第11話 風獣族の誓い
未明。
夜の最後の薄皮が、塔の縁でゆっくり剝がれていった。空はまだ黒ではなく、青ではなく、冷たい鉛のような色を保ち、風が東から真っ直ぐに吹く。鈴は鳴らない高さで、塔の上をわずかに撫でて過ぎ、石床は夜気を吸って、触れる足裏から芯を冷やす。
王宮の塔の上――高殿に、楓麟は遥を呼び出した。呼び出しは短い紙片で、言葉も短かった。「来い」。それだけ。
階を数えることに意味はないのに、上るほどに、地から離れていく感覚が脛の骨に薄く積もる。最後の梯の先に、風と空だけが待っていた。
「人の裏切りを見たあとで話すべきだと思った」
楓麟はそう言って、外套を脱いだ。
夜気に晒された肌は白く、肩から背にかけて、大きな刺青があった。絡み合う風の紋。渦と筋が交互に重なり、ところどころに古い文字が刻まれている。文字は読みやすくない。だが、骨で意味を察する。誓詞だ。
彼は背を少しだけこちらへ向け、肩の線を動かさずに口を開いた。
「我ら風獣族は王に命を結ぶ。王が生きる限り生き、王が死ねば死ぬ――」
風が、その言葉の間の余白を冷やす。
遥は、息を呑んだ。吐く息が白くならないのが、不思議に思えるほどの冷えだった。
「……本当に?」
楓麟は、淡々と頷く。
「比喩ではない。血と気を結ぶ術だ。印は皮に刻むが、縛るのは気だ。――私があなたに厳しいのは、あなたが倒れれば私も死ぬから、だけではない。王が倒れれば、国が死ぬからだ」
言葉は塔の縁で一度止まり、風の細い目地を伝って、遠くへ散っていく。
楓麟は外套を腕に掛け直し、刺青の紋が半分ほど布で隠れた。見えなくなった線の残りが、まだ目の裏に残る。
「風獣族の起こりは、古い」
彼は続けた。声は、いつになく低い。低い声は演説ではなく、個の吐露になる。
「最初の王が、風の門の縁で倒れかけたとき、我らの祖はその前に立ち、風の筋を体で繋いだ。門は閉じ、地は和らぎ、祖はその場で息を吐き、そして、王の息を吸った。祖は王に問うた。『あなたの息は、この地に何を残す』。王は答えた。『耕すための土と、眠るための影』。祖は答えた。『ならば我らはその土と影を守る。そのために、あなたの息に我らの息を結ぶ』――契約は、それ以来、変わっていない」
風の筋は、鈴を鳴らさない高さで塔の上を渡る。
「裏切った王に従って、破滅した一族の昔語りもある。王が天印に酔い、徳の尺度を見誤り、風の門を無理にこじ開けようとして、地は傷み、獣は増え、民は飢え、我らは王の息に結ばれていたがゆえに、その死に伴った。耳の形が変わらぬ幼少のころ――」
彼は自分の耳に触れた。風獣族の耳は、髪に隠れて目立たないが、毛の生え方と縁の角が人とは違う。
「師から叩き込まれた。『王の徳の尺度』。王が言葉を立てるとき、言葉は誰へ向いているか。王が倉を開けるとき、その粥は昨日を延ばすか、明日を削るか。王が剣を抜くとき、剣の先は誰の腹に向けられているか。――それを見誤る王に従うのは、犬の忠ではない。死に寄る愚だ」
遥は、石床に立つ足裏から上がってくる冷えを意識した。冷えは、恐れを増幅させもするが、熱を冷ますこともある。目の前の男は、いつも冷たく見えた。冷たいのに、今は、冷たいまま柔らかさを含んでいる。
「……君は、俺に死んでほしくないから厳しいのか。国のためか。君自身の誇りのためか」
問いは、彼自身の声としてはまっすぐだった。揺れることを隠すより、揺れたまま投げるほうが、今は正しいと額の下の印が告げた。
