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第12話 決断の夜

 薄紅平原に張った囮灯おりとうの火計は、二夜続けてよく燃えた。

 風は鈴を鳴らさない高さで平原の草の上を這い、乾いた藁で拵えた偽の兵列は、遠目には息をひそめた大軍のように見えた。灯を背に置き、影を長く長く引かせる。影は数を多く見せ、灯は距離を嘘つきにする。見張りは夜目を疑い、声は増え、歩哨は交替のたびに闇へ余計に目を凝らした。紅月の陣では、夜営の線が日に日に分厚くなり、指揮の声は低く尖り、疲労の匂いが布と革に沁みていった。


 霜の峠は、二重柵の杭が九割方、山肌に噛みついた。外の柵は槍の長さで間を押し、内の柵は落とし穴を抱えるように立てられ、乾いた草が口を覆って、炎が来ればまず穴に吸い込まれる。

 灰の渡しでは、上流のせきが半ばまで組み上がり、角の残った石に草を絡め、泥を詰めて流れの筋を少しだけ変えた。夜の水音は前より低く、浅瀬は昨日の印から半歩ほど右へずれる。風府のかんなぎが暦を見て、火の夜と水の夜の順を紙に置き、長風ちょうふうの札が鈴を鳴らさない高さで橋の影を縫った。


 第三夜。

 変わったのは、風だった。

 東から吹く風が、薄く、乾いていた。火に向く風だ。風は火を押し、灯を長く伸ばし、煙をひとつの筋に揃える。だが、それは同時に、こちらの灯も、こちらの火も、延焼させやすい合図だった。

 塔の上、高殿。楓麟ふうりんは石の縁に指先を置き、耳の毛をわずかに上げた。雲の筋は薄く、星は少ない。鈴は鳴らない高さで風が通り、言葉は風の目地の間に低く落ちる。


「風は味方にも敵にもなる。今夜、王の決断が必要だ」


 言葉は短いが、塔の四隅に届いた。届いた言葉は、階の下で待つ者の肺に入る。肺が広がる。広がると、声が出せる。だが、その前に、もうひとつの声が階を駆け上がった。


 密偵の報である。

 紅月の本隊が、霜の峠を陽動に使う。実は灰の渡しの下流――夜間渡河の支度あり。縄で繋いだ流木を押し流して堰に打ち付け、そこへ小舟を当て、騒ぎの間に内通者が杭抜きの合図を出す手筈だという。

 もし堰が壊れれば、こちらの岸は泥濘ぬかるんで崩れる。陣は乱れ、兵は足を取られ、槍の列は線になれない。夜の水は目に頼れず、耳は嘘を聞く。嘘の中で倒れるのは、いつも力の弱い者だ。


