後日談: 10年後の孫策
新作を始めたので、宣伝を兼ねて後日談を追加。
黄武10年(219年) 9月 揚州 丹陽郡 建業
ハロー、エブリバディ。
孫策クンだよ。
俺が呉の皇帝になってから、はや10年。
その間になんとか中華を統治しようと、無我夢中で駆け抜けてきた。
なにしろ広大な版図を統治するのだから、その苦労たるや、並大抵ではない。
真っ先に俺たちが取り組んだのは、統治体制の構築だ。
これができなければ、国としてのまとまりを保つのもままならない。
基本的には後漢の体制を踏襲したものの、そのままでOKとは、とても言えない状態だった。
まず有能で信頼できる者を選別し、彼らをそれぞれの郡や州に配置していく。
そのうえでお目付け役として、重要な郡には俺の親族を王として封じたのだ。
例えば従兄弟の孫賁を魏王(冀州)に、孫輔を平壌王(涼州)に封じて、華北の重しとした。
さらに弟の孫権は合浦王(交州)に封じて、南海貿易を監督させ、孫翊は蜀王(益州)に封じて南西に睨みを利かす、といった具合だ。
各王にはある程度の兵権を持たせてあるので、各地で反乱や混乱が起きても、迅速に対応できる。
それは逆に王による反乱の恐れをはらむが、そこは俺と親族の間の信頼関係で乗り切ってきた。
いずれは見直さねばならないと思っているが、今まではそんな余裕すらなかったのだ。
そして統治体制と並行して取り組んだのは、北辺境の防衛体制だ。
なにしろ漢帝国は、北方の遊牧民との戦いに悩まされ続けていたわけで、それは呉帝国になっても変わらない。
そこで俺は黄蓋、程普、黄忠、太史慈、甘寧という猛将を、北辺に差し向けた。
彼らはそこで屈強な兵を鍛え、見事に遊牧民を押さえこんでくれたため、”孫呉の5虎将”という称号を贈られている。
しかし彼らも寄る年波には勝てず、すでに程普と黄蓋が鬼籍に入っているし、他の3将も引退した。
今はより若い武将が引き継いで、辺境に睨みを利かせている。
しかし武力ばかりで防ぎきれるほど、現実は甘くない。
厳密には、武力だけで対応しようとすると、コストが掛かりすぎるのだ。
そこである程度、呉軍の実力を知らしめると、今度は遊牧民を抱きこみにかかった。
具体的に言うと、遊牧民との交易を進めたり、仕事の斡旋などをするのだ。
彼らの羊や馬と引き換えに穀物を売ったり、辺境の土木作業や護衛などの仕事を回すことで、友好関係は深まっている。
さらには彼らが天候不順などで食料不足に陥れば、無償の食料援助までした。
”なぜそこまでしてやる?”と思うかもしれないが、ぶっちゃけこっちの方が安くつくからだ。
広大な北部辺境を完全に守りきろうとすれば、それこそ膨大な軍事費がいる。
それぐらいなら多少の援助と引き換えに、遊牧民の一部を味方につけた方が、絶対に安く済むのだ。
これは宋の時代などにも実践され、効果を上げていたのだから、やらない手はない。
ただし宥和的でさえあれば良い、というわけでもなく、舐められない努力は必要だ。
自らを守る力がなければ、それは収奪されるばかりになり、やがては侵略につながるのだ。
だから一定の兵力を辺境に張りつけることを義務づけ、兵の士気を維持するよう、支援体制にも心を砕いた。
おかげで多少の小競り合いはあっても、大規模な略奪や侵攻は許していない。
その点で北部辺境は、漢代よりはるかに安定したと言っていいだろう。
そして統治と防衛体制が整えば、今度は内政の番だ。
俺は華南の時と同様に、物流網の充実と、インフラの構築に取り組んだ。
これによって民に金をばらまくと同時に、さらなる商業の活性化を狙ったんだな。
しかしここで俺は、ひとつの壁にぶち当たった。
地方豪族の抵抗だ。
実は漢王朝では、富裕層と貧困層への2極化が進んでいた。
元々、漢王朝は、自身の土地で農業をする小農民が統治の土台にいて、彼らが税を納め、兵役や労役をこなすことで、成り立っていたのだ。
しかしその生活は決して豊かなものではなく、飢饉や戦乱によって、流民化する場合がある。
すると流民はよその土地に流れ、そこで豪族の支配下に入ってしまう。
