第2話 リリスとジルの口論
ここ王立マルケニア学院は、国内の貴族の子息令嬢が通う学校である。
ただし学校と言っても、貴族同士の社交場の意味合いが強い。
つまりは将来的な同盟関係、婚姻などの前哨戦の場である。
だからといって、授業がないわけではない。王国の歴史、周辺国と王国の関係性、社交場でのマナーやルール、貴族としての立ち振る舞いのほか、スポーツや馬上訓練、武術指南もあり、この学校の卒業生は立派な貴族の一員となって巣立っていく。
そのような場所に、炎のような赤い短髪の男が、一時間目の授業が半分ほど過ぎた頃にやって来た。
「おはよう、諸君」
「おはようございます、殿下。どうぞお席の方へ」
教師は遅刻をとがめるどころか、礼をして席を勧める。
殿下と呼ばれた男はジル・ネルニア。この聖ネオトピア王国の第三王子であり、この教室のボス。誰もが関係を持とうと躍起になる存在だった。
ただし、シャーロットと違い、特にグループを作らず、いつも従者と二人きりでおり、誰も逆らえない孤高の王子だった。
ジルは王家の一員として、すでに公務の一部をこなしているため、遅刻や早退は日常茶飯事である。そのため、この教室の誰もジルの遅刻程度では驚かなかった。
ジルはそんな教師の言葉を無視して教室を見回しながら、一緒に登校した従者の男と何やら話していた。
いつものジルであれば、黙って席に着くのだが、今日は様子が違っていた。
「あいつか?」
「そのようです。殿下」
ジルは隣にいる長い黒髪を後ろでまとめた従者に確認を取る。
「おい、そこの女! こっちに来い」
ジルはリリスの方を指差した。
ざわつく教室。
王子に声をかけられる理由が思いつかないリリスは、ジルを無視してそのまま座っていると、横に座っているサリーがさっと立ち上がった。
「殿下。お声をかけていただいてありがとうございます」
赤毛のサリーは、ここぞとばかりアピールしようとする。
「頑張れ、サリー(りんご、卵)」
他の令嬢と同じようにジルとつながりを持ちたがっている親友サリーのアピールに、リリスは誰に聞こえないほど小さな声でエールを送る。
しかし、ジルは無情にも手を振って、それを否定した。
「お前じゃない。その左に座っている黒い髪のお前だ」
「わたしでしょうか? 殿下(軍事力)」
何事かさっぱり分からないまま、リリスは仕方なく立ち上がった。
「そうだ、お前だ。ちょっと、こっちへ来い」
リリスは言われるままに、ジルの前へ行くことにした。
はっきり言って、リリスにはジルに呼び出される理由がわからない。王子との接点がない上に、リリスはこの王子に全く興味がなかった。できれば、この学院を卒業するまで、かかわり合いをもたなくていいと思うくらい。
そんなリリスの気持ちとは裏腹に、何であの子が? と周りの声が聞こえる。
ああ、また野望に一歩遠のいた気がする。周りの声を聞いて、リリスは心の中でため息をつく。
「少し黙っていてくれ。こいつと話がしたい」
ジルの一言で静まる教室。そしてジルが何を言い出すのか不安になり、身構えるリリス。
「貴様、名前は?」
「リリスと申します。南のロランド子爵の娘でございます」
「お前は今朝、街で倒れていた老人を助けていなかったか?」
「まあ! 点数稼ぎかしら」そんな声がリリスにも届く。しかし、リリスはそんな陰口にも慣れてきていた。
「……はい。仰せのとおりでございます」
リリスは伏し目がちに答えた。
何であれをジルが見ていて、その上わざわざ、みんなの前で確認するのかリリスは不思議でならなかった。普通の貴族が通るような場所ではなかったはず。
そんなリリスの疑問など気にする様子もなくジルは質問を続けた。
「なぜ助けた?」
「……そこに困っている人がいたからです」
「なぜ、貴族であるお前自ら助けたのかと聞いている! 気が付いたなら、その辺の平民を呼べばいいだけだろう」
