18.さらば、袁術
建安3年(198年)1月 丹陽郡 秣稜
俺や周瑜が大戦略を語ったことで、ほとんどの者は期待に胸をふくらませ、満足げに帰っていった。
しかし皆が去った後も、周瑜、魯粛、陸遜の3人だけは残っていた。
「なんだ? 何か言いたげだな」
「まあ、そうだね。この際だから、内向きのことも話しておこうかと思ってね」
「内向き、ね。いいぜ、聞こうじゃないか」
すると3人が俺の近くに来て、密談の姿勢をとる。
口火を切ったのは、魯粛だった。
「孫策さまは、すぐに荊州を攻めるのですか?」
「いや、そうしたいところだけど、すぐには無理だ。今の領地だけでも、反乱分子はまだまだいるからな」
「それを聞いて安心しました。領内は治まっているように見えて、いまだ問題は多いですからね」
そう言う魯粛の顔は、本当に安堵しているようだ。
俺が大戦略をぶち上げたので、突進するんじゃないかとでも、思ったのだろう。
すると今度は周瑜が問う。
「豫章郡はどうするんだい? 今の状況なら取りにいってもいいと思うけど」
「う~ん、たしかにそうだけど、曹操との関係が、な。当面は波風たてないで、友好を深めたいと思うんだが、どうだろう?」
すると彼の思いにも適っていたのか、周瑜が美しい顔をほころばせる。
「ああ、私もそう思うよ。いずれは取るにしても、無駄に関係を悪くすることはない。じわじわと圧力を掛けて、隠居でもさせるのが上策かな」
さらっと恐ろしいことを言うが、それはほぼ史実どおりの未来だ。
さすがは周瑜、合理的な男である。
ぶっちゃけ俺は、あまり歴史を変えたくないと思って動いてる。
すでに魯粛や陸遜をスカウトしておいて何を、と思うかもしれないが、これはまだ許容の範囲内だ。
実際、多少は我が軍が強化されていると思うが、目立つほどでもない。
たしか史実の孫策も、この頃は領内の反乱分子を皆殺しにして、治安維持に努めている状況だ。
そして来年になると袁術が死に、その残党を巡って戦いが発生する。
豫章の華歆も、その後に隠居させてたはずだ。
この辺は史実に沿った方が、先を読めてやりやすいだろう。
そういうわけで、俺は当面は雌伏の時を過ごす予定だ。
その後もしばしすり合わせをすると、軍師たちも解散した。
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その後、我が軍は領内の反乱分子を掃討していった。
特に呉郡では、鳥程の銭銅・鄒他を攻め,さらに嘉興の王晟も攻めて、ほぼ皆殺しにした。
おかげで母親の呉夫人にもやり過ぎをたしなめられたが、これはこれで必要なことだったのだ。
なにしろここは、漢王朝の都から遠く離れた場所である。
ただでさえ衰えている王朝の権威なんて、クソの役にも立ちはしない。
そんなところで弱みでも見せれば、反乱する者は後を絶たないだろう。
つまり安定的に統治を行うためには、過剰な武力を見せつけるしかなかったのだ。
もちろん、その一方では領内の道路や港を整備するなど、インフラ整備にも努めている。
これによって人やモノの行き来が盛んになったし、領民に金をばらまくことで景気も上向いた。
治安も格段に良くなったことから、領民へのウケは悪くないと思う。
そんな、血生臭くも地道な統治を進めつつ、兵を鍛えていると、とうとう江北で動きがあった。
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建安4年(199年) 6月 丹陽郡 秣稜
「とうとう袁術が死んだか」
「はい、孤立無援で徐州の袁譚を頼る途中、病死したとのことです」
「そうか……あのおっさんがなぁ」
後漢末期の群雄の1人である袁術が、とうとう死んだ。
あのおっさん、調子こいて皇帝を僭称したはいいが、周囲からは誰にも認められず、孤立していた。
そこで行き当たりばったりに軍を出してはみたものの、呂布や曹操に撃破され、さらに行き詰まる。
そして最後には、従兄弟の袁紹を頼って落ち延びようとしたものの、途中で病死したって顛末だ。
袁術 公路、享年45歳、チーン……
俺が悲しそうな顔をしていると、呂範が不思議そうに問う。
