第16話 凍てつく都
霜の峠と灰の渡しでの三日戦から、十日。朝が窓の桟に白い綿を置いていく季節になった。都は早い冬に追いつかれ、吐いた息が石畳に貼りついてしばらく離れない。通りを渡る小さな影は、膝から下が霜に奪われぬよう、歩幅を狭くしている。井戸の縁に添えられた新しい桶は、縞のように薄氷を抱き、割れた箇所に差し込まれた細い木片が、きし、と小さく鳴いた。
王宮の政務室は、夜明け前から灯がともり、窓を覆う布の内側で、紙と人の息が行き交っている。出納・軍務・医療・工営の四役の机が、廊から見ても分かるほどにぎっしりと並び、壁には三枚の大札がかかっていた。太い筆で「兵糧」「避寒」「治療」。札の下へ、今日の達成目標が墨で更新されていく。濃い黒が乾くまでの時間が、そのまま都の余裕の薄さを測っている。
遥は椅子に座らない。腰に重みを下ろした瞬間、頭の中の糸が緩むのを知っているから、立ったまま案件を受け取り、返し、署名し、決裁の判の角を確かめた。指先は冷たいが、紙の端を押さえると、いつも通りの強さでそこに止まる。止まることで、誰かの行き先が変わる日がある。
第一——兵糧。
「倉の粟、戦の支出で底が見えてきた。越冬分が足りぬ」
出納の帳面に紙片を挟んだ楓麟が、すでに二案を書いた紙を差し出す。筆致は速いが、文字は揺れない。
「二段の策で押し通す。一つ、『冬借』。春の収穫を担保に粟を貸し、返せぬ分は春の公共工事に振替だ。重い鎖じゃない、春にほどける結び目にする。もう一つは『上限価格』ではなく『一人あたり配給上限』だ。価格は市場に委ね、実需は配給札で守る。口数に紐づける。数えられるものを、数える」
「商務司は反対するでしょうね。木戸口の値札を握る手は、離したがらない」
藍珠が横から紙をめくり、ふっと笑って切った。口元の笑いは浅いが、目は寒気を吸い込んだように澄んでいる。
「上限価格を敷けば闇市が太るだけ。薄暗がりは飢えに早い」
「冬借は借り手を縛る鎖だと、誰かが言うだろう」
遥は紙を一度、ひっくり返した。裏側の白が、迷いの行き先を吸い取る。「鎖でも、春に解いて手の痕を小さくできるなら、結ぶ意味はある。配給札と冬借を両輪にする。札の紙は王宮の紙ではなく——井戸復旧に協力した工匠の繊維を混ぜよう。偽造を難しくする。繊維の調子は、光にかざすと一瞬波打つやつ、あれを」
「工営に回す。繊維の配合は三種。二つは表、ひとつは裏の印だ」
楓麟が書記へ命じると、素早い筆音が机に降った。紙の上で黒が走る、その音で、遠い倉の戸板が一本ずつ閉まるのが見える気がした。
第二——避寒。
「城外の布市場は、火事跡のまま風に晒されている。毛織物が不足だ」
工営が広げた図には、焼け跡の広さ、布地が滞る箇所、仕立ての手が足りない路地の名まで記されている。冷えは生活の隙間に入り込み、まず布からこぼれていく。
「兵の破れた外套を回収して、ほどいて仕立屋に回す。『継ぎ外套』だ。縫い目は見えるが、温かさは逃がさない。対価は布切手で春に精算。王の外套も同じに繕う」
楓麟の言に、藍珠が頷く。「『王のは別』を一つずつ潰していくしかない。寒さは身分を見ない」
遥は自分の外套を脱いだ。泥と血の染みが、夜の闇のように肩に広がっている。それを机に置いた。「見本に。縫い目が外に出ていてもいい。外に出ている方が、次に破けたとき、誰にでも直せる」
政務室の空気が一瞬、ゆるんだ。誰かが小さく笑い、小さな笑いはすぐに紙の上に吸い込まれた。笑いが紙を薄くするのなら、何度でも。
第三——治療。
「医の館が飽和してる。峠の負傷者で床が足りない。薬草庫は風の音しかしない」
