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異邦の王は風に立つ 副題:天は彼を選んだ。だが彼は――この国の民すら信じてはいなかった。  作者: 斎宮 たまき/斎宮 環
第10章 芽吹きと影

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第二十八話 苗床の地図

 「春の境界」が立ってから、城の石はふた晩で音を変えた。夜半、柱を撫でていく風の鳴りが細くなり、朝、廊の隅にたまる湿りが少しだけ甘い匂いを含むようになった。雪は日陰にだけ居残るわがままな客のように脇へ退き、露出した土はまだ冷たいのに、指の腹で押すときゅうと鳴ってわずかに沈む。土の下で動き始めた水の筋が、耳のいい者には床下の虫のように聞こえるという。楓麟は塔から降りながら、その小さな音の方向を、耳の形を変えるだけで読み取ってゆく。春の入り口で最初に変わるのは、いつも風の肩だと彼は言った。


 朝の政務は、いつもよりも少しだけ人の数が多かった。冬の間、臨時に机を預かっていた若い官たちの何人かを、春任用として改めて名簿に載せる日でもあったからだ。王宮前の掲示に増えた「名の列」はそのまま保たれ、端から端まで読み上げる儀は短く、けれど欠かさずに行われた。名前は、国が忘れないと誓うための最小の単位であり、最強の約束だ。誤記は次の嘘になる――この冬に王が何度も言った言葉は、いまでは書記たちの手の癖になって、貼り替えの布の音と同じ頻度で紙の上に残る。


 その朝、遥は掲示板から「苗の列」を自分の手で外した。細い板に貼られた紙には、子どもたちの小さな字で書かれた「粟」「麦」「豆」「麻」の文字が並び、墨の濃淡は指先の温度の違いのように不揃いで愛らしい。色鉛の点がそれぞれの字の横に置かれていて、点は線に、線は畑の模様に変わる予定だった。王はその板を抱え、地図室へ向かった。長机に広げると、紙の白が朝の光を跳ね返し、部屋の空気まで少し明るく見えた。


「南南東。三日後に小雨」


 楓麟が窓で風を吸い込み、短く告げる。耳の先がわずかに動いたのを、長机の端に座った書記が見ていた。彼はその動きが春の印だとでもいうように、机の角に小さく点を打つ。


「畦の補修班には護衛を付ける。剣はいらない日でも、剣の影は必要だ」


 藍珠は肩の傷を確かめ、革の紐を少し緩めた。その動作を、冬の終わりに覚えたばかりの書記見習いの少年が興味深そうに見ている。藍珠は彼に視線を滑らせ、笑わずに目だけで「見ておけ」と伝えた。春の仕事は、冬の戦よりも人に近い。人に近いほど、囁きや混乱に脆い。剣は畑に入らないが、畑の外で待つ。影があると知っていること自体が、最初の抑止になる。


 最優先は水だった。灰の渡しから上手の用水路は幾つもの場所で崩れ、冬の間に凍み上がった地層の筋が微妙に変わっている。村落の井戸は半分が泥を吸って口を濁らせ、残りの半分は水面が下がって桶の音が空しく響いた。


「井戸の復旧は四段に分ける」


 遥は紙に朱を置き、短く区切られた文に滑りのいい言葉を選ぶ。


「ひとつ、井戸の口の石を外す。ふたつ、周囲の地層の筋を見る。みっつ、毛細管の線に沿って側孔そっこうを掘る。よっつ、水流が戻ったら木蓋で泥を遮る。――手順は掲示、絵も添える。工具の受け渡しは広場で。配給札は作業前に半分、作業後に半分」


 工営司の官が深く頷いて、その場で小さな絵を描き始めた。井戸の絵は簡単だが、側孔の描きかたには工夫がいる。水の線は目に見えない。見えないものを見えるように描くには、見えないことを知っている指先がいる。冬の間に泥上げで指の皮を厚くしたその指先は、想像以上に確かに線を引く。


「春借を布告する」


 遥はもう一枚の紙に朱を移す。「冬借の逆。春の労力を王が前借りし、秋の収穫で返す。条件は明白に。文言は短く。嘘で回すな。足りねば足りぬと書け――これも掲示に入れる」


「王の口癖が、またひとつ規則になりますね」


 書記頭が笑いを含んで言い、朱の太さを確かめるように筆を回した。口癖は、国の骨になるときがある。骨になった口癖は、誰が口にしても同じ強さを持つ。王の声ではなく、紙の声になる。


