8
.8
昨日までの賑わいが嘘みたいに自宅の中は静まり返っていた。暗がりの中、私は呆然と玄関先で立ち尽くしていた。
「なるべく素早く長旅が出来る用意を。俺は馬を借りにメサンを尋ねてくるから」
バシーノさんはメサンとも知り合いらしく、自宅がメサンの家の近くだと言っただけで、迷うことなくここまで送ってくれた。
「私、どこかへ行かなくてはいけないの?」
「国を批判した得体のしれない技を使う男を上層部は調べるだろう。そうなると必ず妻である貴女に辿り着く」
「それで、どうなるの?」
「あらぬ疑いをかけられ捕らえらて、収監されるだろうな」
確かに緋色の人物は得体のしれない技を使っていたが、私の知る夫はもちろんごくごく普通の人間で魔法など使えない。
「ダルセは矢を空中で止めたり、宙を歩いたりは出来ないわ。それに声も違ったし、落ちる時に悲鳴も上げていたのよ。絶対に誰かに操られていたの」
「死んだ後では証明のしようがない」
他人に「死んだ」と言われると、胸の奥がざらつく。本当にあの人は死んでしまったのだろうかと、魂を切り取られた瞬間を目の当たりにしておいて、まだ信じられずにいる。
「とにかく、荷物をまとめておいて」
そう言い残して、バシーノさんはメサンの家へ向かった。
暗闇に一人残された私は、その場に座り込んで、さっき見た光景を繰り返し思い返し続ける。
「用意はできたか?」
すぐに戻って来たバシーノさんは、数分前と変わらずその場で座り込んだままの私を見て、深いため息を吐いた。
「メサンに馬を借りた。聖堂近くで待ち合わせることになったから、用意が出来たら出よう」
「どこへ行くの?」
「郊外にスペルバ様が生前使っていた保養所があって、今は違う人が引き継いでいるが、きっと匿ってくれる」
バシーノさんは家の中を探し回って、適当な鞄と上着、換金できそうな物を集めた。そして私に上着を着せて、家を出ようとした時だった。
「バラーデさん、ご在宅ですか」
玄関扉をトントントンと控えめに叩かれ、若い男性の声が聞こえてきた。
「知り合いか?」
小声で尋ねられて、私は首を横に振った。そして来訪者は何度も扉を叩き続けるので、バシーノさんは私を服の入っている押し入れに隠し、玄関扉を開けた。
「やっと出て来てくれましたね、バシーノさん」
来訪者はまるでこの家に彼がいる事を知っていたような言い方をした。
「何の用だ」
「ある方がお会いしたいと申しおります。中へ案内して頂けますか?」
押し入れの扉の隙間から玄関付近の様子が見えるので、私は口元を手で覆いながら登場した人物に目を見開いた。
「どうしてここにいらっしゃるのですか?」
「それを聞きたいのはこっちだ、バシーノ」
ランプを提げた付き人の後ろで白い髪の男性がゆったりとした深い声で彼の名を呼んだ。三聖人の一人、シュヴェリ様だ。
「ここは知り合いの家で、ルクス滞在中に世話になっているんです」
「ほう、ではダルセ・バラーデとは知り合いか?」
「いいえ、彼の妻のテレサと知り合いです」
「ああ、そうだ。学び舎を同じくしていたのだったな」
どうしてそんなことまで知っているのだろうか。バシーノさんは僧侶の護衛官まで務めた人物で身辺調査などをされたことがあっただろうが、私のような一介の官吏が調べられることなどありえない。
「学科は違いましたが、同窓生です」
「接点が無いように思ったが、人との縁とは数奇なもののようだ」
シュヴェリ様は家の中ほどまで入ってきて、台所の椅子に腰かける。
「数十年前、私がまだ地方僧だった頃、ある名士の家を尋ねたことがあった。そこで高額な寄付金を用意するから息子に道を説いて欲しいと頼まれた。私は金を貰ってその子どもにこう言った。君は人とは少し違う。君は将来、人々を救う英雄になるだろうと」
その話は私にとってとてもよく知っている昔話だった。まさか聖人と呼ばれる徳の高い僧侶の口から聞かされるとは思っても見なかった。
