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「おはようございます」
定時通りに役所へ出勤した私は、出入り口の受付係の男性にいつも通りに挨拶をした。
「おはよう。休日出勤ごくろうさん」
「あ、はい」
「ん?今日は姪っ子同伴かい?」
「ええ、まあ」
長年受付業務に携わっている中年の男性で、役所で働く殆どの人物の顔と名前、大まかな家族構成まで頭に入れているという噂だ。私がぼんくら夫との間に子どもがいないことも知っているらしかった。
「お仕事の邪魔はしません。私も一緒に中に入ってもいいですか?」
私の後ろで彼女は清々しくそう尋ねた。そう、彼女は夫が昨日誘拐してきたあの少女だ。
「まあ、今日は通常業務も休みだし邪魔にはならないだろうけど、上に許可は貰わないといけない」
「感謝祭でこっちに来ている夫の方の姪なんですが、家で一人待つのは寂しいと言って」
「そうだろうな。周りはみんな祭りで浮かれているし、家で一人留守番というのは可哀想だな」
私が愛想笑いを浮かべていると、受付の彼は上に聞いてみると言って、私たちを来客用の椅子に座らせた。
「本当にここで働いているんですね」
「もちろんよ」
まさか官庁仕事をしていることすら疑われていたとは。
そもそもどうしてこの少女と一緒に出勤することになったかというと、遡ること十数時間前。
「どうしてバシーノさんを探すという発想にならないんですか?」
膝を突き合わせて話し合っていた。私は青封筒を預けて欲しいと頭を下げた所だ。しかし目の前の少女は首を傾げた。
「旦那さんの罪を無かったことにするには、私と手紙をバシーノさんに返せば済むはずです」
確かにそうだ。彼女の言い分はもっともで、私もはじめはその発想に辿り着いたが、そうも簡単に行かない事態なのだ。
「時間があるならそうしようと提案していたと思うんだけど、でも事は急なの」
「急って?」
「その手紙を必要とする会議は明日朝から開かれるわ」
高僧の集まる会議は明日開かれる。多忙な高僧達が唯一休暇日となるのが、明日から始まる感謝祭が催される三日間。通常、感謝祭中に仕事はしないが、会議や親睦会と称した打ち合わせなどが行われ、上層部の意見が取りまとめられる需要な期間で、特に一日目の会議は議事録をとるほどの、重要な会議だ。
「私は今日、その会議の議事録を任せられた。だからこの情報は確かよ」
感謝祭は国を挙げてのお祭りで、この三日間はどこも休業する。親族が集まって楽しく過ごすことが多く、みんな休日出勤を拒み、私に話が回って来たのだった。
「それでも、これから宿屋を回ればバシーノさんを見つけられるかもしれない」
「なら、バシーノさんがどこに泊まる予定だと話していたかしら?」
「……バシーノさんとはルクスまでの約束だったので、そこまでは」
「貴女、バシーノさんの娘ではないの?」
私は心の中にモヤモヤしてた疑問を小さな声で恐る恐る口に出してみた。
娘だったらどうしよう。娘がいるという事はあの方に「いい人」がいたという事になる。どこの美しいご婦人だろうか。想像しただけでそわそわしてしまう。
彼女は俯き加減で首を横に振った。
「いいえ。私はアーザムでバシーノさんを傭兵として雇っただけです」
「そ、そうだったの。私はてっきり娘だと」
大きく息を吐いて、胸のそわそわを追い出すと、胸の奥で「良かった」となぜか呟いてしまった。
「あ、娘だと言った方が私は安全だったんでしょうか」
「そ、そんな。もともと悪いようには決してしないと誓っているの。心配しないで」
彼女は少し動揺したが、すぐに平静を取り戻して真っすぐに私に向き直る。そしてどうしてバシーノさん探しが時間が掛かるのかの説明を求めてきた。頼りなさげに見えるが、しっかりしたところがあるらしい。
「感謝祭が催されるこの時期、ルクスには地方、又は他国から大勢の客が集まってくる。どこの宿屋も満室で、しかも高額になる。その事を知っている者なら誰も宿を取らず、友人知人の家を頼ると思う。バシーノさんの交友関係に詳しくない私には目星もつかないわ」
同期の武官ならまだ調べられるけれども、愛人とかになれば全くの未知の領域だ。
伝令係は家を持たないと聞く。本来学生上がりの駆け出し武官がする仕事で、給料は安く家に帰ることも殆ど無いとのことで、家を持たない者が多いらしい。おそらくバシーノさんも家を持っていないだろう。ルクスの家賃は高いから。
「役所で待ち伏せ出来る時間ならそうしていたけど、私が帰宅しているという事は役所はもうしまっていて、望みをかけるとしたら朝一番から待つしかない」
「なら、私待ちます。役所に連れて行ってください」
彼女の意思は固そうで、宝石のような澄んだ瞳で見つめられると、ますます夫のした事に申し訳なく思ってしまう。