 軍議の間。

 地図の上で、三つの赤札――霜の峠、灰の渡し、薄紅平原――が同時に揺れた。揺れは風ではない。人の息が集まると、紙は少しだけ呼吸する。

 選べる兵力は限られていた。霜の峠に一千。薄紅平原に五百。灰の渡しには、工と兵とで七百。都の守りに千。数はあるようで、足りない。足りないのは、戦の常だ。


 軍務卿は霜の峠の残守を進言した。

「火矢は来る。柵は九割、穴は七割。残りの一割と三割は、夜の火で焦げる。兵を置いて、穴の口を閉じ、柵の間を槍で埋めるべきだ」

 商務司は都の防備を提案した。

「内通者がいる。倉の印章庫はまだ冷えていない。火の夜に都を薄くしてはいけない。帰る場所を失えば、兵は前で足を止めます」

 藍珠らんじゅは灰の渡し行きを推した。

「堰は王命だ。命じた者が、折れるかどうかを見に行け。折れるなら、折れる前に止めろ」

 楓麟は何も言わない。ただ王を見る。灰の目は浅く、耳の毛は寝ている。寝た毛は、風を拾っていない。今、拾うべきなのは、王の呼吸の高さだと知っているからだ。


 遥は息を整えた。整える前は、胸の中で音が二つ鳴っている。「怖さ」と「行け」。二つの音は隣り合い、互いの端を少し削り合って、ひとつの高さに落ちた。

「俺は灰の渡しに行く」

 声は高くない。

「堰は俺が命じた。壊れるなら、壊れる前に止める」


 反対の声が上がった。

「王を前線に!」

「王は象徴だ!」

 象徴――という言葉は軽い。軽いのに、重いものを縛りつける。遥は首を振った。

「王は象徴だ。だからこそ、王の命で動いたものの責任は王が負う」

 喉が渇く。渇きは恐れの形をしている。

「……怖い。けど、行く」


 楓麟が目を細めた。藍珠は頷き、軍務卿は奥歯の噛み合わせを確かめるように口を閉じ、商務司は帳面を一度だけ強く握った。

 決まりだ。決まりは短い。短いから、動く。


     ◇


 夜半。灰の渡し。

 川面は黒く、星を砕いたように光る。堰は半ば、まだ新しい泥の匂いを持ち、草のりは水で重さを増している。風は東から、鈴を鳴らさない高さで水の肌を撫でた。撫でられた水は、音を変える。音の高さは、今日の夜の敵味方を分ける。

 堰の上に、藍珠と近衛、楓麟の影。遥は額の布の結び目を指で確かめ、天印の温かさを一度だけ意識してから、足を堰の縁にかけた。足裏に石の角。角は冷たい。冷たさは、頭の熱を少し奪う。

 遠くで、小舟の気配がした。帆はない。櫂の音はない。水を切る刃だけが、すこしずつ近づいてくる。岸の藪で、合図の灯りが、一瞬だけ瞬いた。指で覆った灯。覆った指の間から漏れる光の形。

 内通者だ。


 藍珠の腕が線になる。弦の鳴る気配はしない。矢は、灯の薄さを撃ち落とした。明かりは小さく、藪の中に崩れ、土に触れて消える。消える音はない。

 同時に、杭を抜こうとした影が、堰の影から飛び出した。影は二つ。互いに結ばれた影は動きが速い。速い影を、藍珠と近衛が同時に跨いだ。もみ合い。水の匂いが衣に移り、泥が膝へかかる。楓麟の喉から、低い声が漏れた。吠えではない。詠じるように、短い息の調子で。

 風が一瞬、巻いた。

 巻く風は、影の足を払う。払われた足は、堰の角に膝をぶつけ、骨に音が走る。影は崩れ、藍珠の腕が喉の動脈の上に置かれ、近衛の縄が手首を縛った。


 捕らえた影は、目を逸らさない。逸らさない目は、固い。固い目の脇で、唇は薄く笑った。笑いは自分に向けられている。

 楓麟は笑いの薄さを見て、何も言わなかった。言わない代わりに、指先で風府の札をひとつ弾き、巫の歌の端を堰の下にわずかに滑らせる。歌は、川の底の石の間に入り、足を取る泥の角を少し丸くする。


 その時、上流から、別の音が来た。

 ゴウ、と、低く長い。

 縄で繋いだ流木の列が、押し寄せる。

 敵の「流し堀崩し」だ。夜の川は、暗く、数は見えない。見えない数が一度に押し寄せるとき、人の耳は数ではなく形を捉える。形は壁。壁がこちらへ来る。

 堰の上流側に負荷が掛かる。石が軋み、草の縒りが鳴り、泥が息を吐く。杭の一本が、うっすらと揺れた。揺れはまだ、倒れる前の合図だ。合図は短い。短い合図を逃がすと、次は長い音になる。長い音は倒壊だ。


 遥は考える暇もなく叫んだ。

「縄を切るな! 逆に引っかけて、流木を並べろ! 堰を守る壁にする!」

 驚いたのは、敵ではなく味方だった。切れば楽だ。切れば流木は流れ去る。だが、流れは次の波を連れてくる。今、流れを抱え込め。抱えたものを、壁にせよ。

 近衛たちが柄を差し入れ、流木を堰に噛ませる。縄の輪に杭の角を引っかけ、縒りを緩めず、引く。引くときに、石の上に足を取られ、膝が落ち、泥が腿にまで上がる。水は冷たい。冷たい水は、皮膚の表面で細かく痛む。