「私が英雄になるだろうと予言した少年は今日、人々の前で英雄を語ってその一生を終えた」
「懺悔ですか。それなら神に……」
「いいや、そうではない。どうしてあのような愚かな事をしたのだろうと思ってな」
その言葉を聞いて、私は咄嗟に押し入れの扉を開いていた。そして飛び出して聖人の前に立ったのだった。
「貴方のせいです」
シュヴェリ様は少し驚いた顔をしたが、すぐに私が誰なのか分かったのか再び不満そうな顔つきに戻る。
「それはどういう意味だね」
「貴方がダルセの胸に言葉の矢を刺したからこうなったんです。あの人は幼い頃に貴方に言われた「英雄になる」という言葉の矢を刺さったままにして大人になった。周りに何と言われようと、どう扱われようと胸の矢を大事に抱え続けてきた」
バシーノさんが「言葉の矢?」と私の言葉に疑問に思ったのか首を傾げると、聖人は聖人らしく教えを説くのだ。
「言葉の矢とはその昔、巫ラヴェンドゥラ様が神の言葉をそう例えたのが始まりだ。まるで矢のように速くどこからともなく届く、痛みすら伴うほどの鋭利。それが神託だと」
納得して頷くバシーノさんの表情を確認して聖人は話を続ける。
「しかし、その言葉の矢を抜くも抜かないのも個人の自由だ。今回の事を私の矢のせいだと言うのはお門違いだと思うが、どうかね」
普通の大人ならば、現実に合わせて、心の内を変化させて生きていくものだ。生き辛いと分かっていて、子どもの心を保とうとする人など殆どいない。
「あの人は幼い頃より体が弱く、自分に自信を持てない男の子だった。不器用で特技など何もなかったと言っていたわ。そんな男の子の前に立派な青服を来た僧侶が現れて、「英雄になれる」と言われたなら、きっと嬉しかったに違いないわ」
子どもながらにも目の前の人が普通の大人ではないことぐらい理解できていただろうし、嘘を吐くようにも見えなかったはずだ。なぜなら僧侶という人たちは人々に寄り添って道を説き、慈悲を与えてくれる人だから。
「この国の子どもなら誰だってあの青い服の大人が僧侶だという事は知っているし、信頼できると信じているの。貴方にとっては社交辞令だったのかもしれないけど、純粋な子どもにそんな大人の都合は分からないわ。あの人は貴方のその冗談みたいな言葉に希望を抱いた……」
ダルセはその日の事を語る時、いつも目を輝かせていた。あの人の心はあの時から止まってしまったのかもしれない。
「そうか、分かった」
涙が溢れて俯く私に聖人はそう呟いた。
「しかし、すべてが悪い状況なのだ。私一人が手を尽くしても収まらない。すまないが、今のうちにルクスを又はグッタを出て行くのがよろしかろう」
「テレサと二人で街を出る支度をしていたところです」
バシーノさんがまとめた荷物を見せると、聖人は「それは困る」と冷たく言い放った。
「バシーノにはやってもらうことがある。それで私自らここへ来た。――リーベ様を探してほしい」
「リーベ様?」
私の隣でバシーノさんは困惑の表情を浮かべていた。
「情報によれば、ケルウスに向かわれたという。連れ戻してほしいのだ」
「それは、一昨日の会議で決定したのですか」
「いいや。会議の結果はテレサも知っての通り、帰国を待つというものだった」
バシーノさんが私の方を向いて、シュヴェリ様の言ったことが本当なのかを確認を求めてきたので、私は頷いて見せる。
「ならばどうして捜索されるのですか」
「あの方には確実に死んで頂かなければならないからだ」
「それはどういう意味でしょうか」
「もちろんこの国の為、この宗教の為だ。詳しく説明するつもりはない」
捜索依頼をしているくせに肝心なところは話そうとしないので、バシーノさんは眉間に皺を寄せて困っている。
「では、テレサを安全な場所に送り届けてから捜索に向かいます」
「それはならない。テレサの逃亡の手助けをして罪官に捕られては私が困る」
「……つまり伝令係として拾われた身では、拒否権は無いと?」
