第18話 雪の密約
冬至の夜が来る。
都に雪が降る。薄く、真綿のように。
白くなる屋根。城壁の上でだけ火床が赤く揺れ、凍りついた鐘の胴に風が手をかける。鳴らないはずの音が、鈍く胸に触れた。息は白くならない。乾いたこの国の空気は白を抱え込まず、ただ冷たさだけを残す。
王宮の評議室は小さく灯り、扉は厚い布で二重に覆われている。机の上には紙、印、針。地図を押さえる石の角が冷たい。
席につく者は四人だけ。王、宰相・楓麟、剣士・藍珠、密偵頭。
議題はひとつ。紅月と――「密約」の兆し。
捕らえた書記補の青年が言ったこと。震えながら、息を切らしながら。「春までに白風が持たぬなら、割譲の条件で講和に応じる」。
紙に写しても、言葉の体温は消えない。
条件には「都の一部を兵営に」「租税の半分を紅月へ」。
楓麟は、冷たい語でそれをひとつずつ置き換えた。
「講和の名を借りた併呑だ。名が変われば、刃の切れ味は鈍ると、向こうは知っている」
机の端に置いた手のひらが、少し汗ばむ。遥は自分の脈を数えた。早くない。けれど、指の腹の皮は薄く痺れている。
城下の民の一部は講和を望んでいる。寒さは骨を細くし、腹の穴は心の言葉を沈める。粟袋を差し出されれば、誰の手だって揺れる。
法務卿・玄檀は落ち着いた声で言った。
「国を保つためなら、一時の屈服もやむなし」
商務司が紙を撫でる指で同調する。
「交易が再開すれば、飢えは和らぎます」
遥は言葉が出ず、机に置いた手を見た。爪の間に、堰の夜の灰がまだ残っている気がした。あのざらつきが、今も残っている。
心が、裂けそうになる。
藍珠が剣の柄を指で叩く。硬い音。
「紅月に膝を折れば、兵の士気は死ぬ。死んだ士気を食う民は、結局、明日を飢えるだけだ」
楓麟が淡い声で補う。
「王よ。紅月は徳を試している。屈すれば、次の代には王も国も名を失う」
失う――という言葉は、風より冷たい。
沈黙。
雪が屋根から落ちる音は、音というより重みだった。
遥は唇を噛み、白い窓へ視線を逃がした。逃がした先に、雪が積もる。
「……従属は嫌だ。けど、民の飢えを見捨てるのも嫌だ」
弱さの向こうにある強さを、まだ知らない。けれど、探したいと思う。
楓麟が一歩、前へ。机の上に地図を広げた。
紙が布の上を滑る音。
「ゆえに、密約を逆手に取る。紅月が欲しいのは“春までの持久”だ。こちらから偽の使者を出す。条件を呑む素振りを見せつつ、相手の本陣と補給の筋を探る」
藍珠が視線だけで頷く。
「偽使者を出せば、内通者が食いつく。釣れる」
遥の喉が鳴る。
「……罠に、かける」
密偵頭が前へ出た。目は深くない。けれど、揺れない。
「使者の仮面は、処罰を免じた者に。罪を減じられたことで“裏切り”を選ぶか、“贖罪”を選ぶか。紅月は必ず試す。ならば、その試しを、こちらが先に試す」
評議室の空気が重くなる。灯が低く揺れ、影は長くなった。
「人を、餌にするのか」
遥の声は低かった。
楓麟が首を振る。
「違う。人を餌にするのは紅月だ。王は、その牙を逆手にする」
逆手――という言葉は、刃の冷たさよりも、手の温かさに近い。
◇
翌日。
悔悟令で出頭した三人の若者のうち、一人が選ばれた。
彼は震えていた。けれど、逃げるためではなく、立つために。
「……贖いたい」
密使の役を受けるとき、彼は父の形見の紐を外し、手首に巻き直した。紐には擦れた節がひとつあって、そこに指が落ち着く。
偽の講和文が作られる。租税の割譲を呑む。代わりに「春までの兵糧供給」を求める条文。紅月にとって都合のよい条件。
