32.劉備の影
建安7年(202年)4月 揚州 丹陽郡 建業
無事に丹陽の山越賊との交渉を終えてから、俺は建業へ帰還した。
そして交渉内容に従い、粛々と政策を実行する。
まず血の気の多い連中は平地へ移住させ、仕事なり兵役なりを斡旋した。
これには少なくない反発もあったのだが、無明ら長老格の協力に加え、武力と利益をちらつかせることで対応した。
なにしろ今の揚州は、治水工事や港の整備など、兵役以外でもいくらでも仕事がある。
それらをまじめにやっていれば、飯がたらふく食えるのだから、喜ぶ者も多かったのだ。
もちろん特に血の気の多いやつは軍隊に放りこみ、上下関係を叩きこんでやった。
俺の配下の武将たちは、その辺の山だしに負けるほど弱くないからな。
最初は反抗的だった奴らも、次第に強い者には従うようになっていた。
そして約束どおり、山の麓に交易所を設け、山の産物と穀物などを交換しはじめた。
今のところまだ手探り状態だが、獣の毛皮や鉱石などに需要があると知り、山越も動きはじめている。
いずれは多少の利益も、出せるようになるのではなかろうか。
今後はこの交易を通じて、山越への支配力を高めることも画策している。
穀物の供給元を握るだけでも影響力は高まるし、山越の情報も集まる。
それだけでも反乱を未然に防ぐ効果は、期待できるであろう。
それから他の地域の山越賊との交渉だが、無名らを仲介にして、すでに始まっている。
さすがに同胞の仲介があると、接触がしやすいし、情報も集めやすい。
おかげで最初ほどの精鋭部隊を出さなくても、交渉が進むようになった。
黄忠ひきいる突撃隊は、俺たちのほぼ最強戦力だったからな。
あれほどのメンツを毎回出さなくてもすむだけで、やりやすさが段違いである。
おかげでいくつも並行して交渉が進められるようになり、今後の進展が期待できる。
とはいえ、この揚州には数十もの山越賊集落があるはずだ。
それらを全ておとなしくさせるのに、どれだけ時間が掛かるかは、神のみぞ知るである。
まあ、年単位でじっくりと取り組んでいくしかないな。
ちなみに、この山越賊との交渉を取り仕切っていくのは、徐庶と賀斉の仕事になった。
もちろん徐庶がアメの役割で、賀斉がムチである。
賀斉がバシバシ叩いた後に、徐庶が優しく声を掛けて懐柔するのだ。
徐庶は昔、任侠みたいなことをやっていたから、山賊に臆することもないし、裏社会にも詳しい。
彼らを専属にすることで、交渉も効率的に進むであろう。
こうして山越への対処に一定の目処をつけた頃、待ち人が帰ってきた。
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建安7年(202年)5月 揚州 丹陽郡 建業
「やあ、孫策。山越にはうまく対応してるようだね」
「おう、周瑜。今は徐庶と賀斉が、よくやってくれてるぜ」
「さすがは若、頼もしいですな」
「久しぶりに会えて、嬉しいっす、孫策さま」
久しぶりに周瑜、韓当、呂範の、荊州統治組が帰ってきたのだ。
彼らはそれぞれ、江夏、零陵、桂陽の太守を担っており、各郡の統治と軍編成に取り組んでもらっていた。
その仕事に一定の目処がついたので、報告がてら帰還してきたのだ。
他にも南郡に黄蓋、武陵郡に程普がいるが、彼らは荊州の押さえとして、今も現地に駐在している。
「それで、そっちの方はどうだったんだ?」
「ああ、こっちは山越ほど凶暴なのは少ないからね。最近は領内も落ちついているよ」
「そうですな。兵士の練成も順調ですし」
「桂陽も平和なもんすよ~」
仕事が順調なせいか、皆あかるい顔である。
そこでちょっと気になっていたことを、訊いてみる。
「そうかそうか。ところで張羨どのはどうだ? うまくやれてるか?」
すると3人の顔に、微妙な表情が浮かぶ。
「うん、まあ、それなりかな。悪い人ではないよ」
「え~っ、俺あの人、ちょっと苦手っす」
張羨とは劉表が荊州牧の時代から、長沙太守をしていた男だ。
