35.侵攻開始 (地図あり)
建安8年(203年)6月 揚州 丹陽郡 建業
ロングタイム・ノーシー、エブリバディ。
孫策クンだよ。
中原で曹操が袁家との戦いを繰り広げている中、俺は益州侵攻に向けて準備を進めていた。
そして劉備が益州入りしてから1年後、それらの努力が結実する時がきたのだ。
「孫策さま。張魯、孟獲との同盟が成りました。両名ともに、我らの派兵と同時に兵を挙げる約束になっております」
「おお、ようやくか」
魯粛が進めていた同盟の説得工作が、ようやく成功した。
これにより益州の北と南で劉璋を牽制できるようになり、侵攻の成功率がグンと高まる。
さらには揚州内でも、戦の準備は進んでいた。
「孫策さま、ようやく会稽の山越賊の、最大勢力を降しました。すでに豫章は片づいているので、これでめぼしい勢力はなくなります」
「いや~、今回は苦労しました。なにしろ山奥でしたからな」
山越対策を任せていた徐庶と賀斉が、満面の笑みで報告にきたのだ。
彼らは硬軟おり混ぜた懐柔策で、とうとう会稽の山越賊を追い詰めたそうだ。
そして最後に残った大勢力の頭目を討ち取り、恭順を誓わせたという。
今後は血の気の多いヤツは平地に移住させ、残った連中も血縁や約定で束縛していく方針だ。
これによって弱体化した山越賊を、過度に恐れる必要はなくなり、領内の治安に回す兵力が減らすことができる。
それどころか血の気の多い連中を使って、兵力の増強さえ可能となるだろう。
こうなってくると、やることはひとつしかない。
「よし、益州侵攻の兵を起こすぞ」
「「「おうっ!」」」
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建安8年(203年)9月初旬 荊州 南郡 江陵
あれから3ヶ月ほどで侵攻の準備を整えると、俺たちは江陵を出発した。
その数、7万を超える本隊が、次々に船に乗り、長江を遡上していく。
ちなみにすでに孫賁と孫輔が率いる先遣隊1万が出発しており、河沿いの敵拠点をひとつひとつ潰しながら、侵攻していた。
そして最初の重要目標となるのが江州、現代の重慶だ。
ここは北へ伸びる西漢水(現代の嘉稜江)との分岐点であり、益州の巴郡でも最大の都市である。
まずはここを落とすか、無力化させられれば、益州への足がかりとして十分なものとなるだろう。
当然、激しい抵抗が予測されるが、この大軍を前にしてどれほど粘れるか?
ちなみに1年前よりも動員兵力が増えてるのは、地道な努力の結果である。
まず襄陽周辺と、揚州の長江北岸では最近、屯田兵を増やしていた。
これは周辺で買い上げた土地に、北方からの難民などを住まわせ、平時は農作業に当たらせる制度だ。
そして一朝ことある時は砦に入り、防御専門の兵士になってもらう。
守り専門であれば、それほど高度な訓練も必要ないので、難民でも使える。
これによって、約5千の兵士が補充できた。
さらに徐庶、賀斉らによる山越賊対策の成功も大きく、揚州での治安維持兵力が引き抜けた。
これも約5千なので、合わせて1万の兵士が増強され、総勢8万の兵力が益州へ向かえるのだ。
それを率いる将には、孫策を筆頭に黄蓋、程普、孫賁、呂範、孫河の古参組がいる。
もちろん参謀役として、周瑜、魯粛、陸遜、龐統がついてくる。
さらには黄忠、太史慈、周泰、蒋欽、陳武、孫輔、凌操、呂蒙、甘寧、魏延という、歴戦の将たちも脇を固めている。
他にも最近やとった連中で、朱桓、朱然、潘璋、徐盛なんてのも加わっていた。
あとは孫静の息子で、孫瑜と孫皎も従軍している。
こいつらは歴史に残るぐらい優秀だから、先が楽しみだ。
さらに俺の弟の孫権、孫翊、孫匡、孫郎、そして荊州の馬良・馬謖兄弟もいた。
本来なら、孫権以外は留守番の予定だったんだが、連れてけ連れてけ、うるさいのだ、こいつら。
