3.孫堅の葬儀 (地図あり)
初平4年(193年)2月 揚州 呉郡 曲阿
周瑜とじっくり話し合うと、俺は家族を連れて曲阿へ旅立った。
曲阿は呉郡の北端に位置する都市で、今いる舒からは100キロ以上の距離がある。
この時代ではけっこうな距離だが、陸路と水路をつないで、2週間ほどでたどり着いた。
「おお、孫策よ。よく来たな」
「久しぶりです、叔父さん、孫賁さん。いろいろとありがとうございました」
「いやいや、これしきのこと、孫堅どのに受けた恩に比べれば、いかほどのこともない」
「ああ、それにしても孫堅さまは、惜しいことをした。まさにこれからだったというのにな……」
出迎えてくれたのは呉景と孫賁といって、俺の叔父と従兄弟に当たる。
呉景は母上の弟であり、孫賁は孫堅の兄の息子という関係で、それぞれ孫堅軍団を支える幹部だった。
彼らは孫堅に従い、劉表配下の黄祖と戦っていたのだが、親父が独走の果てに戦死してしまう。
結果、軍団の旗頭を失った呉景らは、残存兵力をまとめて撤収せざるを得なかった。
そして孫堅の遺体を、この曲阿まで運んでくれたのだ。
「叔父さんたちは、これからどうするんですか?」
「うむ、とりあえずは袁術さまの下へ、戻ろうと思う。一応、最大の後援者だからな」
「そう、ですか……そうですよね。軍勢をまとめるには、そうでもするしか、ないですよね……」
「……うむ。ところで孫策は、これからどうするつもりだ?」
「……まだ分かりません。父上の喪に服しながら、じっくり考えてみようと思ってます」
「そうか。何か力になれそうなことがあれば、俺たちに言ってくれ」
「はい、ありがとうございます」
その後、周囲の助けもあって、俺は無事に孫堅の葬儀を終えることができた。
そして今後の身の振り方について家族と話したのだが、ここでひと悶着あった。
「兄上! なにゆえに烏程侯を放棄するのですか?!」
「そうですよ、策。その地位はお父さまが実力で勝ち取った、名誉なものだというのに」
孫堅が持っていた烏程侯の爵位を放棄すると言ったら、弟の孫権と母の呉夫人にとがめられた。
烏程侯とは親父が荊州南部の反乱を鎮圧した時に、朝廷から賜った爵位である。
これは現代の湖州市に当たる、烏程という土地に封ぜられた形なのだが、土地への支配権はない。
土地の管理自体は役人がやって、租税の一部が入ってくるという、年金付きの名誉職みたいなものだ。
当然、長男の俺が引き継ぐものと思われていたが、それを辞退して弟に継がせたいと言えば、揉めるのも仕方なかろう。
しかし俺にも考えがあるので、根気よく説得を続けた。
「まあまあ、落ち着いて俺の話を聞いてくれよ。なにも俺は、家名を捨てるってんじゃないんだ。ただし俺はこれから、しばらく旅に出るつもりだ。世の中をよく見て、いろんな人と知り合うためにな。その際に爵位は、むしろ邪魔になるんじゃないかと思うんだ」
すると呉夫人は不満そうな顔で、猛烈にかみついた。
「ただでさえ不穏な時勢に、ふらふらと放浪するなぞ、とんでもありません! 私は許しませんよ!」
「しかし母上。このまま家の中に引っこんでいては、何も進みません。私の成長を助けると思って、快く送り出してはもらえませんか?」
俺はおふくろの目を正面から見つめながら、彼女の手を握った。
すると彼女は美しい顔をゆがめながら、なおも抗議する。
「べ、別に外へ出なくとも、この曲阿で足場を固めればよいではありませんか」
「いいえ、母上。ひとつところに留まっていては見えないこともあるし、人脈は広がりません。俺は外へ出る必要があるのです」
「し、しかしその後はどうするのです? あなたが見聞を広めたとして、それをどう活かすおつもりですか?」
「……俺はいずれ、袁術さまの元へ赴いて、父上の軍団を取り戻すつもりです」
「……な、なんてだいそれた事を……」
「あに、うえ?」
俺の告白に、おふくろと孫権は言葉を失った。
しかしおふくろはすぐに自分を取り戻すと、強く反対する。
「だ、ダメですっ! そんなことは許しませんよ! もしあなたまで失ったら、私はどうすれば……」
まるで俺が戦死するのが決まったかのように、おふくろが絶望的な顔で訴える。
俺はそんな彼女に、強く訴えた。
「母上! せっかく父上が1代で築き上げた孫家の武名を、このまま消し去ってもよいのですか? 今ならまだ、父上が鍛えた兵も残っています。それを取り戻せば、もっと武名を高められる可能性も、あるのですよ」
