花街の大晦日
京ことばについて、口語と文語が混ざっています。
「見習いさーん、まだ来ぃひんのー?早ぅしよしー先生来てるえー」
入口から声がかかって、まだ食べている途中の二人は焦る。
「…うち、まだあかん。きーちゃんいける?」
小桐は言われることがわかっていたように、小志んに目も合わせずに急いで蕎麦を掻き込むと水屋に器を置いていく。
「えぇよ、うち先行くし、志んちゃんも早よしぃや、器はあとで洗うし、先生待たせたらあかんよ」
せっかちな小桐は小志んの返事も待たずにダダダと駆けていく。
腰巻の上には肌襦袢。すぐに脱げる浴衣に半纏を羽織って、白粉で汚れないように襟は大きく抜いているからほとんど半裸だ。
素足のつま先に廊下の板敷は冷たいけれど、今掻き込んだ夕餉を食べる間に少し温められたから、ぬくもりが逃げないようにできるだけつま先だけで走り抜ける。
「こんばんは先生ぇ、遅ぅなってえらいすんまへん、おたの申しますー」
着付け部屋に入ると同時にしゃがみこんで右手を床に付ける。
「やっぱまたきーちゃんが先やなぁ、志んちゃんはなかなか辛気臭いの直らんなぁ」
「うちもまだまだどすぅ」
笑顔で言いながら浴衣と半纏を重ねたまま脱いで袖だたみにするも、半纏の綿に阻まれるのがわかっているから、ほぼ丸めて脱衣かごに投げ込む。
着付け師の先生の前に立ち、上半身の肌を晒して背筋を伸ばし、肌襦袢の襟を軽く合わせる。
「おたの申します、先生」
言い終わる前に着付け師が広げる長襦袢に両腕を通す。
襟を整え、壁に打った釘にぶら下げた紐で腰を縛っている間に、肩にかた襟を置いてくれるので、紐を前で交差して後ろへ回し、もう一度前に戻してちょうちょ結びに縛る。
両袖の袂をそれぞれ握り締めて、少し腰を落として二枚袷の袖に手を通しながら袂を手放して手を抜けば、上手く袖の中に襦袢の袖が収まる。
次々と渡される紐や前板にももう慣れたもので、手際よく、呼吸を合わせて衣を重ねていくことができるようになった。
「えぇか、引っ張るえ」
最初の内は帯を締めるにも「いち、にの」と掛け声をかけてもらっていたが、それももう不要になっている。
舞妓になる前の半分の長さのだらりの帯は、これでも本物に比べれば長さと豪華さの分だけ軽いらしい。
「…きーちゃん、今夜はをけら火もらいに行くんか?」
「へぇ、お母さんがどこかで行けたら行きよし言うてくれはったんで、行かさせて貰うつもりどす。先生は今晩はどないしはるおつもりどすかぁ?」
帯枕の紐を固く結んでいると、帯の中に詰め込む前に帯揚げが渡される。まだ、着付け師さんの速さに完全にはついていけないが、それでも会話にだって余裕が生まれていることに心中得意になる。
「うちもおんなじや。…やっぱどっかで行かんとな、今年が締まらへん」
「そうどんねぇ…うち、去年は寒いし待つし、眠たいしでお母さんにえらい世話になってしもぅたから、今年は日付が変わる前に行きとおす」
「そやね、そうした方がええわ。暖かくして行きや」
「へぇ、おおきに先生、そうさせてもらいます」
にっこり答えて、帯留めの位置を合わせれば着付けは終わり。
「おおきに、先生ぇ」
帯を締めている間に志んちゃんも来ていたから、すぐに場をあけて裾をからげて紐で結ぶ。この紐は見習いになる前に屋形のお兄ちゃんがうちと志んちゃんの名前をそれぞれ入れてくれはった。男はんなんに器用なお人や。
「先生ぇ、遅なってすんまへん、おたの申しますぅ」
志んちゃんはすでに着付けを始めているから、白粉で襟を汚さないように手ぬぐいを襟元に軽く挟んでから、急いで紐持ちの手伝いに行く。
「じゃ、二人とも次会う時は新年やな。晦日やし、お気張りや」
「へぇ、おおきに先生ぇ、今年もえらいお世話になりましたぁ、また年が明けたら挨拶寄せてもらいますぅ」
「おおきに先生ぇ」
着付け師さんが慌ただしく去っていくのを手を付いて見送ってから、着付け部屋に戻る。
着物が汚れないように、着崩れないように気を付けて、手ぬぐいで前掛けをしてからかんざしを挿して、下唇だけに紅を差す。
