第1話「トラウマの敗北」
人は何度も負ける。
それでも走り続ける者だけが、また風を感じられる。
北海道・新得。
小さな町の工業高校サッカー部には、かつて全道を震わせた栄光があった。
だが今は見る影もなく、練習もせず、腐りきった部室に笑い声だけが虚しく響く。
そんな場所に入学してきた、一人の少年——清瀬晴斗。
中学最後の敗北に心を折られ、「もう二度とサッカーはやらない」と誓った彼が、仲間と出会い、ぶつかり合い、何度も敗れながら、それでも風を起こそうとする物語。
これは勝者の物語ではない。
敗北を重ねてもなお走る者たちが、確かに風を残していく——そんな青春の記録である。
中学最後の試合。舞台は根室中対網走南中の中体連一回戦。
試合前、センターサークルに並んだ瞬間、二人の視線がぶつかった。清瀬 晴斗は網走南中のエース、古賀 武は根室中のエース。昔から顔を合わせれば喧嘩ばかりしてきた。
古賀が鼻で笑いながら言う。
「また負けに来たのかよ。これで負けたら、お前サッカーやめろな」
晴斗は一歩踏み出し、睨み返す。
「上等だ。絶対勝ってやる」
土のグラウンドに、ホイッスルが冷たく響いた。
スコアは0―6。時計は無情に止まった。
「……また、一回戦負けか」
スタンドの声がざわつく。選手はうつむき、相手校の歓声が風に流れてきた。
晴斗は膝に手をついたまま、立ち上がれなかった。
最後まで走ったつもりだった。だけど、走っても、何も変わらなかった。
「走るしかできない奴に、勝てるわけないだろ」
試合後、古賀が吐き捨てた言葉が、頭から離れない。
その日から晴斗は“走るだけじゃ意味がない”という呪いを抱えた。
走るたびに、あの敗北がよみがえる。
——そして春。
彼は新得工業高校に入学する。ここのサッカー部はかつて全道大会で準優勝した歴史があると聞いていたが、入学した時点で入部する気はなかった。中学最後の敗北がまだ胸に残り、軽々しくボールを蹴る気分にはなれなかったのだ。
入学したての教室で、晴斗は偶然隣の席になった永瀬ハルと意気投合した。明るく人懐っこい性格の彼との出会いは、晴斗にとって小さな救いだった。サッカーの話題になった瞬間、ハルは目を輝かせて語る。
「高校でも絶対サッカーやりたいんだ。お前もだろ?」
晴斗は一瞬ためらい、そして首を横に振った。あの日の敗北を思い出すと胸が重くなり、簡単に頷くことなどできなかった。強い拒絶の意思が、彼の中にまだ残っていた。
それでもどこかで、もう一度挑みたい気持ちは消えていない。だが晴斗は、このときだけは強く誓っていた——絶対にサッカー部には入らない、と。あの屈辱を繰り返さないために。
その日の放課後、晴斗はハルと一緒に下校していた。夕暮れの風が冷たい。グラウンド脇に転がっていたボールを見つけたハルが、足先で軽く蹴る。
「なあ、ちょっと寄り道して球蹴って帰ろうぜ」
そう言って見せたトラップとリフティングは滑らかで、思わず見惚れるほどの技術だった。
ハルは旭川の春光台ユースに所属していたという。全道大会に出場するほどの強豪でプレーしていたが、親の転勤で新得に来たのだ。
晴斗は一瞬ためらった。もう二度とボールを蹴らないと誓ったはずだった。だが、ハルの笑顔と圧倒的な上手さに引きずられるようにして、思わず頷いてしまった。
二人は夕暮れの公園に寄り道し、ボールを蹴り合った。ハルのトラップからのパスは正確で、リズムに乗るようにテンポが速くなる。胸トラップ、ワンタッチ、インサイドの返し——気がつけば体が勝手に動いていた。
「おい、ナイスだ晴斗!」ハルの声が響く。
息が上がっているのに、不思議と心地よい。頬にあたる風が、あの日の敗北とは別物に感じられる。
晴斗は胸の奥で小さく呟いた。——やっぱり、サッカーは楽しい。
ボールを拾い上げたハルがにやりと笑う。
「なあ、明日さ、一緒にサッカー部見に行ってみようぜ。別に入らなくてもいいからさ、どんな雰囲気か確かめてみよう」
その何気ない提案に、晴斗の心はまた揺れた。
歩きながら、ハルが不意に尋ねる。
「そういやさ、お前、中学のときどんな感じだったんだ?」
晴斗は少し迷ったが、隠しておく理由もなかった。
「……最後の試合で、ボロ負けしたんだ。0―6で。走るしかできなかった俺を相手のDFに笑われた。あの日から、もう二度とサッカーはやらないって決めた」