医療の机から立ち上がった白衣の医官の声は、空気の端を鳴らしていた。「痛み止めと消毒が、足りぬ。糸が足りぬ。煎じる火も」
「前線の焚き火の灰を集める。灰汁と酒で洗うだけでも傷が違う。藁布を煮てから使う。野晒しの手よりは清い」
藍珠が、現場の手の高さで話す。「冬は水が冷たい。冷たい水でしか洗えないところは、いっそ灰を擦り込む。そのための酒は、医療に最優先で」
「酒税、一時免除。医療用割当を先に記す。『兵の酒ではなく傷の酒』だ」
楓麟の命を、書記が短く言い直した。短い言葉は、遠くへ飛ぶ。遠くへ飛んで、人の主張より先に荷駄に着く。
そこへ、城門詰め所から走りが入った。赤い息、白い額。
「城外に列。北麓の小村が野盗に荒らされ、女と子が凍りついています!」
紙の上の墨が、ひと筋だけ乾ききらないまま止まった。王が出ると決める前に、藍珠が目で問う。遥は頷いた。時間の体温を奪う前に、体を扉の向こうへ押し出す。少数の近衛とともに階を降りると、城門の石に霜の花が咲いていた。門衛の槍の穂が白く息を吸い、吐くたびに、細い霧をつくる。
門の外。痩せた母親が幼子を胸にくくりつけ、凍った足を引きずっている。幼子の睫毛に霜がつき、眠りのまぶたと間違えそうになる。背を折った老人は、肩の荷の中身を誰にも見せまいと、肩をさらに前へ傾けていた。列は、地面の溝のように長い。
「王、城内に入れれば、内の口が増える」
門衛の反対を、遥は掌を上げて制した。掌は冷たく、しかし言葉より確かに止まる。
「一時収容だ。城壁内の空き倉を避難所に回す。火床を増やせ。薄粥を大鍋で。名を記し、配る順を札に。外へあふれた声は、中の秩序でしか沈まない」
「はっ」
命は、寒さに勝つにはいつだって短い。短いから、先に動く。倉の戸が空く音が、城内の反対の囁きを連れてくるのも分かっていた。
「城内の口が増える」
「配給が薄くなる」
市場の角に、黒衣の男が、また立っていた。黒い布は風を吸い、影のように形を変える。耳元だけに届く声で囁く。
「紅月へ移れば、腹は膨れる」
密偵頭が、近づいた瞬間にはもう離れている男の後ろ姿を目で追って、低く言った。「黒衣、先の密偵の別線。尾は薄い。薄いから、追い切れない」
「なら、こちらから網に乗る」
楓麟は、躊躇わなかった。「囮を使う。配給札にわざと微細な偽造誤差を混ぜる。字体の腹の厚みをひと筆ぶん揺らす。繊維の撚りの角度を、三十に対して三十二で作る。見破る者だけが乗れる綱を、こちらで渡す」
「偽札が流通すれば、札そのものが“追跡装置”だ」
藍珠が頷く。「掴んでくる手の温度で、出どころが分かる。冷たい手は城内だ。温い手は外」
夕刻、臨時評議。王宮の中央の間には、急ごしらえの炉が置かれた。火は小さいが、言葉が冷える前に手先を温めるだけでも違う。法務卿・玄檀が、舌をやっと出したような顔で言う。
「王、『偽王』呼ばわりは大逆。今こそ見せしめを。舌の先から凍えさせれば、声は止まります」
「恐怖で黙らせれば、冬が明けたとき反動が来る」
楓麟は、火の温度ではなく言葉の温度で返した。低いが、長く続く温かさ。
藍珠の視線は冷ややかで、玄檀の背の皺を一枚ずつ数えているようだった。「見せしめは剣より粥で」
室の空気が一瞬、揺れた。粥は剣にならない。ならないのに、勢いが削がれた誰かの口が、閉じる。遥は二人の視線を受け、決める。
「処罰は、密偵線が繋がり次第。今は粥を増やす。薄さで命を削らない。玄檀、法は動かすためではなく、止まるためにある。止めて待て」
玄檀の唇が一度だけ歪み、彼は深く頭を下げた。下げた首の後ろに、わずかな逆毛が立っている。
