第一話
葉が赤く色づき始めた森の中を、一人の悪役令嬢がすすり泣きながらさまよっている。綺麗に整えられていた深紅色の髪は乱れ、宝石のようだと言われていた、髪と同色の瞳は涙で濡れている。
彼女の名はレマ。数時間前に、大勢の貴族たちの前で、婚約者であった王子ジョンから婚約破棄を宣告されたばかりであった。
レマは転生者である。彼女自身がそれを自覚したのは物心ついた時だった。周囲から呼ばれる自分の名前が、前世でプレイしていた乙女ゲーに出て来る悪役令嬢の名前だと気づいた時であった。レマはこの不可思議な現状をすんなりと受け入れた。なぜなら一番の推しであるジョンと同じ世界に居るからである。
前世ではジョンに飢えていた。前世のレマがプレイしていたそのゲームは、七つの国から一つを選択し、そこの王子や騎士など、多様なキャラクターを攻略できるのを売りにしていたゲームだった。しかし、各国間のキャラやストーリーにあまり差異が見られないというその低いクオリティ相応の低評価によって売上が伸びず、そのせいで、ファンが産みだしていく二次創作の類はほとんど作られなかった。その上、一応の売りではあったキャラクターの数の多さが僅かなファンを更に細分化させ、ジョンの二次創作を見ることは月食よりも稀というような状態だった。彼女はそんな逆境にも負けず、不毛な大地のようなジョン界隈を少しでも盛り上げようとした。緑化していくように高名な絵師に高額な依頼料を支払って、作品を依頼したり、年に一度も見つけることの出来ない希少性の高い二次創作を見つけては、双葉を愛で、慈しむ様に高評価や称賛のコメントを残したりしていった。レマの前世は、そんな供給に乏しい推し活をし続ける毎日であった。
しかし、今はその推しが、幼き姿ではあるが実在している。しかも、双方の親によってとはいえ、将来を誓い合った仲として。これほどうれしい事は無かった。
レマは産まれ持った身体的素質と宿した明るく前向きな人格によって健やかに成長していき、ジョンからも、両親からも、周囲からも愛される、外面、内面共に美しい女性となった。両想いの高貴な美男美女の二人。いずれ訪れる結婚の時を皆、当人たちも含めて待ち望んだ。
十数年後、そんな幸せな生活に終わりを告げる者がやってきた。名はエリ。このゲームのヒロインである。黒い髪に黒い瞳、レマと同い年の女性であった。
レマはエリの存在をほとんど忘れていた。何しろこれまでの生活が楽しすぎたからだ。それに、ゲームでは七つの行先があり、エリがそれから一つの行先を選ぶことから物語が始まる。まさかここに来るとは思ってもいなかった。
ストーリーでは、各国の悪役令嬢は皆一様に悪辣な性格をしており、ヒロインに嫌がらせをする。それがふとしたきっかけで白日の下にさらされて婚約を破棄される。そうしてエリは好きな攻略対象と結婚し、めでたし、めでたしとなる。全部の国をクリアすればそれと同じ流れが七回楽しめる。しかし、レマは悪辣とは程遠い善良な性格をしており、そのストーリーを展開できない。エリが純然たるこの世界の住民であるならば、レマは悲惨な末路を辿る事が無い筈だった。
しかし、エリもまた転生者であった。神の祝福を受けた女性として王や貴族の注目を受ける中入国し、ジョンに接近するや、事実を誇張、曲解或いは捏造していき、作ったレマの悪辣さを本人の関知しえないところで密かに広めていった。それをレマが知った時にはもはや手遅れであった。もっとも、早くに知りえていたとしても、善良なレマが本物の悪辣さを持ったエリに敵うはずが無かったが……。
彼女の自分への行いを知ると、レマはエリに二人で話し合おうと提案した。これがレマの取ったエリへの唯一の対抗手段であった。その方法はあまりにも真っ直ぐで清純だった。それ故に利用されやすく、実際にそうされた。話し合いの場と日時はエリが指定した。人目を気にせずその場で話し合ったのならばいくらかマシであっただろう。しかし、エリの卓越した演技力から繰り出された反省のフリは、純粋なレマを容易に騙し、不信感を微塵も抱かせなかった。