口にすると、胸の奥に残っていた痛みが少しだけ形になった。
ハルは黙って聞いていたが、やがて笑った。
「なら、俺と一緒にもう一度証明しようぜ。走るだけでも勝てるってな」
その言葉が胸に残った。
——翌日。 放課後、二人は約束通りサッカー部を見に行った。グラウンドには部員が散らばり、まともにボールを蹴っている者はほとんどいない。3年の上杉はゴール前でふざけてシュートを外して笑い、日高は後輩をパシリにして水を持ってこさせていた。監督の宮内はベンチに座ったまま、スマホを眺めている。さらに脇では、3年FWの田嶋がサボって座り込み、GKの小森は先輩に怒鳴られながらも必死にキャッチング練習を繰り返していた。2年組も覇気がなく、吉原は冗談ばかり飛ばし、川俣は無言で壁打ちをしているだけだった。1年の数人は端に追いやられ、やる気を出すことも許されない雰囲気だ。 「……これが、サッカー部?」晴斗は呆然とつぶやいた。 ハルも眉をひそめたが、すぐに笑ってみせる。 「逆にチャンスかもな。俺らが入れば変えられるかもしれない」 だが晴斗は首を振った。昨日の誓いが再び頭をよぎる。 「……俺は入らない。絶対に」 その場を離れようとしたとき、部員の間で「ボールが一個足りない」という声が上がった。たぶん昨日俺らが使ったボールだ。2年の川俣が真っ先に疑われ、日高に怒鳴られる。萎縮した川俣が言い訳をしようとした瞬間、上杉が苛立ちを爆発させて拳を振り上げた。 「てめぇ、ふざけてんのか!」 殴りかかろうとする上杉の腕を、ハルが素早く掴んで止める。 「やめろよ。ボールの数で人殴るとか情けなくね?」 その場の空気が凍りついた。上杉が顔をしかめ、ハルを睨みつける。 「調子に乗るなよ、一年」 しかしハルは怯まず笑みを崩さない。 「じゃあピッチで決めようぜ。俺ら一年チームで、先輩たちに勝負を挑む」
上杉はしばし睨み合った末に、不敵に笑った。
「……おもしれぇ。一年ごときがそこまで言うなら受けて立つよ。試合は明後日の放課後、グラウンドでだ。逃げんなよ」
挑発に周囲がざわめく。ハルは一歩も退かず、逆に突っかかった。
「先輩こそ逃げないでくださいね」
こうして、不意に始まった挑発と応酬をきっかけに、サッカー部の中で一年と上級生の火花が散った。まだ正式に入部もしていない晴斗の心は揺れていた。
だが同時に、紅白戦を戦うには仲間を集めなければならない。ハルは拳を握り、晴斗の肩を叩いた。
「行こうぜ、晴斗。俺らのチームを作るんだ」
——そして、この小さな衝突を境に、新得工業サッカー部の物語は大きく動き出していく。
の直後、ハルは晴斗の耳元で囁いた。
「まずはメンバーを集めようぜ。最初は……牧野ケイだ」
クラスでも少し目立つ存在の彼は、足の速さを誇りにしていて、晴斗に対してライバル心を燃やしていた。
翌日の放課後、廊下で牧野を見つけたハルは声をかける。
「ケイ、お前スピードあるんだろ?明後日の紅白戦、先輩たちをぶっ倒すのに力貸してくれよ」
牧野は驚いたように目を瞬かせたあと、険しい表情を見せた。
「……お前、永瀬ハルだろ。小学生のトレセンで俺のチームをボコボコにした旭川トレセンのキャプテン。あの時のこと、今でも忘れてねぇ」
敵意を隠さず睨みつける。だが次の瞬間、牧野はニヤリと笑った。
「まあいい。クラブチームに入るつもりだったけど、一時的に力を貸してやるよ。先輩ぶっちぎるのは俺の得意分野だしな」
ハルは真剣な目で頷き返す。こうして、ライバル心を抱えながらも牧野ケイが一時的に仲間に加わった。
だが話はそこで終わらなかった。ハルと牧野の間には、小学生時代からの因縁がまだ生きていた。
「お前に指図されるのはごめんだ」牧野が吐き捨てるように言う。
「ならピッチで決めようぜ。俺とお前で一回勝負だ」ハルが挑発的に一歩踏み出す。だが次の瞬間、彼はにやりと笑いながら続けた。
「……って言いたいとこだけど、勝負するのはコイツだ。清瀬晴斗」
突然名前を出された晴斗は、思わず息を呑んだ。周囲が一斉に彼を見つめる。
「お、おいハル!?」晴斗が抗議しかけるが、ハルは肩をすくめる。
「大丈夫だって。お前なら走りで食らいつける」
牧野は驚いたように一瞬目を見開いたあと、口角を上げた。
