第2話 白風国の都
丘を三つ越え、土の色が少しずつ灰から黄へと移ったころ、街道の先に薄い影が立ち上がった。最初は蜃気楼のように揺れ、目を凝らしても輪郭が掴めない。歩を進めるほどに影は背丈を伸ばし、やがてそれが人の手で積み上げた巨大なもの――石の壁であるとわかった。
「見えるか。あれが都だ」
藍珠が言う。声はいつもと同じ乾きなのに、遠いところでほんのわずかに風の高さが変わったような、そんな揺らぎを乗せている。
そこへ至るまでの道は、ひたすらに痩せていた。たしかに誰かの足が通った痕跡はある。けれど、道を縁取るはずの畦は潰れ、草の根は白骨のように露出している。畑だったのだろう土地はひび割れ、井戸の丸い縁は崩れ、底は乾いた黒のまま口を開けていた。ところどころに、崩れかけの小屋や、歪んだ箍を巻き直せずに横倒しになった桶。人の暮らしの形があるのに、その中身だけが風にさらわれて抜け落ちている。
途中、三人の農夫とすれ違った。背に負った荷は軽い。木の枝を束ねただけの粗末な棒が杖の役目をしている。彼らの頬は削がれ、目だけがやたらと大きく、油の切れた灯のようにくすんだ光でこちらを見る。藍珠の白衣に気づくと、三人は同じ動きで道の端に寄り、頭を垂れた。怖れているのか、敬っているのか、遥には判じられない。ただ、その動きが「身を細くして通す」類いのものだということだけは、身体のどこかに刺さるように伝わってきた。
「藍珠は、知られてるんだね」
何気なく言うと、藍珠は首を横に振った。
「おれという個は知られてはいない。白衣に佩刀する者は都の人間だ。都の人間は、この十年、『奪うか守るか』のどちらかしかしてこなかった。形を見れば、身を細くするようになる」
十年。王が死んだという、その長さ。遥の時間の感覚で言えば、中学を卒業して高校二年になるまで。長いとも短いとも言い切れない、何かの転換が起こるには十分で、何も変えないためには長すぎる時間。
「前にも言ったな。王が死ねば地気が乱れる」
「……その話。やっぱり、よくわからない。王がいなくなったからって、どうして井戸まで枯れるの」
「理だ」
藍珠の答えは短い。短いが、拒絶ではない。もうすこし続けろ、と刃の柄で土を小突くような気配が添えられている。
「こちらでは、国と王はひとつだ。王の徳は風を整え、風は水を呼び、土を肥やす。徳が失われれば風は流れを失い、水は伏し、土地は痩せる」
「徳って、どこかに目に見える形であるの?」
「見えないものを見えるようにするために、王の額に紋がある。あれは天が刻む印、徳の器がここにあるというしるしだ」
遥は思わず額に巻いた灰青の布に手をやった。布はさらりとして軽い。息を吸うと、わずかに冷たい風がその向こう側で渦巻く気配が伝わってくる。紋は、見ないようにすれば見えない。けれど見ないことは、あることを消しはしない。
「信じられないか」
「……うん。信じる、という言い方が難しい。僕の世界では、誰かが立派だからといって、雨が多くなったり少なくなったりはしない。けれど、立派な誰かがいたほうが、みんながその人をまねて、結果としてまちが良くなることはある。そういう意味ならわかる」
「異邦の理だ」
藍珠は空を一度見た。低い雲――薄い皮膜が重なって、陽の光を白く濁らせている。
「おれたちの理では、王が死ねば国は死ぬ。王が立てば、国は根を持つ。根がある土は、風にさらわれぬ」
「じゃあ、王が間違えたら」
「土は間違えに合わせて傾く。おれは王を崇めるために剣を持っているのではない。傾きを正すために剣を持っている」
言いながら、藍珠は腰の長刀に触れもしなかった。触れないことで、そこにある重さだけを見せた。遠くの石壁は、陽の角度を拾って白く光ったり、すぐに翳ったりする。光があるのに、温かさはない。
都の壁まで、二日を費やした。途中、夜は小さな廃村の影でやり過ごした。藍珠は火の起こし方を教えてはくれない。起こす様子を見せるだけで、「見ろ」とも言わない。ただ、火は手順と風の向きで育つのだと、遥は手の甲に伝わる熱の形で学んだ。干した根菜を切った硬い音。薄い塩の味。眠る前に耳の奥で鳴る風の高さ。夢の中で何度か、校舎の廊下が出てきた。引き戸の音。紙の舞う音。そして、閉められなかった扉の隙間。