「…あ、きーちゃん、今日でまねきのかんざしも終いやね」
「そやね。…明日んお昼間はお手入れして松竹梅に変えよぉー」
話しながらも手早く支度を済ませ、持ち物を籠にまとめて、袂と襟にも挟んで玄関に向かう。
「「行ってきますお母さん」」
「行っといでやす。遅なったら検番から連絡するさかいに、をけらさん行こな。小ぎんはんの言うことよぅ聞きよしや」
「へぇ、おおきにお母さん」
火鉢の前のお母さんに返事をして、そのままぽっくりで出かける。外の寒さは玄関でも感じられるから、覚悟を決めて引き戸を開ける。
抜いたうなじに冷気が飛び込んできても、もう慌てない。案外鍛えられているのだ。
「おおきにー」
ふすまが開いたら息を合わせてご挨拶。両手の指先は揃えて、裾と袖は正面から美しく見えるように扇状に広げておく。
幅が広い帯がお腹につっかえるけど、ちゃんと前髪が床に付くギリギリまで頭を下げる。
たっぷり間をとって、周りと息を合わせて顔を上げたら、すぐに宴席に侍る。
(わ、いっぱい…)
広い宴会場には男はんよりも芸妓、舞妓の方が数が多い。
(お大尽さんや…)
侍る隙間もなさそうでどうしようかと思っていると、姉さんがすっと立ち上がり上座の男の元へ行く。目線を投げかけられただけで了解して、そのままあとを付いていく。
「おおきにお兄さん、おいでやす。お久しぶりどす、小ぎんどす」
膝を付いて上座の男に挨拶をする姉の後ろに座って、「おおきにぃ」とだけ言って手を付き頭だけ下げる。年はいくつであっても、花街ではお客さんはみんな『お兄さん』と呼ぶ。
「おぉ、小ぎんか、後ろの小っちゃいのんはどないしたん?」
「へぇ、うちの妹として引かせてもらおう思ってます」
言いながら目線で紹介されるので、その場で手を付く。
「おおきにお兄さん、小桐どす」
「おおきにお兄さん、小志んどす」
「ははっ、まだ慣れてへんなぁ。小ぎんも一度に二人も引くなんて豪気やないかい」
「そうどすのん、うちも久しぶりに妹引くし、一度に二人もお母さんに頼まれてしもぅてどないしよ思たんどすけど、この子たち二人とも真ん丸顔どっしゃろ?ついつい可愛らしゅうて…年が明けて春になる前にまた見世出しさせてもらいますし、そん時はぜひまた、おたの申します」
「あぁ、えぇでえぇで。そん時はまた由喜代に声かけぇ」
「へぇ、おおきにお兄さん、おたの申します。 由喜代さん姉さん、おたの申します」
「「おたの申しますぅ」」
にこやかに話す間に酒を注ぎ、姉の言葉からここという所でまた頭を下げる。宴席に広がって挨拶、御酌。もちろん先に侍っている姉さんらにも挨拶をすべく動いていく。
やがて呼び出されて次の座敷へ向かう。
「ほら、アンタらはよ行くえ。小桐、すぐやから紐でしばらんと摘まんで行くし。小志ん、ちゃんと由喜代さん姉さんにご挨拶できたんか?」
「へぇ姉さん、できましたぁ」
「きーちゃんはどうえ?」
「できたんのんどすけど…奥に居はったじゅん湖さん姉さんと照澄さん姉さんにご挨拶できしまへんどした…」
「あぁ、お座敷いっぱいやったもんなぁ。今晩は仕方ないし、また今度お礼言うとき。…今のお兄さんは由喜代さん姉さんのお客さんやし、見世出しも来てくれはる言うてくれはったし、由喜代さん姉さんに今度よぉお礼言いときよし」
話しながらも手早く裾をからげて草履を履く。背の高いおこぼを履くと草履の小ぎんさん姉さんよりも舞妓の背が高くなる。
「おおきにお母さん、小ぎんどすぅ」
「おおきにお母さん、小桐どす」
「おおきにお母さん、小志んどす」
二軒隣ののれんをくぐりながら三人連なるように挨拶をして、次の宴席にご挨拶に回る。
(今日は慌ただしぃなぁ…)
姉さんに従っていくつかのお座敷を回り、名乗ってご挨拶。まだ上手に話せないから、せめて姉さんらの邪魔にならないように笑っている。
花一本で次々と回らせてもらい、道々や控えの間でも同じようにあちこちを回る姉さんらに次々と挨拶を交わしていく。
