忘却の都市、深淵の囁き
東方に浮かんでいたはずの都市――《セリカ・ロア》が、突如として星図から消えた。
その空中都市は、かつてアルマ・フェルディナが修行を積んだ、占星学の聖域だった。
空に浮かぶその場所では、雲よりも高く、風よりも静かに、星々の囁きを解読する賢者たちが暮らしていた。
だが今、誰に尋ねてもその名は出てこない。
図書館の記録も空白になり、地図にはただ“空域未登録”とだけ記されていた。
それは、存在ごと消されたことを意味していた。
リリスは異変に気づいていた。
神殿からの魔術信号が弱まり、各地の封印がゆるみ始めている。
だがそれ以上に、世界の“理”そのものに歪みが走っていることを、彼女の闇の魔力が察知していた。
《テナブリス砦》。
反乱軍の本拠地であり、情報と戦略の要衝。
そこに届いた一通の報告書が、静かに場の空気を変えた。
「記憶の欠落が確認されました。都市規模での存在喪失。
《セリカ・ロア》の件は、深淵の影響と推測されます」
その一文を読み終えたリリスの背に、かすかな鳥肌が立つ。
「もう始まっている……ゼル=グラムが、動き出した」
アルマは黙って星盤を開いた。
指先が軌道の交点をなぞるたび、空気に微細な光の粒が舞う。
そしてある地点で、星の光が、まるで“裂ける”ようにゆがんだ。
「星が一つ、裂けています。
このままでは、夜空そのものが、意味を失っていく……」
彼女の声は、かすかに震えていた。
ゼル=グラム。
記憶と欲望を喰らう、理の外に生きる存在。
神々ですら封じるしかなかったその王が、今、世界を“無”に書き換え始めていた。
そして、もう一つの報せが届く。
リリス宛に送られた封書には、かつての仲間の名が記されていた。
──「リリスへ。お前が知っている“神”は、もういない。
だが、“王”がいる。我々は、既に選ばれた」──
その筆跡は間違いなく、元副官であり、今や神殿騎士団長となった男――レオネス・グレイアークのものだった。
リリスは封書を燃やした。
ゆらゆらと立ち昇る灰の中、
かつての誓いが崩れ去っていく音がした。
一方その頃、ゼル=グラムはすでに“人の姿”をまとい、
《アウレルディア》の神殿奥深くへと侵入していた。
名前は“ゼラ・グラム”。
飄々とした態度と、底知れぬ知識。
「神の沈黙」を論理で語るその男は、神殿の長老たちをあっけなく取り込んでいた。
彼が微笑むとき、その場の空気が静かに“削れる”。
存在が薄れ、過去がぼやけ、未来が霧に包まれていく。
それが、彼の“影”の力だった。
アルマは再び星の声を聴いた。
それは、ただの予兆ではない。
“呼び声”だった。
「ゼル=グラムは目を開こうとしています。
そして、記憶の奥に眠る“世界の裂け目”が開き始めました」
リリスは覚悟を決める。
「私たちが動かなければ、存在そのものが消える。
世界が、物語として終わってしまう」
かくして、彼女たちは《エルト・シェイル》――神々が遺した最古の地へ向かう。
そこには、世界の記憶を書き換える力を秘めた《転律の書》が眠っているという。
だがそれは、世界を救う鍵であると同時に、過去を失う刃でもあった。
――物語は、深淵へと一歩近づく。