しかし劉表に軽く扱われたのを恨みに思い、反乱を起こしていた。
彼は零陵と桂陽も巻きこんでいたので、労せずして俺たちは、荊州の南部を味方に付けることができたんだな。
その時にずいぶん世話になったので、いまだに長沙太守を任せているのだが、異分子であることに変わりはない。
なにしろ俺たちは、いずれ曹操とも縁を切って、独立の旗を掲げる予定なのだ。
その時に付いてきてくれればいいが、でなければ敵になる可能性が高い。
「ふむ、見張りを送りこんだ方がいいかな?」
「いや、それでは逆に警戒させてしまうだろう。今は放置でいいんじゃないかな」
「そうか。周瑜がそう言うなら、そうしとこう」
その話はそこまでになったのだが、周瑜が表情を改める。
「ところで重要な情報があるんだけど、魯粛を呼んでもらえるかな」
「ほう、なんだろうな。おい、魯粛と龐統を呼んでくれ。陸遜と徐庶もいるといいな」
俺はすぐさま、魯粛と龐統を呼びに行かせた。
なぜなら最近は、諜報関係を彼ら2人にやらせているからだ。
別に魯粛ひとりでも対応はできるが、いざという時のためにも、後継は必要だ。
そこで諜報局の長官を魯粛、副長官を龐統という感じで分担しはじめた。
やがて魯粛、龐統、陸遜、徐庶という、いずれ劣らぬ切れ者たちが、俺の執務室へ集まる。
「どうしました? 孫策さま」
「おう、周瑜から報告があるらしいんだ。とりあえず座ってくれ」
彼らが座ると、周瑜がおもむろに懐から手紙を取り出した。
「これは益州に入っている密偵からの情報だ」
「ほう、益州から。何か動きがありましたかな?」
「ああ、どうやら益州に、劉備が入りこんだらしい」
「なんと!」
「マジか? あの劉備が……」
周瑜からの爆弾情報に、驚きの声が上がる。
しかしそれでも落ちついている俺を見て、周瑜が興味深そうに問いかけてきた。
「孫策は驚かないんだね?」
「そりゃまあ、だいたい予想してたからな」
「ほう、それはまたどうして?」
「どうしてって……劉備が行くとしたら、そこぐらいしかないだろう」
前世の知識から推測したとは言えず、俺は口を濁した。
史実で袁紹の下にいた劉備は、袁紹が曹操に負けると、劉表の下へ逃げこんだ。
劉備という群雄の名には、それだけの箔があるし、同じ劉姓ということで、劉表には歓迎されたらしい。
その後、彼は新野の守りを任され、曹操が攻めてくる208年まで、比較的しずかに暮らす。
この時に諸葛亮を得て、飛躍のきっかけをつかむのだが、今世ではそうならなかった。
何しろ頼るべき劉表は俺に倒され、荊州の大半も俺の支配領域になっているからだ。
さらに奴らの人相書きを配り、漢朝に背く逆賊として手配してやったので、荊州に居つけるはずもない。
もちろん諸葛亮との接触は厳重に監視し、断固として阻止に動いた。
こうなってくると、劉備の選択肢はあまりない。
益州に劉璋を頼るか、涼州で韓遂・馬騰を頼るかだ。
一応、どこかへ落ち延びて静かに暮らすってのもあるが、あくまで選択肢としてあるだけだ。
後に皇帝にまで成り上がる群雄が、野心を捨てられるとは到底おもえないし、韓遂、馬騰も歓迎してくれる保証はない。
ならば同じ劉姓つながりで劉璋を頼るのが、一番可能性が高いだろうと思っていた。
そんな話を、前世知識を除いて話すと、周瑜が感心した顔をする。
「驚いた。思った以上に情報通だったんだね」
「さすがっす、兄貴」
「なるほどのう」
呂範や韓当も感心している横で、魯粛が手紙を見ながら話を戻す。
「ふむ……どうやら彼らは変装をして、バラバラに荊州を抜けたようですね。もっと厳しく手配するべきでしたかな?」
「いや、いくらなんでも、それは難しいだろ。荊州で力を増やせなかっただけで、満足するしかない」
諸葛亮という、最大の劇薬に会わせなかっただけで、よしとすべきだろう。
そして問題は劉備を得た益州を、今後どうするかだ。
そういえば諸葛亮は今、どうしてるのかな?