第二十九話 狐火の噂
春は、まだ扉の向こうにいるようだった。朝の空気の端にだけ温度のやわらかさが混じり、石畳の目地にだけ細い緑の気配が差し込み、外套の襟を指でつまむ癖が一度減った。それでも、城の陰の井戸の縁には霜が薄く残り、北門の外の空地には昨夜の風の名残が白い砂を寄せていた。季節は動き出したが、人の心はまだ冬と春の間に立っていた。
そんな時分に、城下で妙な噂が立った。夜の畑に狐火が出る。王の札を燃やすと収穫が増える――。最初にそれを耳にしたのは、検塩所の桶を見張っていた書記見習いの少年だった。少年は塩の袋を沈めたり浮かせたりして、列の端に立つ子どもと同じ目線で比重表の字をなぞっていたのだが、背後で女たちが囁く声が、比重表の数字よりも強く耳に残ったという。狐火、札、収穫。三つの言葉がひとつの袋に入れられて、軽く振られてから渡されるように、人から人へ移っていった。
噂は、井戸や用水の理と正面からぶつかった。札は働きの順番や配給の記録であり、嘘を薄めるための紙であり、冬から春へ橋を渡す板だった。それを火にくべろと言う。紙を燃やして得られるのは灰であって、芽ではない。分かっていても、分からないものを見る力は、口当たりのいい話にひかれがちだ。春はそういう季節でもある。硬いものがやわらぎ、やわらいだ隙間に、冷たい風ではなく、形を持たない熱が入り込む。
噂が検塩所から広場へ、広場から城下の端へ広がったころ、密偵頭が評議の席に立った。
「紅月の残り火かもしれません。けれど、火のもとは見えません。三筋は洗いました。古書肆の残党、黒衣の隠れ家、境の向こうの小商人。どれも匂いは薄い」
法務は早速、紙束を持ち上げた。
「札焼きは禁制に。違令の札を急ぎ――」
商務の若い官が控えめに手を挙げる。「王宮で“狐火守りの護符”を売っては」と言いかけた瞬間、藍珠が鼻で笑った。笑いは短いが、刃のように鋭く空気を切る。
「嘘に嘘を重ねるな。札は札だ。護符に化けさせたら戻れない」
楓麟は耳の角度を変え、窓の向こうの風の層をひとつずつ剥がすように目を細めた。
「噂は風と同じです。抑えれば裏へ回る。塞げば壁に沿って抜ける。ならば、正面から“理”を通したほうが早い」
視線が王に集まる。遥は紙の端を抑えていた指を離し、短く言った。
「狐火を見に行く」
評議室の空気がふっと変わる。法務は眉をひそめたが、反対はしなかった。冬の間に覚えたのは、紙に書いてから動くより、動いてから紙に書くほうが速いときがあるということだった。
護衛は最小限。藍珠と、近衛から二名。案内役を買って出たのは狼煙番の少年だった。
「僕、夜の畑の道、知ってる。灯の列の隙間も」
少年の声には、冬から続く仕事の誇りが混じっていた。王は頷き、灯の油を少し足すように命じてから、夜を待った。
*
月のない夜だった。畦の白石は、昼間は細い列だったくせに、夜になるとその白さを意地のように見せ、畑の輪郭を辛うじて残した。灯の列は道から道へ細い点線のように続き、巡回の子どもたちがふたつずつの油壺を抱えて行き来している。少年はその背中に短く合図を送って、王を畦の上へ案内した。
夜の畑は、耳のほうが先に働いた。土の呼吸、用水の遠い舌打ち、葦の中の獣の低い挨拶。鼻はその次に働き、湿りの匂いの奥に、腐った果肉のような甘さを拾った。
「ほら」
少年がささやく。畦から三歩外側の低いところに、確かに淡い光が揺れている。青ではない。黄でもない。水に落とした油の輪のように、色の名前を呼ぶ手前でほどける光。狐火、と呼ばれてきたもの。
近衛の一人が剣の柄に手を添えた。藍珠は手を上げて制し、王の横に膝をつく。遥は泥に手を入れ、匂いを嗅いだ。鼻の奥に刺さるような臭い。腐ったものの、頼りない呼吸。少年にも泥をすくわせた。少年は顔をしかめる。
「臭い……」
「腐った匂いだ。火の匂いじゃない」
