第1話「風門の裂け目」
水城遥は、その日も「貸出期限が今日まで」という四文字に弱かった。
昼休み、教室の後ろのほうで、机に突っ伏していた友人の田所が、半泣きの顔で肩をつついてきたのだ。
「なあ、はるか。三階の資料室の、あの地理の棚に戻しておいてくれない? オレ、文化祭の実行委員集合でさ……」
「田所、また? 自分で行けよ」
「いや、ほんと五分で終わるって。頼む、頼む、水城観音」
「観音じゃない」
からかわれた口ぶりにむっとしつつも、遥は結局うなずいた。断る言葉は喉まで来ていたのに、最後の最後で舵が切れない。頼られた、というその軽い手触りが、遥の中でわずかに甘いからだ。
放課後。教室が色褪せた雑談と椅子の軋みに満ちている時間、遥は両手で束ねた薄いファイルを胸に抱え、廊下へ出た。窓のこちら側は五月の湿りをわずかに含んだ暖かさで、部活動へ向かう生徒の足音に床は忙しい。校庭からはテニスボールの乾いた打音が階段を伝って上ってくる。
角を曲がり、資料室の前で立ち止まる。重い引き戸は半分閉じ、内側の蛍光灯が白く煙るように光っていた。鍵はかかっていない。司書の先生は、いつもこの時間帯、図書室のカウンターにいる。資料室は、返却だけなら生徒に開放されていた。
戸を引こうとしたときだ。
風が、逆向きに吹いた。
廊下の両端に開いた窓から流れ込んでくるはずの湿った空気が、ふいに逆流して、遥の背を押し返す。夏ではないのに、冷たく、針の先で皮膚を擦られるような冷気。持っていたファイルの端がはらりと浮き、薄い紙が舞い上がった。
条件反射で手を伸ばす。紙の一枚が指の腹をかすめ、つるりと遠ざかった。追いかけた視線が、窓の外へ滑る。
夕空に、ひびが入っていた。
最初、目の錯覚だと思った。見間違いの筋、ガラスの傷のような。だがそれは、雲の色を割り、校舎の屋根よりも高いところに、細く、白く、実体を持って走っていた。ひび割れの縁から、白い霧のようなものがゆっくりと漏れ、風に逆らって戻ってくる。
脳が理解するより先に、耳が悲鳴を上げた。
――風が鳴いている。
肺の底に入り込んで膨らむ笛の音のような、耳の内側を硬い指でなぞられたような音。胸骨がびり、と震え、膝が勝手に揺らぐ。
足もとが、裂けた。
床の影が、影ではなくなった。蛍光灯に焼かれた薄墨のような長方形に、真ん中から亀裂が走り、黒が深まって、底が抜けた。
逃げろ、という命令が頭のどこかで点滅した。
足は一歩、遅れた。
肩から落ちる感覚。胃が軽く持ち上がり、視界が流れる。廊下の天井が遠ざかり、窓が横倒しになり、赤い夕焼けの筋が自分の身体を横切った。
叫べない。喉は縮み、声帯が見えない小石で塞がれているようだった。
指先が何かに触れて、掴もうとしたが、掴む「縁」がなかった。つるりと滑って、暗さだけが濃くなる。
落ちる、というより、吸われる。
耳鳴りの尾が長く、身体の輪郭が薄くなる。骨と皮と肉の狭間が透けて、いっそ自分の影だけが先に落ちていくような、あの変な感じ――。
埃っぽい匂いが、舌の裏へ重く載った。
地面に叩きつけられた痛みは、遅れて来た。遅れて来たぶんだけ濃密で、背中の一点に針束を押し込まれたような鈍重さを残した。肺が強引に空気を吐き出し、次の呼吸を探して喉が乾いた魚のように跳ねる。
目を開けても、景色はしばらく像を結ばなかった。霞んだフィルムが何枚も重なり、剥がれるたび、色が変わる。
やっと焦点が合ったとき、遥は、そこが自分の知っている校内のどこにも繋がっていないことを、すぐに理解した。
空気が、乾いている。
喉の奥が焼け、吸った空気が食道を擦る。匂いは土と鉄と、焦げた何か。