その夜、王宮の外縁の回廊で、矢が一筋、闇を裂いた。矢羽根は紅。柱に突き刺さり、矢柄には細い紙。紙は細すぎて、指の腹で触るとすぐ破れそうだ。破れそうなものほど、言葉は鋭くなる。
『冬借は民を縛る鎖。王は春までに倒れる』
藍珠が矢を抜き、楓麟が紙を灯に透かした。鼻先で匂いを確かめる。指に付いた墨を舐めはしない。匂いで十分だ。
「墨は紅月の配合。けれど、射った位置は城内の角だ。軋む板の音が、内の音だ」
内通の根は、まだ生きている。根は、目に見えないところで太る。太らせぬうちに、抜くのは難しい。難しいなら、凍えさせる。根は寒さに弱い。
夜警の火が点々と長い廊下に揺れ、遥は柱の穴に指を差し入れた。木の冷たさは、体温を奪う前に目を醒まさせる。「鎖でもいい。春まで“生かす”鎖にする」。独白は震えない。震えないことが、誰かの震えを止めることがある。
◇
翌朝。三枚の大札の下に、黒い線が増えていく。「兵糧」の下には倉の名と量、「避寒」の下には針の数と段取り、「治療」の下には灰と酒の分配。配給札の印刷は工匠たちの工房で始まった。井戸復旧のときに使った繊維の束に、藍珠が自ら指を通す。隙間から指を覗かせて、繊維の山と山をわずかにずらす。ずらすことで、同じは同じでなくなる。
「繊維の撚り角三十二、一見三十。墨の腹を薄め、縁を濃く。偽る手は、濃い縁に弱い」
工匠の老女が、藍珠の手を見て頷いた。「王の侍は、布の目を知っておいでだ」
「目を知らずに、口を守れない」
配給札の一角に、ごく小さな「星」を一つ、わざと歪ませて刷る。歪みは肉眼で拾えない。灯に透かしたときだけ、星の縁がひと呼吸遅れて付いてくる。遅れる星を追える者だけが、網にかかる。
城内の空き倉は、火床の数だけ温かさを持った。薄粥は湯気だけで半分以上の役に立つ。湯気を吸い込んだ胸は、つかの間、咳を忘れる。母は子の口に粥を寄せ、子は眠る前に湯気の匂いを学ぶ。
「王の粥だって」
子どもの小さな囁きを、遥は聞かぬふりをした。聞かぬふりをすることが、ふさわしい距離を保つ日がある。
市場の角の黒衣は、昼と夜で違う顔を持っている。昼の黒衣は光を拾い、夜の黒衣は音を拾う。密偵線は伸びたり縮んだりして、薄い板の間を通っていく。囮の札は三つ。一つは市井に、一つは商務司の手元に、一つは城門詰め所に。いずれかの札から流れ出した偽造が、網を通れば、星の遅れで筋が見える。
「配給札、今日から試行。『子のいる家、年寄りのいる家、病のある家』の三札を先に。数は少なく、順は速く」
楓麟の声は速い。速さは人を急がせるが、順序がある速さは混乱を呼ばない。藍珠は周辺の路地に立って、札を受け取る手の温度を見ていた。冷たい指は硬い。硬い指は札を強く握る。温い指は、受け取ってすぐ袖の中に隠す。その隠し方に、罪の色はない。
玄檀は評議のたびに剣を求めたが、剣の代わりに帳面の線が増えるたび、言葉の刃は鈍っていった。剣より粥のほうが遅いと、彼は自らを説得できない。説得できないから、彼は余白に「遅」と小さく書く。小さな「遅」は、目に見えるほどには遅くない。
◇
三日目。偽りの星がわずかに滲んだ配給札が、城下の裏手で拾われた。拾ったのは痩せた若者。指はよく動くが、目はよく眠っていない。札は彼の懐から商人へ、商人から黒衣へ移り、黒衣は夜の縁に立ってそれを数えた。数える指は黒い布に隠れて見えない。けれど、星の遅れは隠れない。
「城門詰め所の筋に乗った」
密偵頭が小さく笑った。「尾は薄くない。薄いふりをする尾は、厚い」
「尾の先を焼くな。凍らせて折る」
藍珠の声は冬の水みたいだ。凍りつく寸前の透明。楓麟は頷き、城内の巡り道に、目に見えない障りを置く。小さな荷車の輪を引っかける木の結び目。結び目は結び目にしか見えない。けれど、急いでいる車だけが引っかかる。