楓麟は少し笑った。笑いは短い。耳の毛は寝たまま。
「全部だ。誇りだけでも、国だけでも、人の足は長くは動かぬ。絡み合うから、倒れずにいられる。誇りが足の形を決め、国が向きを決め、あなたが歩く速さを決める。――私は王に結んでいる。結ばれているからこそ、あなたに背を向けることも、あなたをただ甘やかすことも、どちらもできぬ」
沈黙。
東の空が薄く明るむ。塔の縁の石が、暗い灰から少しだけ白に寄る。呼吸は冷たいが、肺の内側に痛みはない。
遥は額の布に指を当てた。布の下の天印は、熱を弱めない。昨夜からずっとそうだ。夜の始まりに胸の中に置いた線の痺れが、まだ薄く残っている。
「昨日、人質を救った。――だが、書記官長は罪人だ。娘の命を理由に、国を売った。俺は彼を裁かねばならない」
言葉が石の上に置かれる。置かれた言葉は、風で飛ばない。
「……正直に言うと、怖い。嫌われるのが怖い。俺はまだ、帰りたいし、王であることに自信がない」
楓麟は視線を落とさず、はっきりと言った。
「怖さを言葉にできる者は壊れない。壊れるのは、怖さを見ない者だ。見ない者は、いつか足を下ろす場所を間違える。間違えた足は、戻る道を壊す」
彼の声は低く、しかし乾いていない。乾いていない声は、耳の奥に残る。
その時、塔の階を駆け上がる足音が、風の目地を乱した。藍珠だ。白衣の裾が風を裂く。
「国境から伝令」
彼女の息は上がっていない。
「霜の峠に敵の斥候多数。こちらの囮火計に反応した様子。……もう一つ。城下の広場で、誰かが王を『偽王』と罵り、飢えた民に紅月の粟を配っている」
胸の奥に、怒りが点った。点るのは簡単だ。だが同時に、恐怖がそれを包む。怒りの音は高く、恐怖の音は低い。二つの音が胸の中で交わるとき、声は出にくくなる。
遥は拳を握り、開き、また握った。甲に小さな裂け目があり、昨日の砂の記憶が、痛みの形で残っている。
「広場へ行く。俺が話す」
楓麟は頷き、藍珠は短く「護衛は少なく」とだけ言った。少ない目は、音を拾いやすい。
◇
城下の広場は、朝の冷えをまだ抱えたまま、人で台の周囲が揺れていた。古い板を組んだ粗末な台の上に、黒い外套の男が立ち、声を張っている。
「偽王は子供! 紅月の庇護を受ければ粟は配られる! 腹が膨れれば徳など要らぬ!」
声の高さは、腹の満ちていない者の高さだ。空腹の声は、銅のように薄く響く。台の下では、袋が配られている。布の袋は重い。重いものは、理より早く腕を掴む。
人々は揺れた。揺れは波だ。波は、わずかな石で向きが変わる。
遥は台の前に立った。藍珠と近衛は離れている。服は朝の外套。額の布は緩めない。
黒外套の男の言葉の隙に、遥は声を張った。
「その粟は今日の分だ」
人の耳は、短い言葉に反応する。いくつかの視線が、彼へ寄る。
「明日、誰が配る?」
沈黙が一瞬、広場を覆った。
「紅月だ。じゃあ、明後日は?」
男の口元が歪む。
「紅月が税を取り、兵を徴す。おまえらの井戸は、誰が掘る」
人々の顔が、互いを探した。探す目は、まだ誰かに寄りかかろうとする。
黒外套の男は嘲った。
「偽王の口はうまい。だが腹はふくれぬ」
嘲りは薄い。薄い嘲りは、風に散りやすい。
遥は藍珠に目配せした。彼女は短く頷き、近衛が用意していた倉の粟袋を台に持ち上げる。袋は本物だ。口の結び目は倉の結び方で、紙片は風府の札と同じ繊維の匂いを持つ。