だが、その文には裏がある。古地図の記号を用いた暗号だ。会合の場所を、逆にこちらが指定する仕掛け。文字の間の余白に、小さな点の組み合わせ。見慣れた者にしか見えない星の並び。
雪が深くなる。夜は早く来る。
若者は仮面をつける。白い布で作った、顔の上半分を覆う簡素なもの。目だけが見える。それでも、震えは隠せない。
藍珠が影の位置を確かめ、尾行の者を置く。
楓麟は塔に登り、風を読む。鈴は鳴らさない高さで、風は城を回る。
遥は塔の下、見えない風の高さに耳を澄ませた。耳で聞くのでなく、骨で。
手の中には短い紙片。出す言葉は少なく、置く言葉は重く。
城外。雪原に火が灯る。小さな火だ。小さいほど、目が集まる。
紅月の影が現れる。黒い布に包まれた肩。薄い革の匂い。足跡は寄せて消してある。
若者は震える声で偽文を渡す。
紅月の斥候は笑う。笑いは唇だけで、目は笑わない。
袋を投げた。
「春の半分だ。残りは王の誠意次第。都の端を兵営に寄越せ」
若者の瞳が揺れる。
揺れた瞬間――雪煙が遠くで合図をする。
藍珠が踏み込む。
尾行隊が包囲を狭める。
だが、紅月の斥候も仕掛けていた。雪の間から二重の影が立ち上がり、矢が放たれる。矢羽根は紅。狙いは若者の喉。
楓麟が塔の上で息を切る。
風が、切り替わる。
鈴を鳴らさない高さで、刃の線が少しだけ曲がる。
矢は逸れ、仮面の端を裂くだけで雪に吸われた。
藍珠の剣が斥候の肩を叩き落とす。
雪が跳ね、赤が散る。
残りは捕縛された。縄は濡れて、冷たい。指先の感覚が遅くなる。遅くなる間に、息は短く整えられる。
捕らえた斥候は口を割らなかった。
袋の粟の底を、藍珠が指先で探る。指に当たる硬いもの。
楓麟が灯を近づける。
粟の底板。裏に刻印。
丸のようで丸でない。三つの点が斜めに並び、その横に短い線。
密偵頭が目を細める。
「都の北東、古い街道。雪に埋もれているが、刻印はその道の印。……補給は、そこ」
雪の下で、見えない血管が走っている。
◇
王宮に戻る。
捕縛した斥候が評議の間に引き出される。背は曲がらない。目は濁らない。
玄檀が「処刑を」と言う。鋭く、迷いがない。
遥は首を振った。
「処刑より、情報を生かす。紅月の喉を絞めるには、補給路を断つしかない」
声は低い。低い声は、長く届く。
楓麟が静かに頷く。
「王よ、これは戦の中の戦。次の決断は、峠でも渡しでもない。都の奥で下される」
藍珠が剣に手を置く。
「ならば、俺が行く」
遥は雪の夜を思い出した。仮面の下で揺れていた若者の目。矢羽根の赤。風の高さ。
「……春までに、この国を生かす。そのために、鎖も罠も、全部使う」
口にするたび、言葉は骨になる。骨は折れにくい。
夜が深くなる。
書庫塔の下。塞いだ古穴の前に、三人の影が並ぶ。王、宰相、剣士。
石は冷たい。冷たさは足裏から膝へ、膝から胸へ。
遥は低く言った。
「外へ逃がして捕る。中を焼かない。……この国の記憶は、焼かせない」
楓麟が目だけで笑う。
「王の線、また濃くなった」
藍珠は頷き、柄を握り直した。
鈴は鳴らさない高さで、塔の上を風が渡る。灯の炎が細く揺れ、影の輪郭が一瞬だけ柔らかくなる。
◇
密使に選ばれた若者は、医の館の隅で眠った。眠りは浅い。
夢に出てくるのは畑の縁。母の手。乾いた土に刺す雨の匂い。
目が覚めると、窓の紙に雪の影。
彼は手首の紐を確かめる。節はそこにある。
「贖いたい」――その言葉は、自分のためだけではないと、やっと思える。
翌朝。