立ち上がって、砂混じりの地面の感触に足裏が戸惑う。踏めば崩れ、崩れた隙間からさらに細かい粉がこぼれてくる。遠くまで続くひび割れ、枯れ果てた草の根が、白い骨のように露出していた。
視線を上げる。夕焼けは、赤いというより濁った朱だ。雲は低く、重い。太陽は薄い皮膜を何枚も重ねたような膜の向こうで鈍く滲み、光自体が乾燥している。
その向こう、丘の斜面に、黒い影がいくつも立っている。屋根の抜けた家。折れた梁。風に煽られて軋む何か。
廃墟、という言葉が頭に浮かぶのに、遥の脳は一拍遅れてうなずいた。
ここは、どこだ。
答えられる人間はいない。ポケットに入っていたはずのスマートフォンに手をのばすが、指先に固いガラスの感触がない。制服の内ポケットまで探ったが、冷たいプラスチックを見つけられない。胸の鼓動が早くなる。
誰か――。声を出そうとして、砂が舌を擦った。
風が、ひとつ向きを変えた。
低く、喉の奥で唸るような音がした。空気の質が変わる。遥は、振り返った。
それは、狼に似ていた。
狼に似ていた、という言い回ししかできない。実物の狼など、動物園でしか見たことがないのに、遥の脳は勝手に比べた。
背は、うつ伏せの遥より高い。肩の線が張り、毛並みはところどころ剥げて、皮膚が硬い鱗のように光をはじいている。口は――怖いくらいに大きい。顎が関節を外しているのではないかと思うほどに開き、舌が紫がかっている。牙は刃だ。刃というほかにない細さと白さで、光を吸って尖っている。
目が、こちらを見た。
黄土色の、縦に割れた瞳孔。その縁が、微かに青く光った。
遅い。遥は、自分の足が遅いと自覚した。体は立ちあがっていたが、逃げる行動に「繋げる」までの一歩が遅れ、膝が砂に埋もれて空回りした。
走れ。
走れ。
喉の奥でせり上がる声は、声にならず、口の端から乾いた空気が漏れるだけ。
体が勝手に後ろへ飛び退く。崩れた土塊につまづき、肩から転ぶ。制服の肘が裂け、砂粒が皮膚へ食い込む。
影が被さる。
顎が、落ちてくる。
――閃いた。
斜めから飛び込んだ線が一筋。風が切り裂かれ、空気がほんの瞬間だけ甘い匂いを帯びた。
音はなかった。
牙の並ぶ口が、半ばで止まる。眼がわずかに開き、黄土の瞳孔が上へ泳いだ。次の瞬間、首が、頭から離れた。
黒い影がぐらりと揺れ、その場に崩れ落ちる。砂が跳ね、遥の顔にかかった。
目の前に立っていたのは、人だった。
白い衣。腰に長い刀。
黒い髪を、風が一枚の紙のように撫でていく。
瞳は、冷たい。氷の底に沈んだ石を思わせる青さではないが、温度のない黒。そこへ見下ろされて、遥は身体の芯が小さく縮むのを感じた。
女だ、と気づくまでに、少し時間がかかった。印象が、性別より先に切っ先と白と瞳の硬さを運んでくる。
女は、遥を一瞥して、眉をひそめた。
「異邦の者か」
声は低い。乾いた大地の上を渡る風の音を引きずる低さだった。
遥は、喉の奥でからからに乾いた言葉を探した。
「あ、あの……ここは……」
「問いはおれが先だ」
女は、長刀を一度払った。血を落とす仕草は、無駄がない。地面に黒い筋が一本引かれた。
「ここは白風国。王を失って十年、荒れて久しい土地だ。おまえは、どこから来た」
白風国――しらかぜこく。遥の頭にない地名だ。日本地図を思い描いて探すが、どこにも置き場所がない。
「に、日本、です。日本の、県立――」
女は首を横に振った。苛立ちではなく、単純な否定の仕方だった。
「知らぬ名だ。だが、異邦であることは確かだな」
女は刀を納め、無造作に歩み寄ってきた。近い。遥は反射的に身を引いたが、女の手が手首を掴んだ。骨と皮を見分けて握るような、的確な強さ。
