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第14話 犠牲

 朝がまだ夜の湿り気を背に負っているうちに、霜の峠の空気が低く鳴った。

 昨日の火と鉄の匂いは、地表からまだ抜けきらず、短い息を吐けば、喉の奥に炭の粉が残る。兵の甲冑の継ぎ目には黒い泥が乾ききらず、槍の柄には汗が塩の花を咲かせていた。

 鈴は――鳴らさない高さで、風を渡る。

 その風は、夜の境目をためらいながら越え、峠の北、樹海の縁で葉の裏を撫でた。


 紅月は、方針を変えた。

 角笛は長くなく、鼓の打ちは浅い。正面で弓騎兵が矢の雨を繰り返し、目と耳を乱す。――が、主はそこではない。北側、樹海の獣道。木々の影は濃く、根は斜めに地を掴み、道は道と呼べぬほど細い。そこから小隊が、土の色を纏って浸み出すように現れた。

 白風の見張りが一つ、二つ、斬り捨てられ、柵の影に赤い布切れが残される。布の角は細く、風に持ち上がってすぐ落ちる。落ちた角の重さが、朝の軽さを少しだけ傾けた。


 見張り塔の上で、楓麟は風を読む。

 耳の毛は寝ている。目は灰の色。塔の縁に置いた指先が、石の冷たさに一度だけ深く沈む。

「密偵頭」

 呼べば、彼は足音を見せずに現れる。

「樹海の入口に音を張れ。古いほうでいい」

 古い罠――細い竹を交差させ、踏めば乾いた音が連鎖する。驚くほど小さい音で始まり、木の根の間を伝って、次の竹へ、さらに次の竹へと移り、やがて人の耳の中でだけ大きく膨らむ。

「鈴は鳴らすな。鳴らさない高さで、竹を鳴らせ」


 密偵頭は頷き、樹海の縁へ消えた。

 地図の上で、北の影は静かに厚みを増し始めている。楓麟は旗手に目で合図し、前衛の側面を二枚、薄く重ねた。旗は言葉を持たないが、風の高さを知っている。


     ◇


 正午。

 藍珠の隊が樹海の中腹で、敵の半包囲に遭った。

 地形が悪い。斜面はぬかり、根は足を奪い、枝は視界を裂く。逃げれば背を斬られ、進めば矢を浴びる。

 藍珠は即断した。

「内へ寄れ。樹の幹を盾に回れ!」

 声は短い。短い声は、かえって遠くに届く。

 隊は円陣に近い楕円陣を作った。楕円のくぼみに幹を置き、幹の影を盾に、外側の足を半歩引く。外へ出た刃は即座に斬り返し、内の者は矢を受ける肩を決める。藍珠は先頭で矢を弾き、二の太刀で喉を断ち、刃を返して脇腹を断つ。