 その日の午後、王宮のバルコニーに客が現れた。紅月からの密使ではない。境界の向こうの小商人で、彼は雪に薄く汚れた荷袋を担ぎ、深く頭を下げた。


「塩と干し魚を少し、撚り糸を少し……」


 細い交易が、糸のように再開し始めている。細い糸は切れやすいが、切れないためには結び目の位置を確かめなければならない。商人の言葉の端々には、戦の匂いではなく生活の重みがあった。これまで何度も境界の風に背を押されては戻り、ようやく今朝、風の向きが自分の味方をしたのだと、彼の靴の泥が語っていた。


 だが、城下の一隅では昔の囁きも戻り始めていた。「紅月の塩は安い」「白風の札は遅い」。密偵頭はすぐに線を引き、それを耳で伝える。


「安い塩は、塩度が薄い。紅月は“薄め”を混ぜる。――桶を出しましょう」


 遥は頷き、その場で「検塩所」を仮設する指示を出した。塩度試験の桶と比重の表を工営に作らせ、広場の一角に持って行く。人だかりの前で、塩袋から一つかみずつ水に落とす。沈むか、浮くか。重い塩はすとんと沈み、薄い塩はふわりと浮く。群衆の目で確かめられた差は、噂より早く広がった。女が笑って言う。「安くても薄い塩で煮た粥は、腹に残らないよ」


 見物の輪の外で、藍珠が無言で周囲を見ていた。剣はここでは不要だが、剣の所在を人が知っていることは不要ではない。楓麟はわずかに鼻を動かし、風の中に混じる知らない匂いを拾おうとしていた。春の匂いは甘い。甘い匂いに紛れる別の甘さ――薄められた塩のような甘さがあるかどうか、彼はいつも嗅ぎ分けようとする。


 検塩所の騒ぎが落ち着くころ、北門の方から駆け足の音がした。狼煙番の少年が制服の袖を引きながら現れ、遠慮のない声で呼びかける。


「王様、畑、見に来て」


 約束だった。冬の間、王はこの少年に「春になったら畑を見に行く」と言っていた。約束は紙に書かれていないのに、人の体の中でいちばん消えにくいところに残る。遥はその場で最小限の近衛を選び、藍珠と、工営司の若い官を伴って出立することを決めた。楓麟は塔と渡しと峠に耳を残して城に残る。「風は私が聞く」


 城門を出た途端、春の泥が靴の底に重く絡みついた。道はまだ冬の傷を抱えており、昼に柔らかくなる分、朝の固さが恋しく思える。けれど、泥の重さは土が生きている証だ。少年は棒を拾い、道の脇の地面に線を引いた。


「ここに水が来る?」


 遥はしゃがみ、棒の先を持つ少年の手をそっと包んだ。線は坂の肩から井戸の位置へ向かって、わずかに斜めに降りていく。毛細管の筋の話を、王はできるだけ短い言葉で説明した。水は、狭く長いところを好む。土の中の髪のような筋が、遠くの湿りを引いてくる。井戸の近くでせき止めるのではなく、井戸の横に細い穴を開けるのが良い。


「たぶん」


 王は笑って、棒の線の端に小石を置いた。少年は頷き、小石をもう一つ探してきて、別の筋にも置いた。


 村に着くと、かつて避寒所だった場所が苗床に変わっていた。寝台の板は取り外されて土を抱え、窓に結わえられた紐には豆が這うための小さな横棒が添えられている。老人たちが土を砕き、子どもたちが種を指で落とす。指の先に残る黒い線は、墨ではなく、土の色だ。藍珠は剣を外し、鍬を肩に担いだ。工営の若い官は用水の流れの音を耳で追い、井戸の口に身を屈めて側孔を覗く。水面がわずかに震え、泥の膜が薄く裂けようとしていた。


 そこへ、黒衣の影が遠巻きに現れた。冬に滲んだ密偵線の残りかすだ。彼らは真っ正面から敵意を向けるのではなく、横から冷たい言葉を差し込んでくる。


「王は偽だ」


 言葉は軽い。軽いが、冬の間ならば胸に刺さって抜けないほど冷たかったかもしれない。今日は違った。村の女が笑って言う。


「偽でも本物でも、今朝、王はうちの井戸を覗いたよ」


 笑いは短く、言葉はそれきりだった。黒衣の影は風に押されて薄くなり、遠くの畦の向こうへ消えた。人の目の前で水が上がるのを見た者に、紙の上の悪意は薄い。楓麟が言った「紙の声」という言葉を、遥は別の意味で思い出した。紙は国の声、しかし土と水はもっと古い声だ。古い声は、囁きの上に重く乗る。