 堰は、押されながらも、流木を抱えこみ、外の力を内へ散らした。散らした力は、堰の上の人の腕にも散る。腕は重く、次の動きが遅くなる。遅くなる前に、声が必要だ。

「間を埋めろ。縒りの端、離すな」

 藍珠の声が短く飛ぶ。

くさびを増やせ。石は角を残したものだけ使え」

 楓麟は低く息を吐く。吐きながら、風の高さを一段だけ下げる。下がった風は、水の肌を逆撫でし、流木の鼻先をわずかに浮かせる。浮いた鼻先に、柄の先が入り、堰はひとつ、息を継いだ。


 同時刻。

 霜の峠では、陽動の火矢が柵を舐めた。火の色は赤いのに、舐めた痕は黒い。外の柵は燃え、内の柵は穴に火を落とし、落とし穴が炎を吸って、敵の足は止まる。槍の列が穴の縁に沿って横へ滑り、穴へ落ちかけた兵を引き上げ、逆に足を刺す。火は吠える。吠えは、穴の中で短く途切れ、灰が舞い、夜の風に乗って薄く溶ける。

 薄紅平原では、囮灯に気を取られた敵が、無駄な警戒を続けた。影の数を数え、灯の間隔を測り、声の方角を疑い、眠りから身体が遠ざかっていく。疲弊は声の高さを変え、声の高さは誤報を増やす。誤報は恐れを増やす。恐れは、早とちりの足を生む。

 灰の渡しの真の攻防は、王の命の下で捌かれつつあった。


 小舟が二隻、暗闇から躍り出た。

 一隻は堰の中程に体当たりをかけ、もう一隻は内側へ回り込んで杭の根を狙う。舟の舳先が石にぶつかる瞬間、夜の川は低く唸った。杭が一本、ぐらりと揺れる。揺れは、さっきより深い。深い揺れは、次の瞬間、音を呼ぶ。

 遥は身を乗り出した。縄が流木の輪から外れかけている。指を伸ばした。縄は冷たい。冷たい縄は、濡れて重い。

「持て!」

 掴んだ。手の皮が裂け、血が濡れ、濡れた血は水で薄まる。痛みは白く、目の端で花火のように散る。花火は音を持たない。

 藍珠が脇から肩で支え、楓麟が短く詠じるように息を吐く。

 風が、川面から逆巻いた。

 舟の舳先が、わずかに上向く。上向いた一瞬に、近衛が杭を叩き込み、楔を増した。楔の角が石に噛み、草の縒りがそれを抱く。舟は、角に爪を立てられず、横へ流れていった。流れた舟の背を、夜の水が低く撫でる。撫でた水は、声を出さない。


 藪の向こうから、細い笛のような音がした。合図だ。第二、第三の舟は来ない。来ないのは、上流で何かが変わったからだ。流木の列は尽き、縄は切れたのではなく、堰の角に抱き込まれて動きを止めた。

 捕らえた内通者のひとりが、膝を砕かれて座り込み、笑いかけた。薄い笑いだ。薄い笑いは、長く続かない。続かない前に、楓麟が名を問う。問う声は低く、優しくない。

 男は、唇の裏を噛み、血を吐き、そして、短く名を出した。

「……第二の窓口」

 名は、人の動きよりも重い。重い名は、短い。短い名を楓麟は胸の内側に沈め、密偵に目で指示を飛ばした。指示は短い。短い指示は、夜のうちに届く。


 夜明け前。

 敵の渡河は失敗し、霧の向こうへ退いた。霧は夜の疲れを抱いて薄く漂い、川の肌はまた黒い星を砕く。堰は持った。持ったが、傷はある。傷の位置を、藍珠は指でなぞり、石の角を一つずつ確かめ、楔の数を一つ増やす。