結局、戦場の空気を知るという意味でも、価値はあるだろうと思い、従軍を許可した。
一方、攻めるだけでなく、守りもおろそかにはできない。
俺は建業に呉景、襄陽に孫静をおきつつ、夏口には朱治と韓当を配置した。
各地には1万ほどの兵を置き、揚州、荊州の防衛を任せている。
彼らなら功名心にはやらず、仕事を果たしてくれるだろうとの狙いだ。
さらに山越対策として、徐庶と賀斉には引き続き、揚州で目を光らせてもらう。
そうしないと、せっかくおとなしくなったのが、息を吹き返すからな。
ここまでの体制を作り上げたうえで、俺たちは益州へと乗りこんだ。
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建安8年(203年)9月中旬 益州 巴郡 江州
「やっぱり城にこもったか」
「ああ、最初は野戦を挑んできたんだがな」
孫賁ひきいる先遣隊が江州に到達すると、厳顔の益州軍とぶつかった。
その数約5千と、それなりの数がいたので、最初は長江の北岸でにらみ合ったそうだ。
しかし続々と後続が来るのを知ると、厳顔は江州城へ引きこもってしまう。
この城は、長江に西漢水が合流する地点に建てられたもので、南北を河に挟まれている。
つまり両方の河に睨みを利かせられる城なのだが、圧倒的な兵力差の前では大した意味もない。
「それじゃあ、後は任せるぞ」
「おう、俺もとっとと落として、後を追うさ」
俺は孫賁と孫輔の兄弟に1万の軍を預け、江州城に張りつけた。
城の西側は低い山になっているので、そこへ上陸すれば圧力も掛けやすい。
そのうえで俺は軍を3つに分け、それぞれ別に進軍させた。
まず程普に2万を預け、長江を西に遡上させる。
さらに黄蓋にも2万を預け、西漢水を北へと向かわせた。
そして俺は3万を率いて、西漢水からさらに涪水へと入る。
これは俺が敵の主力を引きつけてる間に、程普には益州の南側、黄蓋には北側の主要拠点を制圧させる作戦である。
念のため、程普には陸遜を軍師とし、朱桓、朱然を補佐につけた。
もう一方の黄蓋には龐統を軍師とし、潘璋、徐盛を同行させている。
そして俺は涪水を少しさかのぼった徳陽から西に進路を取り、成都を目指す予定である。
俺が劉璋を押さえてる間に、益州の主要拠点を占拠して、敵の士気をくじいてやろうって算段だ。
これならたとえ敵が城にこもっても、援軍は期待できないからな。
しかしさすがに劉璋も、受け身に回るだけではなかった。
徳陽に上陸したあたりで、新たな敵軍と遭遇したのだ。
「う~ん、ここで出てくるかぁ」
「兵力は、およそ1万というところかな? しかも劉備の旗が見えるね」
敵陣には劉璋配下の張任と共に、劉備の旗がひるがえっていたのだ。
幸いにも敵も急いでいたのか、城にこもることなく野戦の構えをとっている。
しかし3国の一角を担った群雄の登場である。
決して油断はできない。
こうして俺たちの侵攻は、早くも緊迫度を増していた。
今回はいよいよ益州へ攻め入りました。
まず益州は漢帝国の南西部(左下の黄色部分)に位置します。
その郡配置は以下のようになっています。
そして厳顔がこもったのが巴郡の江州で、下図の左下にあります。
文中にもありますが、現代の重慶市に当たる場所です。
江州から右の魚復へと流れてるのが長江で、その本流は西へ続いています。
また江州から北へ分岐するのが西漢水で、さらに墊江から西へ分かれるのが涪水です。
そして劉備軍と対峙しつつあるのが、広漢郡の徳陽です。
ちなみに孫策が目指す成都は、西側の新都のちょっと下辺りの蜀郡にあります。
地図データの提供元は、”もっと知りたい! 三国志”さま。
https://three-kingdoms.net/
ありがとうございます。