雪
白。
彼女が一番好きだったいろ。
「白って、色の中で一番きれいな色だと思うんだ」
台に乗せた厚紙に線を走らせ、絵を描きながら彼女は言う。色素が薄くて、それでいてはり
のある肌は薄くピンク色をしていて、とても儚くみえる。キャンバスと言うにはあまりに安い
ものに対しながら、絵を描き続けている。まるで、絵を描いている彼女が一つの絵みたいだと
私は思った。
――どうして?白なんて紙の色と同じじゃない。
小首をかしげながら言う私を見て彼女は笑った。
「そう、塗っても塗らなくても同じに見える。でもね、白は他のどんな色を混ぜ合わせても作
れないの」
何かに取り憑かれたように彼女はしゃべり続けた。
「どんな色とも相性が良くて、なのに自分の存在はひっそりとだけどちゃんと教えてくれる。
絵そのものをふんわり包みこんでくれる。しっかりもののおかあさんみたいにね」
――他の色はどうなの?
「たとえば黒。一番力を持った色。他の色と混ざると見栄を張りたがるやんちゃな子。
赤。違う色と混ぜれば混ぜるほど、いろんな表情を見せてくれる人に合わせるのが上手な子。
青。色の濃さで機嫌を変える浮き沈みが激しい子。いろんな子がたくさんいるの。でもね、私
の一番はやっぱり白なんだ。」
色を挙げて説明する彼女の表情は、とても楽しそうに見えた。私も楽しくなって、
――それなら、・・・は私にとっての白だね。
そう言うと、彼女はかすかに驚いたが、また静かに笑った。
カタンと鉛筆を置く音が部屋に響く。そのまま彼女は私から顔をそらす形で窓の向こうを見
上げた。
「青、白、灰色、緑、薄茶色、黄土色、黒、ねずみ色、黄色、よく分からない色」
空、雲、屋根、草、枯れ草、運動場、影、アパート、長靴、水溜りに映る何か。
「あなたにとって私が白なら、私にとってあなたは何色なのかな?」
こちらを振り返った彼女は、やはり、笑っていた。
あつかましいかも知れないが、私の願いは白であることだ。
綿のようにやわらかく彼女を抱きしめることができるようになれたら。
つがいの雲のように、彼女と自由に空をただよえたなら。
どれだけ私は救われることだろう。
――ねえ、私を描いてくれない?
モデルになるのがどれだけ大変かは分かっている。いつ終わるかわからない中でずっと動か
ないでいなければならないのだ。でも、その提案はそれほどに魅力的に思えた。
「もちろん」
そのときの喜びは、私にとって何色だったのだろう。
思い込みかもしれないが、まぎれもない白だったと信じたい。
美術室のドアが音を立てて動く。いつもながら立て付けが悪く、それはこの学校全般の話な
ので文句を言ってもしょうがなかった。
なにせ今でも校舎は木造のままなのだ。田舎にあるわけでもないが、街の郊外にあって生徒
はほとんどが都内の学校に通っている。なので改装の必要なしと大人が決めたそうだ。
歩くたびに音を立てる廊下。時折すき間風が通る音が聞こえる教室。どれもこれもとても古
臭い。しかし、この言い知れぬ懐かしさの塊のようなこのたてものを私はとても好いていた。
屋上が無いかわりに、郊外にあるこの学校は街よりも少し高い位置にある。眼下に広がる街
は、それはそれは絶景としか言いようが無い。夏のある日、彼女とともに夜中に忍び込んで見
たときは心臓が止まるぐらい感激したものだった。
夜の学校に忍び込む。それだけで私には大冒険だった。夏祭りの帰りだったので浴衣のまま、
大して警備など無く人気の無い校舎には、私一人では中に入ろうと言う気も起きなかったろう。
「いってみようよ」
と誘ってくれた。さすがにそのまま泊り込んだりはしなかったけど、忘れられない時間とな
ったのは言うまでもないことだ。
でも、その彼女はもうこの町にはいない。電話も手紙も送らないと言われた。向こうがひど
いわけではなく、私たちの中でそれが一番自然なことだとお互いが考えた結果だ。なにせ、私
もそうしようと考えていたのだから。その言葉を取り間違えたらとんでもないことになるよう
な言葉を彼女が口にできたのは、やはり強いからだと思う。それと、私が間違った言葉のとり
方をしないと信頼してくれたこともある。うれしかった。そして、かっこよかった。
いつも2人で座っていた机の上に、一枚の絵がおいてあった。その絵に何が描いてあるのか
私は知らない。知らないから確かめにいく。あの絵は、彼女が私に残した唯一の「物」だから。
私は、周りからは暗いと思われていたようで。たまに誰かと話したりはするけれど、友達と
呼べるほどの人はいなかった。放課後、誰もいない教室に入ってノートに絵を描いていた。見
たこともないし、現実にあるかどうかもわからない場所。そこには、雪が積もっていた。誰の
足跡も無く、太陽の光を反射してきらきら輝いている。木や岩といった自然のものすら存在し
ない、絵本のような世界。
こんなものを急に描きたくなるなんて、私はやっぱり暗いんだと自嘲したくなったそのとき、
「きれいだね」
突然声がしたことに私は驚き、絵を覗き込んでいる人物の姿を見た。
もしかしたら、ここは部活に使う場所でその部員の人かもしれない。無断で入ったことを謝
ると、
「いいの。ここ私しか使ってないから」
寂しげにそういった。
この美術室は美術部が使うようになっているらしい。しかし、部員は彼女一人だけで顧問も
