表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/34

第18話 雪の密約

 冬至の夜が来る。

 都に雪が降る。薄く、真綿のように。

 白くなる屋根。城壁の上でだけ火床が赤く揺れ、凍りついた鐘の胴に風が手をかける。鳴らないはずの音が、鈍く胸に触れた。息は白くならない。乾いたこの国の空気は白を抱え込まず、ただ冷たさだけを残す。


 王宮の評議室は小さく灯り、扉は厚い布で二重に覆われている。机の上には紙、印、針。地図を押さえる石の角が冷たい。

 席につく者は四人だけ。王、宰相・楓麟ふうりん、剣士・藍珠らんじゅ、密偵頭。

 議題はひとつ。紅月と――「密約」の兆し。


 捕らえた書記補の青年が言ったこと。震えながら、息を切らしながら。「春までに白風が持たぬなら、割譲の条件で講和に応じる」。

 紙に写しても、言葉の体温は消えない。

 条件には「都の一部を兵営に」「租税の半分を紅月へ」。

 楓麟は、冷たい語でそれをひとつずつ置き換えた。

「講和の名を借りた併呑だ。名が変われば、刃の切れ味は鈍ると、向こうは知っている」


 机の端に置いた手のひらが、少し汗ばむ。はるかは自分の脈を数えた。早くない。けれど、指の腹の皮は薄く痺れている。

 城下の民の一部は講和を望んでいる。寒さは骨を細くし、腹の穴は心の言葉を沈める。粟袋を差し出されれば、誰の手だって揺れる。

 法務卿・玄檀げんだんは落ち着いた声で言った。

「国を保つためなら、一時の屈服もやむなし」

 商務司が紙を撫でる指で同調する。

「交易が再開すれば、飢えは和らぎます」

 遥は言葉が出ず、机に置いた手を見た。爪の間に、堰の夜の灰がまだ残っている気がした。あのざらつきが、今も残っている。

 心が、裂けそうになる。


 藍珠が剣の柄を指で叩く。硬い音。

「紅月に膝を折れば、兵の士気は死ぬ。死んだ士気を食う民は、結局、明日を飢えるだけだ」

 楓麟が淡い声で補う。

「王よ。紅月は徳を試している。屈すれば、次の代には王も国も名を失う」

 失う――という言葉は、風より冷たい。


 沈黙。

 雪が屋根から落ちる音は、音というより重みだった。

 遥は唇を噛み、白い窓へ視線を逃がした。逃がした先に、雪が積もる。

「……従属は嫌だ。けど、民の飢えを見捨てるのも嫌だ」

 弱さの向こうにある強さを、まだ知らない。けれど、探したいと思う。


 楓麟が一歩、前へ。机の上に地図を広げた。

 紙が布の上を滑る音。

「ゆえに、密約を逆手に取る。紅月が欲しいのは“春までの持久”だ。こちらから偽の使者を出す。条件を呑む素振りを見せつつ、相手の本陣と補給の筋を探る」

 藍珠が視線だけで頷く。

「偽使者を出せば、内通者が食いつく。釣れる」

 遥の喉が鳴る。

「……罠に、かける」


 密偵頭が前へ出た。目は深くない。けれど、揺れない。

「使者の仮面は、処罰を免じた者に。罪を減じられたことで“裏切り”を選ぶか、“贖罪”を選ぶか。紅月は必ず試す。ならば、その試しを、こちらが先に試す」

 評議室の空気が重くなる。灯が低く揺れ、影は長くなった。


「人を、餌にするのか」

 遥の声は低かった。

 楓麟が首を振る。

「違う。人を餌にするのは紅月だ。王は、その牙を逆手にする」

 逆手――という言葉は、刃の冷たさよりも、手の温かさに近い。


     ◇


 翌日。

 悔悟令で出頭した三人の若者のうち、一人が選ばれた。

 彼は震えていた。けれど、逃げるためではなく、立つために。

「……贖いたい」

 密使の役を受けるとき、彼は父の形見の紐を外し、手首に巻き直した。紐には擦れた節がひとつあって、そこに指が落ち着く。

 偽の講和文が作られる。租税の割譲を呑む。代わりに「春までの兵糧供給」を求める条文。紅月にとって都合のよい条件。

 だが、その文には裏がある。古地図の記号を用いた暗号だ。会合の場所を、逆にこちらが指定する仕掛け。文字の間の余白に、小さな点の組み合わせ。見慣れた者にしか見えない星の並び。


