幕間: 曹操クンはますます胃が痛い (地図あり)
建安9年(204年)8月 冀州 魏郡 鄴
「なんじゃ、こりゃ~~~っ!」
儂はその書状を見た途端、それをまっぷたつに引き裂きながら、叫んでいた。
その書状とは、孫策からの上奏文だ。
「儂は孫策の小僧に、ただちに益州の攻略をやめ、釈明に来いと言った。なのにあの小僧は、すでに益州は攻略済みだと言っておるっ! これは本当かっ、荀彧!」
すると腹心の荀彧が、顔を青ざめさせながら答える。
「はい、残念ながら事実のようです」
「なんでじゃ~~っ!」
儂は怒りのあまり目の前の机を蹴っとばし、ひっくり返した。
おかげでお気に入りの茶器が、粉々に砕けてしまったわい。
しかし儂の怒りは、そんなことでは治まらない。
「郭嘉っ! おぬし、計略をもって孫策の邪魔をするのではなかったのか?!」
「はっ、その点については計画どおり、荊州にて反乱を起こさせております」
「だったらなんで、孫策は益州を攻略できたんじゃ~っ?!」
「それは……予想以上に孫策の統治が、盤石だったと思われます」
郭嘉は詰まりながらも、冷静に答えた。
しかしその顔は、めったに見ないほど悔しそうだ。
彼をこうまでさせるとは、よほどのことであろう。
それを見て、ふいに儂の頭も冷めた。
どうやら儂は、孫策を甘く見すぎていたようじゃ。
「むう……だとすれば、由々しきことだな?」
「は? 何がですか?」
状況が分からない荀攸が、いぶかしそうに問う。
「孫策のヤツめが、想像以上に戦に強く、しかも政治もできるということじゃ」
「ッ! それほどですか? しかし現実にそうだとすると、孫策がこのまま江南を手なづけてしまえば、強大な敵に成りかねませんな」
「うむ、そうじゃ……なんとかせねばならんが、はたしてどうしたものか?」
冷静になって考えると、この問題の厄介さに気づかされる。
このまま上奏文を揉み消すのは簡単だが、問題はその後だ。
儂は荀彧に目を向けながら問う。
「この上奏を蹴った場合、ヤツはどう出ると思う?」
「はあ……それが少々、厄介なことになりそうなのです」
「何がじゃ?」
「すでにこの内容について、皇帝陛下へ話が行っておりまして……」
「なんじゃとっ!」
儂は思わず体を乗り出し、声を荒げてしまう。
しかし荀彧はひるまずに、先を続けた。
「張紘がさりげなく、陛下のお耳に入れたようなのです。さも偶然であるかのように装って」
「くそっ、張紘め。あの者、さんざん目をかけてやったというのに、いまだに孫策に忠誠を誓っておるのか?」
「どうやらそのようです。問題は陛下が、この話に乗り気なことです」
「なんじゃとっ! なぜじゃ?」
「それは……孫策が荊州に続き、益州の職貢を復活させることになるからです」
「むう、それがあったか……」
たしかに孫策は荊州を平定してから、職貢を復活させていた。
劉表のヤツめが、儂が許都に天子を迎えてから、職貢を止めていたからな。
そして益州も完全に止まってはいなかったものの、交通が遮断されているとして、職貢は滞りがちだった。
それを平常に戻すと言えば、たしかにそれなりの貢献だと見られてもおかしくない。
ぶっちゃけ、儂の戦費の何割かは、孫策からの職貢に支えられているのだ。
そういう意味でも、孫策との縁切りは影響が大きい。
「たしかに孫策めは、それなりに貢献しているように見えるな。しかし劉姓でもないのに王位を望むとは、僭越にもほどがあろう」
「はい、それはたしかに。漢王朝への叛意を疑われてもおかしくない状況です」
「そうだ。ゆえにここは――」
「お待ちください」
儂が強硬策を唱えようとしたところへ、賈詡が割って入った。
あまりに無礼な態度を怒鳴りつけようとしたが、彼はひるまずに続ける。