 夕刻、戻る道で、遥はあまり口を開かなかった。藍珠が横目で問いかける。


「何を考えている」


「冬は“縛る”ことで持たせた。春は“ほどく”ことで動かす。……ほどくたびに、誰かの手は空く。空いた手を、次の仕事へ運ぶ地図がいる」


 藍珠は頷かず、否定もせず、ただ「そうだな」と言わない代わりに歩幅を合わせた。王の言葉は、方向を示す。剣の役目は、その方向に穴があれば埋め、茨があれば払うことだ。楓麟の耳は風の中で答えを先に拾う。三人はいつも、同じ場所に立って同じものを見ているのではなく、離れた場所で別々のものを見て、その断片をあとで一つにする。冬の間に覚えたやり方が、春の仕事にもそのまま使えるとは限らない。けれど、「一つにする」ことだけは、季節の外側にある。


 王宮へ戻った夜、地図室の長机には、昼のうちに乾いた紙がもう一度広げられた。王は色鉛の点をひとつずつ拾い、用水の線を重ねて、空いた手の行き先を書き足す。粟の点は風の筋の上に置き、豆の点は窓の向きのよい場所へ寄せる。麦は少し高いところへ、麻は風の通し道に斜めに。この冬に覚えた判断の半分は戦のためのものだったが、もう半分は、人のための道具に変えられる。


 楓麟が扉口に立ち、耳を動かした。


「風は変わる。地図も変えよ。三日後の小雨は短い。四日目の夕には南から薄い湿りが入る。畦の石はそれまでに一つ分足せ」


「剣は畑の外で待つ」


 藍珠が鍬を壁に立てかけ、短く言った。剣は重さを失わない。けれど、剣が畑に入らない時間が長くなることは、剣にとっても救いだ。冬の夜、焚き火の前で彼は言った。「痛みは生の証」。痛みが剣だけに残る日々は、生だけの証ではなかった。春の痛みは、少し種類が違う。筋肉の張り、掌の擦り傷、泥の重さ。戦いの外縁でしか知らなかった痛みが、剣の掌に戻ってくる。


     *


 翌日から、王都の広場に「井戸復旧」の絵が並んだ。側孔の掘り方、木蓋の形、水が戻ったときの音の聞き分け。絵は子どもにも読めるように描かれている。絵の横で、工営の官が工具と配給札を渡し、書記が名前を控える。列は冬よりゆっくりで、しかし冬より柔らかい。列の中には、冬の間に悔悟令で出頭した若者もいた。彼らは一度目の悔悟で薄く張り付いた目の膜を、春の仕事で剥がそうとしているように見える。密偵頭は彼らに目をやり、線を細く引き直しながら、あえて追い込みすぎない距離を保った。根は引きちぎるより、土ごと上げたほうが残らない――楓麟の言葉は、法務の新任代行の書面にも、工営の現場にも、同じ厚さで通る。


 「春借」の帳も動き始めた。冬借の返済がまだ終わっていない家もある。それでも、春の労力を前借りしたいと手を挙げる者は少なくなかった。王は帳の端に小さく朱で書き添えた。「嘘で前貸ししない。足りないときは、足りないと書く」。朱の線は短く、しかし決して薄くない。


 午後、検塩所では、塩の袋がもう一度水の中に沈められた。噂は短い。噂の向こうで腹が鳴る。腹の音には嘘がない。塩が沈むか浮くか。浮いた塩の袋の持ち主は苦い顔をし、沈んだ塩の袋の持ち主は胸を張る。比重表の紙は、何度も水滴を受けて波打ち、乾き、また濡れた。紙の皺は、使われた証だ。皺のある紙は、誰もが信じやすい。


 夕刻、北門の外に、紅月の小商人が再び姿を見せた。彼の肩の荷は朝より軽い。売れたというより、検塩の桶の前で半分の値段に交渉し直さざるを得なかったのだろう。彼はそれでも笑い、王宮のバルコニーに一礼した。国境の線が紙に引かれるとき、交易の線は人の体で引き直される。彼の靴底に付いた泥は、白風の土と紅月の土のあいだで薄く混ざっていた。