「へぇ……面白ぇじゃん。じゃあ清瀬、お前と勝負だ」
即席で作られた勝負の舞台はシンプルな1対1。攻撃は牧野、守備は晴斗。先にゴールを決めたほうの勝ち。
試合開始の合図とともに、牧野が一気に仕掛けてきた。圧倒的なスピードで晴斗を抜き去り、余裕の笑みを浮かべる。
「おい清瀬、その程度かよ?走るだけで勝てるわけねぇだろ」
挑発の言葉に、胸の奥で何かが弾けた。忘れかけていた中学時代の自分、勝ちたいと必死にもがいていたあの日の感覚が蘇る。
次の瞬間、晴斗はキレのあるスライディングで牧野の進路を断ち切った。体が自然と動き、迷いのない一歩がボールを奪い取る。
「——っ!」牧野の表情が驚きに変わる。
晴斗はそのままドリブルで切り込み、ズバっと鋭いシュートをゴールに叩き込んだ。
静寂のあと、周囲がどよめいた。
牧野は口を開けたまま、ただ晴斗を見つめていた。やがてニヤリと笑い、肩をすくめる。
「……おもしれぇ奴だな。完全に負けたとは言わねぇ。引き分けってことでいいだろ」
その言葉には、ライバルを認める色が混じっていた。こうして牧野ケイは、正式ではないものの、一年チームの仲間として加わることになった。
その日の帰り道、牧野は同じ中学でチームメイトだった赤松ユウに声をかけた。気配り上手なMFの彼は、牧野の誘いに苦笑しながらも頷く。
「お前が言うなら仕方ねぇな……でも俺一人じゃ心細いし、島崎も連れてくわ」
島崎アキラは同じクラスの暇人で、まだサッカー初心者だったが、GKが必要なことは誰の目にも明らかだった。赤松に押し切られる形で参加を決め、気づけば三人が揃った。
こうして、晴斗とハル、そして牧野・赤松・島崎。1年チームの骨格が形になり始めた。
その様子をグラウンドの端で見学していた一年生がいた。山口リョウと村井サトシだ。リョウは喧嘩っ早い性格で、先輩たちにやり返したいと拳を握っていた。サトシは気弱ながらも、心の奥では何か変えたいと願っていた。
「俺らも混ぜろよ。先輩どもに一矢報いたい」リョウが声を上げ、サトシも小さく頷いた。
こうして二人も加わり、一年チームはついに七人が揃った。紅白戦に挑む布陣が、少しずつ形を帯びていった。
そのときハルがふいに表情を引き締める。
「でもな……まだ足りない。俺がどうしても誘いたいやつがいるんだ」
晴斗が首をかしげると、ハルは遠くを見ながら呟いた。
「七尾 陸。元コンサユースのやつだ。あいつが入れば、間違いなく戦えるチームになる」
——その日の帰り際。
校門を出たところで、晴斗とハルは七尾陸を見つけた。制服姿のままボールを片手に持ち、何気なくリフティングを続けている。軽やかなタッチは一目で格の違いを感じさせた。
「よう、陸!」ハルが声をかけると、陸はリフティングを止めずに視線だけ向けた。
「なんだよ」冷めた声。
「明後日、先輩たちと紅白戦やるんだ。お前がいれば絶対勝てる。力を貸してくれ」
陸は視線を逸らし、短く吐き捨てる。
「……悪い。興味ねぇ」
ハルは食い下がるが、陸はそのまま立ち去ってしまった。
晴斗は胸の奥がざわめくのを感じた。
「やっぱり簡単じゃねぇな……」
紅白戦当日。
グラウンドに集まった一年チームは7人だけ。人数が足りず、試合にならない。
上杉は腕を組み、鼻で笑った。
「どうした一年?人数足りねぇじゃねぇか。棄権するなら今のうちだぞ」
緊張が走る中、ハルが強がって言い返す。
「心配すんな。助っ人呼んであるから」
その言葉に皆が首を傾げた。次の瞬間——。
校門の方から一人の影が歩いてきた。
七尾 陸。
制服姿のまま、ボールを軽く蹴りながら現れる。
「……仕方ねぇな。一日だけ、力貸してやるよ」
驚きにどよめく一年生たち。晴斗も目を見開いた。
「陸……!」
ハルが笑みを浮かべる。
「言ったろ?こいつが来れば間違いなく戦える」
こうして七尾陸が助っ人として参戦。さらにバスケ部や野球部から数人を借りて、人数はギリギリ11人に揃った。
先輩チームは本気で笑い飛ばす。
「寄せ集めで勝てると思ってんのか?」
だが一年チームは、胸を張って並んだ。
たとえ即席でも、彼らの中には確かに火が灯っていた。
笛が鳴る直前、晴斗は胸の奥で小さく呟いた。
——また風が吹き始めた。
その思いを乗せて、紅白戦が幕を開けた。
——第一章 完




