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第13話 開戦

 夜明け前、闇はまだ夜の名残を手放さず、谷の底では冷えた霧が薄い衣のように大地を覆っていた。霜の峠は名の通り白く、草の先端に残った小さな氷の粒が、風にすれるたび微かな音を立てる。

 低い角笛が、二度。

 合図の音は胸骨の奥に沈み、骨の隙間へまっすぐに沁みる。遠い丘を背に、紅月の先陣が影を連ねて現れた。盾の列は霧を押し分け、黒い縁取りで朝を裂く。列の後ろで槍が傾き、旗の赤がまだ夜の色を吸って重い。


 白風軍は二重柵の内側に歩兵を伏せ、外側の浅い塹壕には投石器と杭打ち隊。乾いた縄の結び目は昨夜のうちに一段締められ、落とし穴の口には草が薄く敷かれている。柵と柵の間には長槍が寝かせられ、足元の土は踏み固められて、土と汗の匂いが地面から立ち上がる。


 峠上の見張り塔。

 楓麟は風を読んでいた。耳の毛は寝たまま、目は灰を薄く溶かした色。石の縁に指先を置き、風の高さを測る。

「風、西寄り。火は使うな。投石の角度を一段、下げろ」

 合図旗が揺れる。旗手の肩は強張っているが、旗の布は迷わない。塔の下から復唱が戻り、各隊の隊長が短く「承知」と口を揃えた。


 後方高地の仮設指揮台。粗い板に組まれた床の下は空洞で、踏むたび、隠した恐れが響きに混ざる。遥は喉の奥が渇くのを自覚し、水袋を口に運ぶが、喉はほとんど飲み込まない。飲み込む前に、角笛の低い音の残りが、喉へ引っかかっている。

 藍珠は前衛の側面警備に回され、出撃前、短く剣を掲げ、視線だけで合図した。光のない目に、火はない。だが、その冷たさは、彼の背骨をまっすぐにする。遥は頷いた。頷いた直後、足元の土がわずかに震えた気がした。震えたのは土ではなく、自分の鼓動だと、すぐに気づく。足の裏に、骨の打つ音が、土経由で返ってくる。


 開戦の号砲。

 紅月軍の先鋒が盾を打ち合わせながら前進を始めた。盾の縁は鉄で補強され、打つたびに低い響きが連なり、霧の上に波紋を作る。

 白風軍の投石が弧を描いて飛ぶ。半歩低い角度を得た石は、敵の盾列の継ぎ目を叩いた。継ぎ目は鉄ではない。そこで音はやや高く、軟らかい。体勢を崩した兵が一歩前に落ちる。落ちた足は、草の下の空洞に沈む。

 落とし穴は口を広げ、敵の足を一本、二本、飲み込んだ。穴の縁が沈む間に、白風の弓兵が一斉射。歪んだ盾の上へ矢が降り、弦の鳴りが重なって短い雨になる。第一撃は成功だ。だが、紅月の隊形はすぐに組み替わる。盾が重なり、縁と縁が噛み、長槍の森が押し寄せる。槍の先は揺れない。揺れない先が、霧の中で光を失った目の高さに揃う。


 灰の渡しから狼煙が一本。細く、まっすぐ、灰。

 ――異状なし。

 薄紅平原には、夜間の囮火計の名残の煙がまだ淡く漂う。煙は匂いを薄め、敵の鼻を疲れさせる。楓麟は峠の南側斜面に小部隊を回し、「背面に回り込む敵見張り」を叩けと旗に書いた。

 密偵頭が、塔の半ばの石に片膝をついて、目を細める。

「敵の鼓笛の調子が早すぎる。……焦りか、囮か」

 焦れば音は上ずる。囮なら、音は整えられる。整えすぎる音は、風に嫌われる。楓麟は無言のまま、耳の毛をわずかに上げ、すぐに寝かせた。


 午前。

 戦況は拮抗した。

 敵は盾の列の間に短い梯子を立て、柵に取り付きはじめる。柵の上の手は厚い革で守られている。白風側は杭を抜き、叩き落とす。杙の先は鈍い。鈍さは骨に響く。叩かれた手が梯子から離れ、体が落ち、落ちた音が土に吸われる。

