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作者: 丹羽美幸


扉を開けると、甘い花の香りと、湿気を含んだ空気に包まれる。その空気を吸い込むと、僕の体は弛緩され、強張った神経の糸が緩む。植物園内の温室は、緑や樹木が活き活きと、自由な姿で呼吸をしている。天井近くには、ハイビスカスやブーケンビリアが咲き乱れ、地中から僕の背の高さくらいまでは、シダやヘゴの葉が生い茂っている。温室という密閉された空間で、守られた環境で生きる植物たち。自然の猛威に晒されることも無く、思い思いに葉や花を咲かせ、表面には露を乗せてキラキラ光る姿を見せる事もある。亜熱帯気温に包まれた植物達の放つ、怠惰な空気が好きだ。

平日の植物園内の温室はほとんど人気が無い。僕の営業ルートの途中に植物園があり、たまにここに来て仕事をサボる。缶コーヒー片手に、木製のベンチに座りながら、ぼんやりと植物達を眺める。サボテンは化石のように鎮座しているけど、僅かな水分と太陽の光で光合成をしているんだよな。僕の目の前で咲いている「ラッパバナ」。ラッパのような膨らんだ花弁の中央から花粉を付けた柱頭が伸び、花弁の中を覗くと朱色の筋が走っている。なんとなく卑猥だな。アダンの木は無数のトゲを葉に付けていて、互いに絡み合っている。武装をしているみたいだ。一つ一つの植物をよく観察すると、その個性や姿の違いに改めて驚く。一つの小さな種から、こんなにも無数の形状の葉や花が誕生するとは。彼らは、基本的に水と太陽の光だけで成長する。驚異の生命力だ。

僕を取り巻く世界なんて……ちっぽけだ。人間と植物では、当たり前だけど生きる世界が違う。だけどここにいると、僕は肩に荷がおりて、ほっと息がつける。

子どもの時から読書やモノ書きが好きで、ライター職を志望した。新卒で入社した出版社では、主に求人誌に掲載してくれる企業探し、その訪問営業がメインだった。真剣に自分を見つめて就職活動をしなかった僕が悪い。早く内定をもらいたくて、少し妥協して入社した会社では、毎日が営業周り、片手間のように原稿を作成する日々を過ごし、理想とはかけ離れた生活を送っている。まだ二年目。簡単に辞めるわけにはいかない。僕はいつか変われるのかな。いつまでこんな生活が続くのだろう。頭の中で自問しながら、目の前に広がる緑の園をぼんやり眺めていると、いつものようにサラサラと色鉛筆が画用紙の上を滑る音が聞こえてきた。

温室内のヒーターが発する鈍いモーター音と、色鉛筆と画用紙が奏でる三重奏は、静寂な空間の中で立体的に浮かぶ。その音源を捜す。あ、いた。やっぱり今日も来ている。

植物を、熱心にデッサンする女性。彼女はいつも帽子を深く被り、肩までの真っ直ぐな髪が横顔を隠しているから、どんな表情をしているか分からない。きっと、ほぼ毎日ここに来ているのだろう。彼女は小さな折り畳み式の椅子を持参していて、通路の邪魔にならないように、小さく体をすぼめ、スケッチブックと植物の間のみ視線を動かしている。僕は、彼女がどのような絵を描くのがとても興味があった。だけど、話しかける勇気が無い。彼女の周りは、人を寄せ付けないオーラが何重にも囲われているようだ。だけどその日、僕は彼女の声を聞きたかった。緊張するけど好奇心が勝った。僕は彼女の側に歩み寄った。スケッチブックには、色鉛筆やパステルで描かれた草花が、画用紙から飛び出しそうなくらい緻密に描かれている。色の濃淡が、花びらの空気感を醸し出している。

「絵、好きなんですか?」そっと語りかけるように僕は尋ねた。彼女はハッと顔を上げて、僕の顔をちらと見て俯いてしまった。初めて見た彼女の顔は、化粧気が無く、白くて透き通った肌をしていた。年齢は僕と同じくらいだろうか。

「あ、ごめんなさい。気になっただけです。無理に答えなくていいです。」

彼女は僕の目を見て一呼吸おき、小さな声で囁いた。

「植物療法をしています。」僕は次の言葉を待った。

「植物と対話をして、その姿を描写します。対物するものと向き合う練習をしています。」

「そうなんですね。じっくり向き合うと、草花の呼吸が感じられる絵が生まれそうです。」

僕はものすごく見当違いな発言をしているかもしれない。だけど、うまい台詞が見つからない。僕は好奇心だけで彼女に声をかけるべきではなかった。

「緑に囲まれていると、心が落ち着きます。私はここが好きです。」少しだけ、彼女は微笑みながら呟いた。

「僕もここが好きです。」彼女は目を細めて僕を見つめた。そして俯き、スケッチブックを構えて再び植物と対話を始めた。僕は缶コーヒーを飲み干す。舌に残る砂糖の甘さが、なぜかとても美味しく感じる。深呼吸をしてベンチから席を立つ。色鉛筆を動かす彼女を一目見て、温室を出た。好きな場所があることの幸せ。当たり前のことだけど、僕はそれを再認識して温かな気持ちに包まれる。いつか彼女の描いた絵を見せてもらえたらいいな。傾き始めた陽の光を背に、さっきよりも軽やかな足取りで園内を横切る。


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