「武名が一体、なんだと言うのですか?! そのためにあの方は、命を落としてしまったのですよ」
「男とはそういうものなのです。ひと度、男児として生まれたのならば、武功を挙げて栄達することに、憧れを禁じ得ません。父上もそんな生き方に、後悔はしていないはずです」
「……なぜなのです? あの方が亡くなったばかりだというのに、なぜそこまで生き急ぐのですか?」
とうとうおふくろが泣きながら、俺に問う。
「それは時代が今、大きく動いているからです。強大な漢王朝の統制が乱れ、中原は大きく混乱しています。その混乱を避けた人々が、多くこの江東へ逃れてきているのを、母上もよくご存知でしょう? 今うごかねば、我らはその混乱の波に、ただ翻弄されるしか、ないのです」
「そんなことはやってみなければ、分からないではありませんか……ウウッ」
「……もう待つのは、やめたんですよ。一家の主となったからには、自分の道は自分で切り開きたいと考えます」
「この、親不孝者!……」
結局、俺は自分の意見を押しきり、旅に出る権利をもぎとった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
初平4年(193年)5月 徐州 広陵郡 江都
ハロー、エブリバディ。
孫策クンだよ。
なんとか家族の説得に成功した俺は、1ヶ月ほど喪に服してから、曲阿を出た。
本当は3年くらい喪に服すのが理想らしいが、この乱世にそんなことをしている余裕はない。
俺は曲阿から北上して長江を渡り、徐州広陵郡の江都に落ち着いた。
ここで俺は精力的に動き回り、情報を集めながら、人脈を築くつもりだった。
しかしあいにくと、周りの状況はそれを許してくれないようだ。
「いたぞ、あそこだ~!」
「捕まえて、袋叩きにしろ!」
「逃げんな、クソガキ!」
今、俺は大勢の男たちに追い回されていた。
顔を売るために、ちょっと派手に動き回ったのがいけなかったらしい。
なんと徐州の刺史である陶謙が、手勢を送りこんで、俺を捕まえようとしはじめたのだ。
別に俺が何か悪さをしたってんじゃないんだが、袁術の配下だと思われてるのがまずかった。
袁術は元々、荊州の南陽郡に拠点を置いてたのだが、最近、曹操に負けてそこを逃げ出した。
その逃げ出した先が揚州の寿春になるんだが、そこは徐州とは目と鼻の先である。
当然、陶謙は警戒を強めるわけで、そこへ袁術の配下と見られる俺が、江都へ現れた。
すわ、袁術が徐州へ侵攻か? と警戒されるのも仕方ないだろう。
かくして俺は追い回されることになったのだが、陶謙のしつこさときたらもう。
あの野郎、俺が回りそうな場所をしつこく監視して、怪しい奴は次々にしょっぴいてやがる。
実は史実でも、孫策は陶謙に迫害されているのだ。
あまりにひどいんで、一緒に連れてきてた家族を、また曲阿へ送り返したほどだったとか。
俺はそれを知ってたんで、家族は曲阿へ置いたままだし、江都でも目立たないようにしていた。
しかしとある酒場で意気投合したおっさんに、孫堅の息子だと漏らしたのがいけなかった。
予想以上の早さでその噂は広まり、陶謙に察知されてしまう。
それから1週間もしないうちに、ヤツの手勢が俺を追いはじめた。
おかげで俺は、江都の町中を無様に逃げ回るはめに陥ったのだ。
しまったなぁ。
どうやら孫堅の知名度を、見誤っていたらしい。
全くの無名から、破虜将軍まで成り上がった武名の高さは、想像以上なのだろう。
しかしこれはある意味、孫堅のような英雄への期待感の裏返しとも言える。
強大だった後漢王朝も、今は昔。
弱りきったその統治システムは、あちこちで綻びを見せているからだ。
おかげで中央の混乱を避けようと、多くの人々が中原から江南へ逃げてきていたりする。
この江都もそんな人々の、大きな受け皿となっていた。
そんな難民の中には、張紘などの優れた人材も含まれている。
張紘といえば知性に優れ、後の孫呉政権を支えた逸材である。
当然ながら俺は、真っ先に彼を探しだして、コンタクトを取った。
幸いにも、彼にはいたく気に入られ、いろいろと議論を交わすことができた。
そしてもし俺が旗揚げした暁には、なんらかの形で協力してくれるよう、約束も取りつけてある。
このように最低限の目的を達した俺は、しばし江都を離れることにした。
ちょっと史実より早いが、ある人物にツバをつけておこうと考えたのだ。
はたして彼は、俺の誘いに乗ってくれるだろうか?