 人数が多い。多さは音の層を厚くする。厚くなった音の中で、指示は短くなければ溺れる。

 遥は喉から搾り出すように声を張った。

「第一列、下がるな! 柵の間へ敵を誘い込め! 第二列、側面から叩け!」

 伝令が走る。息の数と足の数が合う。旗が揺れ、命が通る。通った命は「行け」と「止まれ」を同時に含んでいる。前へ行け、だが足は重ねるな。止まれ、だが手は止めるな。

 恐怖は消えない。消えないまま、形を変える。視界の端で、若い兵が膝をつき、吐瀉物をこらえている。喉に逆流したものの酸が、鼻を刺す。隣の兵が肩を叩き、また前を向かせる。肩に触れる手は震えていない。震えていない手は、自分の震えを隠せる。隠した震えは、夜になってから出てくる。


 正午。

 敵が一時退いた。角笛が二度、低く。

 静寂は短い。短い静寂は、かえって大きな音を内側に連れてくる。負傷者が担がれ、軍医が血止めの布を噛ませる。噛まされた布から薬草の匂いが出て、そこで初めて、地面にこぼれていた鉄の匂いに気づく。

 遅い鼓動が、急に早まる。遠くの蝉のような耳鳴りが始まり、世界の輪郭が薄い膜で覆われる。膜を破るように、誰かの笑いが短く上がる。笑っているのは生きている証だ。

 遥は深呼吸し、わずかに震える指で地図の上の石駒の位置を直した。石は冷たい。冷たさは、語りかける。ここが峠、ここが柵、ここが穴。ここに人がいる。ここから人がいなくなる。

 伝令が戻る。藍珠の部隊は敵の側面斬り込みを二度、払った。損耗はあるが健在。彼女は血に濡れた袖を一度だけ振り、指揮台のこちらへ視線を投げた。視線は短く、刺さる。刺さって、抜けない。


 午後。

 鼓笛の調子が変わった。早く、短い。丘影から、弓騎兵が一気に放たれる。矢の雨が白風側の弓兵陣を乱し、柵内に混乱が走る。矢は一本ずつ重さが違う。違う矢が、同じ高さで面になるとき、恐れは層を厚くする。

 楓麟が叫んだ。叫ぶと言っても、声は低い。低さが全体を縫う。

「弓騎は追うな、柱盾を前へ!」

 柱盾の列が押し出される。背の高い盾が横に並び、矢を受け止める壁を作る。盾の裏へ、息が逃げる。逃げた息がまた前へ出る。その陰から、藍珠が選抜した軽装歩兵が跳び出した。手には短い杭。

「土へ打て。退路を割れ!」

 幾本もの杭が地へ打ち込まれ、駆け抜ける蹄の下で角度を変える。転がる鉄と肉の重さの混じった響き。倒れた馬の嘶きが短く裂け、悲鳴が重なり、戦場の音が一瞬だけ鈍くなった。鈍さは、耳の内側で小さな空洞を作る。空洞は、判断の速さを呼び戻す。


 攻防の最中。

 伝令が駆け上がる。肩で息をするのではなく、腹で息をする走り方。

「王、灰の渡しの堰、持ち堪えています。敵の渡河、再挑の兆しなし!」

 胸の奥で固い塊が、わずかに溶けた。

 ――あの夜。

 縄に血をにじませ、流木を抱き込み、楔を増やした夜。

 その決断が、今日の戦場の背中を支えている。遥は、言葉にせずに実感した。言葉にしないことで、実感は長く残る。


 陽が傾き、影が長く伸びる。赤は色を削り、黒は輪郭を太くする。紅月軍が再び押し寄せる。白風軍の兵も疲労し、矢は尽きつつある。矢を拾い集め、羽根を直し、弦を撫でる指が痙攣する。

 楓麟は風の向きを見る。

 峠の背から、冷たい風が降りてきた。鈴を鳴らさない高さで、敵の旗を押し返す。旗の布が一瞬だけ裏返り、色が風に飲まれる。

「今だ」

 短い言葉。旗がまた揺れる。

「前進、半刻」

 続いて、

「後退、半刻」

 波のような、揺さぶりの合図。前進と後退を短く交互に重ね、敵の目に白風の総力を読ませない。押しては引き、引いては押す。足音の規則を崩し、矢と槍の距離感を狂わせる。焦れるのは数で勝ろうとする側だ。焦れは、音を早くする。早い音は、風に嫌われる。


