転律の書と裏切りの剣
リリスとカイは、アルマの預言に導かれながら、
北方の霧深き山脈を越え、《エルト・シェイル》の廃都へと向かった。
かつてこの地は、神々が最初に“言葉”と“力”を人に授けたとされる場所。
今では地図から消され、神殿記録にも「触れてはならぬ地」として封印された、禁域だった。
夜明け前の霧の中。
大理石の柱が無造作に転がるその遺跡の奥、
リリスの黒き羽根が、ふと震えるように輝いた。
「……ここね。世界の理が、最初に定められた場所」
扉も門もない石壁が、彼女の羽根の魔力に反応し、
音もなく、光とともに開いた。
そこには、青白く浮かぶ古代の魔道書が一冊。
まるで星の残滓が凝縮されたかのようなその本こそ、
世界の法則を書き換える禁書――《転律の書》。
カイは唾を飲んだ。
「これが……本当に、世界を書き換える力か」
「ええ。でも代償は、“書き換えられる前の記憶”よ」
リリスの声は静かだった。
彼女の瞳には、覚悟の影が映っていた。
そのとき、遺跡に震動が走る。
続けて重い鎧の足音と、鋭い威圧が空間を満たす。
「神殿騎士団……」カイが剣に手をかける。
そして現れたのは、神殿の白銀の盾と称される男――
かつてリリスの副官であり、今は神殿騎士団長にまで上り詰めた者、
レオネス・グレイアークだった。
その眼差しは、かつての忠誠ではなく、冷え切った確信に満ちていた。
「リリス。君は“選ばれなかった”。
神の座を空にしてまで、何を救おうというのか」
「私はもう、神に選ばれることを望んでいない。
ただ、沈黙の先にある“声”を掴みたいだけ」
レオネスは剣を抜いた。
音が、石壁に響く。
「それが、君の“信仰”なら――私は、“秩序”として止めねばならない」
剣が火花を散らす。
聖なる光と闇の魔法がぶつかり合い、遺跡の空間がねじれる。
かつて信じた仲間、交わした誓い、積み重ねた過去――
それらが、刃と呪文に変わって火花を放つ。
リリスは闇の魔法でレオネスを押し返すが、
神殿の祝福を受けた彼の剣は異常なまでの強靭さを誇っていた。
「……リリス!」
カイが叫び、彼女の前に飛び出した。
その剣に炎が宿る。
「ここは、通さねぇ!」
カイの剣がレオネスの刃をはじき、リリスが《転律の書》へと手を伸ばす。
その瞬間――
星盤が砕けるような音が、空間に響いた。
アルマが立っていた。
その小さな手には、砕けた星の破片が残されている。
「……視えたの。
この戦いは、世界の輪郭を変える」
預言が、彼女の口から漏れるように流れ出す。
「記憶を奪われし者たちよ。
今こそ、真実を取り戻せ――」
その声は星々に届き、そして《深淵》へと届いた。
遥か遠く、《聖都アウレルディア》。
神殿の最奥。
ゼル=グラムは、書のページを一つめくりながら、
静かに、そして嬉しそうに微笑んだ。
「……始まったか。では、舞台を整えよう。
主役の登場を、そろそろ許可するとしよう」
その言葉とともに、
聖都に張り巡らされた神聖結界が――無音で、崩壊した。
空に、巨大な“目”が開いた。
それは《深淵の目》。
ゼル=グラムの眸であり、世界そのものを喰らい始める予兆だった。
リリスたちは《転律の書》を手に、最後の戦いへと向かう。
だがその道中、彼ら自身の記憶が、少しずつ、確かに歪み始めていた。