三つ目の夜が明け、四つ目の朝の半ば、外縁の門へ至った。都の周りの石壁は高く、二十人分の身体を縦に積み上げたほどだろうか。壁の表面はところどころ黒く煤け、白い補修の筋が縫い目のように走っている。その継ぎ目の粗雑さが、時間の擦り減りを余計に目立たせていた。門の左右、壁の足元には瓦礫が積まれている。崩れたまま修復の順番待ちをしているのか、修復する手が尽きたのか、それは見ただけでは判じられない。
門前の広場には列ができていた。荷車を引く商人、牛の痩せた肋が浮き上がったまま歩く農夫、背に子を負う女。列は思いのほか静かで、声は低い。兵が二人一組になって門の左右に立ち、目は鋭いが、体の端々に疲れが沈殿している。鎧は磨かれてはいるが、ところどころ擦り切れ、紐の結び目で補ってあるのが目に入る。門をくぐる瞬間、人は少しだけ肩をすぼめる。膜を抜けるような違和があるのだろう――藍珠が「風の門」と呼んだものが、この巨大な石の門の内側に幾重か仕組まれているのが、立っているだけで肌に伝わった。
藍珠は列に並ばない。白衣がその権利を与えるらしい。門番の兵がこちらを見て、最初は表情を固くしたが、藍珠の顔を認めると、わずかに肩の力が抜けた。
「藍珠様」
「戻った。拾いものだ」
拾いもの、と言われるたび、遥の背中のどこかが小さく反撥する。言い返したいが、言葉の形が整う前に門が近づき、耳の奥の膜が弾かれる。目を閉じる。遠くで紙の裂ける音。薄い層を抜けるたび、空気の匂いが少しずつ変わる。砂と鉄に、香が重なった。香は甘くない。乾いた草を焚く、鼻の奥を少しだけ刺す匂いだ。
都に入る。足の裏に感じる硬さが変わった。石畳。灰色の石が四角に敷かれ、継ぎ目に砂が詰められている。左右に広がる建物は、かつての豊かさを誇る骨格のままに、塗りが剥げ、庇の布は色を褪せさせている。市場は開いている。けれど、声は小さい。売り手は声を張らない。買い手は値を吹っかけない。もののやり取りは行われているのに、どこか縮んだまま、空気が膨らまない。
空き家が目につく。窓に板が打ちつけられ、扉の前に埃が積もり、砂が溜まっている。人影はある。だが、視線は短く、移ろいやすい。藍珠の衣に気づくと、道の端がすっと空く。子どもの泣き声は聞こえない。泣けないのか、泣いても風に持っていかれるのか。
藍珠は迷いなく路地を縫い、広い通りへ出た。道の先に白が立ち上がる。王宮だ。白い石――大理石だろう。柱は細く高く、庇は広く、光を撥ね返す。その荘厳さはたしかに残っている。けれど、近づくほどに、柱の根本に走る細いひび、足元の絨毯の擦り切れ、壁の継ぎ目の色の違いが目に入る。荘厳さと荒廃が、同じ画面の中で喧嘩をしている。
王宮の門の前で、藍珠は一度だけ振り返った。
「ここから先、口は閉じておけ。目は使え。耳はもっと使え」
遥は頷いた。門の内側は広い中庭になっていて、白い石の噴水は水を吹いていない。盆栽のように剪られた木々は枝先だけが辛うじて青い。兵の数は多くない。だが、立ち位置が計算されている。見えない線が張られていて、通るべき道はそこにしかない。
案内もなく、藍珠は慣れた足取りで回廊を進んだ。回廊の陰は涼しい。柱の影が床に縞を作る。壁には古い織物が掛かっている。鳥の文様。風に髪をなびかせた王の肖像。ところどころ、織りがほつれ、糸が垂れている。誰かが結び直した痕はない。結ぶ手が足りないのだ。
大広間の扉は、背の高さの三倍はある。二人の兵が押し開けると、空気の密度が変わった。冷たい。人の多さの割に音は少ない。高官らしき者たちが左右に分かれて並び、中央に広い空白がある。床の絨毯は赤いはずなのに、踏まれ続けて朱が褪せ、糸の奥から白が覗いている。柱にはひびが走り、金の装飾は指でこすると剥がれそうだ。
その中央、ひとり、座していた。長身痩躯。白に近い銀の髪が肩に流れ、耳の先が人のそれより尖っている。尖りは硬い印象ではなく、柔らかく、風切羽のようにしなやかだ。耳の付け根のあたりに細い毛がふわりと立ち、空気を読む触角のように微かに揺れる。目は細く、色は浅い灰。目の底にほんの少しだけ、風が渦を巻くような光がある。