ごめんね。こんなことになって。
「分かったわ。明日、私と一緒に行きましょう。私の姪だということなら怪しまれないと思うし。でも、もし現れなければ封筒を私に渡してくれるかしら?」
彼女は一瞬考えて、そして小さく頷いたのだった。
こうして姪という役を受け入れた彼女と官庁へ出勤したのだ。
ルクスの中央区にある巨大な大聖堂と呼ばれる神教の総本山に中央官庁はある。大聖堂に隣接して、古代建築の名残で曲線の多い建物だ。国のあらゆることはここで決められて、ここで施行されている。
今日は休日で人の姿もまばらだが、本来は官吏や市民でごった返している。人がこんなに少ないと、逆に不自然な気持ちになるくらいだ。
「会議は何時からですか?」
彼女は銀細工の美しい円盤の壁掛け時計を見つめながらそう質問した。
「九時からよ」
時刻は八時四十分。あと十分後には私は会議室に入らなければならない。
「上からの許可が出た。会議の邪魔をしないようにしろとのお達しだ」
上司に確認を取りに行ってくれた受付の男が朗らかに戻って来た。
「ありがとうございます。さ、行きましょう」
「え?でももう少し待っていたいんですが」
彼女は九時きっちり待っていたいらしいが、こちらとしてはそうはいかない。偉い方々の集まる会議に一番下っ端の私が遅刻する訳にはいかない。
「会議の準備があるの。しかも、私は九時より前に会議室に入っていなければならないの」
「そうなんですか」
落胆したように伏し目がちになりながら、ゆるゆると立ち上がある姿は、どこか悲しげだった。
「誰かと待ち合わせしてたのか?」
「いいえ、別に」
受付の男の質問に咄嗟に否定した私を押しのけて、彼女が話に割って入る。
「おじさん、バシーノさんって知っていますか?」
「バシーノ……。ああ、あの男前の武人かい?」
「そうです。最近見ませんでしたか?」
流石、ベテラン受付係。普段見かけない軍部の人間の名前と顔までも頭に入れているとは、脱帽だった。
「確か、昨日の夕方に見かけたな。ここを閉める寸前だったから覚えてた。それであの男と待ち合わせしていたのかい?」
私は余計な事を言われては困ると思い、彼女よりも先に言葉を滑り込ませる。
「昨日、私が学生の頃の話をしたんです。バシーノさんが女学生の間で人気があったと聞いて、この子が一度見てみたいと言って、それで……」
彼女は私が割り込んだことが不快だったのか、少し睨んでいる。
「なるほど、いつの世も軍部の人間は婦女子の憧れの的だからな。俺の娘も青騎士様の本ばかり読んでいたよ」
「そうですよね。さ、小母さんは急ぐんだから、もう行こう」
私は男に愛想笑いをして彼女の手を無理矢理引いて、その場を離れた。
無言で引っ張り続け、速足で辿り着いたのは文章管理部公文書課。私の仕事場だ。
壁一面に書類を収める本棚が置かれ、一人ずつ用意された机が規則正しく並ぶ。今日の出勤者は二人なので、もう一人来ているはずだ。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
部屋に入って挨拶で呼びかけてみると、山の様に積まれた紙の山から声が飛んで来た。
「おじゃまします」
「ん?誰、その子」
紙の山から顔を覗かしたのは、ここの課長であるバンデームさんだ。五十代の背の低い男性で、丸眼鏡がとても似合う所は可愛らしいが、これでも仕事の鬼だ。おそらく今日も会議の準備に早朝から来ている。
「夫の姪で、感謝祭に合わせて家に来ているんですが、夫がまた居なくなりまして」
「感謝祭に独りで留守番させるのが不憫で連れてきたと?」
「そうです」
「入館許可は出ているのか?」
「はい。受付で許可して頂きました」
「なら、いいんじゃないか。姪っ子さん、重要書類ばかりだから触らないように」
彼女は「はい。分かりました」と機嫌良さそうな返事をした。そして大人しく、バンデームさんが指差した椅子に行儀良く座る。
「テレサ、急いで用意しろ。私は先に行っているからな。第一会議室だから、間違えるなよ」
「はい。分かりました」
バンデームさんは書類を重そうに抱えながら、机と机の間を子犬の様に通り抜けて行った。
「テレサさん、今の人は偉い人ですか?」
「公文書課の課長でバンデームさん。仕事となると厳しい人だからここでは大人しくしててくれるかな」
彼女はつまらなさそうに頷いた。
「……青封筒を渡してくれるかしら」
「本当に成功すると思いますか?」
「成功させなければお互い大ごとになるでしょう。なんとか下手な芝居でもなんでもしてやってみるわ」
彼女は不安そうな表情を浮かべながら、胸元から青封筒を取り出して、私に手渡した。紙にほのかに残る温もりが、彼女が大事にしていたことをよくあらわしていた。