 雪が深くなる。夜は早く来る。

 若者は仮面をつける。白い布で作った、顔の上半分を覆う簡素なもの。目だけが見える。それでも、震えは隠せない。

 藍珠が影の位置を確かめ、尾行の者を置く。

 楓麟は塔に登り、風を読む。鈴は鳴らさない高さで、風は城を回る。

 遥は塔の下、見えない風の高さに耳を澄ませた。耳で聞くのでなく、骨で。

 手の中には短い紙片。出す言葉は少なく、置く言葉は重く。


 城外。雪原に火が灯る。小さな火だ。小さいほど、目が集まる。

 紅月の影が現れる。黒い布に包まれた肩。薄い革の匂い。足跡は寄せて消してある。

 若者は震える声で偽文を渡す。

 紅月の斥候は笑う。笑いは唇だけで、目は笑わない。

 袋を投げた。

「春の半分だ。残りは王の誠意次第。都の端を兵営に寄越せ」

 若者の瞳が揺れる。

 揺れた瞬間――雪煙が遠くで合図をする。

 藍珠が踏み込む。

 尾行隊が包囲を狭める。

 だが、紅月の斥候も仕掛けていた。雪の間から二重の影が立ち上がり、矢が放たれる。矢羽根は紅。狙いは若者の喉。

 楓麟が塔の上で息を切る。

 風が、切り替わる。

 鈴を鳴らさない高さで、刃の線が少しだけ曲がる。

 矢は逸れ、仮面の端を裂くだけで雪に吸われた。

 藍珠の剣が斥候の肩を叩き落とす。

 雪が跳ね、赤が散る。

 残りは捕縛された。縄は濡れて、冷たい。指先の感覚が遅くなる。遅くなる間に、息は短く整えられる。


 捕らえた斥候は口を割らなかった。

 袋の粟の底を、藍珠が指先で探る。指に当たる硬いもの。

 楓麟が灯を近づける。

 粟の底板。裏に刻印。

 丸のようで丸でない。三つの点が斜めに並び、その横に短い線。

 密偵頭が目を細める。

「都の北東、古い街道。雪に埋もれているが、刻印はその道の印。……補給は、そこ」

 雪の下で、見えない血管が走っている。


     ◇


 王宮に戻る。

 捕縛した斥候が評議の間に引き出される。背は曲がらない。目は濁らない。

 玄檀が「処刑を」と言う。鋭く、迷いがない。

 遥は首を振った。

「処刑より、情報を生かす。紅月の喉を絞めるには、補給路を断つしかない」

 声は低い。低い声は、長く届く。

 楓麟が静かに頷く。

「王よ、これは戦の中の戦。次の決断は、峠でも渡しでもない。都の奥で下される」

 藍珠が剣に手を置く。

「ならば、俺が行く」

 遥は雪の夜を思い出した。仮面の下で揺れていた若者の目。矢羽根の赤。風の高さ。

「……春までに、この国を生かす。そのために、鎖も罠も、全部使う」

 口にするたび、言葉は骨になる。骨は折れにくい。


 夜が深くなる。

 書庫塔の下。塞いだ古穴の前に、三人の影が並ぶ。王、宰相、剣士。

 石は冷たい。冷たさは足裏から膝へ、膝から胸へ。

 遥は低く言った。

「外へ逃がして捕る。中を焼かない。……この国の記憶は、焼かせない」

 楓麟が目だけで笑う。

「王の線、また濃くなった」

 藍珠は頷き、柄を握り直した。

 鈴は鳴らさない高さで、塔の上を風が渡る。灯の炎が細く揺れ、影の輪郭が一瞬だけ柔らかくなる。


     ◇


 密使に選ばれた若者は、医の館の隅で眠った。眠りは浅い。

 夢に出てくるのは畑の縁。母の手。乾いた土に刺す雨の匂い。

 目が覚めると、窓の紙に雪の影。

 彼は手首の紐を確かめる。節はそこにある。

 「贖いたい」――その言葉は、自分のためだけではないと、やっと思える。


 翌朝。

 密偵の間に紙が並ぶ。刻印の写し。地図の線。雪の深さ。馬の蹄が沈む角度。

 楓麟は風を測る。

「北東、午後。風は南。雪は深いが、凍りは薄い」

 藍珠が隊を選び、足音の軽い者を集める。足の指が広がる者は滑らない。