獣耳――と思った瞬間、遥の背中に冷たいものが降りた。動物園で見た狼や狐の耳ではない。形は似ていても、そこにあるのは「種」の記号ではなく、この場の空気そのものを仕切るための器官のように見えた。人でありながら、人の理を少し越えた存在。藍珠が彼を「風獣族の末裔」と呼ぶのが腑に落ちる。
宰相、楓麟――ふうりん。名は知らされていなくても、その場にいる者すべての視線の流れが、彼を軸にして回っているのがわかった。藍珠でさえ、一歩手前で足を止め、片膝をついた。遥も真似をする。膝が石に触れて硬い。目は床の模様のひびに落とす。
「藍珠」
楓麟の声は低い。風が回廊の角を折れるときに生む低音に似ている。耳の奥を撫で、骨に染みていく。
「戻った」
藍珠の返答は簡潔だ。
「拾いものを」
「異邦の者だ」
楓麟の足音はしない。座していたはずなのに、気づけば距離が縮まっている。不意に近づかれてはいない。近づくこと自体が空気のほうの都合であり、彼の都合ではないような、不思議な滑らかさだ。額に巻いた布へ視線が落ち、そこで止まる。触れはしない。視線だけが、薄い層を剥がす。
「名は」
「水城遥」
藍珠が答える。遥が口を開くより先に。楓麟の薄い灰の目が、遥の目の位置に落ちる。目を合わせまいとしても、合わせられてしまう。目の底の風が、回り、止む。楓麟はわずかに頷き、手を胸の高さに上げた。指が二度、静かに動く。藍珠が一歩前へ出て、遥の額の布にそっと触れた。
「紋を出せ」
命令は短く、優しくないわけでも、乱暴でもない。ただ、そこに何かの「形」が先にあるのだと教える声だった。遥は、喉の奥で乾いた唾を飲み、布をずらした。空気が額に触れる。ひやりとした感触。見えないはずのものが、見られてしまう居心地の悪さ。
広間の空気が、薄く震えた。誰かが小さく息を呑む音。別の誰かが、それを咎める気配。楓麟の目が、ほんのわずかだけ見開かれた。驚きは大きくない。驚くこと自体が礼にかなわぬ、というふうに、驚きを極小化して掌の内に収める。
楓麟は、まぶたをひとつゆっくりと下ろし、上げた。頬の筋肉がわずかに緩み、長い息が言葉の形になって零れる。
「天の選定は、終わった」
わずかな間を置いて、広間の天井が、言葉の重さを落とし返すように響いた。
「この者こそ、新たなる白風国の王である」
音が一斉に立ち上がった。驚愕。嘲り。安堵。祈り。相反する感情の粒が空気に放たれ、光のない花火のように一瞬で消える。高官の一部は顔をしかめ、口角を歪めた。「子どもが」「異邦が」「国が」。言葉は断片にしかならない。別の一部は両手を胸に合わせ、目を閉じた。「ようやく」「十年」「天意」。兵たちの列に波が走る。膝をつく者、拳を胸に当てる者、目だけで確認し合う者。礼は不揃いだが、膝の落ちる音は連なる。
遥は、耳が痺れた。頭のどこかで、酸素が薄くなる。足もとがかすかに浮く。大広間の空気は静かで、冷たいのに、自分の身体だけが発熱している。熱は、怖れの形をしている。逃げたい。ここではないどこかへ、扉を開けたい。扉の形は知っている。引き戸。指を掛け、横に滑らせる。だけど、扉はない。壁は白く高く、天井は遠い。窓はある。けれど、そこには風の層が重なっている。どの層を抜ければ、校舎の廊下へ戻れるのか、見当がつかない。
「待ってくれ」
声は出た。自分の声ではないみたいに、乾いているのに、かすかに震えている。
「待ってくれ。俺は、そんなつもりじゃない。俺は、ただの高校生で、日本へ――」
「王は選ばれるものだ」
楓麟の声が、遥の言葉の上に静かに置かれた。重ねられた紙が下の文字を透かせて見えるように、遥の言葉は消えない。消えないのに、読めなくなる。
「抗えぬ。あなたが王である以上、この国の存亡は、あなたの徳に懸かる」
「徳なんて、俺には――」
「徳は、生まれつき備わるものではない」
楓麟は近づいた。近づくというより、遥の側に空気の溝が掘られ、その溝に彼が流れ込んできた。
「器は天が与える。満たすのは、生きる者自身だ」
