6階
「今日も空が綺麗」
彼女はふと、一言そう漏らした。
そこには一人のOLが、草原の中で体育座りでたたずんでいた。
ひゅう、ひゅうと聞こえる風。
遠くのかすんでほぼ見えないような山から風がここまで届いているかもしれない、と考える。
静寂は、私のささくれた心をやさしく、そしてしっかりと包み込んでいった。
ここは、日本ではない、じゃあ海外でもない、地球ではない、宇宙空間にある惑星でもない。
ここはパラレルワールド、いわゆる異世界。
人が一人もいない、パラレルワールド。
そんなところをひょんなタイミングで見つけてしまった。
私はその場所を数か月前に見つけてから、何回もここに通い詰めていた。
給料日になったら、豪勢にご飯を持ってきて、ここで食べたりした。
私は接客業をしていて、人と触れ合うことでお金をもらっていたから、
人付き合いのコツをつかみ、人の心に入っていくことを仕事の一部として見てしまっていることを、
とあるタイミングで自覚してしまい、人に対する自分を嫌いになっていった。
だから、静寂に包まれるここが、息がつける場所だった。
でも、たぶん、私がいるべき場所はここではないんだな、と毎回来て思う。
今日は夕暮れがきれい。ここは日が暮れると途端に寒くなる。
もう帰ろうかな。
女性は、草原にポツンとあるエレベーターに戻った。
彼女がエレベーターのボタンを押すと、エレベータはガタンと開き、ゆっくりと中に入っていった。
あの時は、純粋に、ここから消えれば何でもいいと思っていた。
だから、私はあてもなく道をペタペタと裸足であるいていた。
0時、東京、雑居ビルが並ぶ路地で、彼女は歩いていた。
ざあざあと雨が降っていて、ずぶぬれになりながらロング缶のストロング系のお酒を片手に、ふらふらと歩いていた。
理由は、言えない。
でも、そうなるときは人間には必ずある、少なくとも私にはあった。
結局あのビルについた。ずいぶん社畜具合がこの2年で身に染まったんだな、と自嘲する。
ビルの扉は開いていて、ホールにかけてある時計は午前0時を指していた。
いつもの場所で古いエレベーターにのり、屋上階である6階を押した、はずだった。
彼女は上を向いてぼーっと階数のランプが左から右に移動する動きを見ていた。
しめった個室は精神をおちつけるのにはとても役に立つ。
ガタン!という音とともにエレベーターが止まった、そして停電。
どうしたんだろう。いつもは動いているのに。
夕方そういえば雷がひどかったのを思い出した。そしてそのあと雨が降ったのよね。
もうすぐ死ぬ人間でも空のことを考えるんだね、と自嘲する。
彼女は壁によりかかって天井をぼーっと眺めた。
何も見えない。
東京の夜空と変わらないや。
またのそりと動きだした。
1階から6階まで人を運ぶのにどうしてここまで時間がかかるんだろう、と心配になるほど、
このエレベーターの動きは遅かったけれど、こうやってぼーっとして時の流れを感じるときは、
このエレベーターののろさが逆にありがたかった。
いや、止まったのは怖かったんだけれど。
一番右のランプが点灯して、6階についたことを知らせる。
がちゃん、エレベーターが固定した音を立てて、扉が開いた。
黄色い光がこのじめっとした個室に差し込む。差し込んでいく?どうして?
屋上なのだから夜である今は真っ暗のはず。ここは、本当に6階なの?
扉が完全に開くと、とてもまぶしくて直視できなかった。でも、この先にはなにか、必ずある。
光の先から、まるで蛍光灯に向かっていく虫のように引き寄せられてペタペタと進んだ。
「どうして・・・・・・?」つぶやいてしまった。つぶやかざるを得なかった。
6階だった。でも、6階じゃなかった。「そこ」は、広い、広い草原だったのだ。
おかしい。
このビルはきれいなビルときれいなビルの間にクモが張り付いているような、そんな小さくておんぼろなビルだ。
おんぼろなビルに、こんな奥行きなんてないはず。
柔らかい感触を裸足で感じる。
一歩、二歩と、草原を歩いた。地面が暖かい。
風がなびく。草が波を立てるように揺れる。
身体を包む風、この世界は私に敵意を向けない、そんな気がした。
私は走った。一心不乱に走って、叫んだ。
「あははははっ!あははははは!!!!!」
叫んで、叫んで、笑った。酒に酔ったんだろうか、夜なのに、お昼のような暖かさだし、太陽が出てるし。
足がつっかかって転んだ。でも心地いい。すべてが暖かくて、よかった。
いい。とてもいい。天国に来たみたい。いや、天国よりいいかもしれない。
でも、ふとここは来てはいけないという思いが湧いてきた。
この思いが脳か、それとも心かはわからないけれど。
彼女は少し、前に進む足を止め、お酒をこくり、と一口飲み、踵を返した。
エレベーターに戻ろう。これが夢かもしれないし。
エレベーターは、この世界に来てからたった数分くらいしか経っていなかったのに、もう草が生えていて
(そもそもエレベーターがまだあったことに驚いた。ありがたいんだけど)、草を取り除くのに手間取った。
「草がエレベーターを取り込もうとしているみたい。わからないけれど」
草を取っ払って、エレベーターの下ボタンを押す。
どうか、動いていますように。
チーン、と音が外れたようなチャイム音とともに、扉がのっそりと開く。
良かった。動いてた。
不思議なことがあまりにも多すぎて、一回戻って、ベッドに入って、考え直さないと。
じゃないと駄目な気がする。おかしいもの。
お酒に酔ってたから、「あのような」ことが起きたのかもしれないし。
マンションに帰宅して、服を脱いで、お風呂に入り、ベッドに潜る。
彼女はコップをベッドの横に置いて、それに水を注ぎ、
飲みながらカーテンの隙間からちらちら見える黒い夜空を眺めた。
「あそこは、私が作り出した幻影だと思う」
彼女は一人、ぽつりとつぶやいた。