第17話 内通の根
朝の光は薄く、昨日の戦いで黒ずんだ土の上に、ためらいながら落ちてきた。峠をめぐっていた煙はやっと帷を畳み、かわりに乾いた紙の匂いが王宮の廊を満たしている。
配給札の束――昨夜、倉から出されたばかりの新しい札は、目に見えない程度の癖を持っている。繊維の向きにほんのわずかな乱れを、札に刻んだ者たちだけが知っている。斜めの光で表へ傾けると、その乱れが、髪の分け目のように一本だけ欠けて見える。「欠け線」。
欠け線のある札が市場へ混じった。朝一番の商いでそれを受け取った商人の手から次の手へ、さらに次の手へ。密偵たちは交代でその札を追い、足音を音にも匂いにもならない高さで重ねていく。
行き先は、城下の古い裏寺だった。
石段は土に沈み、堂は片側の柱が歪み、屋根瓦の半分は欠けている。かつて戦没者の名を刻んだ碑があり、今は草に飲まれて読めない。堂の中は紙だらけだった。紐で縛られた束、湿りを吸った巻物、古い祈祷札にまぎれて、紅月式の暗号書がいくつも混じっている。
「三鼓表」――三つの文字、「米」「竹」「鼓」の並べ方だけで、時刻と場所と人数を伝える。粗末に見えて、ずれにくい。音を持たない太鼓。
密偵頭が紙をひっくり返し、楓麟は奥の暗がりへ一度だけ目を流した。冷たい空気の端に、花の終わった線香の匂いが残っている。
「逆す」
宰相は短く言って、指に挟んだ暗号の一枚を返した。
「ここに偽の指示を流す。今夜、城外西門脇の小屋に紙を集めよ――と」
楓麟が紐の結び目を解き、欠け線を持つ札と同じ紙へ、三鼓の並びを移す。
「小屋は排水路の古い穴の前だ。穴の奥に細工鈴を吊る。鳴ったら、城内のどこかから出入りしている証拠になる」
風は鈴を鳴らさない高さで廊の上を渡った。誰にも聞こえないはずの高さ、それでも楓麟は耳の毛をわずかに上げ、すぐに寝かせた。
仕掛けは静かに動き出す。静かに動くものほど、長く遠くまで届く。
◇
同じ朝、法務卿・玄檀が評議の間に現れた。黒い袖は皺ひとつなく、声は凍った水のように澄んでいる。
「拷問許可の答申を再提出いたします。速効が要る」
このところ、彼はずっと同じことを言い続けている。言い続ける声は、やがて石と同じ硬さになる。
遥は顔を上げた。
「否だ」
喉が乾いている。昨日、死者の名を読み上げた後からずっと、喉の奥に紙の粉のようなものが貼りついている。それでも声は出た。
「代わりに悔悟令を出す。三日のあいだに自首して内通の線を供述した者の刑を減ずる。重罪は免れないが、命は取らない」
玄檀の眉が短く動く。
「甘い」
楓麟が肩をすくめた。
「根を抜くとき、土を崩せば周りも死ぬ。水を通せば、根は自分で浮くことがある」
藍珠は黙っていた。剣士の眼は、刃と同じように光り、同じように冷えている。それでも今日の彼女は、刃を抜かない。
悔悟令が布告されると、昼までに三人が出頭した。皆、貧民区の若者だ。紅月の粟袋の重さに心が傾き、夜の腹の穴に耐えきれなかった者たち。
彼らの供述は震えていた。震えは意図を誤魔化さない。
「第二の窓口は寺の北の古書肆」
「店の爺さんは温和だが、帳場の下に隠し引き出しがある」
「引き出しの底板のさらに下に、本当の帳面。紙の縁は紅月の断ち切りだ」
帳面はすぐに見つかった。紙の端は、南の紙工房の刃でしか出ない縁を持っている。取引相手の印の横に、小さな穴の記号がいくつか並んでいた。丸でも三角でもない、針で穿ったような点。
――宮廷のどこかの「抜け道」を示す符丁。
「古書肆を押さえる」
藍珠は即時拘束を提案した。
楓麟は首を振る。
「泳がせ、上を釣る」
泳がせる間に誰かが死ぬかもしれない。そのための重さを、宰相はとっくに鱗の間へ沈めている。
◇
夜。
欠け線の合図どおり、小屋に黒衣たちが集まった。数は多くない。多くないほど、疑いを割り振りやすい。屋根裏に密偵、路地に見張り。
小屋の裏には、城壁の足元へ続く排水路の古穴がある。古い穴の口は人の肩幅ほど、内側は石が剥がれかけ、奥は黒い。そこへ灰と水を流し込む。灰は喉をからし、水は足を奪う。穴の天井からは細工鈴――薄い金属の葉を重ねたものが吊られている。誰かが通れば、葉と葉が触れて小さく震え、城の内側、書庫塔の基礎の間へ伝わる。