「このまま放てば、すぐに魔に食われる。都へ連れていく。生かす価値があるなら、そこで見極めればよい」
「ま、待ってください。僕、帰らないと。学校に――」
「帰る道はない」
切断された言葉。継ぎ足す余地のない平坦さで、女は言い放った。
遥は、言い返したい言葉をすぐに探せなかった。「ない」と決める権利を、この見知らぬ誰かが持っているはずがないのに、女の瞳は、そういう前提で世界を切り分けていた。
「おまえの名は」
「……水城……水城、遥」
「ミズキ・ハルカ、か」
女は復唱し、ほんのわずかだけ眉を寄せた。
「女の名かと思った」
「男です」
「そうか」
女はそれ以上、あまり興味を示さなかった。
「おれは藍珠。名で呼べ」
名乗りも乾いていた。だが「名を与える」こと自体は、遥の不安を少しだけ薄くした。
藍珠は歩き出す。握られた手首は、抗えば皮膚が裂けそうな、だが骨は折らない強さで引かれた。
歩きながら、藍珠は断片のように、この土地の事情を語った。
十年前、天に選ばれた王が死んだこと。
王の死と同時に、風の道が閉じ、土地の水は痩せ、人の心から「寄るべき中心」が失われたこと。
盗賊が横行し、隣国は境を探っていること。
王なき十年は、「王がいた時間」を薄く引き伸ばしただけの十年で、いずれ破れることを誰もが知りながら、自分の小屋の壁だけは壊れないよう祈って暮らしていること。
話は、説明ではなかった。事実は砂に刻むような平板さで語られ、その合間に風の音と足裏の感触が挟まる。
遥は半分も理解できない。王、天、選ばれた――その言葉の重さが、今自分のいる乾いた大地の上でどういう形をしているのか、見えない。
それでも、歩くたびにどこか「吸い寄せられる」感覚が、自分の額の内側で細く鳴るのを感じていた。熱ではない。汗ではない。皮膚の裏を風が撫でる、とでも言えば近いかもしれない。
藍珠はふいに足を止め、遥の顔を真正面から見た。
視線が、額の一点に吸い寄せられた。
藍珠の瞳の温度が、初めて動いた。
「……見えるか」
「な、何が」
「紋だ」
藍珠は短く言い、懐から薄い金属板を取り出した。鏡のように磨かれている。指一本ほどの幅と長さの板だ。それを、夕陽の角度に合わせて遥の額の前に掲げた。
映った。
自分の顔。その額の真ん中に、見知らぬ印が浮いている。
最初は汗の光かと思った。だがそれは汗の角度で消えなかった。白でも黒でもない、淡い青白さ。円がひとつ、円の内側に小さな三角形がいくつも並び、風車のように回っている。その回転は、実際に回っているわけではないのに、見れば目が回るような擬似の動きを伴っていた。
触れようとして、指先が自分の皮膚に触れる前に、藍珠が低く言った。
「触れるな」
声が冷たく落ちる。遥は思わず手を引いた。
藍珠は板をしまい、ほんのわずかに息をついた。
「天の選定の徴――風王の紋」
「ふう、……おう」
「この国で、王となる者にだけ現れる紋だ。十年、現れなかったものが、今――」
藍珠は遥を見た。その視線は、剣先より鋭くはないが、剣先より撤回がきかない。
「笑うな。おれも笑わぬ」
「笑えないですよ……」
遥の口は、乾燥した笑いさえ作れなかった。王。選ばれる。そんな言葉に、これほど現実味のない手触りがあるのだと知る。
帰りたい。
その一言だけが、頭の内側で丸く膨らみ、指で突いても弾力を失わないまま戻ってくる。
「帰りたい」
気づけば、声になっていた。藍珠の歩みに合わせて砂を踏む足が止まり、遥は小さく頭を垂れた。