いないそうだ。
こんな場所でいつも一人で絵を描き続るのはどんな気持ちなのだろうか。それを感じてみた
くて、彼女が描いたという絵を見せてもらった。
風景。雑踏。建物。人。物。花。この教室。たくさんの絵があった。だが、どの絵も共通し
て四隅まで色が塗りきられておらず、色が塗られているのは楕円の形をした部分だけ。そのせ
いでどれもぼやけてしまっている印象だった。
「そこを塗っていないのは、塗る必要が無かったからなの。」
角まで塗ればいいのにと言う考えが自然に口から出ていたようで、少々ばつが悪かった。
うつむいてしまった私を見て、彼女は微笑んだ。
「あなたも、ここで絵を描いてみない?」
一緒に、ふたりで。
その日、私に友達ができた。
絵に近づきながら、教室に入ったとき一番に見る彼女の笑顔を想像した。初めの頃はドアを
開けること自体、とても緊張したことを今でも覚えている。窓から見える景色も、何も変わら
ない。ただ、彼女が鉛筆を走らせる音。筆を洗う音。画用紙に色を走らせる音。彼女の息遣い。
彼女。なくなっていた。
あと少しで、絵に手が届く。
それから、授業が終わるたび私は美術室に通った。クラスが違うため、一緒に美術室へ行く
ことはなかったけれど、そのかわりいつも彼女は私より先にこの教室で待ってくれていた。
同じ部活の仲間として、同じ学校の友達としていろんなことをして遊んだ。夜の学校に忍び
込むといったはらはらする出来事さえ、できる。楽しかったと、心から言える思い出たち。ま
ぶしくて、まっすぐ見ることができないくらい。
冬のある休日、彼女は私を誘って美術室から出た。
「すごいもの、見せてあげる」
悪戯っぽく笑む彼女は、私の手を引きながら言った。
下駄箱から靴を出し、上履きをしまって玄関から外に出る。冷たい風が私と彼女を横切った。
思わず体を抱きしめる。上を向いてほ、と息をだすと、見上げる雲と同じように白く染まった。
溶けた雪のせいでぬかるんだ運動場に、運動部の人たちの声が上がっている。街まで届いてし
まうのではないかと思うほど、その声たちは澄んで聞こえた。
「こっちこっち」
彼女の声が校門のところで響いた。私はザッザッと音を立てて駆け寄る。校門を出ると、そ
こは左から右に向かって上る坂になっている。左に下っていくと街へ。右に上っていくと小さ
な丘がある。彼女は迷うことなく右の道を選び、歩き出した。私もそれについていく。雪で足
を滑らせると、彼女は私を支えてくれた。そうして上ったところに、砂利の空き地が見えた。
ここは運動部の人たちのとってランニングの折り返し地点だったはず。
ここに何があるんだろう。あたりを見渡しても、木々が立ち並ぶ林しか見えない。
「この先」
彼女が指したのは林の向こうだった。
木のおかげで地面に積もった雪は薄く、草もだらけてしまっているので思いのほか簡単に進
むことができた。
そして、林が途切れた。
一瞬、呼吸をすることを忘れる。
「ね?すごいでしょ」
ゆっくりした動作で私はうなづいた。
「ここを見つけたとき、すごく驚いちゃった。だって、」
私が以前描いていた絵に、そっくりだった。
目に付くものは何も無く、雪原と、空と、雲があるだけの場所。私の絵にはさらに雪が降っ
ていたけど、それを除けばまさに瓜二つだった。
私は走り回りたい衝動に駆られたが、この雪原に足跡を残すのがもったいなくてできないま
またたずむ。そのとき、手を引いて行こうと誘ってくれたのはやはり彼女だった。
私は笑いながらまるで狂ったように走り回った。わけが分からなくなるくらい転げまわった。
彼女も、笑っていたから。
しばらくして、私と彼女は並んで立っていた。あがった息をそのままに、
「これから、私引っ越すんだ」
そのとき、私の表情は変わっていなかっただろう。空を見上げたままで。
「ごめんね、ずっと黙ってて」
ゆっくりと私は首を横に振る。
「家に戻ったら、すぐ出発する。たぶんもう、会えないと思う」
――そっか。
「ごめんね。こんな直前に言われても、困るよね」
――そんなことないよ。
だって、
知らない間にお別れなんて、その方が悲しいことだと思うから。
直前にでも、きちんと伝えてくれてありがとう。
本当に、ほんとうに。
ふと、いつの間にか向かい合っていた私たちの間に、白が、下りてきた。
ちらちらと雪が降り始めていた。
見上げれば、光を反射しておりる雪が。
見下ろせばまた、光を映す積もった雪が。
私と彼女の足跡を残した雪が、輝いていた。
そこには、私の絵があった。
薄っぺらい画用紙を持ち上げる。そこには、私と、彼女と、白が描かれていた。
私はその絵をそっと抱きしめる。
もう彼女は出発しただろう。私と、この教室と、先ほどまで一緒にいた雪原の足跡を残して。
静かに、涙が零れ落ちる。
画用紙を抱えたまま、私は外に出る。そこには、まだ雪が降り続けていた。
雪やこんこ あられやこんこ
ゆったりと歌を口からこぼしていく。その歌は、白くなった息とともに空気に溶けていった。
画用紙に描かれた、手をつなぐ私たちは背中を見せていて表情は分からない。
でも、きっと笑っていると信じることができた。
もう大丈夫。
そう信じることができた。
白が、私を包んでいる。
記憶にある中で、これば一番最初に書き上げた小説になります。楽しんでいただけたら幸いです。