     *


 三日目、小雨が来た。楓麟の読みどおり、雨は長くない。午前の半分で止んだ。止んだあとの空気の湿りで、井戸の口の泥がゆるみ、側孔の中の水が少しだけ厚みを増した。井戸の縁に集まった子どもたちが、桶の底で響く音を聞き分けようと耳を澄ます。遠くから藍珠の低い声が聞こえた。


「叩くな。待て。音は、叩くより先に来る」


 待つ。待てるのが、春の力だ。冬に覚えた「耐える」とは違う。待つのは、いつか来るものに場所を空けておくことだ。耐えるのは、来ないものに身を固くして立つことだ。王はその違いを、紙に書けるほどには言葉にできない。できないから、例えで埋める。井戸の水と、畦の白石と、縄の焼印。どれも少しずつ違う譬えだが、触ってわかる。


 雨のあと、王は工営の若い官とともに、苗床の地図に新しい線を重ねた。用水はこの筋、畦はここまで、泥の袋はこのあたり――戦のために作った泥帯は、春には別の顔を持つ。肥えた水。泥を嫌う種と、泥を好む種。藍珠が鍬の柄を指で叩いて、「麦はここでは重い」と短く言う。楓麟が耳の角度を変えて、「風は三日、南が勝つ」と告げる。王は朱を置き、点と線の関係を変える。


 夕餉の前、王宮の外れで小さな騒ぎが起きた。境界の向こうから来た小商人の一人が、検塩所での揉め事を逆恨みして、列を乱そうとしたのだという。密偵頭が間に入り、短く耳打ちで収める。列は冬より柔らかいが、柔らかいものほど形は崩れやすい。崩れを見せないためには、崩れる前に「戻す」仕草を一度しておくといい。書記が並ぶ時間をまた半分にし、午前と午後で配給所の窓口を分ける「沈黙の市」は、春にも続けられた。並ぶ時間は不満を育てる。半分にすれば囁きは小さくなる――冬に作ったその網目が、春の風でも破れないことを確かめるように、王は窓口の端に立った。


     *


 四日目の朝、北門で例の少年が待っていた。制服の袖は泥で重く、目は晴れている。


「王様、昨日の線、小石のところ、ほんとに水が来た。父ちゃんが『偽でも本物でも、線を見て引くやつに嘘はない』って」


 遥は笑って頷き、「線を見て引くやつに嘘はない」その言葉を心のどこかにそっとしまった。父親の言葉は、王の言葉と紙の言葉の間に落ちずに届く。紙に載せる言葉はいつも短いが、短い言葉ほど、誰かの生活の端に引っかかって残る。


「畑、見に来てよ」


 少年の声は、約束を思い出させるために必要な分だけ大きかった。王は今日も最小の近衛と藍珠を連れて門を出た。工営の若い官がふところに巻尺を忍ばせてついてくる。道は昨日より軽い。泥は薄くなり、石は増え、畦の端に並べた白い小石が雨でいっそう白く見える。


 村では、苗床の地図に合わせて畑の模様が浮かび上がりつつあった。粟の列は短く、豆の列は細く長い。麻の列の間には風の道を空けるための細い空地が、意識的に残されている。老人が鍬の先で土を起こし、子どもが小さな指で種をひとつずつ落とす。落とされた瞬間の沈みかたで、土の湿りがわかる。湿りは昨日より深く、しかし重すぎない。春の水は、冬の水と違って生き物の匂いがする。


「王様、ほら」


 少年が指す先で、用水の脇の側孔から透きとおった筋が細く現れた。穴の中で泥の薄皮がめくれ、水が息を吐く。桶の底で鳴る音が、冬より柔らかい。「ぽん」と「とん」の間にある音。藍珠はその音に目を細め、鍬の柄で地面を軽く叩いて合図した。工営の若い官が木蓋を運び、側孔の口にそっと置く。蓋は水を遮り、泥を避け、側孔の役目を保つ。蓋を締めすぎると水は怒って出てこなくなる。緩すぎると泥が入ってくる。ちょうどいいところで止めるのが、春の仕事だ。


