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第3話

 旅を始めて数ヶ月。私たちは北の国境に近い小さな村で依頼をこなしていた。村は痩せた土地と荒々しい岩山に囲まれ、生活は決して楽ではなかった。依頼の内容は、村の近くに現れるようになった奇妙な魔物の掃討。それは、今まで出会ったことのない、黒い靄のような姿をした魔物で、触れると獲物の活力を奪い取る不気味な力を持っていた。


「アイシャ、無理はするな。私の後ろにいろ」


 ヴェストールは、いつもより少しだけ厳しい声でそう言った。彼の顔には、微かだが警戒の色が浮かんでいるように見えた。普段、どんな強力な魔物にも動じない彼が、この魔物に対しては何か特別なものを感じているようだった。


 魔物との戦闘は、予想以上に困難を極めた。剣が靄をすり抜け、攻撃が効かない。ヴェストールは幾度となく、その異質な力で魔物を消滅させたが、すぐに別の場所から湧き出てくる。焦りと疲労が蓄積していく中で、不意に私の体がぐらつき、足元にあった岩につまずいた。その隙を逃さず、黒い靄が私の足首に絡みつく。瞬間、全身から力が抜けていくような感覚に襲われ、膝から崩れ落ちた。


「ヴェストール……!」


 意識が遠のく中、私がかろうじて絞り出した声に、ヴェストールは弾かれたように振り返った。彼の青い瞳が、初めて見るほど大きく見開かれている。そこには、明確な焦りと、そして深い怒りが宿っていた。


「貴様ら、よくも……!」


 今まで聞いたことのない、低く唸るような声が響き渡った。彼の身体から、激しい青い光が放たれる。その光は、まるで太陽が昇ったかのように、森の暗闇を一瞬で吹き飛ばした。光が収まると、そこには黒い靄の魔物など、一片も残っていなかった。ただ、地面に、彼が放った力の余波でできた大きなクレーターが残されているだけだった。

 ヴェストールは、私のもとに駆け寄ると、震える手で私の身体を抱き上げた。彼の顔は、普段の無表情からは想像もできないほど苦痛に歪んで見え、私を救えなかった後悔が彼を苛んでいるのが痛いほど伝わってきた。


「アイシャ、すまない……私の油断だ……」


 彼の声は、今にも消え入りそうに震えている。初めて、彼がこれほどまでに感情を露わにするのを見た。彼が私を心から心配し、そして、自分を責めているのが痛いほど伝わってきた。私は、彼の温かい腕の中で、ただ静かに彼の胸に顔を埋めた。


 数日後、私の体調は回復した。あの魔物の影響は想像以上に深く、治癒師も驚くほど回復に時間がかかった。その間、ヴェストールは一晩中私の傍らを離れず、私が目を覚ますたびに、何も言わず水を差し出してくれた。彼の表情は相変わらず無口だったが、その瞳の奥には、以前よりもずっと濃い感情が宿っているように感じられた。


◇◇◇◇


 ある穏やかな昼下がり、私たちは森の小道を歩いていた。木漏れ日が地面にまだら模様を描き、鳥のさえずりが心地よく響く。ふと、ヴェストールが足を止め、何気なく差し出された私の手に、小さな花を乗せた。それは、森でよく見かける、何の変哲もない白い花だった。


「これは……?」


 私が首を傾げると、彼は珍しく、わずかに口元を緩めた。


「……ただ、綺麗だと思った」


 その言葉に、私の胸は温かいもので満たされた。彼が、ただ「綺麗」という理由で、私に花を贈ってくれた。それは、これまで彼が見せてきた「暇つぶし」という建前とは違う、もっと個人的で、温かい感情のように思えた。彼の表情はほんの一瞬だったが、その瞬間に見せた彼の優しさが、私の心を深く揺さぶった。彼は、やはり私にとって特別な存在なのだと、改めて確信した。

それ以来、ヴェストールは以前よりも少しだけ、私に触れることが増えた。危険な場所では、さりげなく私の手を引いてくれたり、夜の焚き火では、私が寒くないか確認するように肩に触れてくれたり。その一つ一つの仕草が、彼が私を大切に思っている証拠のように感じられ、私の心は満たされていった。


◇◇◇◇


 ある町でのこと。私たちは宿屋の一室を借りていた。私が桶に入ったお湯で濡らした布で髪を拭いていると、ヴェストールがじっと私を見つめているのに気づいた。彼の青い瞳は、いつも以上に深く、そして何かに迷っているように見えた。