 肉薄戦は時間を稼ぐための呼吸だ。呼吸を刻むのは、刃ではなく足。足は斜面に噛み、根の間に縄をかけるように踏む。


 そのとき、後方の仮設指揮台で、伝令が矢を胸に刺したまま転げ込んだ。

 「藍珠――包囲、壊滅の、危機」

 それだけ言って倒れた。布の音が短く、地面に吸われる。


 遥の視界が狭まった。耳の音が遠くなる。鼓の低さが、井戸の底から聴こえるように遅れて届く。

 頭のどこかが叫ぶ。「行ってはならない」。

 同時に、胸の奥で別の声が湧いた。

 ――あの夜、灰の渡しで縄を掴んだとき、恐怖の中で選んだほうの声。

 濡れた縄の重さ。手の皮の裂け目から立ち上がる痛みの白。藍珠の肩の固さ。楓麟の短い息。

 「行け」。


「救援を出す。第三列を私とともに!」

 叫んだ声は喉を痛め、胸の奥で弾けた。すぐに反対の声が上がる。

「王を前に出すな!」

 楓麟が短く遮る。

「王は後衛の端。視界が通る尾根へ。前衛は私が指揮する」

 遥は頷く。頷きは短く、足はすぐに動いた。救援隊は丘の陰を縫って走る。樹海の縁は近いのに、距離は縮まらない。濃い影は時間を引き延ばす。


     ◇


 救援の途上、灰の渡しから狼煙が二本、細く、まっすぐ上がった。

 ――小競り合い。

 薄紅平原は静か。昨日の囮灯の名残りの煙がまだ薄く漂い、遠目には草の色がひとつ濁って見える。霜の峠の主戦は、持久へ移りつつある。

 だが、藍珠の位置に着く前に、白風側の斥候が息を切らして戻った。

「敵は輪を狭めません。藍珠の隊を囮にして、こちらの救援を林の袋小路へ誘うつもり。……獣道を二つ、潰されています」

 獣道が潰されると、足はその前で迷い、迷いは遅れを生む。


 遥は尾根に立ち、樹海の影の動きを追った。

 見える。

 同じ木の影に重なる、三つの黒。あれは弓手だ。陰から陰へ移り、射る。射ってから走る。息は短いが、速い。

 楓麟が手刀で指示を刻む。地図より早い合図。

 ――正面からは入るな。斜面の獣道を横切って、敵の脇腹へ回れ。

 藍珠の陣へ、旗が走る。

 藍珠は円陣をさらに縮め、あえて中央に「空白」を作った。

「空けるぞ」

 その一言で、内側の足が半歩、下がる。

「喰わせる。両端、準備」

 両端の刃が低く構え、息を止めた。

 敵が空白へ雪崩れ込む。勢いは勢いへ寄りかかる。寄りかかった瞬間、白風が両端から刃を差し入れる。袋の口を絞る要領。

 刃は骨に当たり、骨は音を持ち、音は短く、土に吸われた。


 計略は成功した。

 敵の先頭が崩れ、白風の救援が横から楔のように刺さる。楔は、真ん中ではなく、少し外。外を割れば、中の勢いは自らを転ばせる。

 だが、その直後。

 藍珠の近くで、若い兵が転んだ。足が根に取られ、膝が泥に落ち、その瞬間、敵の槍が胸を貫いた。

 藍珠は反射でその槍を斬り払い、兵を抱き起こす。青年の喉から泡が漏れ、目はまだ空を映す。

「……王に……伝えて……」

 掠れ声。

 藍珠は一瞬だけ瞼を閉じ、指で兵の目を閉じた。それから振り返りざま、近づいた敵の額を柄頭で打ち砕く。骨が短い音を出し、倒れた体が土を受けた。


 楓麟の旗が、尾根の上でひとつ振れた。

 ――今は追わない。足を揃えろ。

 救援は間に合った。藍珠の隊は壊滅を免れた。が、白風側の死傷は重い。担架に乗る者、歩けず引きずられる者、肩を貸す者。樹海の出口で、血の匂いと泥の湿気が渦を巻き、救援隊の足に絡む。


     ◇


 指揮台に戻る。

 遥の前に、渦が流れ込む。血の、泥の、汗の、薬草の、鉄の匂い。音は小さく、多い。担架の木が軋む音。包帯の布が裂かれる音。水が皮袋の口を叩く音。

 彼はひざまずき、青年の遺体を見下ろした。

 声が出ない。

 腰袋から、小さな木彫りの笛が出てきた。節の少ない、素朴な笛。表面には爪痕のような傷がいくつもあり、端には子どもの歯で噛んだ跡がうっすら残っている。粗末な紐で綴じられた手紙も一通。紙は薄く、字は幼い。

 ――収穫が終わったら、帰ってきてね。

 ぎこちない線で、そこに書かれていた。

 「ね」の丸が大きすぎて、次の行の頭を押している。押された頭の字は小さく、押し返す力を持たない。


 遥は指を震わせながら、笛を握った。

「……俺が命じたから、彼はここにいる」

 言葉は低い。低い言葉は、足の裏へ落ちる。

 藍珠がそっと手を添えた。手の甲には、乾いた血の線が一本、斜めに走っている。

「私が剣を振ったから、彼はここで倒れた」

 彼女は続けた。

「――王。責任は、一人で背負うためではなく、分けるためにある」

 分ける、という言葉は軽い。軽いが、その中身は重い。重いものを分ければ、形が変わる。形の変わった重さは、肩に馴染む。


 楓麟は戦況を俯瞰し、淡々と次の指示を出した。

「死者の名は全て刻め。遺族への給付を倉から出す。戦場の中央に死傷者の通り道を確保しろ。負傷兵は峠の背へ下げる。夕刻の反撃は捨てる。夜の間に柵の杭を増し、明朝、薄紅平原の囮の焚き火は倍。敵の警戒を散らす」

