15.太史慈の帰順
建安2年(197年)6月 丹陽郡 秣陵
袁術と縁を切り、曹操から官職をもらった俺だが、やることは山積みだった。
まず俺が官軍側に立ったことをアピールして、人材を募らねばならない。
そのうえで各地に人をやって、統治を進めるのだ。
一応、丹陽、呉、会稽の3郡を掌握したとはいえ、本当に統治できているのはその一部にすぎない。
各地には反乱分子や異民族など、命令に従わない奴なんていくらでもいるのだ。
それから丹陽の南には豫章郡もあるんだが、ここには華歆ていう太守がいて、中立を保っている。
揚州刺史だった劉繇を俺が追い出しても、かたくなに残党の受け入れを拒んでおり、俺にとっては害がなさそうだ。
いずれは麾下に加えるか、追い出すかするつもりだが、それまでは豫章を預けておくことにする。
なんといっても、人が足りないからな。
それ以前に、まずは丹陽の西部を掌握せねばならないのだ。
俺が押さえているのはもっぱら東部だけで、西側の6県はほぼ手付かずだからだ。
そう思って動きはじめたら、いきなり反乱の火の手が上がった。
それは山岳民族である祖郎と、あの太史慈だ。
祖郎ってのは丹陽の山岳部に跋扈する一団で、まあ山賊みたいなことをやってるらしい。
それが何をトチ狂ったのか、俺に対して叛旗を掲げたのだ。
もっとも、その根拠を聞けば納得で、なんと袁術が祖郎に官職を与え、反乱をそそのかしたらしいのだ。
そりゃまあ、あっちからすれば俺は裏切り者だから、それくらいはするかもしれない。
さらにその動きに、太史慈が呼応しやがった。
太史慈といえば、劉繇の配下だった勇将だ。
あの野郎、劉繇とは途中で別れ、丹陽の山岳部で人を集めてたらしい。
まあ実際には、前世知識で知ってはいたんだけどね。
「祖郎と太史慈を駆逐して、丹陽を完全に掌握するぞ。ただし敵の首領はできるだけ、生かして連れてこい」
「「「おうっ!」」」
かくして俺は丹陽西部に向け、大軍を差し向けた。
その数1万になんなんとする規模で、いまだ向背定かならぬ地域を、怒涛のように制圧していった。
配下の武将も大張り切りで、周泰、蒋欽、陳武、凌操、呂範、孫河たちが活躍してくれた。
やがて捕らえられた祖郎が、俺の前に引き立てられてきたのだが……
「んっだ、オラ! っめんじゃねっぞ、ウラ! っしゃすぞ、コラ!」
「あ~、なんて言ってるんだ? あれ」
「さあ、よく分かんないっす」
頭をモヒカン刈りにしたような、世紀末な男が何かわめきたてている。
残念ながら、ほとんど言葉が通じなかったので、さっさと処刑した。
自分の立場をわきまえろってんだよ。
そしていよいよ、太史慈が引き立てられてきた。
彼は厳重に縄で縛られた状態で、ひざまずかされる。
「久しぶりだな、太史慈。曲阿の近くで戦って以来だ」
「……ああ、そうだな。あの時に仕留められていれば、こうはならなかったものを」
「そうだな。もし俺の首を取れていたら、今頃は劉繇にも重く用いられていたかもしれん。だがあくまで仮定の話だ」
「……そのとおりだ。できればあまり苦しませずに、さっぱりとやってほしい」
太史慈はすっかり観念した表情で、すみやかな処刑を願う。
しかしそんな彼に俺は、にこやかに笑いながら、話しかけた。
「まあ、そう焦るな。ところでもしもあの時、俺を生け捕りにできていたら、お前はどうした?」
「……それはなんとも、分からんな」
妙な問いかけに、太史慈は戸惑っている。
俺はそんな彼に近寄ると、彼を戒める縄をほどきはじめた。
「……孫策、どの?」
「な、何してんすか~っ?! 兄貴ぃ!」
「まあ、待て…………さあ、これでお前は自由だ。よければこれから、俺と一緒に天下の大事に当たらないか?」
それを聞いた太史慈はしばし呆けていると、やがて涙を流しながら、俺に問う。
「あんたはこんな俺を、信用できるのか? つい今まで、逆らっていた者を」
「もちろんだ。俺だってこれでもひと角の武将のつもりだ。そして太史慈の武勇と義侠心には、常々感心していた。叶うなら、同じ旗の下で戦ってみたいものだな」
すると太史慈はその場で片膝をつき、俺に臣下の礼を取った。
「この身には過分なお誘い、しかと承りました。我、太史慈 子義、孫策さまに生涯の忠誠を捧げることを、ここに誓います」
「その言葉、たしかに受け取った」
よし、史実どおりにスカウトできたな。
その後、あっけに取られる家臣をよそに、俺は太史慈を指揮官に任じ、部隊を与えた。
なぜここまでするかといえば、史実でそうしてたからというのもあるが、太史慈にはそれだけの知名度があるからだ。