 黒衣の影は、今日も遠巻きに村を見ていた。相手にしないでいい囁きと、相手にしなくてはならない囁きの区別は、冬より難しくない。難しくないという実感が、村の女たちの背に現れていた。井戸が戻った家の女は、誰に言われずとも別の家の井戸の側孔に手を貸す。手はすぐに土で黒くなり、黒い指で子どもの頬を撫で、黒い指で鍋の縁を拭う。黒は、冬の黒とは違う黒だ。生き物の匂いのする黒。


 帰途、藍珠が言った。


「王、今日の約束は、今日のうちに地図に加えておけ」


「加える」


 遥は短く答え、心の中で長く考えた。地図は紙だ。紙は乾く。乾いた紙に新しい湿りを重ねるのは、冬よりも難しい。乾いているからこそ、朱はまっすぐ乗るが、乗せすぎると紙は割れる。紙の割れ目は、国の割れ目の前触れだ。だから、朱は短く、しかし太さを保つ。


     *


 その夜、地図室に灯が三つ点った。机の上には「苗の列」の板、用水の地図、畦の図、そして「空いた手の行き先」を描き始めた新しい紙。王は朱で小さな矢印を加え、工営の若い官が鉛で細い補足を書き、書記がそれを読みやすい字に直す。楓麟は窓に立ち、外の風を読み、扉の前で藍珠が鍬の柄を拭う。四人の仕事の音が重なり、冬の軍議の音とは別の、生活の音になって部屋に残る。


「空いた手は、まず畦へ。畦が終わった者は、用水へ。用水が終わった者は、苗床へ。――順番を紙に書く」


「紙に書いても、風でめくられる」


 楓麟が言い、耳を少し傾けた。「だから、風にめくられても読めるよう、短く」


「短く」


 遥は繰り返し、朱を置く。紙の端に、ひとつだけ別の欄を作る。「足りない」欄だ。足りないと書く場所がある国は、足りないを嘘で塗らない。足りないを自慢にしない。足りないを、次の「足した」へつなげる。


 藍珠が鍬を壁に立てかけ、手のひらを見た。土の色が爪の縁に薄く残る。冬の血の色はここにはない。けれど、痛みは残っている。痛みは生の証。冬に言った言葉は、春には別の形で戻ってきた。


「剣は畑の外で待つ。……ただ、城の外でもう一度だけ剣が要るかもしれん」


「黒衣か」


「黒衣の残りかすではない。塩の薄い噂に乗って、街道の向こうから薄い刃が来ることがある」


 楓麟が耳で風を押さえ、短く頷く。「風は南南東から三日、四日目にわずかに東へ振れる。そのとき、境界の縄印を揺らす者がいるかもしれない。縄は切られない。切ろうとする手を、先に見つける」


 密偵頭は扉の影にいて、その言葉だけを拾い、影を薄くして去った。春の密偵は、冬の密偵より足が遅い。泥を踏むからだ。遅い足でなければ拾えない気配が、春にはある。


     *


 五日目、王は地図と板を抱えて城門の段に立った。狼煙番の少年が城壁の上から合図を送る。北東の空に淡い煙が一つ。紅月の列は遠ざかったまま、今日も戻らない。門前では、検塩所の桶がもうひとつ増え、「比重表」の紙が新しいものに貼り替えられた。紙の隅に小さな皺が残る。皺は同じ場所に増える。この皺の形を覚えていた者は、来年の春、同じ皺を見て「季節が帰ってきた」と思うだろう。


「読み上げるのは、今日は紙ではない」


 遥はそう言って、板を持ち上げた。板の上の「苗の列」を指でなぞる。子どもの名の横に書かれた文字の濃淡。小さな手の癖。粟、麦、豆、麻――四つの文字は、冬の間に繰り返し見てきた「死者の名」「負傷者の名」「労役者の名」と並んでも少しもおかしくなかった。名は、国の呼吸の両端にあって、どちらも同じだけ重い。板の端に朱の小さな矢印がいくつか描き足されている。「空いた手の行き先」。王はその朱をゆっくり辿り、段の上で短く語った。