「家に、帰りたい。僕、今日、田所に資料を返すつもりで……親に、夕飯いらないって言ってないし……。明日、小テストがあって――」
藍珠は振り返らない。
「帰る道は、いまはない」
同じ言葉が戻ってくる。先ほどよりゆっくり、わずかに柔らかい。しかし意味は変わらない。
「おまえがここに呼ばれたのは天意だ。抗っても、道は開かぬ」
天意。天が意志を持つ、というふうに世界が造られている前提。遥の世界は、神社の賽銭箱の音でしか神を感じないのに。
反論の仕方がわからない。
藍珠は歩みを再開した。日が傾く。風は、砂の表面をさらい、細かな波紋を作っては消す。遠くの廃村が、角度で黒さを増した。
その夜、廃村の外れの、壁が半分残った家の影で、ふたりは休んだ。
藍珠は火を起こすのに長けていた。折れた梁から乾いた木を選び、火打石から火花を落とし、小さな火を育てる。
火は、安心の形をしていた。
遥は、藍珠が狩ってきた獣の肉を、食べられなかった。口の中が砂でざらついて、嚥下の途中で喉が拒否する。
火の赤が、藍珠の横顔を橙に染める。皮膚の上の影がくっきりと浮かび、目の周囲の骨の形まで見える。
「食わねば、明日、倒れる」
藍珠は肉を一本、串から引きはがし、短く差し出した。
「……無理、かもしれない」
遥は首を振るだけで、涙が出そうだった。無理だと口にすれば、世界が「無理」に合わせて硬くなり、自分の内側で砕けるものが増える。そう思っていたのに、言ってしまう。
「帰りたい」
火の音が小さく爆ぜる。
藍珠はしばらく何も言わなかった。肉の表面が脂をにじませ、甘い匂いが火に乗る。
「……泣くな」
「泣いてない」
「泣くな、とは言っていない。泣くなら、泣け。おれは火を見ている」
藍珠は、そこで初めて、声の温度をひとつ落とした。
「ただし、呼吸は乱すな。魔は、湿りを嗅ぐ」
湿り――涙の湿り。息の湿り。夜の湿り。
遥は、吸って、吐いた。鼻から吸い、口から細く出す。体育の持久走の前に先生が言っていた呼吸のやり方を思い出す。
涙は引っ込まなかったが、喉の奥の痛みが、息の形に合わせて丸くなった。
火の向こうで、藍珠は目を閉じ、短く何かを祈るように、指先を組んで額に触れた。
「おまえは、いくつだ」
「十七……です。高校二年」
「十七なら、王に足る」
「意味がわからない」
「わからずとも、歳は変わらぬ」
会話はまっすぐで、遥の言い逃れの余白を潰していく。
夜は、赤くはなかった。むしろ、黒が、星の数でしか穴を開けなかった。月は薄い。風は、火の上で流れを変えて、煙の筋を何度も曲げた。
眠れないと思っていたのに、遥の意識は、火の音と藍珠の足音の間でうとうとと落ちた。
夢を見た。
図書室の引き戸。半分だけ開いた隙間。そこから、白い霧が指のように伸び、遥の額に触れようとする。
触れられる前に、扉が閉じた。
閉めたのは、自分だった。
閉まる音は、風の鳴る音と同じ高さで、耳の内側に残り、遥は目を開けた。
朝。
朝と言ってよいのか迷うほど、空の色は褪せていた。灰を薄めた青が広がり、太陽は、硬貨のような輪郭で、冷たく笑いもしない。
藍珠はもう立っていた。火の痕を砂で丁寧に埋め、跡を消す。
「行く」
遥はうなずき、乾いた唇を舐めた。
歩き出す。
道があるのかないのかわからない平らを、藍珠は迷わず選ぶ。
その途中だった。
風が、一瞬、違う方向から吹いた。
青いものが目に刺さった。
枯れ木の根元、白い骨のように露出した根の隙間から、細い芽がひとつ出ていた。
青い、青い緑。
息が止まる。
その色が、遥の胸の内側のなにかと、ぴたりと噛み合った。手を伸ばせば消える気がして、ただ見た。