遥は、藍珠を見た。助けを求める目は、情けない。見られたくない。けれど、見られてしまう。
藍珠は、遥の目を真正面から受けて、視線だけで「立て」と言った。言葉ではない。彼女の肩の角度、顎のわずかな上がり、そのすべてが「立て」と言っている。うずくまるな。膝を折るな。膝を折るのは、礼の形であって、心の形ではない。
遥は、息を吸い、吐いた。胸の内側の熱は引かない。けれど、熱の輪郭が少しだけ定まる。自分がどこにいるのか、いまどの方向へ倒れそうなのか、そのくらいは掴める。額の布の下で、冷たい風が小さく渦を巻く。紋が呼吸をしている。
広間の端から、一人の老人が進み出た。細身で、袖は余るほど長い。髭は白く、目は黒く、浅い皺が額に横線を描く。衣の色は薄い鼠。官吏だろう。彼は楓麟に礼をし、そして、遥へも礼をした。その礼は深くない。深くないが、形は整っている。
「王のお言葉を……」
王。自分に着せられた語を、遠くから聞く。自分がその音を受け止めるに足る器かどうか。器の縁は今にも欠け、そこから水が零れそうだ。言葉を探す。探して、見つからない。見つからないこと自体が恥になる。恥を衣の内側で押さえつける。
「……俺は、遥は」
言いかけて、舌がもつれる。「俺」と「遥」のあいだで躊躇が生じる。日本語の一人称が、異邦の大広間で、妙に重い。自分を指す言葉を選び直すだけで、立っていられなくなる。
「帰りたい」
結局、出てきたのは、それだけだった。情けない。幼い。けれど、それが嘘でないことだけは、胸の内側の熱が証明してくれる。
広間の端で、誰かが笑った。嘲りではない。鼻先でふっと漏れただけの笑い。別の誰かがそれを咎めるように咳払いをした。楓麟は笑わない。笑わないというより、笑う必要のある場面をこの場から排除していくように、言葉の位置を整えた。
「帰りたい」
楓麟はその言葉を反芻するように、ゆっくり繰り返した。
「帰る門を探すことは、王の務めに反しない」
意外だった。楓麟は続ける。
「白風国の地気が整わず、風の道が乱れている限り、風門は異邦に繋がらぬ。あなたが徳を満たし、風を整えれば、門は開く。帰るために、王であればよい」
居直りのようにも聞こえる。けれど、そこには人を追い詰める陰湿さはなかった。ただ、理のなかで最短の道がここだ、と示す冷たさがあった。熱に水を注ぐのではなく、熱が燃やすべき燃料を手渡すような。
別の高官が声を上げる。声は甲高く、言葉は滑る。
「しかし宰相、異邦の子に王の器が務まるとは――」
楓麟は、その方を一度も見なかった。見ずに、答える。
「器を満たすのは王自身。務まるかどうかは、始める前に問うて答えられるものではない」
高官は口を閉じる。その閉じ方にも貴族の家の教育の跡が見える。楓麟の目が左右にゆっくりと流れ、広間の空気のさざなみを鎮めていく。波は消える。残るのは、床のひびと、柱の傷と、褪せた絨毯の朱だけだ。
「藍珠」
「はい」
「王を風府へ。風を読む者たちに見せろ。門を通るとき、記録に波が立った」
「承知した」
藍珠が立ち、遥の腕に軽く触れる。触れ方は、拾ったものにする触れ方ではない。肩を支える触れ方だ。広間を出る。背に、膝の落ちる音の名残りがついてくる。扉の外は回廊。陰の冷たさが、さっきより深い。
歩きながら、藍珠は言った。
「逃げるな」
「逃げないよ」
言ってみると、言葉は意外にまっすぐに出た。逃げない、と言うことで自分を格好良く見せたいわけではない。逃げ道が今は見えないのだ。見えないなら、逃げようがない。足を運ぶ以外に選べるものがない。
「それでいい」
藍珠の横顔には汗ひとつない。呼吸は浅く、均一。彼女の背は高くはない。けれど、遠くから見れば、背丈の二倍ほどの高さの影を引いているだろうと思わせる歩き方だ。
風府は王宮の一角にあった。宮の外に別棟が並び、その一番奥、壁に沿うように建てられた低い建物。扉は木。木の匂いは弱い。乾きすぎている。中に入ると、空気が柔らかく変わった。風が目に見えた。……というと大げさだが、天井近くに薄い布が何枚も渡され、そこに風が触れるたび布が微かに伏せ、戻る。揺れは波となり、壁に並んだ細い鈴が、ほとんど音を立てないほどの高さで鳴る。その音を人が聴いている。耳ではなく、骨で。
