記憶の階、開かれる終焉
空に開いた巨大な“目”は、夜空の星々を飲み込むように広がっていた。
それはただの空洞ではない――
存在そのものを喰らうゼル=グラムの眸、《深淵の目》。
聖都アウレルディアの空は、黒と紫の霧に染まり、
神殿の塔は光を失い、
人々の“記憶”は音もなく削られていった。
名を失った聖職者は、自分が何者かもわからぬまま祈り続ける。
街を歩く者たちは、昨日のことを思い出せない。
すべてが、“何か大切なもの”を置き去りにしたまま進んでいく。
世界が、音もなく崩壊を始めていた。
《記憶の階》。
神々が最後に残したとされる階層型の聖域。
そこは、この世界の“記録”が束ねられた場所――
言葉も、歴史も、想いすらも、すべてが保存されていた空間。
そして今、その階層の最奥に、ゼル=グラムの本体が出現した。
黒い霧がうねり、空間を逆流させながら、深淵の王は姿を現す。
「ようこそ、“存在の終着点”へ」
その声は優しく、音楽のようだった。
けれど同時に、心を蝕むような冷たい無音も含んでいた。
リリスは《転律の書》を手に、カイとアルマと共に進む。
だが――
その道中で、彼らの“記憶”が崩れていく。
「……俺の……妹の名前って……なんだっけ……」
カイの炎の剣が、霧の中でゆらりと揺れる。
彼が斬っているのは、形すら持たない幻影。
だが斬るたびに、彼の過去が一枚ずつ剥がれていく。
アルマは膝をつき、顔を覆った。
星が、視えなくなっていた。
星盤はすでに砕け、彼女に残されたのは、
“誰かのために預言したい”という願いだけ。
そしてリリスの羽根も、漆黒から灰色へと変色し始める。
「……この世界を救っても、私が残るとは限らない」
「それでも、構わない」
その言葉に、カイがわずかに顔を上げた。
彼は、たとえ名前が思い出せなくても、
“何か”を守りたかった。
そして彼の胸に、ある音が響いた。
リーナ。
失った妹の名前が、炎の剣に再び力を宿す。
ゼル=グラムが動いた。
彼の本体は形を持たない“空白”――
あらゆるものの記憶と定義を喰らい、
その存在自体が、存在の否定だった。
「記憶とは、しがらみであり、愛であり、重荷だ。
私はそれらを喰らい、世界を“はじまり”へと戻す」
その言葉と共に、
リリスの中に、“もう一人のリリス”が現れる。
それは、かつて神殿で祈っていた少女。
希望を信じ、神の声を待ち続けた、無垢な聖女だった。
「わたしは、間違っていたの……?」
リリスは、そっと微笑んで、幻影を抱きしめる。
「いいえ――あのころの私も、今の私も、
誰かを救いたかった。それだけは、変わらない」
その瞬間、
彼女の羽根が再び黒に染まり、
《転律の書》が光を放った。
世界の記録が、書き換えを始める。
カイが叫ぶ――
「リーナ!!!」
炎が剣を包み、記憶の階の霧を焼き払う。
アルマは最後の星の破片を両手で掲げ、
“視えない未来”に向けて、封印の詠唱を始めた。
ゼル=グラムの眸が空へと開かれたそのとき、
世界は――震えた。
リリスが歩き出す。
「あなたは終わるために生まれた。
私は始めるために立つ」
その声は、静かで、凛として、
どんな神託よりも強く、世界に響いた。