時は夕暮れ。人気の無い小さな公園で二人の転生者はまみえた。レマはまず何故自分を貶めるようなデマを振りまいているのか尋ねた。しかし、そこで大人しく白状するような者であればそのような事はしない。エリはのらりくらりと要領を得ない発言を繰り返し、追及をかわしていく。そんなエリの態度に、レマの苛立ちはいやでも募っていった。感情的に繰り返されていった追及は、募る苛立ちによってヒートアップしていき、ついにレマはエリに掴みかかってしまった。ハッとしてすぐに離し、謝罪したが手遅れである。さめざめと泣き出したエリにいたたまれなくなってレマはその場を後にした。勿論、泣いているのは演技である。エリはレマの背中を見送りつつ、この唯一かつ決定的な証拠をどう扱えば一番有効的かを、頭の中で冷静に考えていた。
翌日、レマはジョンに呼び出された。呼び出しに応じて向かった王宮の一室にはジョンや貴族たちの他に、布を被せた何かを手にしたエリもいた。レマが入室すると、複数の冷たい視線を感じた。この程度はエリがこの国に来てからはいつもの事である。それを気にすることなく、レマは愛しのジョンの下へと向かった。彼さえ自分を愛してくれるならそれでいい。それは昔から変わらぬ思いであった。ジョンに呼び出した用件を尋ねると、自分がエリを陰で虐めているという噂の真偽を確かめるために呼び出したようだった。当然、レマは否定した。しかし、その否定をジョンは信じていないようだった。訝しげに自分を見つめるジョンの目を見ながらレマは更に否定を重ねた。殆ど泣き出しそうになりながら必死に否定している様は、自身でもわかるぐらい説得力を減らしていった。
このままでは埒が明かないと思ったのかジョンは、エリをそばへと呼んだ。エリは布を取り、隠していた物をあらわにした。それは大き目の丸い水晶であった。その水晶にレマは見覚えがあった。ゲーム中に出てきた、攻略対象のパラメータを見るアイテムであった。周りの貴族の囁きによれば、この世界では神の祝福を受けたエリのみが扱える、過去と今から所有者が望んだ全ての事実を映し出すというものだった。エリは水晶に向かって、昨日の出来事の一部始終を見せるように言った。水晶は言われた通りに映し出した。昨日の公園で、レマが掴みかかった所から、泣いているエリを置いてその場を去っていった所まで。その映像は、レマがエリを虐めているという噂の決定的な証拠だった。
あちこちで始まった囁きがざわめきとなって部屋を満たした。誰も、そのような水晶があるならば何故もっと早くにその能力を使いレマの非道な行いを弾劾しようとしないのか、という発想に至らなかった。作られた噂が彼らの中で事実と化した。レマの悪評をたかが噂だとして取り合わなかった賢明な者も、伝説の水晶の映し出した映像を見て考えを誤った方に改めていく。少数ながらいた味方が離れていく様子を見て、レマは言葉を失い、ただ、立ちすくんだ。そして、縋るような思いで、このような場面で自分を庇ってくれる筈の存在を見た。
ジョンはしばし逡巡した後、重々しく口を開いた。
「……レマ。……お前との婚約を破棄させてもらう」
その言葉と、ジョンのそばに立つエリの勝ち誇ったような顔がレマの脳裏に焼き付いた。
それから半日以上の間、森の中をレマはさまよっていた。家に帰れば両親だけは味方になってくれたかもしれない。しかし、長年愛し合い、前世から愛していたジョンに嫌われたレマにとっては、もう、どうでも良かった。思い出したくなくとも、今までの幸せな思い出が頭の中に浮かんでくる。そして決まってその次に、婚約を破棄された瞬間が頭をよぎり、その思い出を塗りつぶしていく。一つ思い出が塗りつぶされていく度に、レマの泣き声は一段と大きくなっていった。レマがいるのは人里離れた森の中である。物言わぬ植物や、人語を離さない野生動物、そして、今この場にいる悪役令嬢しか、その泣き声を聞く者はいなかった。
このまま楽しかった思い出が無くなっていく前に、自ら命を絶って人知れず朽ちていこう。そう思ったレマに話しかける者が現れた。
「どしたん?はなし聞こか?」
肌の良く焼けたギャル風の女性はそう言った。
第23回角川ビーンズ小説大賞に応募して落選した作品です