「ここで孫策を罰するのは、いろいろと不都合があるかと存じます」
「どんな不都合があるというのじゃ?」
「まず王位を与えなかっただけでも、孫策は事実上の独立をするでしょう」
「ハッ、馬鹿な。もし独立でもしようものなら、儂が責め滅ぼしてやるわい」
鼻で笑いながらそう言っても、賈詡は涼しい顔で儂に問う。
「可能ですか? この状況で」
「な、なにを言う。儂は天下の曹操じゃぞ。孫策なぞ、軽くひねり潰してやるわ」
「……たしかに、本来の曹操さまの実力であれば、それも可能でしょう。しかし現実は、北に袁一族という敵を抱えております。北と南の両面作戦では、さすがの曹操さまでも荷が重いのではないでしょうか」
「ぐぬう……であれば袁尚と一時的に和睦して、南を攻めるまでよ」
「なるほど……しかしそれは死に体の袁尚にとっては、絶好の機会。孫策の攻略に手間どっている間に、息を吹き返してしまうのでは?」
「そんなもの、即戦で決めてやるわい」
すると賈詡は、郭嘉に顔を向けて訊ねた。
「今回の益州攻略に、孫策はいかほどの兵を出したのですか? 郭嘉どの」
「……およそ8万の兵を出したと聞いている」
「8万じゃと! たしかかっ?」
「はい、たったの1年足らずで益州を攻略したのですから、無理のない数字かと」
「むう、そのうえで荊州の反乱も早期に治めたというのか……」
「はい、そのご理解で間違いありません」
信じられん。
8万の兵など、今の儂でも苦労する数だ。
しかし、だからこその益州攻略か。
儂は即座に孫策との早期決着をあきらめ、改めて配下に問う。
「ふう…………それでは早期の決着なぞ、とても望めんな。ではどうすれば、ヤツに対抗できる?」
しばし間があった後、賈詡がまた答えた。
「この際ですから、要求どおり孫策を、呉王に封じてはどうでしょうか」
「何を馬鹿な! それではヤツが、儂より上位に立つことになるではないか!」
「はい。ですからそれよりも早く、曹操さまが王になればよいのです。例えばこの魏郡は、かの光武帝が拠点とした要地。曹操さまが、王になるにふさわしい地かと存じます」
「「「曹操さまが王に!」」」
儂が、魏王になるだと?
こやつ、なんと危険なことを言うのじゃ。
それでは儂までも、帝位簒奪を狙う反逆者と言われるではないか。
「馬鹿者! そう簡単に王になれれば、苦労はせんわ!」
「そうでしょうか? 事実上、漢王朝を支えるのは、曹操さまと孫策の2名のみ。ならばお2人が王になることは、さほど不思議でもありますまい」
賈詡は涼しい顔で、そう言ってのける。
こやつ、他人事だと思って、気楽なことを。
しかし彼の提案は、それほど悪くないようにも思えた。
というか、それ以上の案が思いつかん。
「荀彧、荀攸、郭嘉よ。賈詡の案について、共に検討せよ。可能であれば、儂の魏王就任後、孫策を呉王にする。な~に、あくまで一時的な時間稼ぎよ。孫策を油断させている間に華北をたいらげ、その後に全力でヤツを潰してやる。そのつもりで計画を立てるのじゃ」
「「「承りました」」」
こうしてにわかに、儂の魏王就任の話が持ち上がった。
多少、時期が早いとは思うものの、それ自体はさほど悪い話でもない。
それに本来なら家臣から相当の反発があるところだが、今は孫策という潜在敵がいる。
おかげで多少の無茶は、通せるというものじゃ。
しかし覚えておれよ、孫策。
儂をコケにしたことを、後悔させてやる。
最後にこの中華を制覇するのは、この儂なのじゃ。
そう意気込んだ瞬間、ふいに腹部に違和感が走った。
「うぐっ…………アダダダダダダダダッ!」
「ど、どうしたのですか? 曹操さま」
「胃が、胃の腑が痛いぃっ! ぐおおおおっ!」
「曹操さま~っ!」
やっぱ儂、ダメかもしれん。