 短く、漏れなく。

 旗が動き、札が走る。風府の巫が歌を一行、通り道の上に置いた。歌は低く、鈴は鳴らさない高さで、呻吟の音から痛みの尖りを一歩だけ削いだ。


     ◇


 夜。

 指揮台の灯が低く揺れ、影は長いが、どれも大きくない。

 遥は一人、笛を手に座った。笛穴に指を当て、吹いてみる。音は出ない。喉が塞がっている。胸が閉じている。

 藍珠は少し離れた場所で刃ではなく柄を磨き、楓麟は塔の半ばで風の高さを確かめている。誰も、彼へ近づかない。近づかないことが、支えになることがある。

 やがて、遥は立ち上がった。

「書記」

 書記が小走りに来る。耳の後ろに紙埃が白くついている。

「全ての死者の名を記す。家の場所、残された者の名、できるだけ詳しく。……俺が読む」

 書記は黙って頷いた。楓麟と藍珠は互いに目を交わし、何も言わない。何も言わないことが、言葉より強い夜もある。


 名を記すことは、遅い仕事だ。

 遅い仕事は、夜に向く。

 火の横で、名が紙の上に次々と置かれていく。姓の形、名の音。字が読めぬ兵は、隣に座って、口で名を言い、書記が字にする。

 「川のほとりの者」

 「畑の外れの者」

 「兄を去年、疫で亡くした者」

 名に紐づく短い記憶が、紙の端に小さく結ばれる。結び目の大きさに差はある。だが、どれも硬い。固結びは、容易にほどけない。

 遥は耳で聞き、目で見、口の中で繰り返す。繰り返すことで、音が紙から離れて胸に留まる。胸に留まった名は、数にならない。


 楓麟が一度だけ近づき、紙の端を押さえた。

「名は、戦の数にしないために記す。だが、戦の数を忘れないためにも記す。両方だ」

 遥は頷いた。

 「……明日、朝に読む。全員の前で」

「読むなら、短く。短い言葉は、遠くに届く。遠くに届けば、戻る」

 戻ってくる言葉は、陣の芯になる。


     ◇


 星が雲の間から覗く頃、遠くの丘で紅月の焚き火が増えた。増えた火は数を誇示するだけでなく、恐れを分配する。分配された恐れは、夜の端で互いに擦れ、物音になる。

 鈴は鳴らさない高さで、塔の上を風が渡る。楓麟は耳の毛をわずかに上げ、すぐに寝かせた。

「南、少し混じる」

 混じる風は、夜明けに霧を薄くし、明日の矢の飛びを変える。

 薄紅平原へは、囮の焚き火が倍、仕込まれていく。草は昼に束ね、夜に湿り、朝に乾く。その乾き具合を巫が歌で見、それに合わせて火の腹を決める。囮が囮であるために、正確さは必要だ。