「ああ、もちろんだとも」
この時、私はようやくバシーノさんが誰の伝令を届けていたのかが分かった。彼はシュヴェリ様に恩があり、私の事よりも恩人の方を優先する。
そうと分かれば彼を頼っては迷惑だ。
私はのろのろと立ち上がり、バシーノさんがまとめてくれた荷物を引きずって、家を出ようとする。
「テレサ、ちょっと待ってくれ」
「バシーノさん、私は一人で何とかできますから。お世話になりました。シュヴェリ様、この家は国にお返しします」
この家は国が官吏に貸し出している家で、官吏を辞めれば、出て行かなければならない。
「シュヴェリ様、彼女を見送るぐらいはさせてください。テレサの事は任せろと友人と約束をしたんです」
シュヴェリ様は小さく頷き、私を見送った後、すぐに発つようにと告げた。
バシーノさんの背中を眺めながら、私はこの先一人でどうやって生きて行けばいいのだろうと考えてみるのだが、どうにもこうにも上手く想像がつかなかった。
私はダルセのいない人生を想像することが出来ない。
暗い夜道を歩きながら、感謝祭の夜とは思えないほど静まり返った街の空気に、苦しさを覚えた。夫が起こした事件は瞬く間にルクスの人間に知れ渡ったことだろう。国を批判し排除するのだと言った男の妻に、居場所などこにも無いのだ。
大聖堂の裏手が待ち合わせ場所らしく、私達は無言のままメサンが馬を連れてくるのを待っていた。
「我々は支度をしなくてはならない」
その声は隣の神殿の方から聞こえた。声の主は男性で、それは聞き覚えのある声だった。
「支度とは何の支度ですか?」
二人の男は神殿の裏口から出てきて、寒空の下で会話を始める。
「この国の民を守る支度だ。すぐに戦の用意を」
私とバシーノさんはその言葉に息を止めた。そして二人してなるべく動かないように、物陰に隠れながら聞き耳を立てる。
「戦と仰いますが、誰と戦うのですか?」
「今もなお魔法を使う者がいる。マガと呼ばれる者たちだ。一人はロス国の統治者、もう一人はマラキア国の国主。それぞれ色を冠して呼ばれる。ロス国の黄翠、マラキア国の紫青という。そしてもう一人、紅橙と呼ばれるマガが存在する。その者は国を持たず、突如現れ、緋色の外套を纏うのだと言われている」
緋色の外套。それは夫が見つけていた外套と同じ色だ。
「敵は魔法使いだというのですか。ならば我々に勝機など……」
魔法とは突然炎を熾したり、暴風を吹かせたり、水を自在に操ったりと、想像を超える技だというが、私はお伽話だと思っていた。
馬が翼も持たないのに空を駆けるなど信じられないが、現に私は今日この目で翼を持たぬ生き物が宙に浮く姿を目撃したばかりだった。
「他国に協力を仰いでみるのはどうでしょう」
「マガと戦えるのはケルウスのような大国だけだろうな。しかし先日殺し合ったばかりだ」
「そうですね……」
「あちらの第三王子ならば話を聞いてくれるだろうか」
「なぜです?」
「私と名前が似ているから。確かキアノ殿下だったか。共通点があれば話の糸口にはなるかもしれない」
キアノ殿下?そもそもケルウスに第三王子がいる事すら知らない。その王子と名前が似ているとは?
「キア……君」
思わず私が彼の名を口にしたとき、立ち話をしていた二人は私達の方を振り向き、速足で近づいて来た。
「バシーノさん、どうしましょう」
「あの方のお出ましに逃げる訳にいはいかない」
言っている意味がよく分からなかったが、仕方なくその場で何もすることなく待機することになった。
近づいて初めて、二人の男性が今朝まで家にいたキア君と護衛官の一人だと分かった。
「テレサさん、ここで何を」
キア君は刺繍の凝った重そうな外套に身を包んでいて、私の知っているキア君ではないように思えた。
「逃げる途中で」
「今聞いた話は忘れてください。バシーノ、君もだ」
年上の男性に「君」と呼ぶ当たり、キア君は普通の人間ではないのだろう。では、誰だ?