彼は孔融の城が囲まれた時に、単身で囲みを抜けだして、劉備に援軍を請いにいったことがある。
そして劉備の援軍を借りて、無事に孔融を救い出すことができた。
その後、孔融とは袂を分かつが、太史慈が中原でそれなりの勇名を得ていたのは間違いない。
もっとも、規律や伝統を重んじる劉繇の下では、あまり重用されず、不遇をかこっていたのは皮肉な話だ。
こうして俺は丹陽をほぼ完全に掌握すると同時に、太史慈という勇将と、その忠誠を勝ち取った。
これにより、劉繇の部下だった人材も手を挙げやすくなり、より丹陽や呉の統治体制が固まったのは、思わぬ収穫だった。
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建安2年(197年)10月 会稽郡 山陰
ハロー、エブリバディ。
孫策クンだよ。
丹陽や呉の方が落ち着いたので、俺は改めて会稽郡の統治に取り組んだ。
そのためには何をおいても、人材の拡充が必要だった。
そこで俺は会稽の主要都市を回り、役人や軍人の募集を掛けた。
すると以前は鼻にも引っ掛けなかったような連中が、続々と集まってきたのだ。
いかに弱っているとはいえ、漢王朝の権威がまだまだ根強いことの証であろう。
それらの人士の中では次のような連中が有名で、今後台頭していくと思われる。
まず武官には、董襲、賀斉、全柔が加わった。
3人とも会稽の出身で、県令とか都尉をやっていたそうだ。
特に賀斉といえば、反乱鎮圧のエキスパートとして有名で、今後の活躍が期待できる。
なので受け入れが決まると、早々に会稽各地に飛んでもらった。
それからこの頃、呂蒙を発見した。
そう、魯粛の跡を継いで、関羽を討ち取ったあの勇将だ。
彼は以前から我が軍に加わっていたのだが、一兵卒なので気づかなかった。
しかしある日、彼を馬鹿にした役人をぶった切って、逃亡してしまう。
後日、自首してきた彼の話を聞いたので、呼び出して面接をしてみた。
そしたらその剛勇もさることながら、知性にも光るものがあったので、そばにおくことにした。
フハハッ、がっつり鍛えて、活用してやんぜ。
一方、文官は虞翻、秦松、胡綜、陳端らが加わっている。
虞翻は王朗に仕えていた能吏で、内政・外交と幅広い活躍が期待できる。
それから秦松は知名度が低いのだが、実は張紘、張昭に並び称されるほどの、逸材だったらしい。
あの2張に匹敵すると言われるんだから、よほどに仕事ができるのだろう。
なので速攻で会稽郡の郡丞に任命して、仕事を丸投げしておいた。
書類仕事とか、溜まってるからな。
そうしてしばし会稽郡の内政に取り組んでいると、呂範から報告が上がってきた。
「とりあえず郡内の反乱鎮圧は順調っす。董襲や全柔もがんばってるけど、賀斉がいい仕事してるっすね」
「へ~、やっぱりか。仕事できそうだったもんな」
「そうっすね。それで最大勢力の厳白虎っすけど、ようやくほとんどの支部がつぶせたっす。そしたらなんか、和平を結びたいとか、言ってきたんすけど」
「厳白虎が和平、ねえ」
厳白虎ってのはヤクザの頭目みたいな野郎で、多くの荒くれ者を抱えているそうだ。
今まではその暴力を背景に、好き放題していたが、ようやく尻に火がついて、交渉を持ち掛けてきたらしい。
ちょっと気にかかるのが、こいつのところには、許貢が逃げ込んでいることだ。
許貢とは呉郡で太守を自称してたヤクザ者で、朱治に敗れてこの会稽に逃げこんできた。
史実ではこの後、ぶっ殺されて、それを逆恨みした食客が、俺の暗殺に走るわけだ。
そんな未来を、なんとか変えたいと思う俺は、しばし悩んだ。
”ここで許貢に恩を売っとけば、暗殺はなくなるんじゃねえか?”
しかし俺は即座にそんな思いを振り払い、首を横に振った。
「いや、それはないな。あるのは無条件降伏だけだ。和平だなんてほざいてるうちは、相手にする必要はない」
「あ、そうっすよね。そんなことしたら、なめられるっすから。ほんじゃあ、引きつづき厳白虎には、追いこみ掛けてくっす」
「ああ、頼む」
呂範の言うとおり、下手なことをすれば、反乱分子になめられてしまう。
それなりに見込みがあれば、降伏後に使うことも考えるが、厳白虎や許貢はかなり非道な奴らだ。
まずは滅ぼすぐらいのつもりで、当たった方がいい。
それにしても治安活動ってのは、なかなかにタフな仕事だな。
史実では祖郎も、太史慈と一緒に帰順したそうです。
ただしその後の歴史には出てこないので、ちょっと作りました。