 薄闇の端で、戦いは糸が解けるように収束していった。角笛が三度、紅月の陣から鳴る。後退の合図だ。影が丘影の向こうへ戻り、鎧の擦れる音が遠ざかる。

 追撃の声が上がる。上がった瞬間、楓麟の旗が「否」を描いた。

「追うな。罠の匂いが濃い」

 声は短く、刃を持たない。刃を持たないのに、刃のように通る。

 藍珠が剣を収める。

「ここで兵を散らせば、夜に呑まれる」

 彼女の言葉は、今夜だけ、楓麟と同じ高さをしていた。


 夕闇の中、遥は指揮台から一歩も動けずにいた。足が震え、土に根が生えたようだ。膝の裏に集まった熱が、汗に変わって足首へ落ちる。落ちた汗は土に吸われ、土は何も言わない。

 彼は深く息を吸い、腹から声を放った。兵たちに届く、鈴を鳴らさない高さで。

「……よく、耐えた」

 歓呼はない。

 ただ、各所で、短く槍の石突が地を打つ音がした。規則ではない。不規則に、しかし確かな返答として続く。音は高くない。高くない音が、闇にさざ波のように広がり、やがて止む。止んだ先に、夜がある。戦は終わっていない。だが、白風は最初の一日を失わなかった。


     ◇


 薄い夕食が配られた。乾いた粥に塩を一つまみ、干し肉は小さな欠片。誰も文句を言わない。言葉を節約するのは、明日の声を残すためだ。軍医の幕舎の横では、巫が短い歌を置いて、しばし痛みの高さを整えた。長風は札を半分に割り、片方を霜の峠へ、片方を灰の渡しへ送る。歌の旋は二つ。夜のうちに一つ減らす。減らすのは、嘘の歌を紛れにくくするためだ。