「恐れながら、忘れることは出来ません。私はそのように器用な人間ではないので諦めてください。私はこの国にとって重要な任務を仰せつかりました。ぜひ一つだけ教えて頂きたいことがございます」
バシーノさんが膝をついて質問をしようとすると、護衛官が「無礼だ」と怒り始める。
「サスキア様、どうか神託をお教えください」
私はその名前を聞いて足がすくんだ。サスキア様とはこの国最高位の僧侶、巫様の名だ。
「どういう意味だ」
「私達がどこへ向かえばいいのか、それを知っているのは神の言葉を聞くことが出来る巫様だけです」
巫様はバシーノさんを睨みながら言葉に詰まっていた。代々巫様は神の言葉を聞くことが出来ると言われ、国の大事には神託を指針としてきたという歴史がある。
「……私がサスキアという名を得た時、神託は「回帰」と出た。どこへ回帰するのか、何へ回帰するのかそれは分からない。私を当てにするな。何の役にも立たないからな」
巫様は少し空笑いをして、自虐的にそう言った。
大通りの方からメサンが馬を二頭連れて近づいてくるのが分かると、巫様は踵を返して神殿へと戻っていく。
「テレサさん、どうが無事で」
振り向きざま、キア君の顔に戻った巫様は私に優しい言葉を残してくれた。
メサンと合流して、バシーノさんが自分には別件があって私を逃がせないという事情を説明する。
「つまり、俺に行けと?」
すべてを説明し終える前に、メサンが悟ったように面倒臭そうな顔をする。
「おお、珍しく理解が速いな」
「珍しいって言うなよ」
あまりにも嫌そうなので、「地図があれば一人で行けるわ」と口をはさむと、メサンは諦めたように一緒に旅をしてくれると言ってくれた。
「俺、何の用意もしていないんだけどな」
「軍部に行って、何か借りてくればいいじゃないか」
「簡単に言ってくれる」
メサンは昔武人で、今でも馬関連の仕事で軍部にはよく出入りしているようだった。
そして「ちょっと待っててくれ」と言って神殿裏手にある軍部がある建物へと走って行った。
私はバシーノさんと馬を残して、神殿に祈りに行くことにした。夫のしでかしたことで、戦になろうとしているのならば、懺悔しなければならない。
神殿の扉は開放されていて、内部は蝋燭の灯で仄かに明るい。天窓下の中央部分で膝をつき、目をつぶろうとした時だった、左の方で物音がしたのは。
「誰かいるの?」
「驚かせてごめんなさい」
鉢植えの花の隣で少年が一人立っていた。少年は軽い足取りで近づいて謝罪すると、すぐに立ち去ろうするので、私は腕を掴んで止める。
「ここで何をしているの?」
「花の手入れですよ。枯れた花を摘み取っておかないとアピス人はすぐに怒りますから」
少年はよく知る人物だった。いつも私の職場に来て掃除や片づけをしてくれるゼノの男の子だ。
「ねえ、貴方。日暮れごろアシリ様の塔に居なかった?」
「何の話ですか?」
緋色の人物が塔の上に居た時、かすかにもう一人の人物の後姿を見かけた。私の目と記憶が確かならば、その後姿は目の前の少年の物とよく似ている。
「緋色の人物の隣にいたわよね」
「人違いですよ。それでは仕事が残っていますので」
少年は手を振り払って、逃げるように暗闇に向かって走り始める。
「待って、ウィリ!」
名前を呼ぶと、少年はピタッと足を止めて振り向いて私を見た。
「名前、知ってたんですか?」
「もちろんよ。皆、貴方の名前を知っているわ」
「一度も呼ばれたことないから、知らないとばかり思っていました」
ゼノという人種は奴隷のように扱われている。幼い頃より働いて、市民権も与えられず、数多くの制約の中で不自由な生活を強いられているのだ。
「塔の上でウィリの背中を見たの。見間違ったりしないわ。貴方の背中は毎日見ているんだから」
自分でも不思議だと思う。知り合いというのは大勢の中でもすぐに見つけられたり、背中を見ただけでその人が分かったりもする。
「ねぇ、ウィリ。ダルセとどういう関係なの?」
蝋燭の灯から外れ、暗闇に隠れてしまいそうな場所で、少年は不満そうな顔をした。
「あの人、英雄になるんだ。と言って、僕たちゼノにあれやこれやと買い与えてくれるんです。断っても断ってもやめてくれなかった」
夫の浪費の原因はそれだったのかと、ようやく納得がいった。
「それで、夫に英雄になる場所を与えたの?」
市民に真実を説き、圧政から解放することが出来たなら、それは本当に英雄だろう。
「あれは、あの人がそう望んだから」
「どういう意味?」
「妻に裏切られたと言って、僕たちの所にやってきました」
私は目の前に暗闇がぶつかって来たような強い衝撃を受けた。
「私は何も裏切っていないわ」
「家に帰ったら、知らない男たちと楽しそうだったと泣きながら言っていましたよ。そして人々を神から解放するのだと何度もつぶやいていました」
「違うの。あれは……」
「弁解は僕にしないでください。するならあの人にって、もう無理でしたね」