密偵の間に紙が並ぶ。刻印の写し。地図の線。雪の深さ。馬の蹄が沈む角度。
楓麟は風を測る。
「北東、午後。風は南。雪は深いが、凍りは薄い」
藍珠が隊を選び、足音の軽い者を集める。足の指が広がる者は滑らない。
長風が歌を札に置き、旗に白の細を縫い足す。白は雪に紛れ、目に残らない。
遥は評議の間で、商務司に命じる。
「倉から粟を。労役の家に先に送れ。……今日、残すべき声は、腹の声だ」
玄檀は口をつぐんだ。沈黙は石のように硬い。硬いものは、いつか割れる。
午後。
雪の路地に短い影が走る。城門の外は白い。音はよく通るが、遠くまでは届かない。
都の北東。古い街道。
雪は道の縁を隠し、道でない場所を道に見せる。
密偵のひとりがしゃがみ、雪の下の土を指で探る。
小石が唇を出す。出す位置が不自然だ。
「通っている」
蹄の跡は薄く、重なるように消してある。けれど、消し忘れた縁の欠けが、薄い口をあけている。
藍珠は目を細め、指でその欠けをなぞる。
「ここだ」
隊が散る。散ると見えるものがある。
夕暮れ。
雪の向こうに、赤い布。
紅月の小隊。
荷馬の背の袋に刻印。
藍珠が指で合図。
楓麟が風を低くする。鈴を鳴らさない高さで、雪がわずかに固くなる。
速さと静かさの真ん中で、包囲が閉じる。
短い衝突。短い叫び。短い息。
袋は倒れ、口がほどける。粟がこぼれ、土の上で転がる。粒が割れて白い胚乳が見える。
底板に、同じ刻印。
古い街道は、やはりここを通っていた。
その夜。
王宮の評議室。
捕らえた紅月の兵は何も言わない。言わないことを学んでいる。
しかし、袋が語る。刻印が語る。雪が語る。
玄檀は「示威のために処刑を」とふたたび言う。
遥は首を振る。
「言葉は刃になるが、刃は言葉にはならない。……情報を生かす。補給を断つ」
楓麟が地図の上で指を滑らせる。
「ここからここまで、夜に。火ではなく、音で。鹿笛と、竹の罠と、凍りの薄さ」
藍珠が剣の鞘を押さえる。
「行く」
遥は雪を見た。
白い。
冷たい。
でも、燃えるものを隠すには向かない。
「……春まで。生かす。全部、使う」
鎖も、罠も。
人の弱さも、風の高さも。
善の言葉だけでなく、汚れた技も。
使って、それでも、守る。
それは矛盾ではない。矛盾の中で立つための、芯だ。
◇
夜半。
都の上に雪。
白風の旗が凍りつく。
凍りついた布は音を持たない。けれど、そこに風が当たれば、形だけがわずかに震える。
塔の上で楓麟が風を読む。
鈴は鳴らさない高さで、城を一周して戻る。
藍珠が足袋を締め直す。結び目は固い。固いほど、外れにくい。
遥は紙を閉じる。名簿。昨日と今日の名。
指の先に、ざらつきはもうない。灰は流れた。
残っているのは、線。
短く、濃い、線。
それを、胸の中にもう一本引いた。
遠い北東の街道にも雪が降る。
白の上に、蹄の跡が刻まれる。刻まれて、すぐにさらに新しい雪が薄く覆う。
跡は消えない。
消えないが、浅い。
浅いものは、壊れやすい。
壊すべきものは、いつも、浅いところを走る。
戦場は、峠でも、渡しでも、平原でもなくなる。
見えない血管――補給路。
そこに、火ではない刃を差し入れる。
音と、風と、細い指の力。
第二部の火は、都の内側から外へ向かって、ゆっくりと広がろうとしていた。
雪は降り続ける。
白は、何も隠さない。
隠さないからこそ、選んだ線が浮かび上がる。
王の足の裏に、石の目地の感触が、またひとつ増えた。
目地は細く、確かだ。
確かさは、罰ではない。
明日の印だ。