神の沈黙、黒翼の目覚め
リュエル=テア大陸――
七つの王国と十三の聖堂が覇を競い、
幾千もの浮遊都市と、時の狭間に埋もれた廃都が点在する広大な世界。
空を泳ぐ星々は、この地に古より語り継がれる“神々の記憶”を照らし出すように瞬いている。
この世界には、神々がかつて地上を統べていたという伝承が残る。
人々はその神々の残した加護を授かり、
聖職者たちはその奇跡の力をもって治癒と祝福を施してきた。
しかし――
神の声は、もう誰の耳にも届かない。
最後に神託が降りたのは、数百年前。
それ以来、神は沈黙し続け、
だが神殿はなお「神の意志」と称して世界を支配し続けている。
異端者は火刑に処され、
「疑うこと」は罪とされ、
人々は“信じること”を強制されることで、秩序の名の下に沈黙を選んだ。
「神とは、存在するものではなく、必要とされる構造である」
そう言ったのは、ある神官の遺稿である。
だがその一節すら、今では禁書として封印されている。
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聖都アウレルディア――
大陸の中心に建てられた、白金と大理石の都。
神殿の塔は星に届くかのように高く、
その下では人々が“神の名のもとに”日々を営んでいた。
誰もが、疑いを持つことなく。
だがその中心で、静かに目を覚ます者がいた。
リリス・アルフェン。
聖都神殿の巫女長にして、“神の声を聞く者”とされていた存在。
彼女は、誰よりも信仰に身を捧げ、誰よりも祈りに純粋だった。
だが、祈りの向こうから、何も返ってこないことに気づいてしまった。
数多の苦しみに手を差し伸べず、
裁きだけを下し続ける“神の意志”に、
彼女はある日、こう呟いた。
「もし神が沈黙しているのなら、
今、神を語る者は誰なの?」
その答えは、禁術の書の中にあった。
封印された魔術、歴史から抹消された儀式、
そして――闇魔法。
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そしてある夜。
聖都の空が、漆黒の羽根で覆われた。
神殿の尖塔の上に舞い降りた影――黒き翼を広げたリリスは、
光の祝詞ではなく、深き闇の呪文を唱え、神殿の天井を破壊した。
彼女は逃げなかった。
それは“始まり”だったから。
その日以降、彼女の名は「黒翼のリリス」として語られることになる。
ある者にとっては裏切り者。
ある者にとっては解放者。
彼女自身にとっては、罪人でもなく英雄でもない、“選択をした者”。
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一方その頃――
南方の死火山に近い辺境の町が、
一夜にして霧に包まれた。
人々は、自分が誰であったかを忘れ、
町そのものが地図から消えた。
星読みたちはそれを「深淵の目覚め」と呼んだ。
盲目の預言者、アルマ・フェルディナが告げる。
「深淵の王が還る。
星が沈み、人の理が崩れ落ちる。
止められるのは、黒き翼を持つ者と、炎を喰らいし剣のみ」
そう語られたとき、リリスは北へ向かっていた。
彼女の足が導かれたのは、灰の谷を越えた放浪の剣士――
ドラゴンの業火を呑み、生還した男、カイ・ヴァルノスとの出会い。
それは、偶然ではなかった。
星々はすでに、その運命を予言していた。
二人の出会いが、世界の終わりと始まりを分ける。
彼らはまだ、その意味を知らない。
だが、静かに、確実に、物語は“深淵”へと向かい始めていた――。