「今日の粟はここにもある」
遥は続けた。声は高くない。高くない声は、腹に落ちる。
「労役の名簿を出す。働けない者は医の館へ回せ。――俺は、井戸を一緒に掘った。お前らと同じ土を爪に詰めた。偽王か本物かは、今日の水で決めろ」
沈黙。
沈黙は怖い。怖いのに、逃げなかった。
その時、先日井戸を掘った村の少年が、人混みから声を上げた。声は細いが、真っ直ぐだった。
「王様、嘘つかなかった!」
短い一声が、波紋になった。
「井戸、ほんとうに水が出た」
「紙片、出た」
「今日の粥、濃かった」
ざわめきの一部が、支持に変わる。支持は大声にはならない。ならないからこそ、広がる。
黒外套の男は舌打ちした。舌打ちは、自分に向ける音だ。彼は袋の残りを足元に落として退き、人波に紛れようとした。
楓麟の合図で、尾行がつく。尾行は三人。歩幅の違う影は、石畳の目地の上で重ならない。路地の奥で男は捕縛された。袖からは紅月の小札。歌の旋が風府のものと違う。指に残る粉の匂いは南の工房ではなく、東の布市の糊。
男は笑い、そして何も言わなかった。何も言わない者は、よく喋る者より多くを告げる。彼の靴の底についた泥は、昨夜の旅宿の裏庭のものと似ていた。似ているが、違う。違いは砂の粒の大きさ。
楓麟は、その違いを拾う。
広場では、労役の名簿が広げられ、医の館への導きが貼られ、倉の粟が秩序を持って配られた。薄い秩序は、厚い混乱を一度だけ遠ざける。遠ざかった間に、王は言葉を三つだけ置いた。
「今日」「明日」「明後日」。
人々はその三つを胸の中でならべ、今日をまず口に運ぶ。明日を背に回す。明後日を遠くに置く。遠くに置いたものが、いつか近くなる。そのとき、王がまだここに立っているかどうか。――それが、心の奥で計られていた。
◇
夜。
書記官長の裁きが行われた。
白い石の間は、灯が低く、影は長い。巫が短い歌を置き、長風が札を一枚だけ指先で立て、楓麟が法の文を読む。文は冷たい。冷たさは、憎しみから熱を少し奪う。
人質救出は斟酌された。だが、国命文の改竄は重罪。印の影を動かすことは、息を止めることに似ている。
遥は前に立った。膝は震えない。震えないのは、緊張が別の場所に移ったからだ。震えは喉に住む。
彼は紙を持たない。持たない言葉は、短くなる。短くなるから、折れない。
「――免官。財の半分没収。城外にて禁固一年。その後、灰の渡しの堰作りの労役に服す」
斬首を避けたのは、人質の事情を酌んだからだ。だが、官吏の間にはざわめきが走る。甘い、とする声。重さが足りぬ、とする声。法の一行に、情の一行を割り込ませた言葉は、石の上で少し浮く。浮いた言葉は、明日の行いで重さを得るしかない。
書記官長は深く頭を垂れた。
「王」
その一語は、彼の生涯で最も重かった。重さは息に混じり、床に落ちた。
娘は別の部屋にいた。扉は厚く、白い。白い板には傷がない。傷のない扉の前で、藍珠はしばらく立ち、動かなかった。
裁きは終わり、灯は低くなり、人は散った。
楓麟は判決後、短く言った。
「甘い、と言う者も出る。だが王の線は、今日、王が引いた」
線は見えない。見えないのに、心の指の腹に、細い痺れが残る。
その夜、遥は眠れなかった。眠れないのは後悔ではない。線を引いた指が、まだ痺れているからだ。痺れは痛みではない。次に同じ力で線を引けるかどうかを、体が測っているだけだ。