「ヴェストール、どうしたの?」


 私が尋ねると、彼は視線を逸らし、小さく息を吐いた。


「……何でもない」


 そう言って、彼は窓の外に目を向けた。その横顔は、普段の無表情とは異なり、微かな戸惑いと、何かを隠しているような影を宿している。彼の視線の先に何があるのか、私には分からなかった。ただ、彼が何かを深く考え、そして、それを私に打ち明けられずにいることが、ひしひしと伝わってきた。


 彼は、彼自身の秘密と、向き合っているように見えた。私は、何も言えず、ただ彼がその秘密を、いつか私に話してくれる日が来ることを願うしかなかった。その時、彼の内側で、何かが確かに変化しているのを感じた。それは、まるで、凍てついた湖の氷が、春の陽光を浴びて、少しずつ解け始めるような、静かで、しかし確かな変化だった。


◇◇◇◇


 ある晩、私たちは見晴らしの良い丘の上で野営をしていた。日中の冒険で疲れた身体を癒すように、焚き火の炎がパチパチと音を立てる。空には満天の星が瞬き、まるで無数のダイヤモンドが黒いベルベットに散りばめられたようだった。私はヴェストールの隣に座り、肌寒い夜風から逃れるように彼にもたれかかった。彼の隣は、いつも私にとって一番安心できる場所だった。


「アイシャは、強くなったな」


 彼の声が、私の耳元で囁かれた。その言葉に、私の顔は熱くなった。最初は短剣を握る手も震えていた私。ゴブリンの群れにも怯え、オーガの影に竦み上がっていた私。けれど、ヴェストールが教えてくれたおかげで、私は少しずつ前に進めるようになった。


「ヴェストールが教えてくれたからだよ」


 私がそう言うと、彼は初めて、ふっと微笑んだ。その笑顔は、氷が解けるように、凍りついていた私の心を溶かしていくようだった。彼の青い瞳が、私をまっすぐに見つめる。その瞳の中に、私が映っている。それは、弱々しくおどおどしていた私ではなく、彼と共に困難を乗り越え、少しだけ成長した私の姿だった。


「君は、誰かのために強くなれる人間だ」


 その言葉が、私の胸に温かい熱を灯した。彼のために、私は強くなりたい。彼に、もっと認めてもらいたい。私は意を決して、彼の手を取り、彼の指にそっと触れた。彼の指は長く、節くれ立っていて、私よりもずっと大きくて、でもとても温かかった。彼の手のひらに、私の指が触れると、じんわりと体温が伝わってくる。

 ヴェストールは驚いたように、私の手を見たけれど、すぐに私の手を優しく握り返してくれた。その指が絡み合う瞬間、私の中にある何かが、彼の手に吸い込まれていくような、不思議な感覚に包まれた。


「アイシャ……」


 彼の声が、囁くように私の名を呼ぶ。私は顔を上げ、彼の目を見つめた。夜空の星よりも深く、吸い込まれそうな青い瞳。彼の瞳の奥に、私が知らなかった感情が揺らめいているように感じた。


「愛している……」


 その言葉が、ヴェストールの口から紡ぎ出された時、私の心臓は止まるかと思った。幸福と、驚きと、そして確かな愛の感情が、私の全身を駆け巡った。彼が、私のような頼りない人間を愛してくれるなんて。信じられない気持ちでいっぱいだったけれど、彼の瞳の真剣さが、それが真実であることを教えてくれた。


「私も……私も愛してる、ヴェストール……!」


 私は彼の腕の中に飛び込み、彼の胸に顔を埋めた。彼の腕が、優しく私を抱きしめる。彼の心臓の音が、私の耳に心地よく響く。彼の温もり、彼の匂い、彼の声の響き。それら全てが、私にとってかけがえのないものになっていた。

 夜、焚き火のそばで寄り添い、満天の星空を眺める。ヴェストールは多くを語らなかったけれど、彼が私のそばにいるという事実が、私を安心させた。彼が私を必要としてくれていると、そう信じていた。この穏やかな日々が、永遠に続くのだと、そう信じて疑わなかった。


 彼の唇が、私の唇にそっと触れた。柔らかく、それでいて確かな彼の感触に、私の全身が熱くなる。夜空の星が、私たち二人を祝福するかのように瞬いていた。それは、何の迷いもない、深く、優しい口づけだった。私の中にあった不安や孤独が、彼とのキスによって溶けていくのを感じた。この瞬間、私たちの世界は、彼と私だけになった。この夜、私たちは確かに、お互いの未来を誓い合ったのだ。


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