白衣の者たちがいた。男も女もいる。年もまちまちだ。彼らは藍珠を見ると、目を軽く伏せ、遥を見ると、目の伏せ方をもうひとつ深くした。観察ではなく、記録の前の沈黙。
「風府長」
藍珠が呼ぶと、奥の間からひとり現れた。背は低い。髪は短く、白い。目は笑っているのに、笑っていない。笑いは表情の癖で、目の底は静かな湖だ。彼女――女だ――は、藍珠に一礼し、遥に同じ礼をした。
「長風と申します。王」
王、と呼ばれるたび、身体のどこかが「ちがう」と言う。けれど、ちがうと言っているのは皮膚に近い浅い層で、骨の近くでは別の何かが「そうか」と言っている。自分の内側で、異なる層が別の言葉を発する。その重なりに慣れない。
「門を通ったとき、記録が騒ぎました」
長風はそう言って、壁の方へ身体を向けた。壁には、紐が縦横に張られている。紐の交点ごとに小さな紙片が結び付けられ、紙片の中央に極細の文字で何かが記されている。紐は風に揺れ、紙片は揺れに合わせて鳴る。鳴るといっても音はない。紙が擦れる微かな気配だけ。その気配で、彼らは風の入出を読むのだ。
長風は紐のひとつに指を触れ、爪で軽く弾いた。紐が震え、紙片が震え、その震えが周囲の紐へ連鎖する。連鎖はやがて収束し、ひとつの角に集まって消えた。
「門は今、すべて重くなっています。風が入れば、わずかに軽くなる。異邦と繋がるときは、軽さが二重に現れる。あなたが通ったとき、それがあった」
「じゃあ、帰れる?」
問うてしまう。幼い。藍珠の肩がわずかに動き、彼女の視線が横から刺さる。その刺さりの意味は「焦るな」だ。長風は笑いを深くもしない。笑いの癖は癖のまま。
「帰る門は、開いたときにしか見えません。見えない門を開ける方法を、私たちは持たない。持っていたなら、十年のあいだに使っている」
十年。その言葉は、この国の誰にとっても重い。長風があえて軽く言うのは、重さをそのまま手渡すと手を折る者が多いからだ。
「王」
長風は言葉を選ぶ。選ぶ間がある。
「あなたの額の紋は、風の器だ。器が満ち、風が整えば、門は薄くなり、向こうの風の匂いが届く。匂いが届けば、門は見える」
「満たすって、どうやって」
「王は『徳』で満たす。徳は善行の積みではない。『整える』ということです」
整える。日本語の中でも好きな言葉だ。机の上を整える。本棚を整える。呼吸を整える。髪を整える。髪を整えると、気持ちが少し整う。気持ちが整えば、次の手が出る。そういう連鎖。
「整えるには、まず、見なければならない」
長風は、紐の揺れを見ていた目を、遥に戻した。
「都を。民を。風の淀みを」
藍珠が横で頷く。楓麟の言葉と長風の言葉は、方向が同じだ。王宮の中の言葉と、風府の中の言葉が合う。合うこと自体が、まだこの国が壊れていない印だと思いたい。
「見に行く」
遥は言った。言ってから、自分の声が思ったよりも遠くへ飛ばないことに気づく。部屋の中の布や紐が、音を吸ってしまうからかもしれない。藍珠が「行くぞ」と短く言い、長風は礼をして身を引いた。
風府を出ると、陽が高くなっていた。回廊の陰は濃い。藍珠は王宮の裏手へ回った。そこには狭い門があり、門の番は一人だけ。藍珠は軽く顎を上げ、門番はうなずいて道を開けた。
裏通りは、表よりも生活の匂いが濃い。洗濯物が細い路地に跨って干され、桶にためた水は少なめで、底が見える。女が石の上で何かを叩いている。布か、根菜か。子どもが一人、角で石を蹴って遊んでいる。泣かない。石が跳ねる音だけが、薄い笑いに似て響く。藍珠の白衣が見えると、子どもは石を拾って手の中に握り、目を伏せた。
市場の外れに行く。売り物は少ない。干した肉は薄く、干した魚は骨が浮き、干した草は香りが弱い。それでも、人は並ぶ。金がないのか、金の価値が薄いのか、物々交換の手が多い。藍珠が歩くと、自然に道ができる。言葉が飛ぶ。「藍珠様」「白衣」「王宮」。その語の中に新しい語が混ざる。「王」「選ばれた」。混ざるたび、声はわずかに高くなり、すぐに低く戻る。高い声はこの街で長く滞留できない。風が音の高さを削いでいく。