「袁術の死を、悼んでるんすか?」
「ん? まあ、そうだな」
「えっ、でも兄貴は、あのおっさんのせいで、いろいろ苦労したんすよね?」
「ん~、たしかにそういう面もあるけど、親父の代から世話になってるのは、事実だからな」
「そんなもんすかねぇ」
たしかに袁術はしばしば約束を反故にしたし、俺を便利使いしてきた感はある。
しかしいろいろとヤンチャしてた孫堅が、反董卓戦で手柄を立てたり、その後も軍を維持できたのは、袁術のおかげでもあるのだ。
孫堅の死後も軍団が解体せずに残っていたのも、袁術の傘下にあったからとも言える。
おかげで俺はその軍団を受け継ぐことができたし、江東制圧に乗り出せたのも、袁術の後ろ盾あってのものだ。
いろいろ言いたいことはあるが、それなりに恩はあるのだ。
何よりも俺は、あのおっさんが嫌いじゃなかった。
なんだかんだ言って、俺のことをかわいがってくれたからな。
”孫策ほどの息子がいれば、思い残すことなく死ねるのに” なんて言ってたぐらいなんだぜ。
さすがに皇帝を僭称しちまったからには、縁を切らざるを得なかったし、あのまま従っていてもろくなことはなかっただろう。
だから後悔はないが、一抹の寂しさは残る。
そもそも袁術は後世、無能の代名詞みたいな言われ方をするが、本当にそれほどひどかったのかな?
俺はそうは思わない。
結果的に敗れはしたものの、群雄として名を残したし、その勢力だってバカにならないものだったのだ。
例えば彼が拠点にしていた南陽郡や寿春は、黄河流域と長江流域をつなぐ要地であり、富と食料を得やすい環境にあった。
それでいて彼は、汝南袁家という名門中の名門の看板を持っていたのだから、領民もそれを受け入れやすかっただろう。
さらに言えば当時の上流層には、汝南袁家のコネで就職できた者がけっこういて、袁術に頭が上がらないヤツも多かったのだ。
そんな環境で彼は自身の力を過信し、うかつにも皇帝を僭称してしまった。
その点だけは本当にうかつだったが、皇帝になりたがった奴なんて、けっこういるのだ。
袁術が頼ろうとした袁紹だって、皇帝を名乗ろうとして部下に止められたし、劉表だって自身が皇帝であるかのように振る舞っていたらしい。
史実で見れば、劉備と孫権だって勝手に皇帝を名乗ってるわけだしな。
え、劉備は漢の跡を継いだだけだって?
それはどうかな?
献帝が帝位を曹丕に禅譲させられた時、彼が存命だったにもかかわらず、その死亡説を利用して、劉備自身が即位する流れを作り上げたって話だぜ。
後漢王朝の復興を謳っていながら、それを乗っ取るような行動は、決して褒められたもんじゃないだろう。
別に激動の時代を生きた群雄をけなすつもりはないが、要は皇帝僭称も、それほど珍しくないってことだ。
それに歴史なんて、勝者にとって都合のいいように作り変えられるもんだからな。
誰かが袁術を認めてやっても、いいんじゃないだろうか。
未来の話はぼかしつつ、そんな話をしてやったら、呂範が感心したように言う。
「ほえ~、兄貴もいろいろ考えてるんすね~。ちょっと見直したっす」
「お前が普段、俺のことをどう見ているのか、ぜひ聞かせてもらいたいな。後でシメる」
「いやいや、そんなことないっす」
そうやってじゃれてる俺たちに苦笑しながら、黄蓋が先を促す。
「フォッフォッフォ。しかし若。袁術が意外にいい人だったという話で、終わりではないのであろう?」
「ああ、もちろんだ。魯粛。袁術の残党の動きはどうなっている?」
「はい、孫策さまの見立てどおり、曹操の迫害を恐れて南下してきました。一部には我が陣営への帰順を望む者もいたようですが、廬江の劉勲がいち早く動き、吸収してしまったようです」
「やっぱりな。さて、俺たちはこれから、どうすべきでしょうか?」
俺がそう問えば、黄蓋が楽しそうに笑う。
「フハハッ。劉勲を除くと同時に、西への道筋もつけるのですな?」
「ああ、しばらくおとなしくしてたのは、この時のためだ。これから忙しくなるぜ」
「それこそ、願ってもない話ですな」
黄蓋のみならず、俺の部下たちが戦の予感に奮い立つ。
さあ、長いお休みもお終いだ。
荊州をこの手に、入れてやる。