芽は、風に合わせて、かすかに片方へ傾き、戻った。
藍珠が、息を呑む音を、遥は隣で聞いた。
藍珠の視線がまた額へ落ちる。
彼女の瞼の裏に浮かんだ名を、遥は知らない。だが、その名が、この国の言葉の体系の中で、ひどく古くて、ひどく重いものだということは、空気の密度でわかる。
「……やはり、天が選んだのか」
「選ぶ、って――誰が、何を」
「風だ」
藍珠は、遥の額の紋章を凝視し、短く頷いた。
「ここに、風門が開いた。おまえの額は、鍵だ」
「鍵って、僕は扉じゃない」
「扉でなくとも、鍵は鍵だ。鍵があるなら、扉は探せる」
藍珠の口調は淡々としていた。だが、その背骨の一本一本を通じて、彼女の中で何かが決まっていく音が、遥にも聞こえた気がした。
「都へ行く。おまえの紋は隠せ。余計な目に晒せば、死ぬ」
「……どうやって」
藍珠は腰の袋から、薄い布を取り出した。灰青の布。だが、布というより、風を編んだ網のように軽い。
「風隠だ。額に巻け。皮膚に触れても、紋は呼吸する。締めすぎるな」
遥は言われるままに布を額に巻いた。吸い付くように肌に馴染む。鏡がないので形はわからないが、藍珠が頷いた。
「似合う」
「褒めてる?」
「隠れている、という意味だ」
褒め言葉は、ここでは機能が違うらしい。
藍珠は歩き出す前に、芽を見た。視線だけで、触れなかった。風が通る。芽は、それに合わせて、とても小さく揺れた。
「おれは、こういうのを久しく見ていない」
都へ向かう街道――と藍珠が呼んだ場所は、道と呼ぶには粗かった。幅は車二台分はあるが、人が踏んで固めたというより、風が石と砂を片側へ寄せた結果できた筋のようだ。時折、轍の跡が硬く残り、車輪を持つ何かがここを通ったことを知らせた。
途中、すれ違う影があった。
肩から荷をさげた老女。背は折れ、目は細い。藍珠に気づくと、目の細さはさらに細くなった。恐れ、というより、注意の色。
藍珠は、頭をほんのすこしだけ下げた。老女も、同じだけ下げて通り過ぎる。
「おれを知っている?」
遥が問うと、藍珠は首を振った。
「白衣を着て刀を佩く者は、都の者だ。都の者は、ここでは『奪うか守るか』どちらかしかしてこなかった」
「あなたは、どっち」
「そのときどき」
返答は、曖昧ではない。定義がそうなのだと言っている。
彼女は遥の手首を掴んだままではなく、いつの間にか、袖の端をつまむように軽く持ち替えていた。引く力は変わらないのに、痛みがない。
「藍珠さん」
「藍珠でよい」
「……藍珠。どうして、僕を助けたの」
「目についたからだ」
「目についたから?」
「目のつくものは、処分するか、拾うか、どちらかだ。おれは拾った。拾った以上は、途中で捨てない」
彼女の言葉は、倫理よりも規律の匂いがした。
遥は歩きながら、自分の右手を少し広げて握った。指の股に、砂が薄く残っている。汗の滲まない手のひらは、いつものものより薄く感じられた。
帰りたい。
思考がそこへ戻るたび、額の下の布が、ひと呼吸遅れて冷たくなる気がした。
その冷たさは、さっき見た芽の青さと同じように、説明のつかないところで自分と結び合い、根を伸ばそうとしていた。
根。
根を伸ばせば、帰れないのではないか。
帰れない、という言葉は、まだ、口に出せない。
午後の半ば、空がわずかに白く濁ったころ、街道はゆるやかな丘の上で左右に分かれた。
左は、低い影の連なり――人家が続いている。右は、遠くの高台へ向かっていく一本の筋。藍珠は躊躇なく右を取った。
分かれ道の手前に、小さな祠があった。板の屋根は半分落ち、柱には風で剥げた紙が何層にも貼り付いている。
藍珠は、一瞬だけ足を止め、柱に指を触れた。