「冬に縛った分を、春にほどく。ほどくたびに、空いた手が出る。空いた手は、畦へ、用水へ、苗床へ。――嘘で埋めない。足りないときは、足りないと書いて、次に足す」


 沈黙は短く、風が板の端を撫でた。誰かが「ああ」と小さく返事をし、別の誰かが板の文字を見上げて頷いた。歓呼は要らない。板の上の字が人の目に入ること。それで充分だ。


 午後、王は地図室に戻り、板を所定の位置に戻した。壁の上段には「名の列」、下段には「苗の列」。その間の空白が、国の胸骨のように見える。胸骨は折れない。折れないように、毎日少しずつ湿りを当てておく。紙は乾くと割れる。湿りは紙の敵であり、友でもある。


 その夜、王はひとりで地図の前に立った。点は線に、線は模様に。模様の間には余白がある。余白は不安ではない。呼吸だ。そこへ小さな朱の点をひとつ、ふたつ置く。「空いた手の行き先」。点は迷わない。迷いは、紙の外で済ませておく。


 扉がわずかに開き、楓麟が顔を覗かせた。


「風は変わった。南から、薄い匂いが上がる。……三日後、もう一度、小雨」


「畦に石を足す」


「水路の肩を一握り分、広げるといい」


「やっておく」


 言葉は短く、しかし足音は長い。楓麟が消えると、藍珠が入ってきて、壁の鍬を取って掌で重さを確かめた。


「重さは変わらない」


「重さは、変わらない」


 二人は同じ言葉を別々の意味で繰り返した。剣の重さは、季節で変わらない。鍬の重さも、季節で変わらない。変わるのは、持つ者の肩の位置だ。肩に乗るものの種類だ。冬は剣が前に出て、鍬は影。春は鍬が前に出て、剣は影。その影が薄くなる日は、国の中に少しずつ増える。


     *


 翌朝、王は工営司の若い官を呼んだ。


「検塩所の比重表、もう一枚作れ。塩の薄い袋は、薄いと書け。――人に恥を背負わせるためじゃない。薄い袋を持って来た者が次に薄くない袋を持って来られるように、紙を残す」


「紙を、残す」


 若い官の目に、少しだけ誇りが宿った。冬には見えなかった色だ。紙は短く、軽く、しかし捨てられない。紙に残った短い朱は、壁に釘を打つように、人の心のどこかに打ち込まれる。


 城の北の畑では、狼煙番の少年が自分の区画にもう一つ小石を置いていた。王は遠目にそれを見て、何も言わなかった。約束は、言葉にしないほうが強いときがある。言葉にした約束は、紙と同じになる。言葉にしない約束は、土の匂いのする方へ沈んでいき、折れたときにだけ地表に露出する。その露出を恐れすぎると、約束はどこにも置けない。恐れを知ったうえで置く場所を探すのが春の仕事だ。


 昼前、境界の縄印に、薄い影が近づいた。楓麟が塔の上から耳でそれを捕まえ、密偵頭に目で線を引く。影は縄に触る前に、風に押し戻された。風は王の味方でも敵でもない。風は、線を試す。線が紙に書かれているうちは、風は紙の端をめくる。線が縄になっているうちは、風は縄を鳴らす。鳴った縄を見た人々が、そこで初めて「線」を自分のものにする。


 夕刻、王は地図室で筆を置いた。朱の先が乾く音が、ごく小さく聞こえる。乾いた朱は、指で触っても移らない。移らない色は、移し替えができない色だ。間違っていても、紙の上の色は動かない。だからこそ、朱を置く前に迷う。迷いは紙の外で済ませる。


 扉の向こうで、名の列の貼り替えが行われていた。塩煮場で鍋を守って倒れた女の名の下に、今日、新しく「苗の列」の小さな字が増えた。女の子の名、その横に「葱」とある。葱は寒さに強い。冬の鍋に欠かせない。冬を越えた春に、葱の列が増える。そのことが、王にとっては一番の報だった。


 王は灯をひとつ落とした。部屋は暗くならない。窓の外の春の光が、昼よりも柔らかく部屋に入り込む。春の光は、人の手のひらの色を正直に見せる。掌は、今年も泥で黒くなる。黒い掌で紙を触る。紙に黒が移り、黒の上に朱が乗る。その重なりが、今年の地図の色になる。


     *


 夜半、塔の上で楓麟が南からの風を聞き、耳の先を一度だけ鳴らした。風は薄く、軽い。けれど、その軽さの中にひとかけらだけ、乾いた匂いが混じる。紅月の帷幕の奥で、別の布が張られたのだと彼は思う。内側で風向きが変わる気配を、春の入り口の風はよく運ぶ。彼はその匂いを切り分け、切り分けた破片を胸の奥にしまって、階段を降りた。