夜。城の北の回廊の影で、また矢が鳴った。紅い羽根。矢柄の紙には短い文。
『鎖で生かすなど、王の嘘。春が来る前に、手は凍る』
遥は紙を受け取って、灯に透かした。墨の粒が粗い。粗い文字は急いでいる。急いでいるとき、人はよく間違う。紙の下の木目が揺れた。揺れる木目は目に見えず、指にだけ触れる。
「どうでもいい、と言えるほどに厳しくはない。けれど、どうでもよくない、と言って止められるほどに強くもない。だから、続ける」
藍珠は矢を手にしたまま、城壁の上を歩いた。彼女の背は痩せて見えたが、足取りは重い。その重さは、地面に沈むためではなく、風に取られぬための重さだ。
「紅月は、『飢えぬ冬』を売る。売られた冬は、春に請求書が来る」
楓麟が、遠くの灯を数えながら言う。「請求書を読める目の数を、増やすしかない」
「文字は寒さを遠ざけない。でも、寒さを名前で呼べるようになる」
藍珠は矢の羽根をひとつ引き抜いた。紅が指についた。冷たい紅は、体温でやっと色を持つ。
◇
七日目。倉の薄粥に、芋の欠片が混じった。芋の薄い甘さに、子どもの舌が喜ぶ。喜ぶ舌は静かになる。静かになった間に、母は眠る。眠る間に、城の外の道で、黒衣の尾の先が凍って折れた。折れた音は誰にも聞こえない。聞こえない代わりに、翌朝の市場に噂が流れた。
「紅月の札、星が遅れている」
噂の文句は、謎のようで謎ではない。知らない者にはただの空。知っている者には刃。
玄檀は、評議でとうとう静かになった。静かになった代わりに、墨の濃さを変えた。「処罰の文は、墨を薄く。薄い墨は、長持ちする」
「見せしめは粥で」
藍珠の一瞥は変わらない。彼女は玄檀の書く字の線を追い、線がどこで息を吸い、どこで吐くかを見ている。線が呼吸をはじめたら、法は人になる。人になった法は、剣より重い。重いものは、軽々しく振れない。
◇
十日目の朝。城門に、小さな列ができた。今度は「入れてくれ」ではなく「返しに来た」。冬借の札を胸に入れていた男が、顔を上げた。
「王の冬借は、鎖かもしれない。けど、鎖にぶら下がって、子どもが落ちなかった」
「返しなさい。春に、畑で」
遥は札の端を折った。折った角は、柔らかな三角をつくる。「返せぬぶんは、石を運んでくれ。石を運ぶ手は、春に残る」
男の手が震え、震えは寒さだけではなかった。人が礼を言うときに震えるのを、遥は知っている。礼には、手の居場所がない。手の居場所をつくるのは、札ではなく、火床だ。火床の前には、いつも座る場所がある。
◇
薄暮。王宮の梯子段に、霜が降りた。梯子段を上がる足裏が、音で季節を数える。かつん、かつん。音が一つずつ、廊下に線を引く。線の上に、灯が一つずつ。
遥は政務室に戻り、三枚の大札の下に小さな札を足した。白い板に小さく、「息」とだけ。息は目に見えないが、字になると見える。人は、見えるものに触れられる。触れられるものは、温度を持つ。
「息のために、粥を増やす。息のために、剣を抜かぬ。息のために、鎖を結ぶ」
藍珠がその字を見て、短く笑った。「王の字は、硬いのに、温い」
「おまえの言葉は、冷たいのに、柔い」
楓麟は、窓を少し開けた。外の冷気が頬を撫でる。撫でる冷たさは、熱くなる前の警告だ。
「冬はまだ口を閉じない。だから、こちらが口火を切る」
「冬の口火」
藍珠が、言葉を口の中で転がした。「火は小さくても、暗さは嘘をつかない」
「暗さが嘘をつかないなら、嘘は光の側にいる」
楓麟の目が細くなる。「なら、光の側でも、風が吹けば消える」
「消えない火を、たくさん作る」
