の下は、まだ熱い。熱は痛みではない。焼け焦げの縁のように、少し黒い。黒い感覚が、意識の端に残っている。
「――新王、即位――」
誰かの声が、広間の高みから落ちてきた。人々の合唱がそれを拾い上げる。拾い上げられた声が、天井の装飾の欠けたところで一度砕け、砕けた破片がまた合唱に戻る。
遥は立ち上がりかけて、立てなかった。足が椅子の縁に絡み、関節が動きを忘れる。身体が命令に従わない。従わない身体を見て、心臓だけが命令を早める。早められた鼓動が、喉を内側から叩く。
「やめろ」
声は小さかった。小さかったのに、近くにいた誰かの耳に届き、耳から耳へ渡っていく。渡るたび、少しずつ形が変わる。それでも核の音は変わらない。
「やめろ。俺は――俺は王じゃない。……帰してくれ。頼む」
民の列がざわめいた。ざわめきの中に、幾つかの笑いが混ざる。嘲りの笑い。救いのない笑い。痛みを笑いに変える方法を知らない者の笑い。目を見合わせる者。目を伏せる者。両手を胸の前で組み、祈る姿勢を崩さない者。兵の列は乱れない。乱れないまま、目だけが動き、王の言葉を確認する。
楓麟は玉座の横に立っていた。彼の耳の毛は寝ている。目は浅い灰で、音の波を一つ一つ数えているように見える。彼は、遥のほうを見て、ゆっくりと言った。
「王よ。民はあなたを信じない。だが天は信じた」
言葉は広間の中心に置かれ、そこから四方へ等しく広がる。誰に対しても同じ厚みで届き、誰に対しても同じ冷たさで触れる。
「あなたが選ばれた理由を、あなた自身が探し、証明せねばならない」
証明。日本で、証明は数学の教科書の中にあった。命題を置き、仮定を並べ、結論に到る道を見せる。ここで言われている証明は、紙の上で終わらない。終わらないからこそ、終わり方がまた問われる。
遥は唇を噛んだ。噛んだあとに、血の味がしないほど唇は乾いている。涙は出ない。出ないのに、涙が出そうなときの筋肉の動きだけが顔に残る。みっともなくなる前に、顔を上げた。上げた視線の先に、民の列のさらに向こう、開け放たれた扉の外の広場が見える。広場の端で、誰かが叫んでいた。
「王よ――国を救え!」
叫びは一度だけ。合唱にならない。孤独な声は、逆に遠くまで飛ぶ。飛んで、その高さのまま戻ってくる。戻ってきたとき、遥の胸の中で、昨日市場で聞いた老人の「十年」という言葉とぶつかり、音を立てた。
儀は、強引に進んだ。
白い薄布が遥の肩にかけられ、巫の祝詞が長く低く続く。玉座の背に立てられた風の透かし彫りの間へ、細い紐が張られ、そこに小さな鈴がいくつも吊るされる。鈴は、風府の鈴とは違って音を持つ。持ちながら、鳴らない。鳴らないように結び目が工夫され、結び目のひとつがほどかれるたび、細い音がひとつだけこぼれる。それがすべて終わると、長風が前へ進み、額の布の上から、細い金の輪――風冠を軽く触れさせる。輪は載せられない。触れるだけだ。触れたという事実が、儀に印を与える。
「白風国の王――」
司典の声が高みに上がり、石の壁に刻まれた古い王の名の間を渡っていく。名は続かない。続かないところで、遥の真名が空白に落ちる。空白は落ち続けずに、どこかで止まる。止めているのは誰か。天か。民か。彼自身か。
膝をつく音が、もう一度、波になった。波の端で、嘲りが小さく泡立ち、安堵が小さく沈む。楓麟は何も言わず、藍珠は何も言わず、長風は目を閉じ、巫は唇を引き結んだ。儀は、紙の書式の末尾までなぞられ、最後の印のところで乾いた音を立てて終わった。
遥は、王となった。
王と認められた。
だが、遥自身は、その名を自分の内側のどこにも置けずにいた。置けば、何かがこぼれる。こぼれて、拾えないままになる。そんな予感だけが骨の近くに貼り付いて離れない。
儀の後、楓麟は人払いをした。広間の空気が薄くなり、残ったのは楓麟と藍珠と長風と、巫と、二人の兵だけだ。扉の外の広場の喧噪は続いている。「王」「十年」「救え」。言葉の粒が風に乗り、戻ってくる。
「王」
楓麟の声は先ほどより低く、狭く、遥へだけ向けられていた。
「ここから先の歩みは、あなたの意思を切り離せない。意思のない歩みは、風が拾わぬ」
「……意思なんて、いまは、持てない」
「持てぬなら、持てぬと自覚せよ。自覚も意思の一部だ」
楓麟の耳の毛がわずかに動き、長風が一歩進む。
「王。天印は『覚え』を始めました。覚えは、今日の儀で半ば。残りは日々の歩みで満ちます。いま『王』と呼ばれているのは、呼び名の半分です。残り半分は、あなたが歩いて書く名です」
「歩いて書く名」
「真名だ」
藍珠が短く言う。彼女の目の冷たさは変わらない。変わらない冷たさが、遥の熱をまっすぐに受け止める。
「真名を抱えて立て。抱えずに立つと、風に倒れる」
遥は、玉座の脇の白い石に視線を落とした。石の下に、細いひび。昨日、見つけた芽と同じ角度の線。芽は今日、どうだろう。丸い葉の端は、陽に焼けていないだろうか。市場の老人は、菓子を売る女は、井戸を覗き込んでいた女は。北の畝の盗賊の旗は、どこへ。風府の紐は、何本、今日は震えたのか。巫の歌は、何度、息継ぎをしたか。藍珠は、いつ刀を抜くのか。楓麟は、どこで疲れるのか。自分は、どこで倒れるのか。
