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第1話

「よし、みんな! 準備はいいかい?」


 フレッドの声が、森の朝の静寂に響く。

 16歳の私、アイシャは、握りしめたショートソードの柄に冷や汗がにじむのを感じていた。

 朝日に金髪をきらめかせるフレッド、物静かなリアム、そしていつも笑顔のルナ。幼馴染である私たち冒険者パーティーにとって、今日の依頼は初めての、待ちに待った冒険だった。ゴブリンの群れを掃討し、街道の安全を確保する。新米冒険者としては手堅い依頼のはずだった。


「アイシャはそんなに震えちゃダメだよ。僕たちがついてるんだから!」


 ルナが私の腕をポンと叩く。その笑顔に少しだけ心が軽くなるけれど、おどおどとした私の性格はそう簡単に変わらない。頼りない自分を、いつもみんなが支えてくれていた。

 森の奥へ進むにつれて、空気は重くなり、木々の間から差し込む光も届きにくくなる。ゴブリンの足跡を追っていたはずなのに、やけに大きな獣の足跡を見つけた時、フレッドは顔色を変えた。


「これは……ゴブリンじゃない。まさか……」


 その瞬間、地響きと共に巨大な影が目の前に現れた。オーガ。二メートルを超える巨体、棍棒を振り回し、唸り声を上げるその姿は、私たちの想像をはるかに超えていた。


「散開しろ!」


 フレッドの叫び声も虚しく、オーガの棍棒は容赦なく私たちに襲いかかった。私はあまりの恐怖に足がすくみ、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 一瞬の出来事だった。フレッドの、リアムの、ルナの叫び声が、鈍い音と共に森に吸い込まれていく。彼らが動かなくなったのを理解した途端、私の膝から力が抜け、身体が崩れ落ちた。私は嗚咽した。


 なぜ、私だけが、こんな光景を見ているのだろう。

 守ってくれるはずの仲間は、動かなくなってしまっていた。私の視界は涙で歪み、彼らの鮮血が地面に滲んでいくのが、スローモーションのように映る。その光景は、あまりにも現実離れしていて、私の思考は停止した。

 孤独と絶望が、冷たい水のように私の心を満たし、やがて全身を凍てつかせた。世界は音を失い、私だけが、この地獄に取り残されたかのように感じられた。


 その時だった。


「おや、これはまた……ひどい有様だ」


 どこからともなく、冷たい声が響いた。顔を上げると、そこに立っていたのは、私と同じくらいの年の、見慣れない青年だった。青い髪は夜空の色を映したように深く、青い瞳は湖のように澄んでいる。彼は手ぶらで、ただそこに立っているだけなのに、言葉にできない威圧感を放っていた。


 オーガが青年に気づき、唸りながら棍棒を振り上げる。青年は微動だにしない。次の瞬間、彼の体がかすかに揺らめいたかと思うと、オーガの棍棒は虚しく空を切り、そしてオーガの巨体がゆっくりと、しかし確実に崩れ落ちていく。

 彼が何かをしたようには見えなかった。ただそこに立っていた、それだけなのに、オーガは崩れ落ちていった。

 恐怖は残っていたが、私の心には呆然とした感情が広がっていた。彼がオーガを倒したのか?どうやって?

 青年は倒れたオーガを一瞥すると、何の感情も読めない顔で私を見た。


「君、冒険者か?随分と運が悪かったな」


 その言葉に、私はようやく現実を突きつけられた。フレッドも、リアムも、ルナも、もう戻らない。再び嗚咽が込み上げ、私は顔を覆った。


「ひどいな。一人か」


 彼はそう呟くと、私の隣に静かに座り込んだ。何の慰めの言葉も、同情の言葉もなかった。ただ、そこにいてくれた。それが、当時の私には何よりも心強かった。

どれくらいの時間が経っただろう。涙が枯れ、私はようやく顔を上げた。


「あ、ありがとうございます。た、助けてくれて……」


 震える声でお礼を言うと、彼は「別に」と短い返事を返した。

 私は立ち上がろうとしたが、足元がふらつき、身体に力が入らない。膝が笑うように震え、再びその場に座り込んでしまった。


「……このままでは、街まで帰れない……」


 絞り出すような私の言葉に、彼はふっと息を吐いた。


「ならば、私が街まで同行しよう。どうせ、私も暇だ」


 彼の言葉は、まるでどこか他人事のように聞こえたけれど、私にとっては、その申し出がどれほどありがたかったか、言葉では言い表せなかった。


「あの……お名前は?」

「ヴェストールだ」

「私はアイシャ……」


 それが、ヴェストールと私の出会いだった。


◇◇◇◇


 ヴェストールとの出会いから数日後、私は彼に付き添われ、無事に街へと辿り着いた。傷の手当を受け、身体の痛みが少しずつ引いていく。

 しかし、心に開いた穴は、塞がるどころか、彼の姿が見えないことで、より深く、冷たく感じられた。彼が私を街まで運び、そのまま何も言わずに去ってしまったように思え、私は戸惑いと、置き去りにされたような深い悲しみを感じていた。