鈴は鳴った。
鳴ったのは音というより、空気の隙間の揺れだった。耳ではなく、骨がそれに気づく。気づいて、誰かが走った。
屋根から屋根へ、影が移る。密偵が追う。城をぐるりと囲む外縁の石道を渡って、足音は王宮の書庫塔へ吸い込まれていく。塔の最上段には巡幸の記録、下段には租税の台帳、地下には古の地図――この国の脈打ちの芯。
足音は地下へ。楓麟が鍵を投げ、藍珠が扉を蹴る。鼓膜に冷気が触れ、石壁が吐いた息が足元を撫でた。
追い込んだはずの影が、石壁の隙間に消える。
古地図の片隅にある細い線――旧王朝の逃れ穴。王が乱に敗れたとき、書庫から外へ抜けるために掘られたという。石の裏の空間は、薄く、湿っている。
「追う」
藍珠は即答した。目は闇の艶を映し、息は短い。
楓麟は別の策を口にする。
「煙で炙り出す。だが書庫が傷む」
石の目地に古い紙の粉が溜まっている。煙はそこから先に入る。紙は火がなくても傷む。
遥は迷った。両手を見た。泥と墨が爪に染み、灰のざらつきが皮に残っている――あの夜、堰の上で縄を掴んだ指の記憶が、そのざらつきの中から顔を出した。
悔悟令で出頭した若者の一人が、穴の口から一歩、後ろへ下がって手を挙げた。
「……あの穴の外、乾いた枯れ溝です。紅月の連絡係は火が苦手。煙を見たら逃げます。だから、外へ水を」
声は震えている。震えている声は、嘘を運ばない。
「煙は焚かない」
遥は決めた。
「水だ。城外の溝へ先に水を回し、内側からは砂袋で穴の口を絞る。出るなら外へ。外で捕る」
指示は短いほうが、恐れの中で迷わない。
城外の枯れ溝に、水が流れ込んだ。
塔の下から走らせた溝は、昔、雨季にだけ川になる。今は乾いて粉を吹いていた。そこへ井桁に組んだ樋から水を落とす。
しばらくして、黒衣が咳き込みながら現れ、走った。
待ち受けの密偵が三方から狭め、藍珠の隊が横から刃の影を差し入れる。短くもつれた後、倒れた影の袖が返り、裏地に薄く金が縫い込まれているのが見えた。紅月の薄金。
捕らえられたのは、王宮書記補の青年だった。
目は怯え、唇は凍えている。
「家に……病の母が……」
その一言は、剣よりも深く腹へ入る。飢えと弱さ。どこかで何度も見たもの。
取り調べは苛烈ではなかった。苛烈にすれば、嘘が早く生まれる。
青年は吐いた。古地図を写し、紅月に渡した。見返りは薬。渡し役は古書肆の老爺。――さらに、その上に「名」がある。
「……玄」
震える声。
玄の字は珍しくない。
けれど、この国の法を司る名にも、同じ音がある。胸の内側へ冷たいものが落ち、破片が静かに広がった。
楓麟は即座に否定もしない。
「玄の字は珍しくない。早計は敵の思うつぼだ」
だが、法務卿が拷問を強く求め続けたこと、処罰を急がせることで悔悟を潰そうとした動きが、点として繋がり始めた。紙の端の穴が、線になる。
◇
夜半の評議。灯は低く、影は長い。
玄檀は悔悟令を「密告を産む」と断じ、青年の斬首を主張した。
「恐怖は腐らない。怠りの虫を食う」
遥は静かに言い返した。
「腐らせるのは、恐怖だけの統治だ。恐れを与えるだけでは、人は口を閉じ、根は地の下で太る」
言いながら、自分の言葉が自分の胸に戻ってくるのを感じた。戻ってくる言葉は、芯になる。
楓麟が間に立ってまとめる。
「青年は医の館に拘置。母の治療は王の名で行う。供述の裏が取れ次第、線を上へ伸ばす。――法務卿。王命だ」
玄檀は目を細め、袖の中で指を一度だけ握った。その小さな動きが、明日の風の高さをわずかに変えるかもしれない。
◇
書庫塔の地下。
塞いだ穴の前に、三つの影が並んだ。王と宰相と剣士。石は冷たく、冷たさは足裏から膝へ、膝から腹へ、ゆっくり上がってくる。
遥は低く言った。
「外へ逃がして捕る。中を焼かない。――この国の記憶は、焼かせない」
楓麟がわずかに微笑んだ。
「王の線が、また一本、濃くなった」
線は紙の上にではなく、胸の内側に引かれる。先日、名を読んだ夜に引いた細い線の隣に、今日の線が重なる。重なった場所は、痺れるように温かい。