◇
夜半。
塔の上で、風は相変わらず鈴を鳴らさない高さで通った。雲は薄い。東からの風は乾き、星は少ない。
遥は自室の灯を落とし、暗闇に目を慣らし、床に裸足で立った。足裏の骨に、昼の石の感触は残っていない。代わりに、広場の板の粗さが薄く張り付いている。
窓の外で、風が旗の影を動かす。影は音を持たない。
彼は額の布の結び目を指で確かめた。天印は温かい。温かさは罰ではない。罰に似せた印の、別の側だ。
ふと、楓麟の刺青の紋が目の裏に甦る。絡み合う風の線。古い文字の「結」。
――王が生きる限り生き、王が死ねば死ぬ。
彼は息を吸い、吐いた。
楓麟は、彼の死で死ぬ。藍珠は剣を抜けば、彼の命を守る。長風は札で風の道を編む。巫は歌で目印をつける。倉の番は紙に数字を残す。裏長屋の少年は、明日の粥の白さを待つ。
線は、ひとりで引くものではない。ひとりで引けば、すぐに曲がる。曲がった線を、誰かが指で正す。その指も、痺れる。痺れは、責任の痛みではない。生きている証だ。
眠れないまま、彼は床に坐り、背を壁に預けた。窓の外の風の高さが、わずかに変わる。鈴は鳴らない。鳴らない高さが、今夜はありがたい。
いつのまにか、目が閉じていた。眠りは浅く、夢は薄い。薄い夢の中で、井戸の底の音が二度鳴った。ぽた、ぽた。
その音は、彼の胸に、静かに残った。
◇
朝は早く、昼は遅い。戦の前の日々は、時の歩幅が乱れる。
霜の峠からは、斥候の動きが増えたという報。囮灯は見られている。見られているのは囮として正しい。
都では、倉の台帳の余白が揃い直され、風府での虫害書付が習いになり、門の紙片は新しい繊維で補強された。裏長屋の男は紅月の密偵で、尾行の先でさらに二人を吐いた。吐かせた名は濃い。濃い名は、短い。短い名の線を辿るのは、藍珠の足だ。
楓麟は高殿で風を読む。読みながら、昨夜の言葉を胸の奥で反芻する。
「怖さを言葉にできる者は壊れない」
塔の上の風は、鈴を鳴らさない高さで、今朝も彼の耳を撫でた。
◇
昼、広場の端に、また小さな列ができた。労役の名簿は、昨日よりも少し早く整う。医の館へ回された老人は、今日は椅子に座って名を読み上げる。役目があれば、人は呼吸が深くなる。
少年が走って来て、紙片を掲げた。
「王さま。……今日、母さんの粥、昨日と同じ濃さだった」
遥はうなずいた。
「明日も、同じ濃さにする」
少年は笑い、走り去った。砂が薄く舞い、風は鈴を鳴らさない高さで通り過ぎた。
小さな感謝は軽い。軽いのに、心の前で紐になる。紐は細い。細いが、切れない。昨日引いた線の端を結び、今日の端へ繋ぐ。
◇
夕刻、楓麟は遥を再び塔へ呼んだ。
風は東から吹き続ける。雲は薄く、灯は低い。
「王」
彼は短く言い、刺青の上に外套を戻した。刺青は見せるために刻まれているのではない。忘れないために刻まれている。
「今日、あなたは二度、線を引いた。広場で。法の場で。どちらも短く、どちらも折れていない。……線は、明日も必要だ。風は明日も、鈴を鳴らさない高さで通る。鳴らさない高さは、お前の声の高さだ」
遥は頷いた。額の布の結び目が、少しだけきつい。
「楓麟」
彼は呼んだ。呼んで、昨夜の問いの続きのように、短く言った。
「……結んでくれて、ありがとう」
楓麟は目を細め、耳の毛をわずかに上げ、すぐに寝かせた。
「礼は、印が受ける」
印――天印も、刺青も。
温かさは罰ではない。
明日の印だ。