 私がベッドの上でぼんやりと天井を見つめていると、不意に部屋のドアがノックされた。

 開くと、そこに立っていたのはヴェストールだった。彼の青い瞳は、いつもと同じように感情を読み取れないけれど、どこか静かな光を宿していた。


「もう大丈夫なのか?」


彼の短い問いかけに、私は小さく頷いた。


「ええ。ありがとう……助けてくれて」

「そうか」


彼はそう呟くと、わずかに視線を伏せた。その一瞬の仕草に、彼が私を救えなかったことへの自責の念を抱いているように見えた。彼はすぐに顔を上げ、


「ならば、もう心配はいらないな」


 と続けた。そして、彼はそう言うと、踵を返そうとした。彼の背中を見た瞬間、私の胸が締め付けられた。このまま、彼は再び私の前から消えてしまうのだろうか。そんなのは嫌だった。私には、彼が必要だった。オーガに襲われ、たった一人取り残されたあの森で、私を絶望から救い出してくれたのは彼だった。

 彼の存在が、私の世界に光を灯してくれた。彼が教えてくれた冒険の知識、彼の優しい眼差し、そして何よりも、私の側にいてくれるという安心感。それら全てが、私にとってかけがえのないものになっていたのだ。


「待って!」


私は思わず叫んでいた。ヴェストールが振り返る。


「あの……ヴェストールは、これからどうするの?」


私の問いに、彼は少しだけ首を傾げた。


「特に決めていない。当てもない旅に戻るだけだ」

「じゃあ……もしよかったら……私と一緒に行動しませんか?」


 私の提案は、自分でも驚くほど唐突だった。でも、そうせずにはいられなかった。ヴェストールは、私の言葉に目を見開いた。驚いているようにも、困惑しているようにも見えた。

「君は、また冒険を続けるつもりなのか?」

「はい。あなたについていっていろいろ教えてもらいたいし、もっと学びたい。なによりも……」


私は彼の目を見つめた。


「あなたと、一緒にいたい」


 私のまっすぐな言葉に、ヴェストールは視線を逸らした。沈黙が流れる。断られるかもしれない。そう思うと、胸が苦しくなった。

 やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。その青い瞳は、何かを決意したかのように、強く輝いていた。


「……いいだろう。暇つぶしにはなりそうだ」


 彼の言葉に、私の心は歓喜に震えた。再び、彼と一緒に冒険ができる。失った幼馴染たちのことは忘れられないけれど、彼の存在が、私の心に新しい光を灯してくれた。


◇◇◇◇


 ヴェストールとの旅は、初めはぎこちなかった。彼は無口で、感情を表に出さない。さらに、私は未だ幼馴染を失った悲しみから立ち直れず、常にうつむきがちだった。夜の焚き火を囲んでいても、会話はほとんどない。

 ただ、時折ヴェストールの視線が私に向けられているのを感じた。それは、私を哀れんでいるようでもなく、嘲笑しているようでもなく、ただ何かを探っているような、不思議な視線だった。


「君、何になりたいんだ?」


 ある夜、ヴェストールが突然問いかけた。


「冒険者、です」


 私はすぐに答えた。フレッドたちと一緒に冒険者になるのが夢だった。しかし、今の私には、その夢を続ける自信などなかった。


「そうか」


 それ以上の言葉はなかった。でも、その日から、ヴェストールは私に冒険の基本を教えてくれるようになった。剣の構え方、魔物の習性、危険な場所の見分け方。彼の教えは的確で、まるで長年冒険を続けてきたベテランのようだった。

 私がおどおどして失敗しても、彼は呆れることも、怒ることもなかった。ただ、淡々と正しい方法を教えてくれるだけだった。


「アイシャは、もう少し自信を持つべきだ」


彼が初めて、私に意見を言った時、私は驚いた。


「だって、私、いつも……」

「君が剣を振る時、目に迷いがある。それでは本来の力が出せない。もっと自分を信じろ」


 彼の言葉は、私の心の奥底に響いた。それは、これまで誰からも言われたことのない言葉だった。私は、彼の言葉を信じてみたかった。


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