藍珠は立ち止まった。小さな店の前。屋台と言ってもいい。台の上に丸い白いものが並んでいる。乾いた粉を水で練って焼いた菓子らしい。売り手の女は五十に届く手前だろう。腕は細いが、手は硬い。女は藍珠を見ると、深くはないが、きちんとした礼をした。藍珠は懐から布袋を出し、何かを渡す。女は頷き、菓子を二つ紙に包んだ。
「食え」
藍珠がひとつを差し出す。砂糖の匂いはない。香ばしい、焼きの匂い。口に入れると、ざらつきが舌に残るが、噛むうちに甘みが出た。穀の甘み。小さい頃、祖母の家で食べた焼き餅のようだ。食べられる。喉が拒否しない。藍珠はその様子を横目で確認し、何も言わなかった。
店の隅で、小さな咳がした。見ると、布の影にうずくまる老人がいる。骨ばって、皮膚は薄く、眼差しだけが強い。老人は遥の額の布を見て、ゆっくりと目を細めた。
「王様」
老人の声は掠れていたが、はっきりしていた。誰もたしなめない。藍珠も。店の女も。周りの客も。声はそのまま、空気に乗る。
「十年、待った」
十年、という言葉は、この街では祈りの言葉と似ている。言えば、風が少しだけそれを運び、角に引っかける。褪せた布の隙間に、十年が積もっていく。
遥は頷くこともできず、首を振ることもできなかった。ただ、その場に立ち、「聞く」ことしかできなかった。聞くことが整えることの第一歩であるなら、今の自分に出来る最大の徳は、耳を開いて立つことだ。
市場の端を抜け、小さな祠の前に来た。藍珠は立ち止まり、祠の額に貼られた紙を指でなぞった。紙は風札。風を呼び、風を止める。紙は硬くなっていて、角は反っている。
「王」
藍珠は背を向けたまま言った。呼び方が変わっていることに、言われてから気づく。藍珠自身が最初に言葉を変えた。
「都は、まだ持つ。持つが、長くはない。奪う者と守る者の均衡が、弱った板の上で辛うじて取れているだけだ。板の下に水が入り、いつ抜けてもおかしくない」
板の比喩はわかりやすい。学園祭のステージ。雨に濡らすな、と先生が何度も言う。濡らすと軋みが早くなる。裏に支えを入れなければならない。支えを入れるには金がいる。人がいる。時間がいる。
「楓麟は、奪う者の理も守る者の理も知っている。だから宰相をしている。おれは、刀で均衡を支える。長風は、風で支える。おまえは――」
藍珠はそこで言葉を切り、振り返った。目は冷たい。冷たいのに、その冷たさがこちらの熱を否定するためのものではないのだと、遥はもう知っている。
「おまえは、真名で支えろ」
「真名」
「水城遥。おまえの名は、おまえが忘れるには重すぎる。王の名は他人が呼ぶ。真名は自分で抱える。抱えて立て」
真名――。名前を二重に持つこと。王という名と、遥という名。二つの名前は重なるのではなく、隣り合って載る。均衡が崩れれば、片方が落ちる。落ちれば、落ちたほうは傷つく。拾い上げるには時間がかかる。
「……わかった」
言うと、胸の内側の熱が、すこしだけ静かになった。静かになっても消えない。消えないからこそ、立っていられる。熱がなければ、立つ理由がわからない。
王宮に戻る途中、藍珠はふと路地にそれた。狭い。湿り気がある。布が低く渡され、洗濯物の影が顔に当たる。行き止まりのように見える場所で、藍珠は壁を押した。壁はわずかに動き、風が抜けた。小さな空隙。藍珠はそこに銭を一枚置き、壁を戻した。
「何?」
「目だ」
藍珠は短く言った。
「都には、いくつも目がある。目は腹を満たさなければ正しく見ない。腹を満たしても、正しく見ない目もある。いま置いた目は、腹を満たせば、半分は正しく見る」
言葉は理解の速度を越える。越えても、意味は骨の近くに落ちる。「見られる」ということが、守りにも攻めにもなるのは、遥の世界でも同じだ。見られているから、振る舞いを正す。見られているから、弱みを握られる。藍珠は、その両方を計算する。
再び王宮。回廊を戻る途中、庭の片隅に小さな青が見えた。草ではない。木の根元から出た小さな芽。藍珠が足を止める前に、遥の足が止まっていた。目はその青に吸い寄せられ、身体のなかの風が一瞬、色を持つ。長風の言った「整える」の図が、そこにある。