王は畦の草を小さく抜いた。土は湿って、指の間でほぐれる。草の根についた白い糸が、暗がりでも見えた。王は穴を二つ掘った。片方に乾いた枯草を、もう片方に濡れた苔を入れる。火打石を枯草のほうへ当てると、火花はすぐ燃え移った。濡れた苔の穴へいくら火花を落としても、火はつかず、やがて白い蒸気がゆらりと上がる。光ではない、蒸気の白。蒸気の端に、ほんの少しだけ燐の匂いが混じる。
「これは火に見えるけれど、火じゃない。泥の中の腐った息が、光るだけだ。札を燃やしても、根は太らない。紙は灰になる。灰は土にはなるけれど、札は土にするための紙じゃない」
言葉は、夜気の中で短く息をしてから少年に入った。少年はうなずき、穴のそばに小石を置いた。印すための印。夜に見たものを昼まで持っていくための小さな錨。
王は藍珠に目をやった。
「明日、広場でやろう。見せる。匂いも」
藍珠は頷き、密偵頭へ目だけで合図を送った。密偵頭は暗闇の中で影を薄くし、先に城へ戻って段取りを整えに走った。
*
翌日、広場の検塩所の隣に「狐火見本」の台が組まれた。板の上に浅い穴が二つ。片方には乾いた藁、もう片方には濡らした苔。医の館の薬師が呼ばれ、湿りと乾き、腐りと燃えの違いを図にして、子どもにも読めるように絵を添えた。絵の下には短い文。「湿りの草は病の床。乾いた藁は火の床。狐火は息。火とは違う」。薬師の字は綺麗ではなかったが、綺麗ではない字は覚えやすい。線の途中で鉛筆の芯が折れた跡が、そのまま残っていた。
人が集まった。噂が立つ速度より少しだけ遅く、けれど噂が沈む速度より早かった。王は台の前に立ち、昨夜と同じ手順をたどった。匂いを嗅ぐ。火をつける。蒸気を見る。比べる。子どもが鼻をつまみ、老人が目を細め、女が腕を組んで見ている。群衆の中から自然に声が上がった。
「札を燃やすな」
「札は札のまま置いておけ」
法務は禁制の紙を出す必要がなくなった。紙に書く前に、紙の役割が戻ってきた。商務の若い官はこっそり持ってきた護符の案をしまい込み、検塩所の桶の水を替える手伝いに回った。噂が“理”のほうへひっくり返るとき、紙はいらない。けれど、そのあとで紙はまた要る。紙に残しておけば、次の噂のときに最初から匂いを嗅ぎ直す手間が省ける。
見物が散っていく間、密偵頭は別の線をたどっていた。古書肆の残党、黒衣の隠れ家、紅月の小商人――冬から続く三つの筋を洗い直したが、どれも薄い。代わりに、予想していなかった「第四の線」が浮かび上がった。寺の書生。寺の裏庭で、子どもに字を教え、夜更けに紙を切って灯心に巻きつける癖のある青年だった。
書生は評議室に連れてこられ、蒼白な顔で膝をついた。
「悪意はありませんでした。ただ、冬の間、みんなの顔色があまりにも……。狐火が出る夜は、静かで、少し明るくて、怖さが薄れる。そこへ願いを言えば、すこし救われるんじゃないかと思って……」
法務は罰金を主張し、商務は寺の講堂で「狐火守り」の講座を、と言いかけ、藍珠は目を閉じて首を横に振った。楓麟は耳を動かし、書生の声の温度と、言葉の水分を測る。王は短く息をしてから言った。
「書け。狐火の本を。絵で、子どもが読む本。匂いと、湿りと、燃えの違い。井戸と病と、火の番の話。印刷は王宮で持つ。売り上げは井戸の蓋の費にする」
書生は顔を上げ、口を噛み、深く頭を下げた。涙は落ちなかったが、目の端に薄い光が残った。悪意はなかった。けれど、悪意がなかったからといって放っておける話でもない。王の言葉は罰ではなく、方向を与えた。罰を科すより、紙を科す。紙の重みは、罰金より長く残ることがある。
*
その夜、回廊で藍珠が王に言った。
「王、わざと噂に乗るとは思わなかった」
遥は少し笑って肩をすくめた。笑いは短く、疲れの色を含む。
「冬みたいに全部を縛れない。春はほどきながら、空いた手に本や鍬を持たせる。……縛るのは“線”だけでいい。線の外側は、できるだけ軽く」
「軽く、だが、軽さは崩れやすい」
「だから灯の列を消さない」
楓麟がそこへ来て、風を耳の端で受けた。
「噂の風は弱まった。代わりに、塩の匂いが少し戻った。向こうの商人が“薄め”をまた混ぜたのかもしれない。検塩所の桶は、明日、新しい水に」
「やる」