 藍珠は刃を収め、空を見た。

「王」

 呼び方は短い。

「明日の『違い』を作るのは、今日の夜の手だ」

 遥は笛を握り直した。

 手は震えていない。震えが行き場を見つけ、胸の中で小さく丸まったからだ。


     ◇


 明け方。

 霜の峠の草がまた白を纏い、柵の上に小さな霜花が咲く。兵の息は白くならない。乾いた空気は、息の形を見せない。見せない息は、声の高さを決める。

 名簿は一応、整った。整ったと言っても、紙の端は揃っておらず、書記の字の傾きは疲れを滲ませる。

 遥は指揮台の前に立った。兵は広場に散らばって立ち、槍の柄を持つ手を少し下げた。

 彼は紙を持たない。持つと震える。震えは、名ではなく紙を震わせる。

「――名を読む」

 声は腹から。鈴を鳴らさない高さ。

 一つずつ。

 短く。

 早くなく、遅くなく。

 名ごとに、槍の柄が一度だけ地を打つ。不規則に、しかし確かな返答として。

 全てを終えるのに時間が掛かった。掛かるべき時間だった。時間は、名を数にしないための器になる。

 読み終えて、彼は言葉を置いた。

「倉から、残された者へ粟を。畑の人手は、王が出す。……働けない家は、医の館へ。名は、倉と風府の札に重ねて残す」

 短い約束は、長い約束より、遠くに届く。


 楓麟はうなずき、旗を一度だけ、低く振った。

「通り道。広げろ」

 戦場の中央に死傷者の通り道が確保される。立ち塞がるものは、敵だけで良い。

 藍珠は側面の林へ戻り、杭の角を昨日より半歩だけ深く入れた。半歩は、転ぶか転ばないかの違いを作る。

 長風は札を折り、歌の旋を一つ、低くした。低くすることで、敵の鼓の低さに紛れず、こちらの旗の白縁を風が拾う。


     ◇


 樹海の入口に張られた竹の仕掛けは、午前のうちに二度だけ鳴った。

 一度目は鹿だった。小さな連鎖の後、すぐに途切れた。

 二度目は人だった。連鎖は深く、二筋に分かれ、さらに合流した。合流点に、待ちが置かれていた。

 「右」

 楓麟の一語で、伏兵が右を叩く。

 敵は木の影に吸われ、地の影に落ち、影の間に刃が走る。

 鈴は鳴らさない高さで、風が音を千切る。千切られた音の断片は、小さく、短く、地に落ちて消えた。


 昼過ぎ、灰の渡しから狼煙が一本。

 ――水量、少し下がる。

 堰は持っている。持ちながら、流木は堰の角に溜まり、草の縒りは新しくされ、楔は朝より一本増えた。

 薄紅平原では、囮の焚き火が昨日の倍、点いた。点いた火は、風の高さを読み違えるとすぐに嘘になる。今朝の風は、鳴らない高さで平原を横断し、焚き火の煙を低く押し、紅月の目を横に滑らせた。滑った目は、一瞬、峠から離れる。離れた瞬間、峠の柵は息を整える。


 午後、樹海の中腹では、昨日より少ないが鋭い衝突が続いた。藍珠の隊は、前に出すぎない。出すぎないことは、臆病ではない。生かすための臆。

 救援に出た第三列の一隊が戻ってくる。担ぐ者、担がれる者、肩を貸す者。昨日より少ないが、重さは変わらない。

 遥は通り道の端に立ち、戻る者の眼を見た。

 昨日より、目の奥に光があった。

 光は小さい。

 小さいが、消えない。

 消えない理由を、彼は知っている。

 名を、読んだからだ。


     ◇


 夕刻。

 楓麟は塔の上で風を読み、短く結んだ。

「夜の反撃、捨てる」

 旗が「否」を描く。武功を焦る声は、旗の高さでは届かない。届かない声は、夜の裾で消える。

 「杭を増せ」

 「通り道、灯を増やすな」

 「倉、名に合わせて粟を分けよ」

 命は短く、漏れない。短い命は、疲れた耳にも届く。


 夜、指揮台の灯は昨夜より低く、風は昨夜より柔らかい。

 遥は紙の束を胸に抱え、小さな焚き火の前に座った。笛はそばに置く。吹かない。吹けない。

 藍珠が近づき、何も言わず座る。楓麟は塔から戻り、何も言わず立つ。長風は札を一枚、焚き火の陰に差し入れ、歌の旋を低くした。

 「王」

 楓麟が短く呼んだ。

「名。明日からは、毎朝、三十だけ読む。全部を一度でなく、毎日、三十。戦の終わりまで」

 遥は頷いた。頷いたとき、胸の中で何かが、ゆっくりと形を変えた。

 責任は、一人で背負うためではなく、分けるためにある。

 分けることで、初めて形になる責任もある。

 形になった責任は、陣の芯になる。


     ◇


 遠くの丘で、紅月の焚き火がまた増えた。

 戦は、まだ続く。

 だが、白風の陣の中央に、ひとつ新しい芯が生まれていた。

 王が「犠牲」を数の記号ではなく、「名」として受け止め始めたこと。

 名は、明日の命を運ぶ。

 名は、明日の声の高さを決める。

 名は、たしかに――重い。

 重さは、罰ではない。

 明日の印だ。


 鈴は、鳴らさない高さで、夜を渡った。

 風は、陣の上を撫で、焚き火の煙を低く押し、声の残りを小さく混ぜ合わせて、星の少ない空の隙間へ消した。

 誰かが短く笑い、誰かが短く泣き、誰かが短く祈る。

 短いものばかりの夜だったが、短さは、長さの始まりにもなる。

 翌朝、兵の目の奥に宿った小さな光は、昨夜よりもわずかに深かった。

 深さは、戦の行方をすぐには変えない。

 だが、行方に抗う足の裏の、目地の感触を変える。


 目地は細く、確かだ。

 確かさは、罰ではない。

 明日の印だ。

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