「王」


 回廊で楓麟は遥を呼び止めた。王は立ち止まり、楓麟の耳の角度で重要な報だと知る。


「境界は立っている。――だが、向こうで芽吹く影がある。今はまだ、風の中の粉のようなものだ。粉は雨で落ちる。けれど、粉が湿って固まると、線の上に乗る」


「春のうちに、ほどけるものをほどいておく」


「ほどく手の地図は、今日の板に足すといい」


 遥は頷き、地図室へ戻った。板の端に、またひとつ朱の小さな矢印が増えた。矢印は短く、しかし向きは迷わない。矢印が多すぎると、地図は読みにくくなる。多すぎない数に抑えることこそ、春の仕事だ。冬は「足す」力が必要だった。春は「引く」力が必要だ。引いて、残った線が国の筋になる。


 藍珠が回廊の角で待っていた。鍬の柄を肩に乗せ、いつもの癖で柄の先を一度だけ指で弾く。


「王、明日、畦の白石をもう一つ並べるのは、俺がやる。剣は畑の外で待つが、石は剣で運んだ方が早い」


「頼む」


 短い言葉が、長い距離を縮める。冬に覚えたことのうち、春にもそのまま使えるものは、こうした短い言葉の構造だった。長く言えば届くわけではない。短く言って届く場所が、冬より増えている。それが春だ。


     *


 そして、七日目の朝。王は地図室の机に広げた「苗床の地図」の上に手を置いた。点は線に、線は模様に。模様は、国の肌に見えた。肌は季節で変わる。変わらないのは、その下の骨だけだ。名の列が骨。苗の列が肌。紙は皮膚のように乾き、湿る。紙に描いた矢印は、皮膚の上に描いた印のように、雨で薄れ、また描き足される。


 楓麟が風の報を持ってくる。藍珠が鍬の重さを確かめる。工営司の若い官が、検塩所の比重表を新しくし、配給所の窓口に薄く油をさす。密偵頭は影の濃さをはかり、薄い影を薄いまま流す。法務の新任代行は誤記訂正の掲示をもう一度点検し、商務司は裂き布税の免除の札の端を直す。狼煙番の少年は木札に刻限を刻み、北東の空の淡い煙を読む練習をもう一度する。塩煮場の女の娘は、葱の列に水をやり、名の列の前で母の名前を指先でたどる。


 王は紙に朱を置いた。朱は短く、しかし太い。――この春の地図は、戦の地図ではない。けれど、戦より難しいところがある。人の足は、矢印に従わない。従わない足のために、矢印の先に小さな石を置く。石は軽い。軽いけれど、置いた人間の重さが石に残る。その重さが、紙の上に見えない印を残す。


 芽は、見える。影も、見える。芽と影の間に線を引くのは、王の仕事だ。線は紙に描ける。けれど、紙の線は風にめくられる。めくられた紙を、誰かが手で押さえる。その手が土で黒くなっている。黒い手の上に朱が乗る。その重なりで、今年の春は進んでいく。


 遥は筆を置き、深く息を吸った。窓の外、薄い南風が、畦の白石の列をなぞる。白い石は動かない。けれど、白い石の向こうを、季節は動く。動く季節に遅れないように、紙をめくり、石を置き、鍬を立て、剣を影に戻す。

 「苗床の地図」は、今日のところは、ここまで。明日はまた、ひとつ矢印を増やすだろう。明日の小雨が、今日の朱を少しだけ柔らかくしてくれるだろう。柔らかくなった朱の上に、また新しい線が重なる。そうして、芽吹きの章は、静かな実務と小さな約束の重ね書きで始まり、続いていく。

 王は机から顔を上げ、扉の先の掲示に目をやった。名の列は、今日も凪のように紙の上に広がっている。苗の列は、その凪の上に浮かぶ薄い波だ。波は、いずれ風になる。風になる前に、紙に線を置く。線を置く前に、土に手を入れる。土に手を入れる前に、約束を胸に置く。

 胸の奥で、冬の痛みとは違う、春の重さが静かに温まるのを感じながら、遥は灯を一つ吹き消した。部屋は暗くならなかった。春の薄い明かりが、紙と土のあいだに横たわる細い境界を、そっとなぞっていた。

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