短い言葉は、冬よりよく通る。言ったことが、その日のうちに動く。紙は夜に書く。昼は見せて、動かして、嗅いで、触る。夜は残す。春の仕事は、昼と夜の役割が冬よりはっきりしている。
*
『狐火の本』は、驚くほど早く形になった。寺の書生は絵のうまい子を三人拾ってきて、薬師の図をまね、工営の絵の描き方を盗み、毛筆で描いた線の隙間に鉛筆で輪郭を足していった。狐の顔はひどくとぼけていて、目は大きく、尻尾は長かった。けれど、狐はどこにも出てこない。狐火は息。息は水と土の上にたまって光る。井戸のほうへ穴を掘る線。雨のあとに腐りやすい草。乾いた藁の束の、燃えやすい理由。子ども向けの本なのに、字より絵が多いのに、読んだ大人がほっと息をつくような作りになった。
王宮の印刷所で早刷りが出て、掲示の板に新刊のお知らせが貼られた。紙には大きく『狐火の本』。その下に小さく「売り上げは井戸の蓋へ」。広場では、絵をまねる子どもが出てきて、泥の上に狐火の絵を描いた。泥の上の絵はすぐに消えた。消えるのが、ちょうどよかった。噂は紙で留め、絵は泥で流す。残すものと、流すものと。王の頭の中の地図には、それも別の色の矢印で描かれていた。
同じ日、検塩所の桶の水が替えられた。塩の袋を沈める手が、冬より荒れていない。女の指の爪の縁の黒が薄く、指輪のように見える。薄い塩の袋を持ってきた小商人は、前より腑に落ちた顔つきで値を下げた。検塩所の横で、工営の若い官が「比重表」を新しくし、紙の隅に薄い皺が増えた。皺の位置は冬と違う。同じことをしても、季節で皺の場所は変わる。紙も生き物だ。
*
それでも、噂は完全には消えなかった。灯の列のひとつが夜に消され、巡回の子らが泣きながら戻る。油壺は割られていた。密偵頭は静かに怒り、「灯を消す者は、飢えより暗い」と言った。楓麟は「灯は二重に」と命じた。油壺の下に小さな“隠し灯”を置く。消されても、すぐ戻る灯。春の噂は、冬の刃より柔らかい分、執拗だ。柔らかい手で何度も同じ場所を撫でて、紙の朱を薄くしようとする。
王は灯の列の中へ入った。巡回の子どもたちと同じ速度で歩き、油を継ぎ足し、灯芯を短く切った。足元には畦への白石が並び、遠くには狐火の絵を描いた子どもの足跡が薄く残っていた。子どもは絵を描いたあと、畑の端で穴を掘り、三つの種を等間隔に落としていった。その姿が、王の目に長く残った。三つ。等間隔。冬の軍議で、投石の角度や落とし穴の間隔を何度も測った王の手と目が、別の場所で同じ動きをしている。戦の知恵は、畑の理に交じることができる。交じることができるのなら、冬に覚えた痛みも、春の重さに変えられる。
*
噂の線が弱まる一方で、別の線がかすかに動いた。紅月の小商人の中に、薄くない塩を持ちながら、紙の値を吹っかける者が出たのだ。彼の言い草には「白風は札に頼りすぎる。札が燃えれば国も燃える」という含みがあった。密偵頭はその言い回しに耳を止め、紅月の諺に似た言葉を思い出した。諺は境界を越える。越えたときに意味が変わる。変わった意味は、境界のこちらで別の刃になる。
王は商人を呼んだ。商人は肩をすくめ、「商いは言葉でござる」と笑った。王は頷き、検塩所の桶の前へ商人を連れていき、自分で塩を掬わせた。沈む。沈んだ塩は重く、売れる。浮く塩は薄く、値が下がる。
「札は札。札を燃やしても、塩は沈まない」
王は短く言い、商人を帰した。商いは言葉だ。言葉の前に、匂いと重さを置いておく。匂いと重さを一度でも手に持った者は、次に同じ言葉を軽々しく使えない。言葉の刃は、重さの前で鈍る。
*
『狐火の本』は一週間で百部刷られ、二週間で三百部に増えた。掲示板の前で読み上げる者が出てきて、子どもがページを折り、老人が指で線をなぞった。「狐火は息。息は水と土の上で光る」。短い文は、冬に王が繰り返した「嘘で回すな。足りないときは、足りないと書け」と同じ形をしていた。短い、けれど重い。重さは言葉の数ではなく、言葉の置き場所で決まる。
寺の書生は評議の帰りに王宮の裏手で藍珠に会い、深く頭を下げた。
「すみませんでした」
