【孫策と呉王朝の後世評】
【孫策】 西暦175年~240年
呉王朝の初代皇帝。
字は伯符。
揚州 呉郡の小豪族 孫堅の長男として、175年に誕生。
幼少の頃より才気にあふれ、親友の周瑜と共に英邁闊達と呼ばれていた。
17歳で父 孫堅を失い、家長となるも、やがて袁術の傘下に参じる。
当初は不遇をかこっていたが、やがて江東の制圧に乗り出し、195年には揚州の刺史であった劉繇を追い出して、江東に足場を築いた。
その後、袁術と袂を分かちつつも、198年には揚州の大部分を制したことから、”江東の小覇王”と呼ばれる。
またこの頃、献帝を擁する曹操と接近し、会稽太守、討逆将軍の官職を得ている。
199年に廬江の皖城を攻めた際、後の皇后となる大橋と出会い、彼女をめとった。
その後、荊州の攻略にも乗り出し、暗殺騒動を乗りこえて、200年に襄陽を落とす。
これによって揚州、荊州の大部分を支配する一大群雄となり、朝廷から荊州牧、安南将軍に任じられた。
その後しばし支配地の経営に専念し、江南を発展させていたものの、203年には益州の攻略を開始。
1年足らずで劉璋に勝利した後は、3州をよく治め、その功績によって205年に呉王に封ぜられた。
すぐに交州も傘下に加わり、”江南の覇王”と呼ばれる存在となる。
以後は華南の統治に専念しつつ、軍備を拡充。
徐々に曹操との緊張状態が高まる中、曹操が207年にとうとう華北を制圧。
翌208年には、曹操の言いがかりに応じる形で開戦し、襄陽で激しい戦いが繰り広げられた。
総数40万人とも言われる曹操軍を、半分以下の兵でしのいでいるうちに、華北で反乱を誘発。
一部の軍を残して撤退した曹操軍に対し、逆襲に出る。
新兵器の”諸葛砲”によって、城にこもる敵軍を短期間で攻略し、その勢いに乗って許都まで進軍した。
そこで周辺の群雄と会盟し、曹操討伐の軍を改めて主導する。
その後、鄴へ向けて北上する途中、河内郡で曹操軍と激突。
双方ともに20万近い軍勢がぶつかり合い、しばし膠着していたが、太史慈が別働隊で後方を撹乱したことにより、曹操軍は崩壊、四散した。
その後、鄴まで後退した曹操を包囲すると、献帝を人質に撤退を要求される。
ここで孫策が説得に赴いたところ、腹心の荀彧に刺されて曹操が死亡する。
これによりあっけなく曹操軍は降伏し、孫策は献帝と共に鄴城へ入城した。
その日の晩には夜空に光帯が発生し、孫策の勝利を祝福したと言われている。
それを受けて献帝が孫策への禅譲を決意し、呉王朝の創設へ動きだした。
その後、敵対する勢力を駆逐してから、禅譲を実現。
さらに建業への遷都が実施され、呉王朝が始まった。
孫策は初代皇帝となり、後世では呉の聖祖 明武帝と呼ばれている。
橋皇后との間に2男2女をもうけ、嫡男の孫紹が2代皇帝となった。
【呉王朝について】
西暦209年に、孫策が開いた古代中国の王朝。
基本的に後漢の版図、制度を引き継いだが、建業を首都としたため、初の江南中心の中華帝国となった。
支配体制は漢と同様に郡県制と封建制を組み合わせたもので、皇族を各地に封じて重しとした。
北方の国境では侮られない程度の軍備を維持しつつも、遊牧民に宥和的な政策を取ったため、漢代よりも安定をみた。
華南でも異民族の同化政策を進めたため、やはり治安が良かったという。
また不要な工事や外征はほとんど行わなかったこともあり、財政的には非常に豊かであった。
その豊富な資金を国内の物流網、インフラの整備に投じることによって、商業の活性化を図る。
古代中国としては異例なほどの重商政策を取ったことにより、大きな経済成長を遂げた。
その一方で孫策は、下層民の救済にも取り組んだため、”慈愛の皇帝”とも呼ばれ、絶大な人気を誇った。
これにより当時、進んでいたといわれる寒冷化にもかかわらず、呉王朝の人口は増大した。
その特殊な状況により、”江南の奇跡”、”古代中国で最も成功した帝国”と呼ばれることもある。
後漢の制度に優秀な諜報機関を組み合わせたため、呉王朝は300年の永きに渡って平和と繁栄を謳歌した。
しかしその末期には外戚や宦官の不正、汚職によって弱体化し、最終的には北方の遊牧民族によって打倒されてしまう。
何人かの方から、”外征しないの~? 残念”みたいなコメントをいただきました。
しかしモンゴル族みたいな遊牧民ならいざ知らず、この時代の中華帝国が外征する意味って、ほとんど無いと思うんです。
例えば前漢の武帝の時代、遠征を繰り返して最大の版図を得たにもかかわらず、国力をめっちゃ消耗して、人口は半減したと言われてますからね。
なので孫策は内政に励んで、平和と繁栄を謳歌したという妄想を書いてみました。
まあ、後知恵ですけどね~。