「何?」
「風の札だ。誰かがここで風を呼び、風を止めた」
「止めることができるの?」
「少しのあいだなら。おまえの額の紋があるなら、もっと強く動く」
藍珠は、遥の頭の布を見たが、手は伸ばさなかった。
「都では、目をつけられる。口も目も、閉じておけ」
「藍珠は、誰の味方なの」
「おれの刀の届く範囲の民の味方だ」
刀の届く範囲――曖昧で、正確な言葉。
そのときだ。
祠の裏手から、小さな音がした。
藍珠の肩が、ほんのわずかに沈み、同時に、空気が細く張った。
少年が、顔を出した。
十歳ほど。頬が痩けて、目が大きい。藍珠を見ると、すぐに地面に額を擦りつけた。
「道を、お願いしに……」
声は擦れているが、言葉ははっきりしている。
「狼が群れて、村の手前で、道を塞いでいる。父が行くと言ったが、父は昨日、盗賊に――」
言葉は、そこで切れた。硬い骨に当たったように。
藍珠は頷いた。
「群れはいくつ」
「三……いや、四」
「おれが行く」
遥が口を開く前に、藍珠は少年に背を向けた。
「遥」
名を呼ぶ。命令の前触れ。
「ついてこい。離れるな」
「僕が役に立つ?」
「立たなくていい。立つな。おまえは今は『鍵』で、鍵は抜かれるまで鍵穴を探す必要はない」
比喩にしては物言いが露骨で、遥は苦笑にも似た息を漏らした。
藍珠は、街道の左へ滑るように入った。
村の手前のくぼ地に、確かに、影がいくつか揺れていた。
四。
藍珠の数え方は、眉の動きでわかる。
藍珠は、長刀を抜いた。
風が、藍珠の足首から膝へ、膝から腰へと、薄い布の下を這い上がっていく。さっき、首を飛ばした一閃の前にも、確かに同じ風が動いたのを、遥は思い出した。
狼に似た魔は、こちらを見た。
藍珠は、走らない。
歩幅を崩さず、斜めに入り、刃の角度だけで相手の接近角を撓めた。一本。二本。
音は、やはり、ほとんどなかった。
藍珠は、風と刃の都合だけで、そこにいるものを地面へ落としていった。
最後の一匹が逃げる前に、藍珠はほんの少しだけ足を速め、柄の尾で後頭部を打った。
動かなくなった魔の側で、藍珠はわずかに息をつく。
遥は、その間、息を詰めていたことに気づく。
「大丈夫か」
藍珠は振り向かずに言った。
「……大丈夫、じゃない。でも、立てる」
「立てるなら、立っていろ」
村へ入ると、眼差しがいくつも刺さった。
白い衣。
剣。
見知らぬ少年――遥。
藍珠は、人々の視線に、薄い膜を張るような歩き方で通り抜けた。
村長と思しき男が出てきて、深く頭を下げる。藍珠は、それにほんのわずかだけ頭を下げて応えた。
「狼は、もういない。群れ直すまで、二日は持つはずだ」
「ありがとうございます。藍珠様」
様という響きが、村の中で、喉の奥の砂のように転がった。敬意というより、距離。
藍珠は礼を受けると、すぐに背を向けた。
少年が、駆けてきた。
「これを――」
差し出されたのは、干した草の束だった。
藍珠は受け取らない。
「風の匂いが強い。おれは持てない。おまえが家で吊るせ」
少年の手が震え、やがて、胸に草束を抱きしめる。
藍珠は村を出た。
遥は、その背中に追いつきながら、小さく問う。
「どうして、受け取らないの」
「匂いが移る。都では、匂いが目より先に刺さる」
匂いが目より先に――。
遥は、額の布の下で、そっと汗を拭った。汗の匂い。涙の匂い。火の匂い。
嗅ぎつけられるものが、ここでは言葉よりも早く、人を定義する。
丘をひとつ越えると、遠くに淡い影が見えた。
城壁のような、高い、まっすぐなもの。
「あれが、都?」
「都の外縁だ。風の門がいくつもある」
風の門。