「……俺は、帰りたい」
もう一度、言った。自分に向けて。彼らにも向けて。空の薄さにも向けて。
楓麟は頷いた。頷きは小さいのに、空気がひとつ、段を下りた。
「帰るために、王であれ」
昨日と同じ言葉。昨日より深く、昨日より痛くない。痛くないのに、重い。重いものを持ち上げるとき、人は自然に膝を曲げる。膝を曲げると、背が伸びる。伸びた背で、遠くが見える。遠くが見えれば、近くは見えなくなる。近くを見直すには、また膝を曲げる。そうやって、歩幅を決めるのだと、身体のどこかが知っている。
そのとき、広間の外で、笛が一段高く鳴った。合図だ。誰かが駆け寄って、扉の外から声を張る。
「宰相――北の畝、旗、五から七、十へ」
数が増えている。楓麟の耳の毛が立ち、藍珠の足が半歩だけ前へ出た。長風は目を閉じ、巫は息を吸い、吐いた。楓麟は遥を見ず、遥に向けて言った。
「王。いま、剣で整える場がある。あなたは、見ることを続けよ。逃げるな。立っていろ。立っているだけでも、風はあなたを覚える」
「はい」
自分でも驚くほど、声はまっすぐだった。楓麟は頷き、藍珠は玉座の段から降り、影の中へ消えた。白衣の裾が角でひとつだけ揺れ、戻らない。広間の天井のひびに、鈴の欠片の音が引っかかっている。
遥はゆっくりと玉座から立ち上がった。足は震えない。震えないのに、指先だけが微かに震える。震える指で、額の布を整えた。布は少し湿っている。湿りは、涙の湿りではない。香の湿り。歌の湿り。風の湿り。湿りは匂いを運ぶ。匂いは目より先に刺す。刺されれば、誰かがこちらを振り向く。振り向かれれば、こちらも振り向き返さざるを得ない。
回廊を歩く。玉座の高みから一歩下りただけで、石畳は違う硬さを持つ。遥の背に、扉の外の声がまだ残っている。
「王よ――国を救え!」
孤独な声は、それでも、繰り返しのように耳の奥で跳ねた。跳ねて、額の布の下の紋に触れる。紋は、もう痛くない。痛くないのに、触れればわかる。そこに何かがある。何かは、昨日よりも濃い。濃いものを、薄めてはいけない。薄めるのは水ではなく、風だ。風は、整えれば通る。通れば、門は薄くなる。薄くなった門の向こうに、引き戸の指掛けがある。指を掛けるのは、今日ではない。明日でもない。けれど、いつか。
部屋に戻ると、窓の外の空は白かった。白の中に、灰の筋。灰の筋は風の道で、風の道は、いずれ青くなる。青くなれば、芽は葉を増やす。葉が増えれば、影ができる。影ができれば、人はその下で息を整える。整えられた息は、また風を整える。輪。輪の中に、自分の名を置けるかどうか。
遥は寝台に座り、拳を膝に置き、目を閉じた。
「王」と「遥」のあいだに、細い糸を張る。糸は、切れる。切れたら、結ぶ。結んだところは太くなり、太くなったところには、触れた指の跡が残る。跡は、恥ではない。歩いた印だ。印の重なりが、いつか、ひとつの名の形になる。
廊下の遠いところで、靴音が走った。音は、危急の高さで、角で一度跳ね、消えた。藍珠だろうか。楓麟の耳は、いま立っているだろうか。長風の紐は、何本、鳴っているだろう。巫の歌は、朝と違う旋律を持っているだろうか。市場の老人は、いま、風の向きをどう読んでいるだろう。井戸は――今日も、底を見せているだろうか。
帰りたい。
その言葉を、今日だけは声にしなかった。声にすると、言葉が軽くなる日がある。軽くしたくない。重いまま持つ。重いものは、持ち方を整えれば持てる。どの筋肉を使うか。どの足裏で支えるか。誰の視線を背に受けるか。風は、背から胸へ抜ける。抜ける風の音で、自分の輪郭をもう一度描き直す。
夜、巫が短い歌を持って訪れた。歌は言葉にならない。ならないまま、額に触れ、布の上から冷たさを置いていく。長風の使いが紙片をひとつ置いていく。紙片には細い字で「北の畝、旗、退く」と書いてあった。藍珠の刀は血を浴びなかったのだろうか。浴びたとしても、彼女は戻る前に風で匂いを落としただろう。王宮の目は、腹を満たせば半分は正しく見る目だ。半分は、まだ足りない。
遥は紙片を畳み、枕の下に置いた。紙片は硬い。硬さが枕に伝わり、頭の置き方が少し変わる。変わった角度で、天井の白が、違う白になる。違う白を見ながら、目を閉じた。
明日、また儀がある。
儀で歌を受け、風を受け、器のひびに薄板を当て、紙で裏打ちする。紙を濡らすのは、涙ではなく、水ではなく、呼吸だ。呼吸は、整えれば強くなる。強くなった呼吸で、門に触れる。触れた門が、わずかに形を変える。変わった形を覚えておく。覚えは、帰り道の地図だ。地図は、歩いた足音の数だけ、濃くなる。
王であることを、受け入れていない。
その否定の形が、今日の自分の外側に、確かな縁取りを作っている。縁取りがあるから、中心が揺れても、崩れない。崩れないから、歩ける。
歩ける限り、帰り道は薄れない。
薄れない帰り道の先に、引き戸の指掛けが、確かにあると――今日だけは、信じることにした。




