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夜が明けたとき

作者: けだまのマリー

 窓から空気を伝って冷たさが忍び寄ってくる。ふと気が付けば外が暗い。わたしは枕もとの灯りをつけた。まだしばらくはカーテンを引かなくてもいいだろう。薄暗い静かな部屋に、時折妹の苦しい呼吸の音が響く。その度にわたしはためらいながら彼女の手を握る。そっと、あるいは強く。彼女の手は細く、冷たく、やわらかい。もう幾度こんな夜を過ごしただろう。わたしはこの部屋を出てどこかに行ってしまってもよかったのだ。自分のやりたいことをやって、見たいものを見て、呼びかけてももう応えることのできない妹のことなど忘れて生活するという選択肢も、本当に望めばないわけではなかった。しかしわたしは彼女の枕元に座り、手を握ることをやめられなかった。正直に言うと、いつやめたらいいのかも、やめていいのかもわからなかった。それを彼女が望んでいるのかどうかも。わたしは自分が何をやっているのかわからないまま、一人で勝手に疲労困憊してもうぼろぼろだった。もうどうしたらいいのかわからない。自分がどうしたいのかがわからない。彼女の望みはいっそうわからなかった。


 妹はこの苦しみに蹴りをつけることを望んでいるだろうか? それとも最期の最期まで戦い続けたいと思うだろうか? わたしに求めることなどがなにかひとつでもあるだろうか?


 彼女の穏やかな呼吸が続くとき、わたしは時々その色の抜けた、すっかり痩せてしまった頬に手を添わせる。わたしの不器用な指先が、彼女の冷えた肌に触れる。彼女は目覚めない。親指でそっと頬骨の上をなぞる。この頬がまだふっくらしていたころ、わたしたちはなんでもできたしなんでもした。腹の底から笑ったし本気で怒りもした。わたしがこうやって彼女の頬を撫でると、ああ、いつだってわたしの掌に、あたたかい肌をすりよせてきたものだった。それが今や見る影もなく、青白い静かな寝顔がそこに横たわっている。


 彼女の小さいころのことはよく憶えていなくて、ただただ懐かない子供だったと誰もが言う。愛想が悪くて臆病で、カーテンの陰なんかに一人で座っているのが好きな娘だった。放っておかれればご機嫌で、こちらが構いたがれば時には怒り狂った。思春期を抜けて自分の気持ちを少しずつ理解できるようになってからは、彼女は不器用にわたしや親にも甘えるようになっていった。あんなにつんけんした態度を取っていたのはなんだったのかと驚くほど、甘える彼女は素直だった。どうしてなのか、彼女は甘え方が長いことわからなかっただけなのだった。


 幼いころは甘えてはこなかったし孤独を好んだ彼女だけれど、わたしと一切かかわらなかったわけではなかった。気付けば黙って隣にいたり、何も話さないけどそばにいて過ごす日曜日なんかもあった。もちろん一緒に本を読んだり絵を描いたり、そこらへんを歩き回っていたずらをしたり、二人で遊ぶようなことも一通りはやってきた。わたしは不器用だが彼女はそれに輪をかけて要領が悪く、何事につけても割を食うのはいつも彼女だった。しかしそうかと思うと妙に目端が利いて、面倒なことからは上手に逃れていることもある。いちばんそばで彼女を見てきたと自負するわたしからも、彼女はつかみどころがない、むずかしい娘だったと思う。それとも近すぎて全容を見ることができなかったのか、どちらだろう。


 いちばん長く一緒にいた。いちばん長く彼女を見てきた。それこそ親より友人よりも、ずっと彼女のことをわかると思ってきたのだ。いや、いちばんわかるのは自分だと思いたかった。だから毎晩こうしてわたしは彼女の枕辺に座る。いつのまにか真っ白になってしまった顔を、ただでさえ細かったのに、―いや、ふとっていたときもあったっけ―、それでも基本的には細かった、それなのに骨と皮になってしまった腕を指先を、まつげの下に濃い影の落ちる寝顔を見ながら、わたしはここを離れられない。