少年の言葉は冷たく、刺々しい。まるで私に恨みでも抱いているような言い方だ。
「あの人は貴女のせいで絶望したんです。だから僕たちの所へ来て、何でもするから英雄になって死にたいんだと言ったんだ」
「嘘よ」
「あの人にはゼノの英雄になってもらいました。この事を皮切りに各国のゼノ達が立ち上がることでしょう」
言葉を失って、思考回路も殆ど動かない。ただ呆然と目の前の少年を見つめるしかできなかった。
「救世主を現す緋色が立ち上がり、そしてアピス人に害された。立ち上がる理由としては十分ですからね。テレサさんの言う通り、青色はすべて燃やします」
少年は薄く笑って、ゆっくり暗闇に消えて行った。私はその灯の届かない闇を見つめながら、「貴女のせいで絶望した」という言葉を何度も頭の中で繰り返した。胸の奥が苦しくなって、呼吸がし辛くなってその場にしゃがみ込んだ。
「テレサさん、そろそろ行きましょう」
メサンが呼びに来るので、無理やりに足に力を込めて立ち上がり、神に祈ることもせず、馬の下へと向かったのだった。
学生時代に乗馬の授業があって、どうにか馬には騎乗することが出来た。バシーノさんは昨日の朝メサンが納めた馬に軽やかに跨って、支給された立派な剣を佩く。
「テレサ、どうか無事で。メサンには目的地までの地図は渡したから」
「いろいろとありがとうございました。バシーノさんもお気をつけて」
別れが暗い夜で良かったと心底思った。きっと今の私は酷い顔をしているだろうから。
そして私たちはここで二手に分かれる。私たちは東へ、バシーノさんは北を目指す。
星の殆ど出ていない暗い夜、風は冷たく強く、肌が割れるほど馬の上は寒い。冬が始まるのだ。
朝日が昇った頃、少し馬を下りて休憩をすることになった。旅の支度をしてくれたバシーノさんが外套のポケットに物を詰め込んでくれているようなので、何が入っているのかを確認してみると、胸のポケットには小さな紙と大きな紙が二つ入っていた。
小さい方には「たくさんお世話になり、ありがとうございました。またいつかどこかで。ソラヤ」と可愛らしい文字で書いてあった。
「あの子、ソラヤっていう名前だったのね」
その小さい紙は姪との別れの際に渡されたものだった。そして大きい方の紙を開くと、そこには自分の文字が殴り書きされてあった。
「メサン。私、行きたいところがあるの」
「ルクスに戻るのだけはご免です」
「私ね、シャルサックに行きたいの。そしてニト様に会いたい」
大きい方の紙にはシャルサックの寺僧ニトーシェ様の手紙の写しが書かれている。
メサンは目的地より遠くなることに不満そうだったが承諾してくれた。
「俺ももともとはスペルバ様派だったので、ニトーシェ様と昔話をするのも悪くないかな」
「もしかして家業を継いだ理由って……」
「俺の事はいいんです。さぁ、出発しましょうか」
人にはそれぞれ歴史があり、いろんな人との関りがある。
私は心を動かす文字を書くニト様に会ってみたい。姪が持ってきたこの数奇な巡りあわせを辿ってみたくなった。
「ニト様ってどんな人?」
「会ってみれば分かりますよ。あんまり期待しない方がいい」
耳を塞いでも、馬の足音を聞いていても、メサンと会話していても、頭の中で繰り返し聞こえてくるのはあの言葉だ。
「貴女のせいで絶望した」
私はシュヴェリ様に同じ言葉を吐き捨てた。同じ言葉が自分に向けられるとは思っても見なかった。言葉とは本当に跳ね返ってくるのだと痛感した。
どうすれば、私は自分の罪を償えるのだろうか。
朝日から目を逸らし、涙を冷たい風に流した。
罪は深くなるばかり。
僕はまたしても多くの命を奪い過ぎた。
暗闇に隠れ込んで、膝を抱えて耳を塞いで涙を流す。いくら現実から逃避しようとも、過去は必ず引っ付いてくるのだ。
この戦いで残ったのは僕とグッタの将アシリだけだった。アシリはランタン片手に僕を探しに来て礼を述べた。
「グッタの民を守ってくれて感謝する。君は英雄だ」
感謝するのは間違っている、こんなのは英雄だとは言えないし、僕はグッタの兵も一緒に殺したのだと言うと、アシリは黙ってしまった。
煙が立ち上り、物が焼ける匂いが充満し、空からは黒い雪が降って、死者を慰める歌を歌える者すらいない。虚しい静寂が僕たちの間を流れ、いろんなものが滅びていく瞬間に居合わせているような気分だった。
僕は、この身を滅ぼすのは何だろうかと黙って座っている隣の男に尋ねた。
「おそらく炎だ。炎は言葉を奪い、炎は過去を奪う。君の全てを奪うのは炎だろう」
滅びるという事は奪われるという事なのだろうか。僕はアシリの背中を眺めた。僕よりも広くしっかりしていて逞しいが、今は傷だらけで返り血も浴びて痛々しく、酷く悲し気な雰囲気を醸している。
いつか炎で僕を殺してくれと頼むと、アシリは振り向きもせずにこう答えた。
「僧兵は緋色の炎は使わない。諦めろ」
アシリの隣にはランタンが置かれていて、眩く清く輝いている。僕は光から目を逸らし涙を払った。
エアルの手記より。