 楓麟は塔の上へ戻り、風の高さを一段確かめた。

「西寄り、弱い。……夜半、南が混じる」

 混じる風は、敵の焚き火の煙の走りを変える。煙の走りが変われば、見張りの目は別の場所で疲れる。疲れは誤報を生み、誤報は恐れを増やす。

 密偵頭が、昼間から拾っていた太鼓の調べを短く口にした。

「鼓の皮が緩んでいる。張り直す余裕がない。明日、鼓の音は低くなる」

「低い音は、風に乗らない」

 楓麟の返しは短い。

「こちらの旗を少し大きく見せろ」

 旗の縁に白い細を縫い足すだけで、遠目の面積は変わる。変わった面積は、数の錯覚を生む。


 遥は指揮台から降り、土の上に座った。座ると、膝の震えがやっと自分のものとして戻ってくる。戻った震えは、痛みではない。生きている証だ。

 藍珠が近づく。膝に泥が乾き、袖口に血が黒く固まっている。

「水を」

 差し出された水袋は、昼に口をつけたものより軽い。半分――いや、それより少ない。

「兵へ」

 遥が言うと、藍珠は首を横に振った。

「兵はもう受け取らない。明日、喉が閉じるのを恐れて、今は飲みたがらない」

 彼女は一口だけ飲み、残りを差し出した。

「王」

 呼び方は短い。短い呼び方は、距離を伸ばす。

 遥は一口、喉に通した。今日は飲み込めた。飲み込めたのは、角笛の音の残りが喉から退いたからだ。


 灰の渡しから、二本目の狼煙が上がった。

 ――水量、平常。

 薄紅平原からの報せは短い。

 ――囮灯、今夜も可。

 囮は囮であり続けるとき、強い。変えないものと、変えるもの。その区別が、明日を作る。


 楓麟が塔から降りてくる。階段の折り返しで、遥と目が合った。

「王」

 短い呼びかけ。

「第一日。失わなかった」

 褒め言葉ではない。報告だ。その報告が、遥の腹の奥に、薄い輪を描く。輪は広がり、やがて薄まる。薄まった輪の中心に、明日の名もなき不安がまた生まれる。

「……二日目は、あったりまえに来る」

 楓麟はそう付け加え、耳の毛をわずかに上げ、すぐに寝かせた。


     ◇


 夜は、戦の後の夜特有の音を持つ。大声は出ず、小さな音が多い。鍋の縁が当たる音。水の滴る音。包帯の布が引き抜かれる音。遠くの笑い。もっと遠くの嗚咽。

 遥は天幕の口を開け、空を見た。星は多くない。風は鈴を鳴らさない高さで通り過ぎる。額の布の下の天印は、薄く温かい。温かさは罰ではない。印だ。

 指を握り、開く。握ると、昼の槍の石突の音が短く蘇る。開くと、灰の渡しの川面が黒く光る。閉じて開く、その間に、彼はもう一度だけ、腹から短い言葉を出した。

「……よく、耐えた」

 今度は、自分へ。声は外へは出ない。胸の内側で、薄く反響して消える。


 眠りは浅かった。夢は短い。井戸の底に、ぽた、ぽた、と水が落ちる夢。落ちる音は、戦場の喧噪よりも、長く残る。目が覚めてからも、しばらく胸の奥で鳴っていた。

 夜半、風向きがわずかに変わる。南が混じる。楓麟の読み通りだ。混じった風は、紅月の陣の焚き火を斜めに押し、煙の筋を歪ませる。歪んだ筋は、見張りの目を別の場所へ向けさせる。目が別を向いた瞬間、こちらは息を整え、矢を束ね直す。

 藍珠は剣を膝の上に置いて座り、刃ではなく柄を磨いていた。柄は手汗を吸う。吸った汗を落とすことで、明日、手が滑らない。

「王」

 彼女は夜の低さで言う。

「明日は、今日と同じではない。似ているだけだ。似ているものほど、違いでひっくり返る」

 遥は頷いた。

「……違いを見る」

「違いを作れ」

 答えは、いつも短い。


     ◇


 薄明。

 霜の峠の草は再び白を纏い、柵の上に小さな霜花が咲く。兵の息は、まだ白くならない。この国の空気は乾いている。乾きは、今日の火を遠ざけ、矢の羽根を軽くする。

 鼓笛が、昨日より低い。密偵頭の読みも、当たっている。低い鼓の音は、風に乗らない。乗らない音は、合図として遅れる。遅れは乱れを生む。

 楓麟は塔の上に立ち、旗を握った。

「風、西。変わらず。火は使うな」

 昨日と同じ命。だが、昨日と同じではない。旗の縁に白の細が縫い足され、遠目の面積が少し増えている。

 藍珠は側面の林の中で、杭の位置を半歩、前にずらした。昨日、馬が転びきれなかった角度を、今日、転ぶ角度へ。

 遥は指揮台の石の上に、薄い紙を置いた。紙は今朝、長風が風府から持ってきたものだ。紙の端には、巫の短い歌の文字が線のように書かれている。

『峠、柱盾の間隔――昨より半歩、狭く。

 渡し、堰の上流、草の縒り――昼に替えよ。

 平原、囮灯――風向き見て一刻早め』

 字は下手だ。だが、今日の線は、昨日より少しだけ、迷わない。


 角笛が、また低く二度。

 戦は、続く。

 だが、第一の一日を失わなかった事実が、兵の足の裏に残っている。石の目地が、昨日より確かに感じられる。

 槍の石突が、地を打つ音がした。不規則に、しかし確かな返答として。

 鈴は鳴らない高さで、風が峠を渡る。

 風は、味方にも、敵にもなる。

 だからこそ、声は、風の高さで立てなければならない。


 遥は額の布の結び目を確かめ、目を上げた。

 峠の向こう、紅月の旗はまだ赤い。赤は挑発で、合図で、時に虚。

 虚の赤の背後にある黒を見抜く目は、昨日より少しだけ遠くへ届く。

 「行け」と「止まれ」が、同じ腹から出る。

 彼は短く息を吸い、腹の底で今日の声の高さを決めた。

 戦は続く。

 白風は、まだ揺れている。

 が、揺れたまま、歩いている。

 歩く足の裏に、石の目地が触れる。

 目地は細く、確かだ。

 確かさは、罰ではない。

 明日の印だ。

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