 時々彼女が身じろぐ。時々呼吸が荒くなる。時々うっすら目を開ける。その目はこちらを見ているようであり、何も見ていないようでもある。その顔を見ているとわたしはどんどん怖くなる。何もできない自分に耐えられず、かと言って何ができるでもなく、わたしはただ彼女の手を握る。逃げ出したい気持ちと彼女を抱きしめたい気持ちに引き裂かれながら、わたしは彼女の頬に手を添えた。いつものように、そのうすい頬に、血の気のない肌に、手を重ねる。彼女が目を閉じた。いつか明るい陽射しの下で風に吹かれながらそうしていたように、わずかに頬をすりよせた。いつだってわたしたちの間でだけ交わされた仕草だった。ああ、この娘はわかっているのだ、わたしが隣にいることを…。妹が静かに眠りに落ちたらしいのをいいことに、わたしはようやく彼女から目をそらして、うつむいた。目から熱いものが溢れるのが止められず、ただただ嗚咽をこらえるのに必死になった。もうあんな日は戻ってこないのだ。花盛りの庭で風に揺られて、彼女がほほえむ日はもう二度とない。それがわかる。胸の奥が熱く、重く、わたしは目元を拭うこともできなかった。


 外はすっかり暗くなっている。部屋の温度は保たれているけれど、わたしは足元から底冷えのする感じがして、何か冷たい腕に捕まってしまったように動けなかった。窓の外に星は見えない。今日は昼から曇っていた。夜の星もきっと厚い雲が隠したのだろう。一秒一秒が進むのが遅い。明日のこともあさってのことも、来週自分がどうしているか、来月は、来年は、自分が朝起きて食事をして出かける、それだけのことすら思い浮かべられない。世界中が真っ暗だった。どこにも光が見えない。あるのはこの枕もとのたよりない灯りだけ。こんな小さな灯りひとつで、どこへ進んだらよいのかもわからない。きっと進んだ先に彼女はいないのに。いつまで一緒なのかもわからないのに。


 ぼんやりと、一緒に過ごした日々のことに思いを馳せる。あるいは、彼女のいなかった時間のこと。大きくなってからは仲がよかったとはいえ、もちろんわたしにはわたしの、彼女には彼女の生活があったわけである。交友関係や学校や仕事、そんなものはそれぞれにいくらでも持っていた。それでも家に帰ればその日あったことを共有したし、ただただお互いの話を聞く時間が、ちいさなことではしゃぎあえた時間がいとおしかった。わたしはいつかそんな時間のことたちを忘れてしまうのかもしれない。大切なことほど大事に大事にしまっておいて、どこにやったかわからなくなるのだ。そうして大切なものを持っていたことすら忘れてしまう。


 その一方で、もうここのところずっと、そんな穏やかな時間は持てていないことにも思いが及んだ。夜はこうして一晩中付き添い、朝がきてようやく眠る。家族と交代で彼女の様子を見て、自分の生活は枕辺の夜を中心に回っている。夜眠らない生活は少しずつ心を蝕んで、明るい陽の下でも悪夢を見せた。何がいけなかったのだろうと自問自答し、答えの出ないことにいらだちながら眠りに落ちる日々。よっぽど顔色が悪かったのだろうか、まさか一晩中目の前で見ているわけじゃないんでしょう? と問われたときに、その通りなのだと答えることができなかった。自分がやっていることはとても愚かなことなんじゃないか―目を離しているのが怖くて怖くてほんとうはそばを離れるのも怖いのだと、知られたら呆れられるのかもしれない、それがまた怖かった。恐らく家族は全員似たような状況だったのだろうが、どうしてかわたしたちはそれを共有することができなかった。悲しみも恐れも、わたしたちは互いの前で口にすることができなかった。それでも、いやそのためなのか、わたしたちはもうぼろぼろだった。