こうなると徴税吏の手が届かなくなり、残った小農民にさらなる負担が掛かったりする。
すると残っていた農民も生活が立ち行かなくなり、貧農に落ちて豪族の支配下に入る、なんて悪循環に陥っていたのだ。
おかげで後漢末期には中流層の小農民が激減して、超富裕な豪族と、超貧乏な小作農もしくは奴隷が増えていた。
こうなると豪族は素直に納税しないし、貧民からは税金が取れないため、徴税能力も徴兵能力もガタ落ちになってしまう。
漢王朝が不安定化していた理由には、そんな事情もあったのだ。
さて、そんな状況を変えたいと思うのは当然だが、やり過ぎれば豪族の反発は必至である。
しかし俺は、断固として豪族を締め上げることにした。
最初は税の減免などをちらつかせながら、徐々に農地と人員の情報を吐き出させる。
そしてある程度時間が経ったところで、本来は払うべき租税や兵役、労役を課していく。
もちろん多少の暴発はあったが、大規模な反乱を起こさないよう、細心の注意をもって事に当たった。
おかげで呉王朝の徴収能力はだいぶ回復し、財政も豊かになったってわけだ。
まあ、実際にやったのは、主に陸遜や馬謖だけどな。
彼らはよくやってくれた。
感謝してもしきれないぐらいだ。
これらの地味な作業と、貧民への援助などにより、呉王朝には中流層が増え、貨幣経済の発展にも寄与している。
そして俺の評判も爆上げだ。
多くの国民が、俺のことを”慈愛の皇帝”とか呼んでるんだぜ。
おかげで俺がどこへ行っても、民の歓呼の声に迎えられる。
”孫策さま、ばんざ~い”って感じで、子供にまで讃えられるんだから、悪い気はしないかな。
それから俺は一切、外征は許可していない。
ぶっちゃけた話、今でも領土が広すぎて、統治に苦労しているぐらいなのだ。
そんな状況で戦争までして版図を広げる意味など、まったく感じない。
国内にはまだまだ開拓の余地はあるからな。
そういえば、華北では植林と計画的な樹木の伐採も進めている。
すでに木を伐りすぎて、砂漠化とか荒野化が始まってるからだ。
少しでも環境を維持できるよう、努力しているのだ。
なかなか理解が得られなくて、苦労してるがな~。
まあ、そんなこんなで、俺は元気にやっているわけだが、時に疲れを感じることもある。
なにしろ皇帝って存在は絶対的な支配者であり、常に重圧にさらされてるからだ。
幸いにも俺には、周瑜や魯粛という親友がいるから、まだマシな方だとは思う。
それでもやりきれない思いを感じる時は、母親に会いにいったりするのだ。
「ご無沙汰してます、母上」
「まあ、策。久しぶりね。体の方は大丈夫?」
すでに60歳を超えているのに、呉太后は元気そうだった。
「ええ、大丈夫ですが、少々つかれました。そこで今日は、父上の話でも聞かせてもらおうと、参ったしだいです」
「フフフ、そう。孫堅さまといえば、昔のあなたとそっくりだったわね。ケンカっぱやくて、でも人情味にあふれていて」
「そう言われると、返す言葉がありませんね。俺も昔は短気だった」
「ええ、あの方はたしか16の時に、出会った海賊に向かっていったのよ。それが噂になって、役人に取り立てられたの。そしたらいきなり、私に交際を申し込みにきたのよ。それまで話したこともなかったのに」
母上はそう言って、コロコロと笑う。
「ははあ、ずいぶんと行動的だったのですね」
「そうね。その後、私と結婚してからも、あちこちを駆け回って、そして勝手に死んでしまったわ。あの時はとても悲しかったけれど、こうしてあなたが立派になったのだから、たぶん誇りに思っているはずだわ」
「そうですね。そして俺は父上の分まで、長生きしたいと思います」
「ええ、そうなさい」
そう言いながら俺と母上は、亡き父上に思いをはせるのであった。
という感じで、孫堅に話を向けてみました。
そしてようやく始まった新作はこちら。
”それゆけ、孫堅クン! ~ちょい悪オヤジの三国志改変譚~”
https://ncode.syosetu.com/n4799gr/
下のリンクから行けますので、ぜひ読んでみてください。