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幸せの黒猫喫茶へようこそ  作者: 尾多 悠
二章 少女達の事情
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少女達の事情(4)

 昨夜、喫茶店で梢が見たもの。それは実に判り易く、度し難いものだった。


 明莉の鞄の中身は混沌としていた。

 乱雑に突っ込まれた教科書とノートはぐちゃぐちゃに折れ曲がり、センスの欠片もない汚れたマーブル模様に侵されている。

 わざわざ中をひらけて確かめる気も失せるくらいに、暗澹たる気持ちにさせる――その汚れの正体が美術の授業で使われる水彩絵の具だと、梢はすぐに察した。


 そして、絵の具がぶちまけられているのは教科書類だけではなかった。

 明莉が言った、お弁当箱。小さめの可愛らしい容器の中には食べかけのおかずが少量残っていて、それらは有り得ざる色彩で穢されていたのである。

 どうしようもなく気分が悪くなった梢は我慢できず、その場で弁当箱だけは洗うことにした。

 決して意図したわけではないが、梢は明莉の秘密を暴いた形になってしまい、明莉は自宅に帰ってからその事実に気付いたのだ。


「勝手な真似をして悪かったね」

「……ううん、それは、いいの。助かったくらいだから……でも、どうして?」

「汚いものを放っておけなかっただけだよ。あたしは綺麗好きなんだ」


 冗談めかした言い方で肩を竦めて見せたが、梢は真剣だった。見過ごせなかったというのは嘘ではない。

 ただ、その一方で深入りしたくはないというのも本音ではあった。昨夜の時点で明莉のおおよその事情を察したからこそ、生徒手帳を届けるのにも気乗りしていなかったのだ。


「あんたさ、どうして自分なんかを助けたの? って顔してるよね。でも、それ勘違いだから」


 だから今一度、ここで梢は一線を引くことにした。


「雨に濡れてる迷子がいれば、そりゃ放っておけないし、そいつの忘れ物を届けるのも普通でしょ? 何も特別なんかじゃない。あんただから助けたわけじゃないの」


 多少親切にしたくらいで、仲良くなったと思われては困る。そんなことで、そう簡単に特別な存在になどなってたまるものかと。


「妙な期待はしないことよ。今日、あたしはあんたの忘れ物を届けに来ただけなの。これ以上、あんたの事情に積極的に関わるつもりはないから」

「そ、そんなつもりで訊いたわけじゃ……ありません」

「ならいいけどね。けど、くだらない連中に目を付けられたのは失敗だったわ。まったく、学校では目立ちたくないってのにさ」

「ごめんなさい、わたしのせいで……」

「ああ、ごめん。あんたを責めてるわけじゃないよ。訊きたいことはそれだけ?」

「はい、お陰で……すっきりしました。あ……!」

「まだ何かあった?」

「お借りしていたお洋服を返さないと。お店の制服と、お姉さんのセーターと……」

「あ~……、そういえば、そうね。千香さんのことだから、あんま気にしてないと思うけど」


 ずぶ濡れの制服は洗濯したが乾かす暇がなかったため、明莉は千香が貸し与えた服のまま送られたのだった。生徒手帳の件だけでなく、そういうところでも布石を打っていたとは抜かりがない。


「あ、あと、ですね……」


 梢は昨夜の事を思い返しながら、おにぎりを箸で摘まんで口に運ぶ。すると、食事の手を止めた明莉が、何やら顔を真っ赤にして、もじもじと言いづらそうに両手を擦り合わせていた。


「……いいよ。全部言いなって」

「はい……。じ、実は下着もお借りしていたんですけど」

「へえ、あ、そう。まあ、そりゃそうか」


 あの雨だ。下着が無事ではなかったのも別に不自然な話ではない。他人の下着を借りるのは、梢も抵抗があるので明莉が恥ずかしがるのも無理はないだろう。


「それで、それが木野内さんので……」


 聞いた瞬間、ぶっ、と梢は口に含んでいた白飯を吹き出した。


「うわ!? だ、大丈夫ですか!?」


 突如として噎せ返る梢に驚いた明莉が、その背を擦ろうと手を伸ばそうとする。だが、その前に立ち直った梢が目尻を指で拭い、鋭い眼光で明莉を射抜いた。


「あんたね……千香さんになに言われたか知らないけど、断りもなく他人様の下着借りてんじゃねえよ!」

「ご、ごめんなさい! で、でもでも、上はサイズが合わなかったので、借りたのは下だけで!」

「そういう問題じゃねええ! っていうかさり気なくなめてんのかコラああ!!」

「ご、ごめんなさいっ。ごめんなさいぃ!?」


 冷静さを欠いた梢の怒号に、涙目となった明莉が頭を下げ続ける。そうして一頻り喚いたあと、梢は脳裡に浮かぶ高笑いする千香の姿に大きなバツ印をつけ、感情を押し殺した息を吐いた。


「くそっ、千香さんめ。今日会ったら、絶対にとっちめてやる」

「あ……今日も、行くんですか?」

「まあね。学校のある日は数時間くらいしか入れないけど。基本的に毎日顔は出してるよ」

「そ、それじゃあ……えっと、明日、わたしも連れて行ってもらえませんか? ……もし、よかったらなんですけど……」


 梢の鬼の形相に怯えてしまったせいか、明莉はおっかなびっくり語尾を濁して、そんな風に話をもとに戻した。


「服を返すだけなら、学校に持ってきてくれれば受け取るけど?」

「いえ、直接お礼も言いたいですし……余計なものを学校に持ってきては……その……汚れてしまうかもしれませんから」

「……わかったよ。明日ね」

「え!? いいんですか?」

「構わないよ。面倒くさいってのが本音だけど、学校の外ってことで譲歩する。とりあえず、放課後に校門で待ち合わせってことでいいね?」

「はい。よろしくお願いします!」


 明莉が安堵に口もとを綻ばせる。単純なものだなと、少女の笑みに梢は少なからず苦い思いを抱いた。


「と、そうだ。その代わりと言っちゃなんだけど、あたしからも、一つお願いしてもいいか?」

「な、なんでしょうか。わたしに出来ることなら……」

「簡単なことだよ。あの金髪の子達に、あたしとどこで知り合ったとかは言わないで欲しい」

「それだけ、ですか? もちろん、大丈夫ですけど……」

「十分だよ。目立ちたくないって言っただろ? あんま、バイトのことは知られたくないんだよ」


 校則に違反しているわけではなく、然るべき手続きは踏んでいる。だが、梢としては念のために、ああいう手合いに自分の居場所を知られるのは避けたかったのだった。


「あんたと初対面じゃないってのは、もう向こうにばれてるし、探りを入れられることがあっても誤魔化しといてくれればいいからさ」

「え……バレて? そうなんですか?」

「……あんた、やっぱり気付いてなかったのね。思いっきり、あたしの名前呼んでただろ。本当に大丈夫か?」

「あ……、す、すいませ――」


 言われて自らの失言に思い当たり、明莉が頭を下げようとする。しかし、その前に梢の伸ばした手が彼女の額を押し止めた。


「だから謝んないでいいって。口調も丁寧になってるし。次、謝ったらデコピンだから」

「すいま……はぅ!?」

「学習しなよ。さて、ぼちぼち昼休みも終わりかな。行くよ」


 梢は中指を弾かせた利き手を軽く振って、額を両手で押さえる明莉を尻目に弁当箱を片付け始める。

 何事か訴えかける子犬のような眼差しを少女の前髪の奥から感じたものの、甘やかしたりはしなかった。

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