 苦しい時間はまるで永遠のようだった。終わらない苦痛を与えられ続ける彼女を、何もできずに見守ることがわたしに下された使命か罰か、何かそんなもののように感じられた。早く終わってほしかった。苦しむ彼女をもう見ていられなかった。しかしわたしにできることがないのはもちろん、どんな薬ももう彼女を救えないこともわかっていた。かと言って一線を越えてくださいと医師に頼むこともできなかった。そんなことを口走るほどには気が狂うことができなかったのだろうか、いいやほんとうはそうではなくて、それでも彼女を失うことに耐えられなかったわたしのわがままなのだと思った。


 そうして苦しみは彼女への愛すら蝕んだ。彼女を救うことができない苦しみにわたしはもう疲れきっていた。お茶を飲もうと席を立ち、紅茶のパックを開かないまま水に浸けていたり、封を切った茶葉をコップではなくごみ箱に注いだりしていた。食欲がわかないけれど何か食べようと台所に立つのに、気付くと冷蔵庫のドアを開けたり閉めたりを繰り返している。当たり前のことができない自分にはっとする。段々理論だった考えができなくなっていって、何もわからなくなってくる。ただ自分の苦しさだけが目の前にある。夜ごと枕辺を離れられない自分。誰に課されているわけでもないのに妹から目を離せない自分。昼間は疲れで起きていることができず、目覚めたころには日が暮れかけている。やるべき課題は山積しているのにどれひとつとして手をつけられていない。このままでは大学は確実に留年するし、受け取った連絡はすべて放置していた。こんな生活が続けば友人との関係も壊滅するだろう。どんなに心配してもらっても、わたしのほうが一言も返せないでいるのだから。この日々のために失ったもののことを考える度に、それより妹の存在が軽いはずはないのに、気が遠くなるような気がした。もうこころもからだも限界だった。この娘さえいなければ楽になれる。この娘が早く死んでくれればこの苦しみはすべて終わる。それを芯から願っている自分に気付く。どうしても彼女のいる時間を手放したくないのに、もうこの時間を続ける力がわたしに残っていなかった。しかしそれでもやはり彼女がいとおしかった。こんな状態になっていても、どんなに苦しんでいても、この願いがどんなに身勝手で醜くても、そばにいてほしいと願っている自分を否定することはできなかった。


 妹が激しく咳き込んだ。わたしは慌てて身を起こし彼女の名を叫んだ。丸く見開かれた妹の目に、そのときわたしが映っているのを感じた。彼女がわたしを今見たとそう思った。わたしは彼女の名を叫び、それから、次の瞬間には部屋は静まり返っていた。


 わたしは呆然として、なにをすべきかもわからないまま彼女の顔を両手で包んでいた。そっと両方の目を閉じてやる。突然のそれは激しく、すばやく、わたしに何を思う余裕も与えてくれないで去っていってしまった。もう彼女は苦しまない―、そのことだけが頭に浮かんでいた。そして、渦中にいる間には永遠のように思えた時間のすべては、過ぎ去ってしまえば一瞬のことだったように思えた。その瞬間、窓の向こうに光が射した。いつの間にか雲は切れ、その隙間からまばゆい、あまりにもまぶしい光が射しこんできていた。暗闇に慣れた目を貫くように、この夜のすべてをさらけ出そうとするかのように、立ち現れた光に静かな部屋がゆっくりと照らし出されてゆく。明るい世界の夜明けだった。世界は光に満ちてうつくしかった。そのどこにも妹はいない。彼女を失った世界がこんなにもうつくしい。わたしの求めてやまなかった救いのような光。それを得た今、しかしわたしの胸の中は空っぽで、今まで何度頬を濡らしたかわからない涙が、今までのどれよりも熱い涙が、輝く朝陽を受けて輝きながら、止めようもなく滑り落ちていった。

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