選ばれなかった名の祈り
時間が止まったようだった。
リリスが《転律の書》を開いたその瞬間、
深淵に満ちていた闇の波が、一度だけ静かに凪いだ。
空に開いていたゼル=グラムの“目”が、微かに揺れ、
世界そのものが深呼吸するように、光と影の境界が崩れた。
《記憶の階》最深部――
そこに広がっていたのは、色も音もない“白の空間”。
ゼル=グラムの本体、
“空白の心臓”が浮かぶその中心に、リリスは立っていた。
「お前は私に何も与えなかった」
ゼル=グラムの声が響く。
「ただ祈り、ただ裏切り、ただ奪ってきた」
リリスはうなずいた。
「そうね。私には、与えられた名前も、赦しもなかった」
でも、と彼女は続ける。
「それでも――私は、誰かを救いたかった」
「それは、あなたにも奪えない“私の記憶”よ」
彼女の指先が、《転律の書》の中央に触れる。
そこには空白のページがあった。
誰にも書かれていない、名前のない章。
リリスは静かに、自分の記憶をそこに刻み始める。
――神を信じた少女の祈り。
――裏切られた巫女の涙。
――闇に堕ちた反逆者の決意。
――そして、誰の記憶にも残らない存在としての覚悟。
その全てが、星の文字で書き込まれていく。
「これは、私の“終わり”の記録」
「あなたが世界を飲み込む前に、
私が世界を“もう一度始める”」
ゼル=グラムが口を開いたが、
その声は、リリスの光に遮られた。
《転律の書》が眩い光を放ち、
“記録の上書き”が始まる。
その代償は――彼女の存在そのものだった。
カイが叫ぶ。
「リリス! やめろ!!」
「お前がいなくなるなんて、そんなの……!」
リリスは、振り返らない。
背中の黒翼が、静かに広がる。
その羽根の一枚一枚が、光に溶けていく。
アルマは泣いていた。
目はすでに見えないのに、
星のように光る涙が頬を伝っていた。
「さようなら、リリス……
あなたの名は、私たちの中には残らない。
でも、あなたの祈りは――この世界を救った」
最後に、リリスが一言だけ、呟いた。
「……ありがとう」
そして、光の中心へと、消えていった。
世界が、再び動き出す。
《深淵の目》は閉じ、
空は晴れ渡り、星々が戻ってくる。
神殿の塔には鐘が鳴り、
人々の記憶は徐々に回復していった――
ただし、たった一つを除いて。
“黒翼のリリス”という名は、
誰の記憶にも、もう存在しなかった。
カイは廃墟の中で目を覚ます。
焦げた剣を胸に抱え、
涙が頬を伝っている理由が、わからなかった。
「……誰かを、忘れた気がする」
アルマは静かに空を見上げる。
視力を失った彼女の目には、星は映らない。
だが、彼女には“確信”があった。
「世界は、まだ、在る」
その言葉に、風がそっと応えるように吹き抜け、
空から、黒い羽根が一枚――ふわりと落ちてきた。
誰もその意味を知らない。
けれど、それでもその羽根は美しく、
まるで「ありがとう」と囁いているようだった。