遥の声は、ささやきではないが、大声でもない。遠くの倉に届くほどの大きさで、近くの息を乱さない程度に。火は、誰かの掌に宿る。宿った火は、その掌の匂いを覚える。匂いは、忘れない。
◇
その夜更け。王宮の外縁、長い回廊の影は、夜警の火で縁だけが見える。闇の中にあるものは、形を持たず、音だけでそこにいる。誰かの足音。誰かの息。誰かの震え。柱には、昼に開いた穴がある。矢の痕。指を入れると、木が冷たく、固い。固いものに触れると、心がまっすぐになる。
遥はその穴に、もう一度指を差し入れた。木の感触は、昼と同じ。昼と同じだと、夜は少しだけ怖くない。
「鎖でもいい。春まで“生かす”鎖にする」
声にして、言葉が自分の胸の中で、何かを固定するのがわかった。誰かの傷口に縫い目ができるように。縫い目は見える。見えるから、次に誰でも縫える。
遠くで、太鼓が一度、風に混じった。返すように、城の内のどこかで鍋の蓋が鳴った。蓋の音は、粥の音。粥の音は、生きている音。生きる音は、冬を少しだけ短くする。
第二部の地鳴りは、足の裏ではまだ震えない。けれど、床板の奥で、小さな音が続いている。音は土に染み、土は春の色を覚える。覚えた色は、雪の下で眠る。眠っている間に、人は火を守る。火は、口火から始まる。
◇
翌朝、都に降りた霜は、昨日より薄かった。薄い霜は、厚い霜よりよく光る。光るものは、溶けるのも早い。早く溶けるものは、早く忘れられる。忘れられる前に、札をもう一枚。
「『息』の札の下に、『並べ方』を」
楓麟が自ら筆を取った。「『子』『老』『病』『妊』。順は人のため、逆は神のため」
「神は順番を嫌わない。人は、順番があると安心する」
藍珠は、筆先の墨の重さを見ていた。「安心を配るのは、粥ではなくて、順だ」
政務室の窓から見える城下で、黒衣の影は、昼の陽に細くなる。影は消えないが、細くなる。細くなった影は、足もとを脅かさない。その間に、石を運ぶ。石は、凍っても重い。
遥は立ったまま、机を一つずつ廻った。紙の端を押さえ、判の角を確かめ、札の高さを直し、火床の炭を足す。立ったままでいることで、時間の背に手を置いている気がした。時間は背を向けるが、背中がある。背中があるものは、押せる。押せるものは、進む。
霜の峠と灰の渡しの戦から十日。都は凍てついている。けれど、凍てついた石畳の上には、人の熱の跡が小さく残り、そこに靴の底が重なる。重なりは道になる。道は、春へ伸びる。
冬の口火は、小さい。小さいけれど、確かだ。確かなものは、誰かの指で触れられる。触れられるものは、渡される。渡されたものは、重さを分け合う。重さを分け合えば、凍てついた都でも、息が通る。
息は目に見えない。見えないものを、札にした。札は目に見える。見えるものを、信じる。信じられたものは、少しだけ、温い。温いものから、冬がほどけていく。
今日も、壁の三枚の大札の下で、黒が増えていく。黒い線が増えるたび、白は狭くなる。狭くなった白の上に、また字が立つ。立った字の数だけ、誰かの震えが止まり、誰かの粥が増え、誰かの外套が継がれ、誰かの傷が灰で洗われる。
「春まで“生かす”」
遥はもう一度、口の中で言った。言葉は温度を持ち、温度は誰かの掌に移る。掌が火を覚え、火が夜を短くする。短くなった夜の底で、地鳴りが少しずつ、近づいてくる。近づく音に耳を澄ますために、今日も、札を目の高さに。粥を火の高さに。剣を鞘の高さに。
凍てつく都で、口火は小さくとも、確かに燃えている。灯に透かした配給札の星は、遅れずにそこにあった。遅れない星が、誰かの足を冬から引き上げる。星が星であるために、紙を増やし、火を増やし、息を増やす。
冬は、まだ、長い。けれど、冬の口火は、もう、そこにある。