「ありがとう。ニト様の手紙を託してくれて」
「それは、必ず届かなければならない手紙だと思いますから」
「私もそう思う。じゃあ行ってくるわね」
「いってらっしゃい」
私は封蝋で閉じられていない青封筒を書類と筆記具の間に隠して会議室へと向かった。
その前にお手洗いに寄り、個室にこもって青封筒の中身を抜き出す。そして白紙の紙に手紙の内容を急いで書き写した。速記は仕事柄得意だ。そして手紙を元通りに折り畳み、青封筒に入れなおす。
私が何故こんなことをするのかと言うと、この手紙の内容を昨夜知ったからだ。
会議の必要書類かどうか見極めるために彼女に封筒の中身を見せて欲しいと頼んだ。しかし彼女は奪われては困ると言って、私の目の前で手紙の内容を音読した。
手紙を書いたのはシャルサックの寺僧の側近を務めるニトーシェという僧侶だった。私は一二度、見掛けしたことがあるだけで、顔などははっきり覚えていなかった人だが、その手紙の内容を目にして彼の為人を知り、心が動いてしまった。
いわゆる感銘を受けてしまったのだ。
文字を残す仕事をしているせいか、気に入った文章を手元に残しておきたい衝動に駆られてしまったという訳だった。
「ニト様。書き写してしまってごめんなさい。決して悪用したりしませんから」
そう青封筒に向かって謝罪して、足早にお手洗いから飛び出した。
第一会議室に到着して、屈強な武人達が出入り口付近で整列しているのを見ると、いつものことながら緊張してしまう。彼らは高僧達の護衛官だ。そして中を覗くと殆どの高僧が席についていた。もしかしたら、もう手紙が運び込まれたのではないだろうかと辺りを見渡す。
広い楕円形の長机を中心にぐるりと椅子が配置されている。そしてその両脇に高僧達の側近が座る椅子が横一列に並び、その後ろに議事録をとる私たち官吏の文机が用意されている。
中央の机には青い炎が灯る銀の燭台が三台置かれ、それぞれの椅子の前には銀製の杯が並んでいる。机のどこにも青封筒が集められた銀盆は見受けられなかった。
まだ到着していない。なら、そろそろ来るはずだ。
通例なら封筒の類は会議中に開封され、その場で議会進行係によって読み上げられる。そしてその封筒はそれまで封書管理担当が保管しているはずだ。彼らは銀製の御盆に封筒を並べてうやうやしく持ってくる。
私は持ち物を見失ったフリをして、出入り口前で物を探し始める。暇そうに立ち尽くしていた武人の一人が「何か忘れたの?」と面白おかしそうに声を掛けてくるが、無視した。
「来た」
筆箱を開いている時、銀盆をいかにもうやうやしい雰囲気で持ってくる男性の姿が見えた。そして私の近くを通ろうとした時、失くし物が見つかったフリをして急に立ち上がり、大袈裟にぶつかる。――はずだった。
「ああ、良かった。見つかって」
と、立ち上がり銀盆の男性とぶつかりそうになったとき、「危ない」とさっきから声を掛けて来ていた護衛官が私の体を支ようと近づいてきて、ぶつからないように間に入ったのだ。
「おおっと。大丈夫か?」
「!え、ええ」
格好をつけて笑顔を振りまくこの空気を読めない男に、大丈夫ではないと怒鳴りつけてやろうとした時だった。
「きゃああ!」
会議室の入り口付近で女性僧侶が悲鳴を上げたのだ。腰を抜かした僧侶が指をさしたのは床を縦横無尽に走り回る一匹の鼠だ。
銀盆を持った男性の側を通り抜けて行こうとするので、男性も驚いてその場に封筒をひっくり返してしまう。これは好機だ!
私は護衛官を振り払って、すぐさま銀盆の男性に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「は、はい」
私は真っ先に封筒を拾いながら、自分の袖に忍ばせていたニト様の封筒を拾った中に混ぜた。
「親切にしていただき、ありがとうございます」
「いいえ。鼠に齧られなくて良かったですね」
よく見ると、二十歳くらいのいかにも鼠が嫌いそうな貧弱な若い男性だった。
会議室の外に逃げた鼠は護衛官たちによって駆除されたようだった。そんな騒ぎの中、ある方がやって来たことによって、一瞬にして静寂が戻って来る。
「さあ、会議を始めましょう」
その一声で辺りの空気はピリッと張り詰め、誰もが表情を引き締めて指定された席へと向かうのだった。この男こそ、三聖人の一人で実質グッタ国の元首、聖人シュヴェリ様。
少し曲がった背筋に緩い一結びの豊かな白髪を流し、口元に笑みを残した表情には柔和さが伺えるが、細い皺の多い目元は冷たさを感じる。歩けば銀装飾が音を立てるほど、身分を現す法具に畏怖すら感じるのだった。
シュヴェリ様が着席すると、全員が位順に着席していく。私は最後の最後だ。重たい扉がゆっくり閉じられる。
感謝祭の朝、会議は始まる。