「謝る場所は、紙の上にある」
藍珠の声は冷たいが、刃ではない。書生は頷き、次の版で絵を一枚増やすと言った。井戸の側孔の絵だ。冬に王が描かせた絵の、子ども版。絵で人を動かす。紙で人を動かす。剣で人を止める。それぞれの役割の重なりが、冬より滑らかになっている。
夜、王は再び回廊で藍珠と並んだ。楓麟は塔の上にいて、風の薄さを測っている。
「次の風は?」
「北から。弱い。境界を揺らすほどではない。……ただ、噂は風が止んだあとに残ることがある。人の舌に」
「舌の噂は、紙で縫う」
「紙の縫い目がほどけたら?」
「鍬で縫う」
藍珠は笑い、と言っても唇の端がほんの少し上がっただけだが、王にはそれが笑いだと分かった。
*
薄明の畑。狼煙番の少年が穴に種を三つ、等間隔に落とした。『狐火の本』の三ページ目を折り、土をかぶせる。土は冬より温かく、けれどまだ冷たい。指の腹で押すと、きゅうと音を立てた。遠くで検塩の桶が朝日を反射して光り、城下の掲示板には新しい紙が貼られる。『狐火の本』増刷。井戸の蓋の費、蓄えがあと何枚で目標に届くか。紙の端に、王の朱で小さく「足りない」と書かれている欄があり、その下に「足した」の朱が増えていく欄がある。足りないを恥にしない。足りないを次の「足した」へ結ぶ。紙の中の小さな橋。橋は、国の中の大きな橋と同じ働きをする。
少年は土で汚れた指先で、掲示板の自分の名の横に小さな線を引いた。狼煙番補。春任用。約束。王は遠目にそれを見届け、足を止めなかった。見届けることと、立ち止まることは違う。立ち止まりすぎると、紙が乾く。乾いた紙は割れる。王はそれを冬に十分学び、春には忘れないようにと胸の奥で繰り返していた。
狐火の噂は消えたわけではない。きっと、夏にも、秋にも、別の形で顔を出すだろう。けれど、今はいい。今は、噂が“理”へ縫い直され、苗床の地図の上に新しい線が一本引かれた。狐火――あの淡い光は、もう怖くない。怖いのは、札が燃えて紙の声が消えることだった。紙の声は残った。紙の声と、土の声と、風の声。三つの声が重なる場所に、国は立つ。
王は地図室へ戻り、机に広げた「苗床の地図」に朱を置いた。狐火――その文字は書かなかった。代わりに、小さな丸印をひとつ。匂いの場所。匂いの場所は、言葉にはならない。ならないが、印はつけられる。印がついていれば、次に同じ匂いがしたときに、指先が迷わない。
楓麟が入ってきて、窓を開けた。風が紙をめくる。紙はめくられ、また戻る。戻るたび、朱の線の上に薄い影が重なる。影は、春の章の題の片割れだ。芽吹きと影。影がなければ、芽は伸びない。光がなければ、影は生まれない。狐火の光は、影ではない。息だった。息に名を与えて、紙に置いて、土へ返す。返すという言葉の重さを、王は今、冬より深く知っている。
藍珠が鍬の柄で扉の枠を軽く叩いた。癖のような合図。
「王、畦の白石を、もう一つ並べに行く」
「頼む」
短い言葉が、石と石の間に落ちた。落ちた言葉は、石の白さの裏側に吸い込まれて、次に誰かがそこを踏むときに足裏へ返る。足裏で言葉を読む。冬にはなかった読み方だ。春には、そういう読み方がある。
王は紙を巻き、紐で結んだ。紙は紙に戻った。紙に戻ったとき、紙がいちばん強い。狐火の噂は、紙の外で燃えず、紙の中で静かに光った。光は、もう怖くない。怖さを言葉にし、匂いにし、絵にして、鍬に結び直したから。
遠く、薄い南風が城の旗をほんのわずかに鳴らし、塔の上で楓麟の耳が一度だけ微かに動いた。風は次の噂を運んでくるだろう。王は知っている。そのたびに紙を出し、匂いを嗅ぎ、穴を掘り、小石を置く。そうやって進むことを、冬の痛みと春の重さが教えてくれたのだから。
掲示板の「名の列」の端に、もう一枚、新しい紙が貼られた。『狐火の本』改訂――側孔の絵を増やし、井戸の蓋の留め具の図解を加えた版。貼り終えた書記が、紙の角を指で押さえる。指は土で黒い。黒い指は、紙の白に朱の線を引く。その線は、噂をほどいて結び直す線だ。線の先には、春の芽が、まだ固いけれど、確かに尖って立っている。