藍珠は何も言わない。ただ、剣の柄に置いた手の指を一度だけ、強く結んだ。結び目は固い。固いことは、ほどけにくいことだ。
階段を上がると、夜の風が待っていた。
鈴は鳴らさない高さで塔を撫で、焚き火の煙を低く押し、紙の粉をほんの少しだけ遠くへ運んだ。
遥は額の布に触れた。天印は薄く温かい。温かさは罰ではない。
――明日の印だ。
◇
翌朝、悔悟令の二日目。
日陰の石に、夜の冷えがまだ少し残っている頃、寺の北の古書肆へ密偵が入った。帳場の下の隠し引き出し、そのさらに下。布に包まれた帳面は、昨夜よりも湿っている。
老爺は温和な目をしていた。温和な目は、長い時間を使って練習するものだ。
「わしはただの本売りじゃ」
楓麟は頷いた。
「そうだろう。だが、帳面は本ではない」
藍珠が縄をかける。老爺は抵抗しない。抵抗しない体は、力の使い方を知っている。
帳面の穴の記号は、昨日見たものと同じだった。小さな点が、書庫塔の地図の隅と重なる。
「逃れ穴」――古の王のために掘られた道が、いま、王を殺す道具に使われようとしている。
遥は、喉の奥にまた紙の粉のようなものが貼りつくのを感じた。
第三の若者が自首した。
「窓口は、もう一つある。台所の薪置き場。薪の縁に穴があるとき、それは運ぶ合図」
薪は積まれ、穴は隠れる。知らない者には、ただの隙間。知っている者には、道の印。
長風が札を折り、薪の穴に歌をひとつ貼った。歌は風の高さを一本、低くする。低くした高さは、誰かの聞こえる高さになる。
◇
日が傾く頃、医の館から使いが走った。
書記補の青年の母は、熱が下がり始めたという。薬は効いた。効いた薬は、敵のものではない。倉から出た、王の名の薬だ。
遥は医の館の横で一度だけ足を止め、軒の影を見上げた。
「命を取らない」。そう決めたことの重さが、今は掌の真ん中へ静かに乗っている。乗った重さは、まだ歩ける重さだ。
玄檀は評議で何も言わなかった。言わない沈黙は、ときに言葉より騒がしい。静かな部屋の隅で、楓麟が一枚の札を指で弾く。薄い音が、隙間を埋めた。
夜。
城外の溝に、また水が回された。古い穴の口には砂袋が増え、書庫塔の地下には湿り気が満ちる。紙は湿るほど強くなることがある。火が入りにくくなるからだ。
藍珠は剣を膝に置き、刃でなく柄を磨いた。柄は手汗を吸う。吸った汗を落とせば、明日、滑らない。
遥は名簿を開いた。昨日読んだ名の下へ、今日の名を書き足す。字は相変わらず下手だ。下手な字は、紙の上で恥を晒す。恥を晒すことは、線を濃くする。
「王」
楓麟が呼ぶ。
「悔悟令、明日が最後だ。三十の名をまた読む。読んだ名は倉の札と重ね、風府の歌と重ね、墓の石の影と重ねる。――重ねるほど、抜けにくくなる」
遥は頷いた。
重ねること。重ねることで、目に見えない根に重さをかける。
◇
三日目の朝。
寺の裏で、古い碑の文字のいくつかが、露の光で読めた。かつて刻まれた戦没者の名。苔の中から、いくつかの線だけが現れる。
「名は数にならない」
遥は心の中で繰り返した。
玄檀の顔は見えない。見えないまま、風は塔の上を渡る。鈴は鳴らさない高さで、今日も通り過ぎた。
密偵がひとり、古書肆の裏口へ立ち、二本の指で短く合図した。
「上の名に、別の線。玄ではなく……黒。黒木。」
紙の端の穴と穴のあいだに、別の字が挟まっていた。墨の濃淡で隠された小さな線。
線は重なり、やがてほどける。ほどけた先に、また線が続いている。
夜。
書庫塔の地下に三人の影が立つ。
塞いだ穴の石は湿って冷え、足裏の骨にじわりと残る。
遥は掌を広げ、灰のざらつきを確かめた。
「外へ逃がして捕る。中を焼かない。――この国の記憶は、焼かせない」
同じ言葉をもう一度、低く置いた。
楓麟が微笑む。藍珠の指が柄の上で静かに結ばれる。
王の線は、昨日より少しだけ濃く、石の冷たさの上で揺れなかった。
外では、夜風が溝をわずかに撫で、細工鈴の葉を一度だけ、触れ合わせた。
音は誰にも聞こえない高さで、夜へ溶けた。
明日の印は、まだ名を持たない。
けれど、名を迎える準備だけは、もうできていた。