ジルは怒りを抑えた声でリリスを糾弾する。気の弱い女性であればそれだけで、萎縮して何も言い返せないような低い声。しかし、リリスはそんなジルの声をまったく気にすることなく冷静に答えたのだった。
「人通りの少ない所に、ご老人が一人で倒れておりました。命に関わることかもしれないと思い、行動しただけです」
「だから、そんなことは平民の役目だろう! 貴族たるもの個ではなく、全体を見据えるべきだ。貴様のような考えでは個を助けるために自らが犠牲となり、ひいては全体を殺してしまうことになる。おのれが貴族であり、その役目が何であるかを常々考えて行動しろ! たかだか老人一人を助けたところで、この国が良くなるのか!」
ジルの言葉にリリスは顔を上げて、まっすぐに見据えた。そして、私が何をしようとあなたに関係ないだろう、と心の中で毒づいた。
このまま、すみませんと謝っておけば、王子も満足して帰るだろう。しかし、田舎貴族の娘だからって、あなたに逆らわないと思ったら大間違い。ジルの言葉はリリスの心の何かに火を付けた。
「おそれながら殿下(軍事力)。国を造るのはいつの世も人でございます。人無くして国は成り立ちません。そして平民の中にも、あの老人の知識、知恵、経験が必要な者もいるかもしれません。もしかしたら、たった一人の老人が国を変えうる力を持っているかもしれません」
「世迷い言を! 女子供のおとぎ話か! たかだかじじい一人に何ができる! 貴様のそれはただの詭弁だ!」
その紅蓮のようなレッドアイに怒気を強めるジル。
「殿下に歯向かうなんて不敬な」と、周りの言葉がリリスの耳に聞こえてくる。
ああ、うるさい。王子、あなたも何をムキになっているのよ。こっちもムキになっちゃうじゃない。リリスは一息、本音を飲み込み、冷静を装って反論を続ける。
「殿下(軍事力)。わたしは決してあなた様の言うことを否定しているわけではありません。時には施政者として個を切り捨てて、全体を取る必要もあるでしょう。しかし、今朝の事に関しまして、わたしはその必要を感じなかったというだけのことでございます」
「貴様! まだ言うか!」
リリスの反論にジルもヒートアップする。このままではお互いに引くことなく、行くところまで行きそうな雰囲気だった。その様子に本来ならば止めるべき教師も、オロオロするばかりで頼りにならなかった。
その空気を変える声がジルに投げかけられる。
「ジル。もうそのあたりでいいのではないか?」
一触即発の空気の中、すり鉢状になっている教室の一番左上に座っている、日焼けをした色男が口をはさんだ。
「カイル様(塩、海産物、海運)」
リリスは思わず、その名前をつぶやいた。
黒く長い髪を後ろにまとめて、褐色のタレ目がチャームポイントのこの男性はカイル・ファイド。
聖ネオトピア王国の四大貴族の一人、海の王の長男。この教室でジルに面と向かって意見を言える数少ない男性。女性グループのトップがシャーロット率いるロッティ会ならば、カイル率いる海遊会は男性グループのトップである。
「お前は余計な口出しをするな。カイル」
「このままでは授業が進まない。他の者も困るだろう。お互いに言いたいことは言ったのだろうから、今日のところはぼくに免じて、もうやめにしないか」
四大貴族の息子であるカイルの言葉を無視するほどジルも子供ではない。ジルはカイルの言葉に、教室を見回した。ほとんどの者がおびえるようにジルを見ていた。
「ふん、まあいい。しかし、今日、貴様が言った事は覚えておくぞ」
ジルはまだ言い足りない顔で教室の最上段、真ん中のいつもの席にドシンと座った。
リリスは自分の席に戻る途中、カイルがウインクしてきているのが目に入る。それに対し軽い笑顔で会釈を返した。
頑固王子ジルの登場です。