大広間に戻ると、人は減っていた。楓麟はまだいる。柱の陰に、別の影が立っている。女だ。白衣ではない。深い緑の衣。髪は結い上げられ、飾りは少ない。目は強い。楓麟が手を上げると、女は前へ出た。
「風祈の巫だ」
楓麟が紹介する。巫は遥の前で膝をついた。礼は深い。深さは、敬意ではなく、役目の重さに比例している。
「王。祈りは風を動かすためではなく、風に乱れを知らせるために行います。乱れに気づけば、風は自ら整おうとする。その手助けを、私たちはします」
言葉は穏やかだが、芯が硬い。祈りが現実から逃げるためのものではないと、彼女は言う。現実と同じ硬さで祈ることを、日常としてきた声だ。
「あなたの紋は呼んでいます。呼ぶ声は遠い。遠い声を近くするには、王の歩く道に風を通さねばならない。明日、儀を」
「儀?」
「風と王の歩みを結ぶ儀です。危くはない。疲れるだけ」
疲れるだけ。いまの自分にとって、疲れることは怖い。疲れれば、弱さが顔を出す。弱さを見せたくない。けれど、見せなくても、弱さはそこにある。
「明日」
楓麟が言い、藍珠は頷き、巫も頷いた。決定は速い。速さは、崖の縁を走る者の速さだ。遅れれば落ちる。落ちれば、誰かが拾いに行く。その誰かが足りない。
広間を辞し、藍珠は遥を小さな部屋に案内した。部屋は石。床は板。窓は高い。寝台はひとつ。水差しと杯。壁に掛かった布は薄い。贅沢ではない。けれど、清潔だ。藍珠が扉の外で言う。
「眠れ。眠れなくても、横になれ」
「藍珠は」
「門の番に話を通す。おまえの寝息の高さは、この壁でも聞こえる。騒がしくするな」
冗談のようでいて、冗談ではない。遥はひとりになった。寝台に腰を下ろす。板のきしみ。水をひと口。冷たい。冷たさが舌から喉へ落ち、胸の奥で小さく広がる。
窓の外で、風が布を揺らす音がする。日本の夜の音と似ている。似ているのに違う。違いは、音が石に当たるか、木に当たるかの差だ。石は音を返す。木は音を吸う。ここでは、返ってきた音が、別の音にぶつかってまた返る。その反射の繰り返しが、夜の底にわずかな波を作る。
目を閉じる。閉じなくても、暗い。頭の中で、今日の言葉が並ぶ。王。徳。整える。帰る。真名。藍珠。楓麟。長風。巫。老人の「十年」。子どもの石。市場の匂い。枯れた井戸。芽の青。……そして、田所の「水城観音」。窓際の席。文化祭の準備。プリントの束。引き戸の手触り。あの世とこの世の境界が、紙より薄いときがある。紙より薄いものは、指で破れる。破れた紙は、テープで繕える。けれど、風に当たれば剥がれる。
帰りたい。
帰るために、王であればいい――楓麟の言葉が、紙の裏に書かれた鉛筆の跡のように、薄く残る。そこに指を当ててなぞれば、わずかに凹凸が感じられる。凹凸に沿って、明日の歩幅を決める。
眠りは浅い。浅いが、途切れ途切れに来る。夢の中で、風の門が見えた。透明な水の膜。指を当てれば冷たい。冷たさの向こうに、体育館の床の鈍い光。スピーカーのハウリング。マイクの声。「次のプログラムは――」。膜は薄いのに厚い。厚いのに薄い。揺れる。揺れに、額の紋が呼応する。呼応のかすかな音で、目が覚める。
朝。天井の色が灰から薄い黄へと変わる。石の部屋は夜より暖かい。扉が軽く鳴り、藍珠が入ってきた。
「食え」
木の盆に、薄い粥と、干した果の小片。粥は温かい。温かさが胃に落ち、胃が驚いてから、安堵する。果は硬い。噛む。噛んでいるあいだ、自分がいまこの世界で生きるための動作をしているのだということが、妙に鮮明になる。
「行くぞ」
藍珠の声で、足が動く。風府ではなく、王宮の内側――巫のいる小さな堂へ。堂の中は暗い。香が焚かれている。香の匂いは昨日より濃い。香に寄りかからないほどの濃さだ。巫は既に待っていた。衣は昨日と同じ深い緑。髪は同じように結い上げられている。目は昨日より少しだけ柔らかい。
「王。立っていただくだけです。目を閉じて、呼吸を整えてください」
整える。呼吸を。鼻から吸い、口から吐く。体育の先生の声が遠くで響く。「吸って、吐いて。はい、走る前は呼吸を――」。走らない。立つだけ。立つことは走るより難しいときがある。