 長風ちょうふうが歌を札に置き、旗に白の細を縫い足す。白は雪に紛れ、目に残らない。

 遥は評議の間で、商務司に命じる。

「倉から粟を。労役の家に先に送れ。……今日、残すべき声は、腹の声だ」

 玄檀は口をつぐんだ。沈黙は石のように硬い。硬いものは、いつか割れる。


 午後。

 雪の路地に短い影が走る。城門の外は白い。音はよく通るが、遠くまでは届かない。

 都の北東。古い街道。

 雪は道の縁を隠し、道でない場所を道に見せる。

 密偵のひとりがしゃがみ、雪の下の土を指で探る。

 小石が唇を出す。出す位置が不自然だ。

 「通っている」

 蹄の跡は薄く、重なるように消してある。けれど、消し忘れた縁の欠けが、薄い口をあけている。

 藍珠は目を細め、指でその欠けをなぞる。

「ここだ」

 隊が散る。散ると見えるものがある。


 夕暮れ。

 雪の向こうに、赤い布。

 紅月の小隊。

 荷馬の背の袋に刻印。

 藍珠が指で合図。

 楓麟が風を低くする。鈴を鳴らさない高さで、雪がわずかに固くなる。

 速さと静かさの真ん中で、包囲が閉じる。

 短い衝突。短い叫び。短い息。

 袋は倒れ、口がほどける。粟がこぼれ、土の上で転がる。粒が割れて白い胚乳が見える。

 底板に、同じ刻印。

 古い街道は、やはりここを通っていた。


 その夜。

 王宮の評議室。

 捕らえた紅月の兵は何も言わない。言わないことを学んでいる。

 しかし、袋が語る。刻印が語る。雪が語る。

 玄檀は「示威のために処刑を」とふたたび言う。

 遥は首を振る。

「言葉は刃になるが、刃は言葉にはならない。……情報を生かす。補給を断つ」

 楓麟が地図の上で指を滑らせる。

「ここからここまで、夜に。火ではなく、音で。鹿笛と、竹の罠と、凍りの薄さ」

 藍珠が剣の鞘を押さえる。

「行く」

 遥は雪を見た。

 白い。

 冷たい。

 でも、燃えるものを隠すには向かない。

 「……春まで。生かす。全部、使う」

 鎖も、罠も。

 人の弱さも、風の高さも。

 善の言葉だけでなく、汚れた技も。

 使って、それでも、守る。

 それは矛盾ではない。矛盾の中で立つための、芯だ。


     ◇


 夜半。

 都の上に雪。

 白風の旗が凍りつく。

 凍りついた布は音を持たない。けれど、そこに風が当たれば、形だけがわずかに震える。

 塔の上で楓麟が風を読む。

 鈴は鳴らさない高さで、城を一周して戻る。

 藍珠が足袋を締め直す。結び目は固い。固いほど、外れにくい。

 遥は紙を閉じる。名簿。昨日と今日の名。

 指の先に、ざらつきはもうない。灰は流れた。

 残っているのは、線。

 短く、濃い、線。

 それを、胸の中にもう一本引いた。


 遠い北東の街道にも雪が降る。

 白の上に、蹄の跡が刻まれる。刻まれて、すぐにさらに新しい雪が薄く覆う。

 跡は消えない。

 消えないが、浅い。

 浅いものは、壊れやすい。

 壊すべきものは、いつも、浅いところを走る。


 戦場は、峠でも、渡しでも、平原でもなくなる。

 見えない血管――補給路。

 そこに、火ではない刃を差し入れる。

 音と、風と、細い指の力。

 第二部の火は、都の内側から外へ向かって、ゆっくりと広がろうとしていた。

 雪は降り続ける。

 白は、何も隠さない。

 隠さないからこそ、選んだ線が浮かび上がる。

 王の足の裏に、石の目地の感触が、またひとつ増えた。

 目地は細く、確かだ。

 確かさは、罰ではない。

 明日の印だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