ばたばたしているから、どんなお座敷でどんな人に会ったのか、もう覚えきれない。
(姉さんらだけでも覚えとかんと…)
そろそろ夜も更けて、眠たくもなってきた。
「じゃあ小ぎん、折角だしをけら参りに行こうか」
「おおきにお兄さん、嬉しおす。…小桐はん、お母さんに言うてお兄さんらの外套持ってきよし」
小ぎんさん姉さんのお客さんのお座敷で少し落ち着いて、しばらくしてから姉さんがお兄さんにをけら参りを頼んでくれはった。
ふすまの外に出ると同時に早歩きにして、小志んと共に急いでお茶屋のお母さんに伝え、外套を座敷に持ち帰る。
外の空気は冷たくて、眠気も飛ぶくらいに頬がキリリと引き締まる。
花街は明かりを内に秘めるから、見た目は普段とそう変わらないが、それでも大晦日のそわそわした雰囲気になんだかわくわくする。
行きしなに少しだけ席を外させてもらって、一旦屋形に戻ってお母さんにをけら参りに連れてってもらうことを報告する。
「そやったら、履きもん変えていき。おこぼのまんまやったら階段で転ぶえ」
小桐と小志んは草履に履き替えて、角で待ってくれているお兄さんらと姉のもとへ急ぐ。
八坂さんへ近づくほどに人が増えていき、広い石段を登るころには行く人と帰る人とできれいに道が割れている。
帰る人たちが持つをけら火は、ぽつぽつとほんのり灯るように闇夜に見えて綺麗だった。
(蛍みたいや…)
寒いし眠たいし、鼻の奥が寒さでツンとするけど、それでも大勢の他人と迎える年の瀬は悪くない。たまに見かけるよその町の芸妓や舞妓も笑い合っていて、目が合ったら会釈だけ交わす。
八坂さんにお参りして、今年一年の無事に感謝と、明日からの新年が良いものになるように手を合わせる。合わせた手の指先を見たら真っ赤で、じんじんと痺れるように冷たい。
をけら火は危ないからやめときとお母さんに言われたので、お兄さんらが火に近づいている間、目の届く場所で小桐と小志んは揃ってしばし待つ。
「…なぁ、きーちゃん、もう今年も終わんなぁ」
人出の喧騒と、ゆっくり鳴り続ける大きな除夜の鐘を背景にしても、隣の小志んの声は不自由なく聞こえる。
「そやね…常は夜にこんなに人が居ぃひんのに、ここに居る人みんな新年の為にここに集まってんのんやろなぁ…」
見渡す限り全員知らない人だけど、みんな表情が明るいから、こっちもほんのり明るい気持ちになってくる。
(全然知らんお人らやのに、明るい気持ちのおすそ分けや…)
「年が明けたらあと少しで見世出しやん。うちらも舞妓や。うち、上手いことできるかまだちょっと怖いなぁ…うちな、きーちゃんと一緒で良かったって思てるんよ。いつもおおきに」
「うちやってそうや。志んちゃんが居るからなんとか気張らんとって思てるよ、いつもおおきに。…志んちゃん見てると、うちはもっとお三味が上手ならんとあかんって思うわ」
「うちかてそうや。…さっき八坂さんに来年はもっと踊りが上手なるようお願いしてん」
目を合わせて、二人でくすくす笑う。
「…まずは、始業式の『寿』やね。小ぎんさん姉さんに恥じかかせたらあかんし、志んちゃんまた一緒に練習しよ」
そろそろをけら火の最前列に顔が見えるお兄さんらが手を振ってくれたから、笑って振り返す。
「うちこそおたの申します…あ、でもうち、黒紋付着せてもらえんの、ちょっと楽しみや。生まれてから一度も着たことあらへんし」
「えらい重たいらしいけどな。…うちかて楽しみえ」
きれいな着物を着せてもらって、美しくしてもらえることに心躍らない女子はいない。
「な、来年もよろしゅう、おたの申します」
「うちも、おたの申します。…うちらはただの朋輩やのうて姉妹や。お座敷出ても、仲良ぅしよな」
空気は冷たくて鼻もつま先も痛いくらいだけど、心は明るい。
来年がどんな年になるかはわからないけれど、時間は進むし体は育つ。この道を進むしかない。
自分にも、ここに居る人たちにも、みんなに少ぅしずつ良いことがありますように。
ありがとうございました