額の下の布の冷たさが、またひとつ段を下りた。
藍珠は歩みを緩めない。
「遥」
「はい」
「おまえは、おまえの名を忘れるな。王だの鍵だのは、他人が呼ぶ名だ。おまえが先に忘れたら、他人の名だけが残る」
唐突に与えられた言葉は、遥の胸のどこかに、遅れて降り積もった。
名。
水城遥。
教室の窓際。ノートの端に書いた落書き。同じ班の女子の笑い声。田所の軽口。
帰りたい。
その言葉は、同じ濃さで、胸に居座っている。
だが、風は、確かに、どこかへ向かっている。
風が、門を探している。
門の向こうへ繋がるために、まず、門の形を見たがっている。
その欲求が、遥の身体の輪郭のひとつに加わりつつあることを、遥はもう否認できなかった。
都の外縁――城壁の手前で、藍珠は足を止めた。
門がいくつも並んでいる。木ではない。石のようで、石でない。縁は薄く、内側は空。空気の層が重なって、透明な水面のように揺れている。
人々が列を作っている。荷を背負い、子供の手を引き、目を伏せる。
門の手前には、白衣の者が立っていた。藍珠と同じ衣。だが、腰の刀の形が違う。彼らの視線は、風の向きを読むように、列を流れる。
藍珠が進むと、彼らの視線がわずかに集まった。
藍珠は、遥の肩を軽く押した。
「口を閉じろ。目は地面。息は浅く」
遥はうなずき、言われたとおりにした。
額の布の下で、紋が、風と対話する。
門の前に立つと、空気が、耳の奥に柔らかく触れた。膜を一枚、誰かが指で弾いたような感覚。
遥は、目を閉じた。
藍珠の手が、背中を押す。
薄い膜を抜ける。
抜ける瞬間、遥は、遠くで、乾いた紙が破れる音を聞いた。
開いた。
閉じなかった。
風は、向こうからも、こちらからも、同じ温度を運んできた。
都の空気は、砂の匂いに、香の匂いが混じっていた。
遥は、膜の向こうで、目を開けた。
光が、高く組まれた布の庇にぶつかって、細かい影を石畳に落としている。人の数は多い。声の重なりは厚く、しかし大きくはない。声は布の庇に当たって跳ね返り、路地に吸い込まれていく。
藍珠は足を止めない。
白衣の者がひとり、藍珠に近づいた。
「藍珠。戻ったか」
「戻った」
「それは?」
「拾い物だ」
拾い物。
遥は、息を浅くしたまま、目だけで藍珠を見る。藍珠は白衣の者に、ほんのわずかだけ顎を動かした。
「風府の長に通す。門で見られている」
「わかっている」
白衣の者は、視線を遥の額の布に落とした。
布は、風を吸っている。
藍珠は、彼の視線を、黙って受けた。
空気が一段、冷えた。
遥の心臓が、ひとつ余計に打った。
「藍珠」
白衣の者の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「十年、現れなかったものが、門を通った」
「見ていたか」
「門は、風の入出を記す」
「なら、話が早い」
藍珠は、遥の肩をもう一度、軽く押した。
「行くぞ、遥。風の長は、待たない」
石畳の上で、遥は自分の足音が以前より軽いことに気づいた。
重さが剥がれたのではない。違う重さが背中に載り、以前の重さの感触が相対的に薄まったのだ。
王。鍵。
帰りたい。
どれも、同じだけ重さを主張し、肩の左右でバランスを取り合っている。
藍珠の背中は、途中で一度も振り返らない。
それに、遥は少しだけ救われた。
誰かがずっと振り返って自分を待っていると、人は立ち止まってしまう。振り返る背中がないなら、前へ出るしかない。
風が、前から来る。
風は、門を探す。
遥は、自分の額の下で、まだ見ぬ形の鍵が、呼吸に合わせてわずかに回転する音を、確かに聞いた気がした。