 遥は膝をついた。膝の泥は冷たい。冷たさは、夜の中で自分が熱を持っていたことを知らせる。

「……生きてる」

 笑うでも泣くでもない声が、喉の奥から漏れた。

 藍珠が肩で笑う。肩で笑うのは、声を他人に見せない笑いだ。

「王の命で守った堰だ。王の命で、もう一本、強くしよう」

 「王の命」――その言い回しは、彼女が敢えて口にする時だけ柔らかい。


 長風が、札をひとつ、堰の影に差し入れた。札の裏の歌は短い。短い歌は、石の隙間を見分ける。

「昼のうちに、草の縒りを替えます。夜の湿りを昼の熱で追い出す。……王、手を」

 遥は掌を見せた。皮の裂け目は浅い。浅いのに、血は出た。

「薬草を。結び目の内側に忍ばせて眠れ。明日の傷は、今日の息のうちに薄くなる」

 長風の声は鈴を鳴らさない高さで、疲れた筋肉に優しい。


     ◇


 都へ戻る途上。

 川の匂いが衣に残り、泥の重さが裾にぶら下がる。道の石は朝の冷えに薄く汗をかき、馬の息は白くならないのに、肺の奥の冷たさが残る。

 楓麟が言った。

「今夜、あなたは『怖いけど行く』を選んだ」

 彼の声は、塔の上で風に話しかけるときの声に似ている。

「決断は、徳の芯に年輪のように刻まれる。次に迷った時、今日の夜が背中を押す。背中を押すのは、勇ましい言葉ではない。――指の痺れと、石の角の冷たさだ」


 遥は頷いた。頷きながら、額の布の下の天印の温かさを意識した。温かさは罰ではない。罰に似せた印の、別の側だ。

 門が見えた。門の前に、人がいる。労役に参加した者たちだ。髪に泥が乾いて、手に泥がついている。泥は汚れではない。仕事の形だ。

 門が開く。

 誰からともなく、短い声が上がった。

「王」

 それは歓呼ではない。だが、拒絶でもない。現実を歩く者同士の、拙くも確かな呼びかけだった。

 呼びかけは短いのに、胸の内で長く響く。響きは、昨夜の川の底の音に似ている。ぽた、と、ひとつ。


 楓麟は、誰にも見えない高さで、ほんのわずかに耳の毛を上げ、すぐに寝かせた。藍珠は刀の柄に手を添え、目を細めた。近衛のひとりが、握った槍の柄頭を一度だけ石に軽く当てる。音は小さい。小さい音は、広い。


     ◇


 城に戻れば、次の仕事が待っていた。

 捕らえた内通者の口から出た「第二の窓口」の名は、文官宿舎の北棟に連なる古い倉庫の鍵番の甥の名だった。甥は夜にしか目を見開かない男で、昼は常に眠そうにしている。眠そうな目は、嘘を塗りつぶす。眠気の膜は、薄い嘘の膜によく似ている。

 密偵はもう動いている。楓麟は無表情に頷き、短い指示を二つ、三つ、飛ばした。飛ばした指示の重さは、まだ夜の霧を帯びている。

 商務司は倉の台帳の余白を指で撫で、風府の筆の香に変わった書付を鼻で確かめた。虫害の紙の書き付けは風府で――という新しい習いは、もう手に馴染み始めた。馴染みは、裏切りの匂いを遅くする。遅くした匂いは、見つけやすい。