巫が低く歌い始める。歌は言葉ではない。言葉なのかもしれないが、遥の耳には音の連なりとしか聞こえない。音は床から立ち上がり、柱に当たり、天井で跳ね、額に降る。紋が反応する。布の下で、冷たい風が温度を変える。温かくはない。冷たさの輪郭が柔らかくなる。楓麟の言った「器」という言葉が、現実の重さを持つ。器は満たされていない。満たされていないことがはっきりわかる。けれど、器は壊れてはいない。ひびはある。ひびには紙を当て、裏から薄い板を添えれば、今は持つ。
歌が止む。巫は目を開け、遥を見た。
「風は、あなたを王として覚え始めています」
「……覚えたら、帰れる?」
「覚えることと、帰ることは別です。けれど、覚えられなければ、帰る門は見えない」
藍珠が横で短く息を吐いた。安堵とも、構え直しともつかない音。
「今日はここまで。王、都をもう少し見てください。見たものの数だけ、風は整います」
堂を出ると、陽は高い。藍珠は道を選び、再び市場へ、人のいるところへ、そして、人のいないところへ。井戸のそばで、女が空の桶を覗き込み、ため息をつく。ため息は弱い。弱いのに、風はそれを拾って柱の陰へ運ぶ。柱の陰で、ため息は別のため息と混ざり、弱さの濃度を上げる。弱さを放っておけば腐る。腐れば匂いが立ち、匂いは目より先に刺す。刺されれば、刀が抜かれる。藍珠の刀。王の名。風府の鈴。巫の歌。すべてがひとつの曲の中の別の楽器のように、同じ旋律を別の高さで奏でる。
午後、王宮に戻る前、藍珠はひとりの農夫に呼び止められた。若い。腕は太い。眼差しは真っ直ぐだ。彼は遥を見ない。藍珠を見る。
「藍珠様。北の畝に、盗賊の旗」
藍珠の指先がわずかに動く。動きは刃の柄を探す癖だ。彼女は遥を一瞥し、農夫に短く問う。
「数は」
「五。いや、七」
「人か。魔か」
「人」
藍珠は頷いた。
「楓麟に伝える。おまえは戻れ。家の戸を閉め、風札を重ねろ」
農夫は走り去る。藍珠は一歩だけ前に出、遥の肩を掴んだ。掴み方は強いが、恐怖を増すための強さではない。
「見たな」
「見た」
「整えるために、いまは、王は刀を抜かない」
言葉は命令ではない。確認だ。遥は頷く。藍珠は頷き返し、歩を速める。王宮へ。楓麟のもとへ。十年の歪みは、今日も新しい歪みを生む。歪みは放っておけば裂け目になる。裂け目は風を吸う。風は吸われれば、別の場所で渦を巻く。渦を整えるための手は多いほどいい。いま、自分の手はまだ震える。震えは恥ではない。震えを認め、震えたまま握ること。それが、今日の自分の唯一の徳かもしれない。
回廊の角を曲がると、楓麟が既に待っていた。彼の耳の毛がわずかに逆立ち、空気の緊張を示す。藍珠が膝をつき、遥もそれに倣う。
「北の畝に旗」
藍珠の報告に、楓麟は頷く。頷きは小さい。小さいが、空気の層がひとつ動く。彼は目だけで命じる。白衣の者が二人、影から現れ、音もなく去る。
「王」
楓麟が遥を見る。目は冷たい。冷たいのに、底にわずかな熱がある。熱は怒りではない。急かしだ。
「あなたは、見ることを続けよ。見たものの数が、今日の王の徳である。明日、また儀。明後日には、門を一度、私とともに通る」
「門を?」
「王宮の内側の、風の薄い門だ。薄い門は、王の呼吸で形を変える。あなたの呼吸を、門に教える」
門に、呼吸を。呼吸に、門を。言葉は鏡のように反転する。反転しても、意味は変わらない。変わらないからこそ、整う。
「はい」
言うと、楓麟の耳の毛がほんのわずか、寝た。藍珠は見えないところで短く息を吐いた。息は矢のように真っ直ぐで、音はない。長風の紐が遠くで鳴った気がした。巫の歌の残響が、堂の木に染みている。
夜。寝台に横たわる。暗い。暗いのに、頭の中で昼の白が残光のように滲む。市場の薄い声。老人の「十年」。藍珠の「真名」。楓麟の「器」。長風の「整える」。巫の「祈りは風に知らせるため」。それらが重なり、ほどけ、重なる。ほどけるたび、どこかの結び目は固くなる。固くなった結び目は、ひとつの門の形に見える。門は、まだ薄い。薄いが、昨日より濃い。
帰りたい。
帰るために、王である。
その言葉は、都の風の高さと同じ高さで、胸の内に静かに立ち続けた。