 軍務卿は霜の峠の焼け焦げた柵の端を、軍議の間の隅に持ち込んで見せた。

「外は燃えたが、内は持った。穴は火を吸い、敵は足を取られ、槍は届いた。――峠は、今夜も持つ」

 薄紅平原の報せは、囮灯が三度目の夜を越える間に、敵の陣にだけ疲れが溜まっていったことを示した。囮は囮のままでいるとき、もっとも強い。

 灰の渡しは――堰は持った。傷は薄い。石の角は二つ変え、楔は三つ増やし、草の縒りは新しくして、泥は昼の熱で寝かせる。

 王の命が、紙に短く書かれた。

『堰の草、昼に替えよ。夜、札をひとつ増やせ』

 字は下手だ。下手な字は、紙の上で恥を晒す。晒された恥は薄い。薄いから、切れない。


 藍珠は、遥の掌を取って、薬草の香を結び目に忍ばせた。

「今夜、眠れ。指の痺れは、次の線を引くときの力になる」

 言葉は短い。短い言葉は、身体に残る。残った言葉は、夜に温かさを持つ。温かさは罰ではない。明日の印だ。


     ◇


 夜。

 塔に戻った楓麟が、風を聞いた。

 東風は弱まり、わずかに南へ寄る。南の風は、甘くはない。少し、湿っている。湿りは、遠くの土が息を始めた合図だ。

 彼は目を細め、塔の縁に指を置いた。指先に石の冷たさ。冷たさは、昼の熱を薄める。薄められた熱は、言葉を短くする。短い言葉は、届く。

「決断の夜は越えた」

 声は低く、塔の内側でほどけた。

「次は、犠牲の朝が来る」

 犠牲――という言葉は、風に嫌われない。風は、何かを奪う言葉にも、等しく通る。通った先で、誰かの肩に薄く乗る。

 塔の下。都の灯は低い。広場の板は冷たく、倉の前の石は汗をかかない。

 遠く、国境の暗がりで、狼煙が一本、細く上がった。灰ではない。薄い赤だ。赤は挑発で、合図で、時に虚だ。だが、虚の赤が、真の黒を隠す夜もある。

 楓麟は耳の毛をわずかに上げ、すぐに寝かせた。

 鈴は鳴らない高さで、風が塔をなでる。

 その風は、明日の朝、どこへ行き、誰の肩に最初の冷たさを置くか――それを、彼は知ろうとはしない。知ろうとすれば、歩幅を間違える。歩幅を間違えれば、王の足の前に置くはずの石を、別の角度に皿のように並べてしまう。

 彼の仕事は、風の高さを見極めること。王の仕事は、風の高さで声を立てること。

 風は、二人の間を、鈴を鳴らさない高さで通り過ぎた。


     ◇


 その夜、遥は眠りの端で、短い夢を見た。

 井戸の底に、ぽた、ぽた、と水が落ちる夢。

 その音は、昨夜の川の唸りよりも、今日の軍議のざわめきよりも、小さく、しつこく、胸に残る。

 目を開けると、額の布の結び目の内側に忍ばせた薬草の香が、暗闇の角度を少しだけ丸くしていた。

 彼は指を握り、開き、もう一度握った。指の腹に残る痺れは、痛みではない。線の記憶だ。

 窓の外で風が通る。鈴は鳴らない。

 温かさは罰ではない。

 明日の印だ。


     ◇


 明け方。

 都の屋根に薄い光が落ち、兵舎の槍は石に穂先を立て、衛士は交替し、風府の巫は札を一枚、北の塔へ増やした。長風は歌の旋を三つから二つへ絞り、囮灯の順を一つ入れ替え、商務司は倉の紙片の束を新しい糸で綴じた。

 霜の峠では、黒くなった穴の縁に新しい草が敷かれ、薄紅平原では、囮の藁が昼のうちにまた束ねられ、灰の渡しでは、堰の草が替えられ、楔が叩き込まれた。

 王は、短い命を三つだけ置いた。

『峠、穴の縁に草。平原、囮は一刻早め。渡し、楔もう一』

 紙は薄い。薄い紙を、厚い現実が受け止める。現実は、いつも少しだけ遅い。遅い現実を、薄い紙が前へ引く。その前へ置かれた指が、まだ痺れている。


 決断の夜は、越えた。

 朝は、来る。

 犠牲は、名前をまだ持たない。

 名がつく前に、やれることをやるだけだ。

 王は、まだ揺れている。

 が、揺れたまま、歩いている。

 歩く足の裏に、石の目地が触れる。

 目地は細く、確かだ。

 確かさは、罰ではない。

 明日の印だ。

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